猫蔵の「生贄論」連載5

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載5)


猫蔵


ヨブ記
 さて、改めて今こそ、旧約聖書の中の「ヨブ記」に目を凝らしましょう。なぜなら「ヨブ記」こそ、慕情する他者(=神)との決定的な「断絶」と、そこからの「復活」が描かれた文学だからです。人類史上最大の「片想い」の文学こそ、『ヨブ記』です。神(=他者)に捧げた一切の祈りが「伝わらない」という非情のリアリズムを前に、ヨブという男はいかにして、神や他者に対する信頼(=他者幻想)を失わずにい続けることができたのか?
 結論から言えば、その秘密とは、「他者犠牲」から、「自己犠牲」への変容だったと僕は仮定します。他者を、自らの目的達成のための手段と捉える価値観から、利害関係を度外視して他者のために自らが殉じる価値観への転向。その転向点には、「苦しみに打ちひしがれているのは僕だけではなかった」という事実への、"気づき"があったはずです。

 さて、改めて「ヨブ記」の冒頭を見てみましょう。
かつて、ウツの地(現在のパレスチナ周辺)に、ヨブと呼ばれる男がいました。ヨブは、神への信仰に厚く、多くの富をもち、人々の尊敬を集める、非の打ち所のない人物でした。天に住む神もまた、ヨブを誇りに思っていました。しかし、その神の傍らに控えていた悪魔サタンが、神にこう耳打ちします。「ヨブが敬虔に信仰を捧げているのも、貴方が見返りとして彼に祝福を授けているからこそ」。「試しに、ヨブから祝福の全てを取り上げてみたらいかがでしょう?」「彼はたちまち信仰を捨て、天の貴方に向かって唾を吐き掛けるに違いありません」。
 このサタンの申し出に対し、なんと神は驚くべきことに「ふむ。一理ある」と耳を傾けます。そしてヨブは、神が下した災難によって、全ての財産を失うのみならず、息子や娘たちまで不慮の事故で亡くしてしまいます。しかしヨブは「主は与え、主は奪う」「神の名はほむべきかな」と、神の意に沿う言葉を口にし、頑なに"恨み"の言葉を口にすることはありませんでした。
 しかし、執拗なサタンの奸計はこれだけに留まりません。サタンはまた神にこう耳打ちします。「ならば、次は彼の骨と肉を撃ってごらんなさい」「彼は必ずあなたの顔に向かって、あなたを呪う言葉を吐くでしょう」。すると、またしても神は「ふむ、一理ある」と頷きます。やがてヨブの全身を、神がもたらした皮膚病が覆います。ヨブはたまらず、割った陶器の破片で、自らの身体を掻きむしり始めます。そして最愛の妻の「あなた、神を呪って死になさい」という言葉に対し、「私たちは神から幸いを受けるのだから、等しく災いをも受けるべきだ」と返します。「ヨブ記」の語り部いわく、この際もヨブはなお「その唇でもって罪を犯すこと」はしなかったのです。
 「ヨブ記」における、父なる神と悪魔サタンの奇妙な関係。これは、現代の我々の目から見ると、あまりにも奇異に映ります。神はまるで、サタンの代理人のごとく振る舞います。あるいはサタンは、神自身に内在した神のもう一つの顔であるとみなすことも可能でしょう。主人公ヨブと「ヨブ記」の読者は、これを直視しなければなりません。ここに描かれているのは、「神の沈黙」から更に一歩踏み込んだ、いわば"神の悪意"とでも名づけ得るものでした。「悪を成す」神を、果たしてヨブは今まで通り信じられるか否か?
 ここで僕の脳裏に思い浮かぶのは、第二次世界大戦中における「アウシュヴィッツ強制収容所」の悲劇です。アウシュヴィッツ強制収容所は、人類史上最も「神の沈黙」「神との断絶」が剥き出しになった、究極の"負のレガシー"に他なりません。主にユダヤ人たちに対する"ホロコースト"(大量虐殺)が行われたアウシュヴィッツにおいて、聖書に描かれた様な「神の奇跡」が起こることは、遂にありませんでした。帰還者の一人である、ユダヤ人作家のエリ・ヴィーゼルは、少年時代、アウシュヴィッツに収容された初めての夜、人間が"焔"となって煙突から立ち昇るのを目撃します。続いて、自分と同じ年端の少年が、絞首台に吊るされ、徐々に生き絶える様を見せられます。そしてヴィーゼルは「ああ、神は何処にいるのだ?」という誰かの声を耳にします。
 もしも僕自身が、ヴィーゼルと同じ立場で、その場に居合わせていたとしたら。奇跡を起こすこともなく、黙したままの"神"なるものに対し、呪詛の言葉を口にしないでいられたとは思えません。「神の沈黙」という究極のリアリズムを直視してしまった人間が、一体何に希望を見出し"魂の復活"をなし得たのか?繰り返しますが、問うべきはこれに尽きます。
 ヨブ記の考察を続けます。
その後、ヨブの下に三人の友人が見舞いに駆けつけます。三人は、ヨブの変わり果てた姿を見て愕然とします。そして、彼と悲しみ・苦しみを共にし、七日七晩、沈黙のうちに寄り添います。
 しかし、その後ヨブの口から出てきたのは「わが生まれし日、滅び失せよ 」という、衝撃的な言葉でした。ヨブはついに、自らが生まれた日への呪詛を口にしたのです。これは即ち、父なる神に対する抗議、異議申し立てに他なりませんでした。
 すると友人たちは、「考えてもみよ。未だかつて、罪なき者で滅ぼされた者があるか?」と、神の正当性を弁護し、ヨブをたしなめます。しかし、苦しみに打ちひしがれるヨブにとって、この言葉は神経を逆撫でするものでしかありませんでした。憐れなヨブは、神のみならず、友人たちとの「断絶」に直面します。彼を"正論"の観点から論破こそすれ、彼に寄り添い、痛みを共有しようとする者は、誰もいませんでした。たった一人、ヨブは、「なぜ自分がこの様な理不尽な目に遭わなければいけないのか」「心当たりはないし、せめてその理由だけでも教えて欲しい」と、天の神に懇願します。
 ヨブと友人たちの議論は平行線を辿ったまま、やがて「ヨブ記」は意外な展開を見せます。なんとその終盤において、"父なる神"が、嵐と共にヨブの前に姿を現すのです。父なる神は苛立ちを隠そうとはしません。「天地創造の際、私が怪獣レヴィアタンと戦っていた時、お前は一体どこで何をしていた?」と、ヨブを問い詰めます。非創造物である人間が、神の意図を図ること自体の傲慢を指摘します。怒れる神に、ヨブも平伏するしかありませんでした。
 そして神は、悔い改めたヨブに対し、かつての二倍の財産と、七人の息子、三人の娘を授け、福音のうちに「ヨブ記」は幕を閉じます。
僕は初めて「ヨブ記」を読んだ時、この結末に、ひどく蛇足めいたものを感じざるを得ませんでした。例え、ヨブに罰を与えるにしても、福音を授けるにしても、絶対的な他者である神の側から返答がなされてしまったのなら。当初の命題自体が意味を成さなくなってしまうでしょう。

清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。