アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載15)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載15

森の中の羅針盤、数字、絵をめぐって


 今まで、アニメ『TOM THUMB』を様々な視点から解読してきたが、今回はこれらの解読を踏まえたうえで、森の中に示された〈羅針盤〉、〈数字〉(3、4、7)、〈絵〉(シカ)に関して考察をすすめてみたい。まず画面左の〈羅針盤〉であるが、これは東西を示しており、木こりたちが西から東へと向かっていたことを示している。


 次に〈3〉〈4〉であるが、これらの数字に関しては、かつて『謎がいっぱいケンジ童話劇場』の第2章「『銀河鉄道の夜』と『風の又三郎』――〈三〉と〈四〉の関連」で言及したので、まずはここから引用することにする。

  C・G・ユングは『心理学と練金術』(池田紘一鎌田道生訳、人文書院)の中で錬金術の中心的公理としてマリア・プロフェティサの言葉「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとしての全一的なるものの生じ来るなり」をとりあげ、それに関しては「ここではキリスト教の教義の支柱をなしている奇数の間に、女性的なものを、大地を、いや悪そのものを意味する偶数が割り込んでいる」と書き、また「四は女性的なもの、母なるもの、肉体的なものの意味を、三は男性的なもの、父なるもの、精神的なものの意味を持っている」とも書いています。
  〈三〉はキリスト教の教義においては三位一体(父と子と聖霊)ですが、練金術ではその男性的神性を意味する第三のものから女性的なものとしての第四のものを呼びおこします。女練金術師・預言者マリア・プロフェティサの言う「第四のものとしての全一的なるもの」の数字は〈四〉のみに限りません。マリアの言う「第三のものから第四のものとしての全一なるもの」を、十字架上のイエスを際立たせた時〈三〉〈六〉〈九〉にあてはめればいい。「第三のもの」(三、六、九)はそれぞれ「第四のものとしての全一なるもの」(四、七、十)を生じさせるのです。従って、マリアの言う「第四のもの」は〈一〉〈四〉〈七〉〈十〉(数秘術的減算によって一、四、七に還元される二桁以上の数字も含む)ということになります。(99~100)

 

 アニメにおいて数字〈1〉は登場しないが、親方が担いでいた一本の〈斧〉を〈1〉と見なすことができる。この〈1〉が森の中に踏み込み、次に〈巡礼者=蟷螂〉が〈2〉のカードを森の大木に打ち付ける。〈2〉は和解と殺しの両義的意味を内包している。〈3〉は〈男性的なもの、父なるもの〉として森の木を伐採し、文明発展のために尽くす。が、〈3〉は〈女性的なもの、母なるもの〉としての〈森〉および〈森の住人〉たちと共生共存することができない。
 母なるものとしての〈4〉は、アニメにおいて森辺の〈野原〉に見いだすことができるが、すでに見ての通りこの〈野原〉はすぐに雪に覆われてしまう。この〈野原〉はそこで食欲を満たし、深い眠りについた木こりたちに永遠の憩いを与えることはなかった。彼らは再び森の中に踏み込み、そこで森の動物たちとの壮絶なバトルに巻き込まれることになる。結果は敵味方関係なく全員団子状に丸め込まれてしまうが、直後、団子は爆発し、やがて森の奥に一軒の館が現れる。はたしてこの女の館は、〈第四のものとしての全一的なるもの〉と言えるのだろうか。
 ここで、もう一度森の中にもどろう。最初の〈4〉は〈女性的なもの、母なるもの〉としての〈森〉自体を意味しているが、〈3〉はこの〈4〉と共生できない。〈シカ〉の絵が森の住人たちを現しているとすれば、〈3〉はこれらのものたちと戦わざるを得ない。〈シカ〉の絵の画面右に〈7〉の数字がおかれているが、このアニメにおいてはこの〈7〉こそが「第三のものから第四のものとしての全一的なるもの」を指示している。 ところで、画面には〈5〉と〈6〉がない。〈5〉は〈キリスト〉〈十字架〉であり、〈6〉は〈悪魔〉である。大胆な解釈を施せば、画面に不在の〈5〉〈6〉を内包していたのが〈巡礼者=祈祷師=予言者=預言者=呪術師〉といった様々な霊的要素を兼ね備えた〈斧虫=蟷螂〉だったということになる。つまり「男性的なもの、父なるもの、精神的なものの意味を持っている」第三のものとしての〈蟷螂〉が、森を通過して〈第四のもの〉(女の館)に向かっていたということである。


 女の館には〈七人〉の女が住んでいる。この館に生きた男は存在しない。壁に男の肖像写真が飾られているのと、テーブルの下に玩具の騎士や兵士が置かれているだけである。入り口の両扉にクマとシカの剥製の頭が飾られているが、これらを〈男性的なるものの死〉の象徴と見れば、この館には生きた男性の入館が拒まれていたことになる。この男性禁止の館にTOMが〈悪魔のボール〉を受け止めたことで許可されたことはすでに見た通りである。
 さて、この〈第四のものとしての全一的なるもの〉としての女の館で、〈蟷螂〉による祈祷式、晩餐式が執り行われたわけだが、その最終結果は〈第三のもの〉(木こりたちと動物たち)と〈第四のもの〉(女たち)とを混沌の渦の中に呑み込み破滅させることになった。
 〈蟷螂〉主宰の第二次晩餐式は六芒星に繋がれたものたちを激しい回転と揺らぎの渦に巻き込み死滅させることで幕を閉じる。〈第四のものとしての全一的なるもの〉の世界に敵対する者たちとの共生共存、融和はなく、あるのはただ破滅のみである。もし〈蟷螂〉が悪魔的存在としてのみ、このアニメに登場していたのだとすれば、彼は〈全一的なるもの〉の破壊という目的を達したことになる。


 注目すべきは〈蟷螂〉の目的達成が自らの〈死〉を代償としていたことである。死と破滅をもたらす〈蟷螂〉は愛と赦しの〈キリスト〉と対極の立場にあるが、それにも拘わらず〈蟷螂〉と〈キリスト〉がダブって見えることも確かである。
 ロジオン・ラスコーリニコフは〈斧〉で二人の女を殺した青年であるが、人類の全苦悩を背負ったソーニャの前に跪く青年であった。父親のフョードル・カラマーゾフに「わたしの天使」と呼ばれていた、神を信じる見習い修道僧アリョーシャは、にも拘わらず自らの内に〈悪魔の子〉が宿っていることを自覚していた。〈蟷螂〉が〈キリスト〉に、〈キリスト〉が〈蟷螂〉に変換することは、ドストエフスキーのような広大深遠な精神世界の芸術家のうちでは可能なのである。しかしここに魂の全一的な救いがあるとは言えない。
 アニメ『TOM THUMB』で〈蟷螂〉は感電死し、その抜け殻である外套は天空から地に落ちたが、その外套から水仙の花が咲き始める。〈蟷螂〉の死は未だ〈再生〉の希望をなくしてはいない。

 


 この場面で、TOMが〈蟷螂〉の外套からボタン(そこには〈斧〉と〈王笏〉を十字に重ねた絵がデザインされている)を一つもぎ取っていることを見逃してはならないだろう。TOMは、やがて再び、〈英雄=皇帝〉としてこのボタンを自らの胸につけ、「第三のものから第四のものとしての全一的なるもの」を目指す、大いなる冒険へと旅立つ者として設定されているのである。


 アニメ『TOM THUMB』において女の館における七人の女たちは、確かに女性的なものを感じさせるが、しかし〈女性的なもの、母なるもの、肉体的なもの〉を圧倒的に感じさせるのは農婦である。この豊満な肉体を備えた農婦は一度も正面を向くことなく農作業に従事していたが、TOMが水辺から倒木をくぐり抜け、木こりたちの後を追っていった時には、その姿を黙って見守っていた。


 この農婦の正体は明かされていない。TOMは木こりたちと一緒に小屋に戻ってくるが、アニメを観るかぎり、農婦が彼らと生活を共にしているようには思えない。農婦は人間の母親(TOMの母親)と言うよりは、豊穣な大地・肉体そのものの象徴であるかのようである。
 〈ここ〉から〈あちら〉側の世界へと出かけていったのは木こりやTOMといった男たちであり、農婦は母親として、大地として〈こちら側〉にとどまっている。男たちは〈斧〉を振るって大木を伐採し、森の住人たちとバトルを展開し、さらに森の奥の館にまで踏み行って、〈蟷螂〉主宰の魔術的秘儀に参加して〈処刑〉された。が、男たちはどういうわけか何事もなかったかのように小屋へと戻ってきた(斧を担いで出かけた親方以外は)。もしこの小屋に〈農婦〉が住んでいて、木こりたちを迎え入れていたのだとすれば、灯りの点いた〈四つ〉の窓に象徴されるように、まさにこの小屋は〈女性的なるもの、母なるもの〉を体現していたことになる。が、どういうわけか農婦の姿は見えない。