清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載22


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載22

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

ソーニャの存在を前提にしたロジオンの〈踏み越え〉

 ロジオンの〈踏み越え〉はソーニャの存在、つまりロジオンよりも先に〈踏み越え〉た信仰者の存在をあてにした〈踏み越え〉であった。この一点にロジオンの精神上の汚点を見いだすのはわたしだけだろうか。母を殺すことができなかったロジオンは、理屈をつけて高利貸しでペテルブルクの厳しい現実を生き抜いてきた未亡人を殺し、目撃者のリザヴェータをも殺し、だが自分自身を殺すことはできずに、おめおめと生き続け、あげくのはてにスヴィドリガイロフに救われてシベリアまで追ってきたソーニャによって復活の曙光に輝いている。
 己の〈踏み越え〉(殺人)に対して最後の最後まで〈罪〉の感覚に襲われることのなかったロジオンが、なぜ復活の曙光に輝くのか。そんな復活が許されるのであろうか。『罪と罰』を読むたびに思うのは、ロジオンの〈踏み越え〉も〈無罪意識〉も〈復活の曙光〉も、人智によってははかることができないということである。
 わたしが、改めて考えたいのはロジオンの〈苦しみ〉である。彼は、「いったいおれにアレができるだろうか?」(Разве я способен на это?)と考えるが、こういった考えそのものに苦しみの感覚がまとわりついている。〈アレ〉を実行した後には気を失うほどに苦しんでいる。この苦しみはなんだろう。単なる凡人が自分を非凡人と見なした結果だろうか。自分が犯した犯罪をだれにもばれないように隠し続けなければならなかったからであろうか。我が身を焼き尽くすような激しい罪の意識に襲われなかったからであろうか。ロジオンが自分の最初の〈踏み越え〉(殺人)に微塵の疚しさも感じていないことは特記すべきことだ。彼は老婆アリョーナ殺しに対してばかりでなく、目撃者リザヴェータに対しても、罪の意識に襲われることがない。彼は、なぜよりによってあんなときにリザヴェータは現れたんだろう、と思うだけで、この思いが罪の意識に繋がることはない。
 ロジオンは青銅でできたナポレオンではない。法を犯して平然としていられる非凡人ではなかった。彼は〈社会のシラミ〉を殺しただけの、敢えて言えば〈美的シラミ〉に過ぎなかった。そのことがロジオンの自嘲を誘うことはあっても、しかし彼は自分の行為に関してどうしても罪の意識を覚えることができなかった。なぜだろう。ロジオンがソーニヤの前にひれ伏して「ぼくはきみに頭を下げているんじゃない。ぼくは全人類の苦悩の前に頭を下げているんだ」と言った時の、この〈苦脳〉(страдание)が問題である。この苦悩は、神が創造した世界の不条理を告発し嘆くイワン・カラマーゾフの苦悩に繋がっていく。この世界で日々展開されている〈不条理〉の原因を、創造主である神に帰せば、おそらく〈罪〉の意識が立ち上がってくることはないだろう。
 沈黙し続ける神の代理として、十一歳のマトリョーシャを凌辱して、その後いっさい口をきかなかったニコライ・スタヴローギンは、その〈実験〉そのものに〈罪〉の意識を感じることはない。ニコライは単に神にかぎりなく寄り添った実験をしたまでのことで、それに耐えられずに良心がうずき始めたというのであれば、それは彼が〈神〉ではなく、単なる〈人間〉であったということを証明するに過ぎない。
 ロジオンやニコライ・スタヴローギンの〈苦しみ〉は神と向かい合った者の苦しみと言えるかもしれない。否、彼らばかりではない、マルメラードフも彼の後妻カチェリーナも、そしてソーニャもまた神と向かいあって苦しんでいる。信仰しても反逆しても、神と向かい合っている人間は苦しむのである。

以上「藝文攷」20号連載4(2015年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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(連載22

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

ソーニャの存在を前提にしたロジオンの〈踏み越え〉

 ロジオンの〈踏み越え〉はソーニャの存在、つまりロジオンよりも先に〈踏み越え〉た信仰者の存在をあてにした〈踏み越え〉であった。この一点にロジオンの精神上の汚点を見いだすのはわたしだけだろうか。母を殺すことができなかったロジオンは、理屈をつけて高利貸しでペテルブルクの厳しい現実を生き抜いてきた未亡人を殺し、目撃者のリザヴェータをも殺し、だが自分自身を殺すことはできずに、おめおめと生き続け、あげくのはてにスヴィドリガイロフに救われてシベリアまで追ってきたソーニャによって復活の曙光に輝いている。
 己の〈踏み越え〉(殺人)に対して最後の最後まで〈罪〉の感覚に襲われることのなかったロジオンが、なぜ復活の曙光に輝くのか。そんな復活が許されるのであろうか。『罪と罰』を読むたびに思うのは、ロジオンの〈踏み越え〉も〈無罪意識〉も〈復活の曙光〉も、人智によってははかることができないということである。
 わたしが、改めて考えたいのはロジオンの〈苦しみ〉である。彼は、「いったいおれにアレができるだろうか?」(Разве я способен на это?)と考えるが、こういった考えそのものに苦しみの感覚がまとわりついている。〈アレ〉を実行した後には気を失うほどに苦しんでいる。この苦しみはなんだろう。単なる凡人が自分を非凡人と見なした結果だろうか。自分が犯した犯罪をだれにもばれないように隠し続けなければならなかったからであろうか。我が身を焼き尽くすような激しい罪の意識に襲われなかったからであろうか。ロジオンが自分の最初の〈踏み越え〉(殺人)に微塵の疚しさも感じていないことは特記すべきことだ。彼は老婆アリョーナ殺しに対してばかりでなく、目撃者リザヴェータに対しても、罪の意識に襲われることがない。彼は、なぜよりによってあんなときにリザヴェータは現れたんだろう、と思うだけで、この思いが罪の意識に繋がることはない。
 ロジオンは青銅でできたナポレオンではない。法を犯して平然としていられる非凡人ではなかった。彼は〈社会のシラミ〉を殺しただけの、敢えて言えば〈美的シラミ〉に過ぎなかった。そのことがロジオンの自嘲を誘うことはあっても、しかし彼は自分の行為に関してどうしても罪の意識を覚えることができなかった。なぜだろう。ロジオンがソーニヤの前にひれ伏して「ぼくはきみに頭を下げているんじゃない。ぼくは全人類の苦悩の前に頭を下げているんだ」と言った時の、この〈苦脳〉(страдание)が問題である。この苦悩は、神が創造した世界の不条理を告発し嘆くイワン・カラマーゾフの苦悩に繋がっていく。この世界で日々展開されている〈不条理〉の原因を、創造主である神に帰せば、おそらく〈罪〉の意識が立ち上がってくることはないだろう。
 沈黙し続ける神の代理として、十一歳のマトリョーシャを凌辱して、その後いっさい口をきかなかったニコライ・スタヴローギンは、その〈実験〉そのものに〈罪〉の意識を感じることはない。ニコライは単に神にかぎりなく寄り添った実験をしたまでのことで、それに耐えられずに良心がうずき始めたというのであれば、それは彼が〈神〉ではなく、単なる〈人間〉であったということを証明するに過ぎない。
 ロジオンやニコライ・スタヴローギンの〈苦しみ〉は神と向かい合った者の苦しみと言えるかもしれない。否、彼らばかりではない、マルメラードフも彼の後妻カチェリーナも、そしてソーニャもまた神と向かいあって苦しんでいる。信仰しても反逆しても、神と向かい合っている人間は苦しむのである。

以上「藝文攷」20号連載4(2015年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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(連載21

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

孤高の空想家を自己破綻へと向かわせたもの
――民衆(女中ナスターシャ、商家の女将)の穏健な信仰との対比において――

 

 わたしが注目したいのは、老婆殺し、リザヴェータ殺しの犯人がロジオンだと知った時の女中ナスターシャの反応である。ロジオンが屋根裏部屋でごろごろしていた時のナスターシャとロジオンの対話を見てみよう。

 

  「(略)以前は、子どもを教えに行くって、出かけたけどさ、このごろじゃ、どうして何もしないんだい?」
  「おれはしてるよ……」ラスコーリニコフは気がすすまぬふうに、そっけなく言った。
  「何をしてるのさ?」
  「仕事だ……」
  「どんな仕事?」
  「考えてるんだ」しばらく黙っていてから、彼はまじめな口調で答え  ナスターシャはとたんに吹きだした。彼女は笑い上戸で、おかしいことがあると、声は立てずに、体じゅうをふるわせて笑いつづけ、気分が悪くなるまでやめないのだった。(上・65~66)
  ―(略) Прежде, говоришь, детей учить ходил, а теперь пошто ничего не делаешь?
    ― Я делаю...― нехотя и сурово проговорил Раскольников.
    ― Что делаешь?
    ― Работу...
    ― Каку работу?
    ― Думаю, ― серьзно отвечал он помолчав.
     Настасья так и покатилась со смеху. Она было из смешливых и, когда рассмешат смеялась неслышно, колыхаясь и трясясь всем телом, до тех пор, что самой тошно уж становилось.(26)

 

  ナスターシャの「何をしている」の問いに、ロジオンは〈仕事〉をしている、その仕事とは〈考える〉ことだと言いのける。これを聞いてナスターシャは腹を抱えて笑い続ける。わたしはこのナスターシャにこそ、ロシア民衆の逞しい生活力、健全な常識が生きていることを感じる。「考えていることが仕事だ」と思うことはロジオンの勝手であるが、その結果、彼がしでかしたことと言えば単なる殺人強盗である。もしロジオンが一貫して〈考える〉ことを〈仕事〉にしていたなら、文筆業界においてそれなりの成功を手にすることも可能だったろう。しかし見ての通り、ロジオンは悪魔の誘惑に唆されて殺人・強盗の犯罪者に成り下がってしまった。これを知ったナスターシャが再び腹を抱えて笑い転げることはないだろうが、わたしなどは〈考える〉ことから〈行動〉へと逸脱してしまったロジオンに皮肉な笑いを抑えることができない。
 わたしはそもそもエピローグにおけるロジオンの〈復活の曙光〉に輝く場面がなんとも少女マンガ風で納得がいかないし、ばかばかしい思いに駆られる。『罪と罰』を読んでわたしの脳裡にくっきりと浮上してくる光景は、緑色のバラソルを持った娘連れの商家の女将さんの後ろ姿である。ロジオンを乞食と間違えたのか、二十カペイカ銀貨を彼の手に握らせた、あの場面が忘れられない。ロジオンはその銀貨をネワ川に投げ捨ててしまうのであるが、もし作者が本気でロジオンを復活の曙光に輝かせたいのであれば、この二十カペイカ銀貨をネワ川にもぐらせて探し出させたらいい。
 わたしは信仰とは、ドラマチックに、〈神の風〉(ルーアッハ)に撃たれることで得られるものではないと思っている。もっとふつうの日々の暮らしのなかで培われるものだと思っている。わたしは『罪と罰』のエピローグで、ロジオンが復活の曙光に輝く場面よりも、商家の女房が「さ、取っときなさい、キリストさまのお恵みだよ」と言ってロジオンにお金を恵んで去っていく、そのあまりにも自然な姿に心打たれる。

 この場面を改めて振り返っておこう。すでにロジオンは老婆アリョーナとリザヴェータを殺してしまっている。彼はラズミーヒンの所へ寄った帰り、ニコラエフスキー橋のたもとで箱馬車の御者に背中を鞭で一撃され、激しい憎悪に駆られる。彼は欄干のそばに立って憎々しげに遠ざかっていく馬車をぼんやりと眺めている。と、このときふいに彼は〈だれか〉が彼の手に金を押し込もうとするのを感じる。彼は相手を見る。作者はロジオンの目に映った相手を次のように書いている「頭巾をかぶり、山羊革の靴を履いた商家の女房が、たぶん娘なのだろう、帽子をかぶって緑色の日傘を手にもった少女をつれて立っている」(上・230)〔пожилая купчиха, в головке и козловых башимаках, и с нею девушка, в шляпке и с зеленым зонтиком, вероятно дочь〕(89)と。
 〈頭巾〉をかぶった商家の女房、〈帽子〉をかぶった少女、この二人の女性の顔が見えない。強いて言えばノッペラボウにしか見えない。〈山羊革〉の靴を履いた女房、〈緑色の日傘〉を持った少女、この二人の女性はまるで〈キリスト〉の化身のごとき存在としてロジオンの前に〈ふいに〉現れている。ロジオンは〈キリスト〉さまから恵まれた〈二十カペイカ銀貨〉を片手に握って橋の上を十歩ばかり歩いてから立ち止まり、ネワの方へ、宮殿の見える方へ顔を向ける。注意すべきはロジオンが立ち止まった地点からあと〈二十歩〉ばかりのところに〈礼拝堂〉があることである。そのことに気づいているのはもちろん作者であってロジオンではない。ロジオンは宮殿の見えるネワ川に顔を向けているのであって、〈礼拝堂〉を見ているわけではない。しばし、作者が描くロジオンの内的世界に寄り添うことにしよう。この場面はすでに引用してあるが、再び引用する。

 

 鞭で打たれた痛みは静まり、ラスコーリニコフは鞭に打たれたそのことも忘れた。いま彼の頭にあるのは、ひとつの不安な、どこかはっきりとしない考えだけだった。その場にたたずんで、彼はいつまでも遠景に目をこらしていた。ここは彼にとってとりわけなつかしい場所だった。大学へ通っていた時分、たいていはその帰り道に、彼は何度となくーーおそらくは、百回ほどにもなろうーーいま立っている、この場所に立ちどまり、真に壮麗なこの眺望に食いいるように見入っては、そのたび何かすっきりと割りきれぬ自分の印象に、驚きに似た気持を味わったものだった。この壮麗な眺望がいつも、なぜとも知れぬうそ寒さを彼に吹きつける。このはなやかな一幅の絵画が、唖、聾の鬼気にみたされているように彼には感じられたのだ……彼はその都度、暗く謎めいた自分の印象をいぶかしみながらも、自信がもてぬまま、その解明を先にのばしてきた。ところが、いま、彼はだしぬけに、かつて自分が抱いた不信と疑問をまざまざと思いだした。しかも、それを思いだしたことが、たんなる偶然とは思われなかった。自分が以前と同じこの場所に立ちどまったことからして、彼には気味のわるい、ふしぎな暗号のように思えた。まるでここに立てば、いまも以前と同じように考えることができ、つい先ごろまで関心のあったテーマや光景に、いまもまた関心をそそられるにちがいないと、それこそ本気で予想してでもいたようなのだ……彼はほとんど滑稽な気持にさえなった。だが同時に、痛いほど胸をしめつけられるのを感じた。いまの彼にとっては、過去のいっさいが、はるか下方、見えるか見えないかの深い底に行ってしまったように思われる。以前の考えも、以前の問題も、以前のテーマも、この眺望全体も、彼自身も、いや、すべてがそうなのだ……あたかも彼自身がどこか高みへ舞いあがり、いっさいが彼の視野から消えてしまったようでもある……だが、そのとき、無意識にふと手を動かしたとたん、彼はにぎりしめた片手に例の二十カペイカ銀貨をつかんでいたことに気づいた。彼は手をひらき、まじまじと銀貨を見つめた。それから大きく手を振って、銀貨を水中に投げこんだ。そして、くるりと後ろを向くと、家のほうに向かって歩きだした。この瞬間、彼は、いっさいの人間といっさいのものから、自分の存在を鋏で切りはなしでもしたように感じた。(上・231~232)

 

 ロジオンはここで、もはや人智でははかり知ることのできない光景を眼前にしている。想起するのは『弱い心』で、同宿人のワーシャ・シュムコフの発狂に立ち会ったアルカージイが眺めるネワ川の光景である。作者はなぜワーシャが発狂してしまったのか、その理由をアルカージイが理解したのかどうか、一切言及しない。ワーシャは不具者であったが、初めて愛する女性と婚約までこぎつけた。ワーシャはこのとつぜん訪れた幸福に耐えられなかったのだ、否、上官から命じられたアルバイトを期限までに仕上げられなかったからだ、否、ペテルブルクという人工的、官僚的な都市が一人の小役人の生存に言いしれぬ圧迫感を与えていたのだ……ワーシャの発狂の原因は様々に指摘することができる。
 わたしはワーシャを発狂にまで追いつめたのはアルカージイだと思っている。この男は関係する他者との距離を程良い程度に保つことができない。ワーシャの幸福をともに喜ぶ、その喜びが過剰であることによって、結果、ワーシャの幸福を台無しにしてしまうのである。過剰な接近、過剰な愛は、相手の実存を危険な領域へと追いつめることになる。愛も思いやりも度を越せば相手を破滅の淵へと追いやるのだ。その意味でワーシャの発狂の原因はアルカージイにある。アルカージイがワーシャを狂気の淵へと追いつめてしまったのだ。
 ロジオンの場合も同じようなことが言える。ロジオンを殺人者へと仕立て上げたのは母親のプリヘーリヤである。夫を亡くした美しい未亡人プリヘーリヤは女手ひとつで二人の子供を育て上げた。彼女は誇り高き美しい未亡人である。彼女はいかなる屈辱恥辱にも耐えて、嫡男ロジオンに没落したラスコーリニコフ家の再建を託した。プリヘーリヤにとってペテルブルク大学法学部に入学が決まったロジオンはどれだけ誉れ高い息子であったろうか。ロジオンは二百年の歴史を刻むラスコーリニコフ家の杖であり柱として期待されている。ロジオンがこの母の期待に添えるような息子であれば問題はない。しかし、当時のペテルブルク大学は荒廃していた。急進的な学生たちは大学当局に様々な改善を要求しデモと投獄が繰り返されていた。が、作者はそういった騒然とした状況について敢えて触れることはなかった。先にも指摘したが、作者はロジオンを学生運動や政治運動の渦中に置くことで、主人公の〈革命思想〉を明確にすることを一貫して避けている。
 ロジオンは孤高な単独者として、当時の学生たち(急進的な学生も含めて)の知的レベルをはるかに凌駕する者として設定されていた。同級生を歯牙にもかけず、いわばロジオンは孤高な、自らの精神世界の絶対者として君臨していたわけだ。そのように設定すれば、ロジオンの孤高の精神世界に自由に出入りできる同級生はいないということになる。ロジオンの〈思想〉は誰の目にさらされることなく守られることになる。ロジオンが〈踏み越え〉の誘惑に陥ることなく、雑誌の思想欄の投稿者にとどまっていれば、文筆家としての道も切り開かれていったはずだが、彼はそんな間延びした人生を送ることが許されていなかった。母親プリヘーリヤの期待に添うためにはまさに一挙に大金持ちにならなければならなかった。それが不可能なら、もう一方に残された道は破滅に向かってまっしぐらに突き進むほかはなかった。が、ロジオンが選んだ〈破滅〉の道は、単なる破滅ではなかった。破滅が救済に繋がるような道であった。

以上「藝文攷」20号連載4(2015年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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(連載20

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

ジョージとロジオン
――革命家と殺人者――

 

 ドストエフスキーの作品に登場する人物のうちで、最もジョージに近い存在は虚無の権化と言われたニコライ・スタヴローギンではなく、通俗次元では〈ニコライの猿〉とも揶揄されたピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーであろう。真逆に位置するのはロジオン・ロマーノヴィチである。ロジオンは小説の出だしから思い惑っていた青年で、作者ははっきりと書いていないが、この青年が〈革命か神か〉で深く思い惑っていたことに間違いはない。問題はロジオンが思い惑いながらも、しかし神の世界へと続く〈橋〉へと向かっていたことである。ロジオンは作者によって復活の曙光に輝く運命をあらかじめ賦与された存在で、昨中で最も明敏聡明なポルフィーリイ予審判事ですら作者の思惑にとりこまれている。彼は作者の意図を越えてロジオンにきわどい質問をするようなことはしない。彼は雑誌に発表されたロジオンの「犯罪に関する論文」を読んだ時に、内容もさることながら、名前のイニシャル(РРР)に注意を払ったに違いない。彼は、そのまま上にひっくり返せば666という悪魔の数字になる著者が、論文を発表するだけの机上の理論家におさまるとは思っていなかった。彼は、ロジオン以上にロジオンのことが分かっている予審判事である。彼はロジオンに向かって「あなたは『おれにアレができるだろうか?』と思ったとき、老いぼれた高利貸しの代わりに皇帝を思い浮かべていたのではないですか」とか、「もし殺害現場を目撃したのがリザヴェータではなく、母親ブリヘーリヤであったら、あなたはそれでも彼女の頭上に斧を振り下ろすことができましたか?」などとは絶対に訊かない。
 ロジオンとポルフィーリイ予審判事のやりとりは、はるかに穏やかで抽象的な、いわば時の権力を十分に考慮した次元で展開されている。ポルフィーリイはロジオンの犯罪理論を「非凡人にはすべてが許されている」とまとめてみせる。即座にロジオンは反応する。論文を雑誌に投稿したことすら失念していたロジオンは、そんな論文は発表することすら許されなかっただろうと言い、自分がそこで主張したのは「非凡人は良心に照らしてて血を流すことがゆるされている」ということだと訂正する。注意すべきは「発表すら許されない」という言葉である。厳しい検閲制度下にあって、当時の小説家たちが自らの作品創造に際して検閲官の目を意識しないはずはない。ましてやドストエフスキーはゴーゴリ宛のベリンスキーの手紙をペトラシェフスキーの会で読み上げただけの罪で、ニコライ一世がたわむれに仕掛けた死刑執行劇を体験させられたあげく、八年のシベリヤ流刑を宣告された元政治犯であり職業作家である。こういった過去を持つ作家が小説の内容に細心の注意を払うのは当然である。
 ドストエフスキーはシベリアで転向した作家だと見なされているが、青春期に革命思想に熱狂的に沈潜した作家がそうそう簡単に自らの血肉化した思想を捨て去ることなどできはしない。ロジオンの内にはロシアの最新思想にかぶれていたレベジャートニコフなど歯牙にもかけない過激な革命思想が潜んでいたと見てまちがいはない。が、『罪と罰』の読者は百年以上にわたってロジオンの〈アレ〉=〈老婆アリョーナ殺し〉と見なして、それが〈皇帝殺し〉を内在させていたことを看破できなかった。
 ロシアの後進性の元凶は皇帝専制政治にあるなどという考えは、一八六〇年代の学生(知識人)にとってごく常識的なことであった。一八六二年にリャザン県ザライスクの田舎から単身ペテルブルクに上京して大学へ入学したロジオンが、そういった急進的、革命思想の嵐に巻き込まれなかったはずもない。しかし、見てのとおり、ロジオンの周りには革命思想を抱き、革命運動に身を投ずるような学友は一人も存在しない。読者に知らされるのは、ロジオンが下宿の娘ナタリヤと婚約しただの、その娘はウロート(不具)で一年半前に当時流行っていた腸チフスにかかって死んでしまっただの、前には家庭教師などの仕事もしていたが、今は大学もやめて、屋根裏部屋で無為の暮らしをしているなどという、そういった身辺雑記風のことだけである。
 ロジオンが考えていた非凡人思想や犯罪に関する思想は、彼の内で密かに成熟していったが、そのプロセスにおいてただ一人の友人との対話もない。どんなに孤独な、協調性のない青年でも、一人ぐらいは自らのうちで生育してきた思想を吐露する友はいるものだ。なぜ、ロジオンには思想や文学や芸術を語り合う友人が存在しないのか。これはロジオンの性格に帰するよりは、作者の側の都合に帰した方が納得がいく。もし、ロジオンが「犯罪に関する論文」に関して他の者たちと対話するようなことになれば、〈アレ〉を〈老婆アリョーナ殺し〉にだけおさめることはとうてい不可能であったろう。〈アレ〉はやがて〈皇帝殺し〉へと導かれて行ったにちがいない。
 元政治犯の作家にすれば、どんな凡庸な読者にでも分かるような展開は回避しなければならない。が、かと言ってロジオンの頭にあるのが単に高利貸しのアリョーナ殺しだけに限定されても困る。そこで作者は「おれに老婆アリョーナが殺せるだろうか」とは書かずに、「おれにアレができるだろうか」と書いて、解釈の幅をもたせた。当時の検閲官が〈アレ〉を〈皇帝殺し〉と見なせば、それこそ『罪と罰』は発表自体が許されなかったかもしれない。検閲下に置かれた小説家の生々しい戦いの現場をかいま見せられる思いである。もしロジオンの前に、皇帝殺しを謀るテロリストが登場して、彼の〈アレ〉に揺さぶりをかければ、彼はたちまち危険な淵に追いつめられることになる。
 作者はロジオンの前に穏健な革命思想家レベジャートニコフを立たせて、革命論議すらさせなかった。ロジオンの非凡人思想が作中で揶揄嘲笑されることはないが、ロシア最新思想の信奉者レベジャートニコフはその思想はもとより彼の存在自体が愚弄嘲笑の的となっている。『罪と罰』を読んでレベジャートニコフに魅力を感じる読者はおそらくいないだろう。彼はルージンよりはましな扱いを受けているが、殺人者ロジオンを凌駕する魅力を与えられることはなかった。作者がロシア最新思想の信奉者レベジャートニコフに付与したのは誰の目にもかなう魅力とは反対の性格である。
 『罪と罰』で最も魅力のある人物として描かれているのは二人の女の頭上に斧を打ち下ろす青年、しかもこの青年は自らの犯行になんの〈罪意識〉も覚えることはなかった。この価値が逆転した舞台で最も軽蔑されるのは、敏腕な実業家であり弁護士であるルージンである。この男ほど作中で、マンガチックに戯画化された悪党はいないだろう。『罪と罰』は少女マンガのような設定を臆面もなくほどこしているが、ルージンなどはギャグマンガの主人公の役割を十分に果たしている。
 ロジオンの母親と妹は、『罪と罰』の表層舞台の展開に充足する読者にとっては息子思い、兄思いの善良で純潔な女性に見えるだろうが、わたしの目にはこれほど罪深い、ロジオンを殺人へと追いつめていった張本人に見える。母のプリヘーリヤは二十三歳にもなった息子をロージャなどと愛称で呼びつづけ、この息子に没落したラスコーリニコフ家の再建を過剰に期待している。「おまえは私たちの杖だ、柱だ、がんばれ、頑張れ」と子供の頃から、重い荷物を背負わされている息子に安息の時はない。ロジオンがペテルブルクに上京すると、すぐにドイツ製の山高帽子などを購入して青年紳士を気取ってみたり、それほど好きでもなかった下宿の娘に手を出したりしたのも、母親の呪縛から解き放たれたいと願望した結果である。しかし、母親プリヘーリヤの異様な粘着力のある追い続けてくる〈愛の手〉を逃れることはできなかった。
 このどこまでも追いかけてくる母親と逃れようとする息子の文脈でロジオンの〈アレ〉を改めて考えれば、それは「おれは母親を殺すことができるだろうか?」となる。まさにロジオンは〈母親殺し〉をたくらんだ息子であった。が、彼は直接的に母親を殺すこともできなければ、その殺しの場面を明確にイメージすることもできなかった。ロジオンは〈母親殺し〉を実行するにあたって、ソーニャの存在を必要とした。地下の酒場でぐうぜん居合わせたマルメラードフの告白話を聞いたロジオンは、一家の犠牲となって娼婦に身を落としたソーニャの存在を聞き知って無意識の内に〈踏み越え〉を決意する。この時、ロジオンは家族との絆を断ち切り、ソーニヤと共に生きることを選んだと言える。ロジオンの意識は不断に思い惑う分裂のただ中にあるが、自分でも明晰に把捉できない領野においてはすでに一歩を踏み出している。
 ジョージにロジオンの思い惑いはみごとにない。ジョージは明確にテロリスト(террорист)であって、イニシャルに三つのрを含んだだけのロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(Родион・Романович・Раскольников)とはまったくその性格を異にする。
 ロジオンは自らの意識の分裂を統合することはできない。彼はポルフィーリイ予審判事に向かって神もラザロの復活も文字通りに信じていると口にして相手の度肝を抜いているが、しかし彼はラザロの復活の場面の朗読を要求されたソーニャに神を信じていない者と見なされている。ロジオンはポルフィーリイの前では神を信じると公言し、ソーニャの前では神を信じない者として立っている。不思議なことに、ロジオンはソーニャの言葉(神を信じていないひと)を拒まないし、この時、ポルフィーリイに向かって言った言葉(神を信じている)を思い出すこともない。作者もまた、改めて読者に注意を喚起させようともしない。その結果多くの読者は、ロジオンがポルフィーリイに向かって断言した「神とラザロの復活を文字通り信じている」という言葉そのものを忘れ去ってしまうのである。
 ロジオンは神を信じながら神に反逆する天の邪鬼である。彼は二人の女を殺して何の罪意識も覚えない青年でありながら、神を手放すことはない。彼は母親と妹との絆は断ち切っても、ソーニャという聖性を帯びた娼婦との絆を断ち切ることはできない。彼は同じく〈踏み越え〉た者としてソーニャを見ている。ソーニャを選んだことで、彼は自殺することもできない。彼は大きな一本の糸で〈復活の曙光〉の場面まで導かれている。  『罪と罰』を何度読んでも、ロジオンの卑劣は大きな幕に覆われている印象を拭い得ない。二人の女を殺しておきながら自分は蒼白い天使のような顔をしてペテルブルクを彷徨している、とはポルフィーリイ予審判事の言葉である。あいつは相当な悪党になる、とはスヴィドリガイロフの言葉である。にもかかわらず、ロジオンは多くの読者の心をとらえてはなさない。なぜか。一つは作者がロジオンの内面世界を丁寧に描写していること、一つはロジオンを徹底的に批判する人物を登場させなかったことにある。

 ソーニヤに冤罪事件を仕掛けたルージンはろくでなしだが、二人の女を殺しておきながらルージンの卑劣を責めるロジオンはさらなるろくでなしである。にもかかわらず大半の読者はロジオンを卑劣漢とは思わない。ロジオンは苦しんでいる。まるで全人類の苦悩を一身に背負っているかのように苦しんでいる。読者はロジオンのこの〈苦しみ〉を共に生きてしまうのかもしれない。かつてわたしもまたロジオンの苦しみに同化しながら作品を読みすすめた。ロジオンは作品世界の中の他者ではなく、紛れもなく自分自身であった。が、『罪と罰』を読み続けていると、どうしてもロジオンとわたし自身の違いを感じざるを得ない。ロジオンは実際にひとを殺したが、わたしは殺したことがない。ひとを殺したいと思うことはあっても、殺人へと駆り立てる決定的なものが欠けている。
 ロジオンは殺人後、ソーニャの前に跪拝して「ぼくはきみに頭を下げているんじゃない。ぼくは全人類の苦悩の前に頭を下げているんだ」〔Я не чебе поклонился, я всему страданию человескому поклонился,〕と言う。この言葉に胸を締め付けらるほどの感動を覚えた記憶がある。が、ある日、この同じ場面を読んで腹だたしくなった。全人類の苦悩の前にひれ伏す前に、おまえが殺した二人の女の苦悩の前にひざまずいたらどうだい、といった感じである。かつて二十歳前後の時には、ロジオンの言葉に心震わせたのに、今や同じその言葉がまるでギャグのように滑稽である。ロジオンは自分を〈キリスト〉とでも思っていたのだろうか。
 因みに『罪と罰』には自分を〈キリスト〉に擬したがる人物がほかにもいる。マルメラードフは地下の居酒屋で「おれははりつけに、十字架にはりつけされるのが相応で、気の毒がられる柄じゃないんだ!」とわめいているし、スヴィドリガイロフはソーニャに三千ルーブリの債券を与えて淫売稼業の泥沼から救い出すという〈奇蹟〉を起こしている。ソーニャなどは〈キリスト〉を擬しているというより、キリストの化身のような存在である。
 わたしは自意識過剰な人間には殺人などというだいそれたことは絶対にできないだろうと思っていた。ゆえに、わたしにとってリアリティのあるロジオンとは、絶対にひとを殺さない青年でなければならなかった。わたしにとって最もリアリティのあるのは、『罪と罰』全編を夢見たロジオンが屋根裏部屋で覚醒するような筋書きである。わたしは『罪と罰』を初めて読んでから今日に至る四十数年もの間、ロジオンと同じような殺人を想像したことすらない。第一、自分を非凡人と見なす若者が、最初の〈踏み越え〉に老いぼれた高利貸しを選ぶわけもない。
 ロジオンはルージンをしみったれた男と見なして軽蔑、憎悪しているが、彼自身のなしたこともまたルージン並にしみったれている。非凡人にせめてふさわしいのは〈皇帝殺し〉であって、〈老婆殺し〉であるわけはない。しかもロジオンは予測もしていなかった目撃者の出現によってうろたえ、さらなる殺人も犯してしまった。老婆アリョーナだけを密かに殺し、奪った金で起業し、成功したあかつきに恵まれない多くの人々に施す、そうすれば罪はあがなわれるのだとロジオンは考えた。しかし、ロジオンはこのとき、殺しの対象を老婆アリョーナ以外、だれ一人想定していなかった。彼が〈アレ〉を回避できない運命と感じたのは、センナヤ広場でアリョーナの腹違いの妹リザヴェータが明日の晩七時過ぎに家にいないと思いこんだことによる。彼はその時、リザヴェータが出かけずに家に残っているかもしれないとか、用事をすませて早く帰ってくるかもしれないとは考えなかった。彼は〈アレ〉をもはや逃れることのできない宿命と感じ、想像力を働かせることができなかった。
 ロジオンに次々と生ずる〈偶然〉はすべて〈必然〉へとつながっている。当初、殺人の道具に考えていた料理用の斧は、女中のナスターシャがいつものようにお使いにでかけないことで手に入れることができなかった。斧にこだわるロジオンは犯行をあきらめかかる。が、中庭にでてみると庭番小屋に光るものがある。近づくとたまたま庭番はいず、光っていたものは斧であった。こんな偶然はそうそう続くものではないが、ロジオンの場合は偶然はすべて必然へと結びついている。彼は庭番小屋の斧を誰にも見られずまんまと手に入れ、老婆宅へと急ぐ。……そうして老婆アリョーナの頭を斧でかち割ってしまう。
 いったい殺したのはロジオンなのか、それともロジオンは単なる或るなにものかによって操られているだけなのか。ロジオンの意志というより、或るなにものかが彼の意志を搾取してしまったかのように感じる。最初の犯行、ロジオンがアリョーナの頭に斧の峰を打ち下ろす場面は特にそれを感じる。ところが、目撃者リザヴェータを殺す場面、ここでは明らかにロジオンの明晰な意識のもとで斧の刃が振り下ろされている。
 犯罪の現場には絶対に現れるはずのなかったリザヴェータが出現したことの意味は大きい。ロジオンにとりあえず二つの道がある。ひとつはリザヴェータを置き去りにして逃げ出すこと、一つは現に小説で描かれたように第二の殺人である。前者を選んだ場合、殺人現場を目撃されたロジオンは即刻逮捕されることになっただろう。まさかリザヴェータが沈黙を守ることはないだろう。後者の場合、まずロジオンの「犯罪理論」が破綻、ないしは新たに注釈を加える必要が出てくるだろう。ロジオンは「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」と語った。ロジオンにとって高利貸しアリョーナは業突く張りな老婆で、生きていても害を与えるだけの社会のシラミであって、こんな者は殺しても何の良心もとがめられるものではないと踏んでいた。彼は臆面もなく「一つの犯罪は百の善行によってあがなわれる」と主張する。が、これはがめつい社会の害虫アリョーナ殺しには適用できるとしても、はたしてリザヴェータに適用できるのか、という点が問題である。ロジオンは犯行の対象はあらかじめ明確に定めていたが、目撃者をどうするかに関してはなんら考えていなかった。しかし、現に殺してしまったことが重要である。
 ロジオンはアリョーナ以外にも殺せる人間なのである。だからこそわたしは、ロジオンよ、おまえは目撃者が母親プリヘーリヤであっても、妹ドゥーニャであっても、ソーニャであっても……殺せたのかと問わずにはおれないのである。ネチャーエフは何の揺らぎもなく書く「革命家とは社会の絆であれ、家族の絆であれ、友人の絆であれ、彼を結びつける絆の一切を自ら断ち切る人間のことである」と。ロジオンはこんなことを少しも口にしていない。が、ロジオンが結果として二人の女を殺したことはこういったことを意味しているのだ。
 ロジオンは〈元学生〉〈一人の青年〉〈屋根裏部屋の空想家〉といったイメージで読まれている。『罪と罰』の読者でロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフを一人の〈革命家〉と見なした者はいない。作者がロジオンに託したのは〈アレ〉であり、この〈アレ〉こそが革命家の目指すものと重なる。ロジオンは『おれは自分の存在と結びつく一切の絆を断ち切ることができるだろうか?』と自問しても良かったのだ。
 ネチャーエフは続ける「どんな激しい感情が湧き起ろうと、それは革命というただひとつの目的に向けられる。彼はこのために、自己の利益、愛情、恋愛を犠牲にする」と。ロジオンは二人の女を殺害したことで、〈社会の絆〉〈家族の絆〉〈友人の絆〉を断ち切ることに成功した。が、ロジオンを革命家と見ることはできない。彼の〈踏み越え〉(преступление)はネチャーエフの言う〈革命というただひとつの目的〉に向けて踏み出されたものではなかった。ロジオンが最終的に目指していた〈踏み越え〉は〈復活〉(воскресенье)であった。だからこそロジオンは社会、家族、友人の絆を断ち切ってまで聖痴愚(ユロージヴァヤ=юродивая)ソーニャと共に生きる道を選んだのである。
 ジョージは「わたしが知っているのは、われわれがきのう殺したのなら、きょうも殺すし、あすも必ず殺すだろうということである」と書く。ここにはまったく揺らぎがない。ロジオンは殺す前も、殺した後も思い惑っている。苦しんでいる。しかもこの苦しみはアリョーナを殺したことによってでも、リザヴェータを殺したことによってでもない。強いて言えばロジオンは、自分が非凡人どころか、殺したアリョーナ以上にシラミのような存在であったことを発見して苦しんでいる。さらに言えば、〈踏み越え〉(преступление=殺人)はしたが、〈罪〉(грех)の意識に襲われないことに苦しんでいる。ソーニャが、このロジオンの〈苦しみ〉の内実をどこまで理解していたかは問うまい。ソーニャはロジオンの〈苦しみ〉(十字架)を共に背負っていく覚悟ができている、これだけは疑いようがない。
 ロジオンはアリョーナを〈殺し〉、続いてリザヴェータを〈殺し〉たが、おそらくこの二番目の殺しが最後の殺しとなったことであろう。もちろん、それは作者がロジオンをネチャーエフの言うような〈革命家〉としては設定していなかったことによる。ロジオンは目撃者リザヴェータをも殺すことができた青年であるから、作者側の保証(復活の曙光に輝くこと)がなければ、〈殺し〉続ける青年にもなりえたことを忘れてはならないだろう。恐ろしいのは人間なのだ。痩せ馬殺しの場面で激しく憐憫の情に駆られる幼年時代のロジオンが、やがて二人の女の頭を叩き割る青年に成長するのだ。さらに理不尽なのは、このロジオンが罪の意識に襲われることもなく、愛によって復活の曙光に輝くことだ。作者はエピローグで「ふたりを復活させたのは愛だった」〔Их воскресила любовь〕、「思弁の代わりに生活が登場したのだ」〔Вместо диалектики наступила жизнь〕と書いている。

以上「藝文攷」20号連載4(2015年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載19


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載19

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

連載19

テロリストの孤高な精神

 ロープシンの文章は詩的で、どこにも説明はない。こういったいさぎよい文章はどこから生まれてくるのか。内なる心の荒野に詩の泉が潜みかくれているのか。エレーナについて触れるロープシンのペンはロマンチストのそれだ。ペン先がロマンチックな憧憬に震えているのが伝わってくる。ロマンチストでなければテロリストの孤独を生きることはできないのか。現実をたくましく生きるリアリストにテロリストの孤高の精神を理解することはできない。日常をたくましく生きるとは俗にまみれて敗退しないことだ。要するに、生き延びようとする精神に孤高な精神は乖離し、同調しない。テロリストの詩的精神は散文家の卑怯で姑息な戦略を完璧に排除する。説明も弁解もない。決定的な変更不能の意志に生きる者のみがもつ孤高の泉から滴る水滴が言葉となって刻印される。研ぎ澄まされた感覚が外部の音や声を沁みいらせる。

  三月十四日
  わたしは自分の部屋にいる。階上で誰かが静かにピアノを鳴らしている。やわらかな絨毯をふむ音。(17)
  Я у себя в комнате. Наверху, надо мной, тихо звенит фортепьяно. Шаги тонут в мягком ковре.(11)

  こういった文章は状況を説明しているのではない。ジョージが部屋にいて、階上のピアノの音や、絨毯を踏む音を耳にしているというのではない。ジョージが〈いる〉(有)こと、ピアノの静かな音が聞こえて〈ある〉(有)こと、絨毯を踏む音が聞こえて〈ある〉(有)こと、――すなわちジョージという存在は〈ある〉(有)に溶けこんで〈ある〉(有)ということが表現されている。ジョージは限りなく存在の(有)にたたずんでいる。

  わたしは非合法生活にも、孤独にもなれてしまった。わたしは未来を知ろうとは思わない。過去のことは忘れるようにしている。わたしには故国も、名も、家族もない。わたしはひとりでつぶやく。(17)
    Я привык к нелегальной жизни. Привык к одиночеству. Я не хочу знать будущего. Я страюсь забыть о прошедшем. У меня нет родины, нет имени, нет семьи. Я говорю себе:(11) 

  ここでまず注目しておきたいのは「なれてしまった」〔привык〕という言葉だ。人間は何にでも慣れてしまうものだ、とは死の家を体験したドストエフスキーの言葉である。〈非合法生活〉と〈孤独〉に慣れてしまったジョージはそこからの脱出を望んでいない。彼はドストエフスキーの第二作品『分身』(двойник)の主人公ゴリャートキン氏のように頽落世界化した現存在ではない。ゴリャートキンは過去と未来から切断された〈今〉を生きる者、切迫した時性を生きる狂気に陥った者であったが、ジョージ・オブライエンはあくまでも冷徹な意識を保持する者である。彼は思い出したくもない不気味な過去に追われることもないし、一瞬先の未来が闇に覆われているわけでもない。ジョージは「未来を知ろうとは思わない」〔не хочу знать будущего.〕〈わたし〉〔Я〕が確固としている。ゴリャートキンの〈今〉は不安と恐怖に晒された恐るべき狂気の今の連続であるが、ジョージの〈今〉は自らの意志で未来と過去を打ち捨てた充足した孤高の今である。ジョージに「故国も、名も、家族もない」わけではない。テロリストになった〈わたし〉が故国も、名も、家族も打ち捨てただけである。
 『罪と罰』の主人公〈一人の青年〉〔один молодой человек〕には〈ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ〉〔Родион Романович Раскольников〕というれっきとした名前があった。ロジオンには母プリヘーリヤ、妹ドゥーニヤという家族があり、リャザン県ザライスクという故国ロシアの故郷がある。その意味でロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフという〈一人の青年〉は〈一人〉にはなれなかった。ロジオンは人殺しという〈踏み越え〉をなしてすら厳密な意味においては〈一人〉にはなれなかった。ロジオンはプリヘーリヤとドゥーニヤに〈さよなら〉〔прощайте〕するが、娼婦ソーニャと出会うことによって〈信仰〉による新たな家族の一員となるのである(ロジオンは母と妹に対してはいつも永遠の別れの思いを込めて〈прощайте〉と言っている。再会の意味を込めた〈さようなら〉の〈до свидания〉を使っていないことに注意)。ここがジョージ・オブライエンと決定的に違うところである。
  ロジオンは肉親との絆を断ち切るために老婆アリョーナを殺そうとはかったとも言える。彼は母親や妹を殺すことができなかった、その代わりにアリョーナとリザヴェータを殺した。肉親との絆を断ち切らなければ、彼はソーニャとの新しい関係の中へ踏み込んでいくことができなかった。
 ジョージは自分の過去を語らず、家族のことも語らない。彼はこの小説に登場したその時から、家族との縁を断ち切ったテロリストとして振る舞っている。彼が、どのようないきさつでテロリストになったのかを、彼の伝記をもとに探る途は閉ざされている。彼は故国も名も家族も喪失した孤独な〈ひとり〉者としての姿勢を崩さない。言い方を変えれば、彼はロジオンのように内的独白することを許されていないし、彼の内部に立ち入る他者や語り手の存在を認めない。彼は読者に最低限の情報を伝えることに充足している。
 ジョージには〈故国〉も〈名〉も〈家族〉もあるのだろうが、テロリストになったその時点でそれらを葬り去ったのであろう。葬り去るには葬り去るだけの理由があったに違いないが、彼は自らの過去を遡る道を完全に遮断し、なんびともその道に立ち入ることを禁じてしまった。

 

 Un grand sommeil noir            〔大きな黒い眠りが
 Tombe sur ma vie,                  私の生命に降りてくる
 Dormez,tout espoir,                眠れ、すべての希望よ
 Dormez,tout envie.                 眠れ、すべてのい羨望よ〕

 しかし希望は死にたえてはいない。なにへの希望か? 「暁の明星」にたいしてか? わたしが知っているのは、われわれがきのう殺したのなら、きょうも殺すし、あすも必ず殺すだろうということである。「第三の天使、その鉢を、河と水の源のうえに傾けたれば、そはみな血となれり」。そうだ、血は水によって流されもしなければ、火によって焼きつくされることもない。血とともにーー墓場へ。(18)

 

 ジョージの〈過去〉と〈未来〉を意志的に切断した〈今〉の有に〈大きな黒い眠り〉が降りてくる。彼はいつも死を念頭において生きている。過ぎ去った時を容赦なく葬り去り、来るべき未来の時を不断に無化しつつ、ひたすら死を抱きかかえて生きている。「眠れ、すべての希望よ」「眠れ、すべての羨望よ」これらの言葉は呪言のようにジョージの全存在を貫いていく。彼は過去を復帰(想起)させ、未だ来ぬ時を将に来るものとして受け止める、その散文的な生存を遺棄して、死と表裏一体の詩的生存に身を委ねている。彼に願望があるとすれば、それは〈眠り〉以外にはない。が、この眠りは安逸の眠り、母の乳房のあいだに顔をうずめて安らぐ赤子の眠りとは違う。彼は「わたしには故国も、名も、家族もない」と書き記していた。つまり彼は故国からも、家族からも、自分自身からも切断された存在であり、もし彼がテロリストでなければ、彼はこの世界においてすでになにものでもないということになる。彼はテロリストとして現実の世界を生きているが、その精神的内実は過去と未来から切断された〈今〉という瞬間、すなわち虚無のただ中に浮遊した存在でしかない。
 故国と家族を断ち切り、だれでもない名付けられぬ存在として浮遊するこの男に人間の生の声を求めることはできない。彼の〈今〉を散文的に引き延ばし、彼の〈過去〉や〈故国〉や〈家族〉を厚みのある光景へと映像化することはできない。彼の内部に心理学者のまなざしを向けても、すでに彼の内部世界に反射板は完璧に撤去されている。まなざしは限りのない虚空へと吸い込まれていく。

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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(連載18

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

連載18
革命家と神の無関心
――自然の摂理――

  はじめて狩猟に行ったときのことをおぼえている。そば畑が赤く染まり、いたるところにくもの巣がかっていて、森はしずまりかえっていた。わたしは森の空地の、雨で掘りかえされた道端に立っていた。ときおり白樺がささやきあい、黄色の木の葉がとびすぎた。わたしは待っていた。とつぜん、草むらが妙なふうにざわついた。茂みから、小さな灰色の塊となって兎がとびだし、用心ぶかく後ろ足ですわり、あたりを見まわした。わたしはふるえながらも銃をもちあげた。森中にこだまが響きわたり、青い硝煙が白樺林のなかにとけていった。血で濃い褐色に染まった草のうえで、傷ついた兎がもがいていた。兎は子供が泣くような声で叫んでいた。兎があわれになった。わたしがもう一度射つと、兎は静かになった。
  家ではすぐ兎のことなど忘れてしまった。まるであの兎がはじめから生きておらず、わたしが彼のもっともたいせつなものーー生命をうばったりしたことなどないかのように。それで、わたしは自分に問う。兎が金切声をあげたとき、わたしはなぜ心が痛んだのだろうか? 慰みで殺したときには、なぜ心が痛まなかったのだろうか?(12~13)

  Помню, ― я был в первый раз на охоте. Краснели поля гречихи, падала паутина, молчал лес. Я стоял на опушке, у изрытой дождем дороги. Иногда шептались березы, пролетали желтые листья. Я ждал. Вдруг непривычно колыхнулась трава. Маленьким серым комочком из кустов выбежал заяц и осторожно присел на задние лапки. Озирался кругом, Я, дрожа, поднял ружье. По лесу прокатилось эхо, синий дым растаял среди беберез. На залитой кровью, побуревшей траве бился раненый заяц. Он кричал, как ребенок плачет. Мне стало жалко его. Я выстрелил еще раз. Он умолк.
    Дома я сейчас же забыл о нем. Будто он никогда и не жил, будто не я отнял у него самое ценное ― жизнь, И я спрашиваю себя: почему мне было больно, когда он кричал? Почему мне не было больно, что я для забавы убил его?(8)

 

 ここで書かれているのは何なのか。初めての狩猟。射たれた兎。もし兎が急所を射たれて即死していれば、ジョージの心を騒がすこともなかったであろう。ジョージの目は傷ついた兎がもがき苦しむさまを目撃し、耳は子供が泣くような叫び声を聞いてしまった。まさにそのことでジョージは兎を〈あわれ〉に感じる。しかし、この〈あわれ〉の感情は傷ついた兎を助ける方向に彼を向けなかった。彼はもう一度、傷ついた兎に弾丸を射ち込む。兎は静かになった。
 ジョージは傷ついた兎のもがきと叫び声に耐えることができなかった。兎は死によってもがくこと、叫び声を発することをやめる。傷ついた兎はもはや野原を自在に駆け回る自由を奪われた存在であり、一刻も早い死を与えることが唯一の救いとなる。狩猟民族にとって狩りの対象を即座に殺すことは当たり前のことであって、そこに一片の同情も入り込む隙はない。狩人は狩りの仲間である猟犬を守っても狩りの対象を守ったり同情したりすることはない。狩人に動物愛護の思想を植え付けることはできない。ジョージが傷付けた兎に〈あわれ〉を感じること自体が、彼の未熟さの証となっている。狩人は狩りの対象を確実にしとめなければならない。動物は世界に生きているときだけが生きているのであり、狩人は狩りの対象を一撃必殺することで対象を別の世界へと瞬時に送り出さなければならない。ジョージは初めての狩りでそのことに失敗してしまった。傷ついた兎のもがきと叫び声はジョージの脳裡に刻みつけられた。ジョージは家に帰ってすぐに兎のことなど忘れてしまったと書いているが、一度脳裡に深く刻まれた思いを消すことはできない。ジョージは改めて問わずにはおれない「兎が金切声をあげたとき、わたしはなぜ心が痛んだのだろうか?」と。

 ニコライ・スタヴローギンは小さな拳を挙げて威嚇するマトリョーシャの幻影を見て、これが良心の呵責というものなのかと自問自答する。善悪観念を摩滅してしまった虚無の権化にも良心は未だ摩滅し切ってはいなかったのか。神に成り代わって〈試み〉の実験をなしたニコライは神そのものではない。所詮、被造物のニコライは完全な沈黙と無関心の域にとどまることはできない。神に成り代わることも、神の無関心を装うこともできない。ジョージもまた同じである。射たれた兎の叫び声に反応してしまうジョージは神ではない。傷ついてもがき、叫び声を発する兎と同じ被造物である。もし、ジョージが兎の叫び声にまとわりつかれれば、今度は彼自身がもがき、何ものかに向かって叫び続けなければならなかったであろう。幸か不幸かジョージは兎のもがきと叫び声を忘れることができた。否、忘れることができなかったからこそ、彼は初めて猟に出かけた時のことを書いているわけだ。大人になってテロリストになっても、犠牲となった兎のもがく姿を忘れることはできないのだ。もがき苦しみ叫び声をあげて死んでいった兎、その張本人は射撃したジョージにほかならない。彼に良心の呵責や反省はない。彼はすぐに無関心になれる。射たれて死んだ兎と射撃したジョージの間にはまるで何の因果関係もなかったかのように彼は冷静である。ジョージの意識のうちでは兎も総督も皇帝も同じような存在であったのだろうか。
 狩人は獲物に同情しない。同情しながら射ち殺す狩人はプロの狩人とは言えまい。〈射殺〉と〈同情〉のあいだに生起するのは快楽であって、これは始末が悪い。ドストエフスキーの人物たちにはこういった快楽を覚える者が少なくないが、ロープシンが描くジョージにそういった傾向は見られない。

 ジョージは「そば畑が赤く染まり、いたるところにくもの巣がかかっていて、森はしずまりかえっていた」と書いている。静かだ。この自然の静かさの中にジョージもまた自然の一部として溶けこんでいるようだ。詩的な光景を眼前に見る思いがするが、この静かな自然のいたるところが戦場であることもまた確かである。無数のくもが巣を張って犠牲者をしとめようと身を潜めている。静かな森は聖性を感じさせるが、そこでは弱肉強食の生と死の凄絶なドラマも不断に展開されている。一瞬の隙が死を招くことになる。〈小さな灰色の塊〉となって茂みから飛び出した兎は、新米の狩人の眼差しに捕らえられ、次の瞬間にはそのふるえの止まらない手から銃弾を射ちこまれる。狩人の気配を察することができずに飛び出した兎は、その時点で生存競争に敗北したことになる。生きるも死ぬも、この世界のあらゆる事象は自然の摂理のうちにある。あわれみの感情もまた自然の摂理のうちにある。ジョージは最初の狩りにおいて興奮し、的確に獲物の急所をとらえることができなかった、その未熟な射撃とあわれみの感情は無縁ではない。ジョージが目指すとすれば、より高度の射撃術を身につけることであって、狩りをやめることではない。
 人間の欲求は果てしない。自由を外界へ向けて求める者に終わりはない。内的自由を求めるというのであれば禅や瞑想の途がある。ジョージの自由を求める心は〈政府高官や支配者〉を殺すというテロリズムへと向かった。


  三月十三日。
  エレーナは結婚している。彼女はここ、モスクワに住んでいる。それ以上のことはなにも知らない。ひまな日には、毎朝、わたしは彼女の家のちかくの並木路をぶらつく。霜柱がやわらかくなり、足もとでは雪がさくさく音をたてる。塔のうえで時計がゆっくりと鳴っているのが聞こえる。もう十時だ。ベンチに腰をおろして、しんぼうづよく時をかぞえる。きのうは彼女に会えなかったが、きょうは会えるだろう、とわたしは自分に言いきかせる。
  一年まえ、わたしははじめて彼女に会った。春、N市を通りかかったさい、朝になって、大きな木陰の多い公園に寄ってみた。湿った土のうえに頑丈な樫とすらりとしたポプラが立っていた。会堂のようにひっそりとしていた。鳥すらも啼いていない。ただ小川のせせらぎだけが聞こえる。わたしはその流れをみつめていた。水しぶきがきらきらと日に輝いていた。わたしは水の音に耳をすませる。ふと目をあげると、枝葉が織りなす緑の繻子に包まれて、むこう岸にひとりの女が立っていた。彼女はわたしに気づいていない。だが、わたしにはわかっていた。わたしが聞いているものに、彼女もまた耳をすませていることが。
  これがエレーナであった。
  13 марта.
  Елена замужем. Она живет здесь, в Москве. Я ничего больше не знаю о ней. По утрам, в свободные дни, я брожу по бульвару, вокруг ее дома. Пушится иней, хрустит под ногами снег. Я слышу, как медлено бьют на башне часы. Уже 10часов. Я сажусь на скамью, терпеливо считаю время. Я говорю себе; я не встретил ее вчера, я встречу ее сегодня.
    Год назад я впервые увидел ее. Я весной был проездом в И и утром ушел в парк, большой и тенистый. Над мокрой землей вставали крепкие дубы, стройные тополя. Было тихо, как в церкви. Даже птицы не пели. Только журчал ручей. Я смотрел в его струи. В брызгах сверкало солнце. Я слушал голос воды. Я поднял глаза. На другом берегу в зеленой сетке ветвей стояла женщина. Она не замечала меня. Но я уже знал: она слышит то, что я слышу.
    Это была Елена.(10~11)

 

 ここに引用しなかった「三月十一日」には元鍛冶工の労働者フョードルのことが書かれていた。ジョージはフョードルに十二月の革命の時にどこにいたのか尋ねる。フョードルは気乗りしないままジョージの問いに答えている。短い会話の最後だけを引用しておこう。

 

  彼はときどき口をつぐみながら、つづける。
  「そう、そこにゃ、女がひとりいた……おれの連帯責任者でね……女房のようなもんだったが」
  「それが?」
  「いや、別に……コサックどもが殺っちまった」
  窓のそとでは日がかけていた。(15~16)
  Он говорит нехотно. Я жду.
    ーДа, ーпродолжает он, помолчав, ーбыла тут одна...со мной солидарная...вроде будто жена. 
    ーНу?
   ーНу, ничего...Убили ее казаки.
    За окном гаснет день.(10)

 

  フョードルは重い口をあけて最後に連帯責任者で女房のような女がひとりいたことを話す。まるでそのことを言わせるためにジョージはフョードルに話しかけたのではないかと思わせるような展開の仕方である。女はコサックに殺されたと言う一言のうちに、どれだけの膨大なドラマが詰め込まれているか。ジョージは黙って窓の外を眺める。二人の姿は黄昏時の夕闇の中に静かにフェイドアウトして行く。
 「エレーナは結婚している」とは、エレーナはほかの男のものだ。エレーナとはジョージにとって〈むこう岸〉に立っている〈女〉である。ジョージが孤独であるようにエレーナもまた〈孤独〉である。〈孤独〉とは誰にも所有されない精神の孤高に佇んでいることを意味する。エレーナは〈むこう岸〉に立っているばかりでなく〈ひとりの女〉(женщина)なのである。原書で〈女〉の〈ひとり〉が強調されているわけではないが、ジョージはむこう岸に立っている女に自身の孤独を反映させている。

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載17


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載17

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

  三月十日。
  彼のことを考えるとき、わたしには憎しみも敵意もない。あわれみもない。わたしは彼には無関心だ。だが、わたしは彼の死を欲する。わたしは彼を殺さねばならぬことを知っている。テロと革命のために必要なのだ。わたしは力が弱者を倒すことを信じるが、言葉は信じない。もしできるなら、わたしは政府高官と支配者の全員を殺すだろう。わたしは奴隷でありたくないし、奴隷がいることも望まない。
 殺してはならぬ、という。また、大臣は殺してもいいが、革命家はいけないという。これと逆のこともいわれる。
 どうして殺人がいけないのか、わたしにはわからぬ。それに、自由の名のもとに殺すのはよいが、専制の名のもとに殺すのは悪いなどという理くつが、わたしにはどうも理解できない。(12)
  10марта
  Когда я думаю о нем, у меня нет ни ненависти, ни злобы, У меня нет и жалости, Я равнодушен к нему. Но я хочу его смерти. Я знаю; его необходимо убить. Необходимо для террора и революции. Я верю, что сила ломит солому, не верю в слова. Если бы я мог, я бы убил всех начальников и правителей. Я не хочу быть рабом. Я не хочу, чтобы были  рабы.
   Говорят, нельзя убивать. Говорят еще, что министра можно убить, а революционера нельзя. Говорят и наоборот.
    Я не знаю, почему нельзя убивать. И я не пойму никогда, почему убить во имя свободы хорошо, а во имя самодержавия дурно.(7~8)

 「彼のことを考えるとき、わたしには憎しみも敵意もない。あわれみもない。わたしは彼には無関心だ。だが、わたしは彼の死を欲する。」この一文が沈黙を強いる。ライオンが殺して食する草食動物についてコメントを求められたらこう答えるかもしれない。肉食獣と草食動物、草食動物と植物の間に同情や友愛の感情を持ち込んでも詮方ない。神が創造したこの世界はそのように構築されている。
 殺す対象に〈無関心〉だが、相手の〈死〉は欲している〈わたし〉とは、いったい何だろう。一番近い存在は神であろう。ニコライ・スタヴローギンは沈黙し続ける神に代わってマトリョーシャを凌辱した後、徹底して無関心を装い、彼女を首吊り自殺に追い込んだ。ニコライは仕掛け、無関心を装い、そして相手の死を目撃する。が、ニコライは〈告白文〉を書いて、それをチーホン僧正に読ませた。ニコライは自分の実験に対して無関心そのものであることはできなかった。ジョージと名乗るテロリスト〈わたし〉もまた、日記をしたためずにはおれなかった。「わたしは彼を殺さねばならぬことを知っている。テロと革命のために必要なのだ。」とジョージは書かずにはおれなかった。
 ライオンは草食動物を殺し食した行為に関して何の説明もしない。が、ジョージは〈テロと革命〉を持ち出してしまう。持ち出しはするが、なぜ彼にとって〈テロと革命〉が必要なのかを説明しない、少なくとも論理的には。彼は続ける「わたしは力が弱者を倒すことを信じるが、言葉は信じない」と。言葉を信じないものが、今、このようなものを書き付けている。シェークスピアは「言葉だ、言葉だ、言葉」と書いた。言葉に絶望した者だけが言葉に託すことができる。ジョージの信じない〈言葉〉はテロと革命行為の対極に置かれている。
 言葉だけの輩がいる。テロリストに要求されているのは〈言葉〉ではない。殺す対象を実際に殺すことだけが求められている。極端なことを言えば、テロリストに殺す理由を説明する義務はない。殺すという〈今〉だけが求められており、殺した結果として未来に人類の破滅が待っていたとしても、テロリストはいかなる責任もとらないし、とる必要も感じていない。テロという〈今〉に生を燃焼しきることがテロリストの使命なのである。〈過去〉を語らず、〈未来〉を語らず、ひたすら定めた対象を殺すことに専念する、この異様な情念はどこから生じているのか。
 ジョージは「わたしは政府高官と支配者の全員を殺すだろう」と断言する。〈政府高官〉と〈支配者〉に対する個別の配慮などはまったくうかがえない。〈政府高官〉と〈支配者〉に属する者はジョージの前にあってすべて等しい。彼にとって〈政府高官と支配者〉は一つの袋に詰め込まれた石炭に過ぎない。石炭一粒一粒の質など問わない。このおおざっぱなくくり方に驚嘆する。主人公と作者を同一視することはできないとしても、ジョージが作者ロープシンの思想を色濃く反映していることは否めない。『蒼ざめた馬』を執筆する想像力豊かな詩人ロープシンがこんな単純な思想を主人公に与えていることに驚く。しかし、ここにこそテロリストの秘密が隠されている。
 思考は思考を産む。ドストエフスキーのような作品を、たとえばバフチンの言うポリフォニック的思考法で読めば、決して一義的結論を見いだすことはできない。神を信じないイヴァンと神を信じるアリョーシャがいくら時間をさいて議論しつづけたところで決着がつくわけではない。議論は議論を産んで永遠に議論し続けなければならない。政府高官と支配者の中の誰を殺し誰を見逃すべきか、などという議論をジョージははじめから問題にしていない。彼らのすべてを殺すと断言して、そのことで議論しようなどという腹づもりはみじんもない。なにが善で何が悪なのかという議論もしない。まさにジョージはニコライ・スタヴローギンの申し子のように、すでに十分、善悪観念を摩滅してしまった男なのである。
 ドストエフスキーの地下男は「行動するのは馬鹿ばかり」と毒づいて地下の小部屋に引きこもった。が、改めて考えてみれば、自意識過剰のこの男は歓迎されない同窓会へわざわざ出かけていったり、娼婦リーザに関係を結んだ後で説教したりとろくな男ではない。一口で言えば自意識過剰のロクデナシである。この男は気にくわない同窓生の一人から金を借りて、その金でリーザの肉体を弄んでいる。あげくのはての説教である。今、わたしは地下男のろくでもなさをいちいち指摘してみたいのではない。地下男もまた現実の世界においてはろくでもない〈行動者〉であったことに目をとどめたいということである。地下男は自意識過剰者であるから、自分のなすことすべてを即時に相対化してしまう。結果、彼の行動はだれが見ても醜い道化のごとき振る舞いにならざるを得ない。彼に欠けているのはジョージの〈無関心〉である。とりあえず、自分のことをだれがどのように見ていようが知ったことかという、そういう開き直りが地下男にはできない。彼は不断にひとの視線に晒された存在で一時も休息ができない。
 ジョージの目標は定まっており、みじんの揺らぎも見せない。地下男は不断の揺らぎのただ中において他者に対する毒念をため込んでいくが、ジョージに地下男に見られたような毒念はない。〈政府高官と支配者〉に対する個人的な恨みつらみも抱え込んでいるようには見えない。ジョージはゴルゴ13のようにテロの使命に従っているだけのように見える。ただ一つだけ「わたしは奴隷でありたくないし、奴隷がいることも望まない」という言葉のうちにジョージの根源的な欲求が表明されている。ジョージはだれにも支配されたくないし束縛されたくない。つまり彼は自由でありたいと欲している。しかし、人間の歴史をざっとかいま見ただけでも、ジョージの欲する自由など人間社会において体現されたことはない。もし可能だとすれば、それは現実の世界においてではなく、まさに空想や観念の世界においてのみである。ジョージはロマンチストであり空想家である。多くの場合、空想家は空想の領域で生きることに充足する。現実の社会で小説家や芸術家、哲学者や科学者というレッテルを貼られて満足する者は多い。
 ジョージは単なる空想家にとどまることはできなかった。空想家が行動家になるときほど恐ろしいことはない。空想家は現実の世界において独裁者を目指すかテロリストに徹するか、そのどちらかと言っても過言ではない。組織の中で実績を積み上げて地道に出世階段を昇るなどということを空想家は最も苦手とする。ジョージが政府高官と支配者とを憎悪する、その無意識の領野に〈政府高官〉と〈支配者〉が隠れ潜んでいることは明白である。そんな存在を自らの内に持たない者は憎悪すら抱かない。
 「わたしは奴隷でありたくない」ということと「奴隷がいることも望まない」の間には大きな溝が横たわっている。前者にとどまるものは、孤高の空想家(文学者、芸術家、哲学者、科学者)として生を全うすることができる。後者の思いが強くなれば、社会制度の改革という政治的次元への飛躍に駆られる。しかし、すべての人間が支配と束縛のない社会に生きることができるかどうかが問題である。ドストエフスキーの愛読者であれば、まずそんな理想的社会は空想家の頭の中にしか存在しないと思うだろう。『悪霊』のシガリョフはそんな理想的社会の実現を目指してピョートル・ヴェルホヴェーンスキーが組織する秘密革命結社の一員となったが、すべての人間が無制限の自由を発揮できる社会とは畢竟、独裁者が大多数の人間を奴隷化して支配する社会を構成してしまうことになると看破し、絶望して革命結社を脱退した。
 『悪霊』を読んでいたはずのジョージが、シガリョフ理論を知らなかったはずはない。にも拘らず、ジョージは奴隷のいない社会を望む。人間はジョージのようにあらゆる束縛を離れて何よりも自由でありたいと思う者ばかりではない。ひとを支配し束縛したいと考える者がおり、支配され束縛されたいと願う者もいる。イヴァン・カラマーゾフが創作した「大審問官の劇詩」において、大審問官が問題にしたことはまさに自由を手放して幸福を求める大多数の人間のことであった。
 ところで、支配されないこと、束縛されないこと、自由であることに人間としての最大の幸福を感じる者が、自分以外のすべての人たちもまたそのことを等しく願っているのだと思うのは楽観過ぎるだろう。しかも自由の内には、他者を傷つけること殺害することも含まれている。現に支配と束縛を嫌うジョージはテロリストとして「わたしは彼を殺さねばならぬ」という信念を生きている。ジョージの自由によって殺害される者がいる。ジョージは自らのテロリストの自由を発揮することによって他者の自由を抹殺する。しかも彼はそのことに何の疚しさも感じない。彼はテロリズムに関しては不感症になれる男なのである。
 「どうして殺人がいけないのか、わたしにはわからぬ」とジョージは書いている。ジョージが善悪観念を摩滅してしまっていたのであれば、殺人をいけないとも思わないし、いいとも思わないだろう。ジョージは〈彼の死〉を欲しているのであって、この欲求は善悪観念を超えた欲求なのである。現に殺すことを欲する人間がおり、殺されたくない人間がいるのであるから、両者は決着がつくまで闘争しなければならないことになる。これは人間が繰り返し行ってきたことで例外はない。政治・経済の世界から恋愛・性愛の次元まで、人間は〈善悪観念〉で生きてきたことはない。嫉妬・憎悪は理性の力では制御できないのである。ジョージは殺人の善悪などを問うてはいない。ジョージが〈彼の死〉を欲している以上、善悪観念などはこの欲求に隷属するのである。

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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