アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載16)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載16

飛行機


 飛行機は最初の方のシーンと最後の方のシーンに登場する。飛行機は俯瞰する視点である。〈蟷螂〉の抜け殻の外套が天空から地上に落下していくのを上から見ることのできる視点である。TOMの生きる世界に交じり合うことなく、謂わば拱手傍観して客観的に観察できる立場にある。アニメで展開された出来事を冷静に俯瞰的に眺められる点において理性的であると言える。作者の自作品に向けられた眼差しは当然の事としてこの飛行機の視点及びそのさらなる上空からの視点に拠っている。


 アニメ世界はアニメ独自の秩序を持っており、それは現実世界の秩序に沿っている場合と大きく逸脱する場面を持っている。アニメの夢幻的世界をリアルな現実世界の規範で推し量ることはできない。男ばかりが住んでいる小屋、女ばかりが住んでいる館、縫いぐるみのシカやクマなどとの壮絶なバトル、様々に変容する〈蟷螂〉の存在と彼が主宰した祈祷式や晩餐会など、リアルな観点からすれば納得のいかない事柄に満ちているが、しかしこれらに仕掛けられた謎に着目し、その象徴的な意味を解読していけば、この夢幻的世界が現実世界の過去と現在とを先鋭的に反映していることが分かってくる。
 このアニメを観た子供たちや批評・解読の訓練のない者たちは、生理的感覚的次元での素朴な感想を抱くにとどまり、仕掛けられた様々な謎にさえ気づかないかもしれない。それはそれでいい。このアニメは観る者の魂に直接的に働きかけてくる。へたをすれば作品の魔術的空間に呑み込まれてしまう者もいるかも知れない。しかしそういった危険な要素を多分に秘めているからこそ、この作品は魅力的なのである。
 観る者に戦慄的な波動を送り続けているこのアニメを観て、安穏としていられる者は、作者と魂の交流をはかることはできないだろう。この作品は、視聴者の一人一人に、人間とは何か、神とは何か、いかに生きるか…といった根源的な問題を突きつけている。
 人間は思考する動物であり、創造的な存在である。世界の上空を飛び去っていく飛行機はアニメ『TOM THUMB』世界の一登場物であるが、世界を俯瞰的に冷静客観的に見るその一点において狂気的な夢幻世界の混沌に巻き込まれない〈理性〉の役割を担っていたように思える。
 飛行機の視点はTOMの世界を上空から俯瞰し、監視することはできる。が、その他の場面に眼差しを注ぐことはできない。飛行士はTOMが〈透明石〉を通してみる世界を、様々な役割を持った〈蟷螂〉が見る世界を、森の中で繰り広げられたバトルを、女の館での〈蟷螂〉主宰の祈祷式や晩餐会の模様を、ましてや女の館の地下室に暮らすネズミたちの生活ぶりを見ることはできない。アニメ世界の様々な様相を照らし出しているのはカメラである。このカメラは様々な機能を備えており、視聴者はその機能によって映し出された世界をそのまま享受することができる。
 アニメ『TOM THUMB』において人物が歌を口ずさんだりハーモニカを吹く場面はあっても、言葉を交わすことはない。従って視聴者は人物たちが何を考えているのかを言葉によって知ることはできない。視聴者は彼らの行動や仕草や表情を通して彼らの感情や心理を直感したり推測したりするほかはない。
 TOMは〈こちら側〉の世界に留まっていられる少年ではなかった。TOMは躊躇することなく、木こりたちの後に従った。このことがTOMの最初の冒険であったのか、それとも日常的に繰り返されていた行動であったのかは不明である。が、たとえ日常的なことであったにせよ、視聴者が見せられた世界がたった一回限りの世界、つまりTOMにとって未知の世界探訪であったことに間違いはない。
 日常的に繰り返されるのは森の中での伐採や野原での休息ぐらいのもので、森の中の奇妙な動物たちとの接触やバトルはすでに日常的現実を逸脱している。TOMや木こりたちは森の中で〈巡礼者=蟷螂〉に出会うこともなかったし、象徴的な意味を付与された数字や絵の前に佇むこともなかった。これら様々な象徴性を付与された人物や数字を見せられているのは視聴者である。つまり視聴者はTOMの〈冒険〉を含んださらなる謎多き神秘的な世界へと参入しているのである。

清水正著『宮沢賢治・童話の謎――「ポラーノの広場」をめぐって』(一九九三年五月 鳥影社)

清水正著『ミステリーゾーン 謎がいっぱいケンジ童話劇場』 2001年3月 鳥影社

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載15)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載15

森の中の羅針盤、数字、絵をめぐって


 今まで、アニメ『TOM THUMB』を様々な視点から解読してきたが、今回はこれらの解読を踏まえたうえで、森の中に示された〈羅針盤〉、〈数字〉(3、4、7)、〈絵〉(シカ)に関して考察をすすめてみたい。まず画面左の〈羅針盤〉であるが、これは東西を示しており、木こりたちが西から東へと向かっていたことを示している。


 次に〈3〉〈4〉であるが、これらの数字に関しては、かつて『謎がいっぱいケンジ童話劇場』の第2章「『銀河鉄道の夜』と『風の又三郎』――〈三〉と〈四〉の関連」で言及したので、まずはここから引用することにする。

  C・G・ユングは『心理学と練金術』(池田紘一鎌田道生訳、人文書院)の中で錬金術の中心的公理としてマリア・プロフェティサの言葉「一は二となり、二は三となり、第三のものから第四のものとしての全一的なるものの生じ来るなり」をとりあげ、それに関しては「ここではキリスト教の教義の支柱をなしている奇数の間に、女性的なものを、大地を、いや悪そのものを意味する偶数が割り込んでいる」と書き、また「四は女性的なもの、母なるもの、肉体的なものの意味を、三は男性的なもの、父なるもの、精神的なものの意味を持っている」とも書いています。
  〈三〉はキリスト教の教義においては三位一体(父と子と聖霊)ですが、練金術ではその男性的神性を意味する第三のものから女性的なものとしての第四のものを呼びおこします。女練金術師・預言者マリア・プロフェティサの言う「第四のものとしての全一的なるもの」の数字は〈四〉のみに限りません。マリアの言う「第三のものから第四のものとしての全一なるもの」を、十字架上のイエスを際立たせた時〈三〉〈六〉〈九〉にあてはめればいい。「第三のもの」(三、六、九)はそれぞれ「第四のものとしての全一なるもの」(四、七、十)を生じさせるのです。従って、マリアの言う「第四のもの」は〈一〉〈四〉〈七〉〈十〉(数秘術的減算によって一、四、七に還元される二桁以上の数字も含む)ということになります。(99~100)

 

 アニメにおいて数字〈1〉は登場しないが、親方が担いでいた一本の〈斧〉を〈1〉と見なすことができる。この〈1〉が森の中に踏み込み、次に〈巡礼者=蟷螂〉が〈2〉のカードを森の大木に打ち付ける。〈2〉は和解と殺しの両義的意味を内包している。〈3〉は〈男性的なもの、父なるもの〉として森の木を伐採し、文明発展のために尽くす。が、〈3〉は〈女性的なもの、母なるもの〉としての〈森〉および〈森の住人〉たちと共生共存することができない。
 母なるものとしての〈4〉は、アニメにおいて森辺の〈野原〉に見いだすことができるが、すでに見ての通りこの〈野原〉はすぐに雪に覆われてしまう。この〈野原〉はそこで食欲を満たし、深い眠りについた木こりたちに永遠の憩いを与えることはなかった。彼らは再び森の中に踏み込み、そこで森の動物たちとの壮絶なバトルに巻き込まれることになる。結果は敵味方関係なく全員団子状に丸め込まれてしまうが、直後、団子は爆発し、やがて森の奥に一軒の館が現れる。はたしてこの女の館は、〈第四のものとしての全一的なるもの〉と言えるのだろうか。
 ここで、もう一度森の中にもどろう。最初の〈4〉は〈女性的なもの、母なるもの〉としての〈森〉自体を意味しているが、〈3〉はこの〈4〉と共生できない。〈シカ〉の絵が森の住人たちを現しているとすれば、〈3〉はこれらのものたちと戦わざるを得ない。〈シカ〉の絵の画面右に〈7〉の数字がおかれているが、このアニメにおいてはこの〈7〉こそが「第三のものから第四のものとしての全一的なるもの」を指示している。 ところで、画面には〈5〉と〈6〉がない。〈5〉は〈キリスト〉〈十字架〉であり、〈6〉は〈悪魔〉である。大胆な解釈を施せば、画面に不在の〈5〉〈6〉を内包していたのが〈巡礼者=祈祷師=予言者=預言者=呪術師〉といった様々な霊的要素を兼ね備えた〈斧虫=蟷螂〉だったということになる。つまり「男性的なもの、父なるもの、精神的なものの意味を持っている」第三のものとしての〈蟷螂〉が、森を通過して〈第四のもの〉(女の館)に向かっていたということである。


 女の館には〈七人〉の女が住んでいる。この館に生きた男は存在しない。壁に男の肖像写真が飾られているのと、テーブルの下に玩具の騎士や兵士が置かれているだけである。入り口の両扉にクマとシカの剥製の頭が飾られているが、これらを〈男性的なるものの死〉の象徴と見れば、この館には生きた男性の入館が拒まれていたことになる。この男性禁止の館にTOMが〈悪魔のボール〉を受け止めたことで許可されたことはすでに見た通りである。
 さて、この〈第四のものとしての全一的なるもの〉としての女の館で、〈蟷螂〉による祈祷式、晩餐式が執り行われたわけだが、その最終結果は〈第三のもの〉(木こりたちと動物たち)と〈第四のもの〉(女たち)とを混沌の渦の中に呑み込み破滅させることになった。
 〈蟷螂〉主宰の第二次晩餐式は六芒星に繋がれたものたちを激しい回転と揺らぎの渦に巻き込み死滅させることで幕を閉じる。〈第四のものとしての全一的なるもの〉の世界に敵対する者たちとの共生共存、融和はなく、あるのはただ破滅のみである。もし〈蟷螂〉が悪魔的存在としてのみ、このアニメに登場していたのだとすれば、彼は〈全一的なるもの〉の破壊という目的を達したことになる。


 注目すべきは〈蟷螂〉の目的達成が自らの〈死〉を代償としていたことである。死と破滅をもたらす〈蟷螂〉は愛と赦しの〈キリスト〉と対極の立場にあるが、それにも拘わらず〈蟷螂〉と〈キリスト〉がダブって見えることも確かである。
 ロジオン・ラスコーリニコフは〈斧〉で二人の女を殺した青年であるが、人類の全苦悩を背負ったソーニャの前に跪く青年であった。父親のフョードル・カラマーゾフに「わたしの天使」と呼ばれていた、神を信じる見習い修道僧アリョーシャは、にも拘わらず自らの内に〈悪魔の子〉が宿っていることを自覚していた。〈蟷螂〉が〈キリスト〉に、〈キリスト〉が〈蟷螂〉に変換することは、ドストエフスキーのような広大深遠な精神世界の芸術家のうちでは可能なのである。しかしここに魂の全一的な救いがあるとは言えない。
 アニメ『TOM THUMB』で〈蟷螂〉は感電死し、その抜け殻である外套は天空から地に落ちたが、その外套から水仙の花が咲き始める。〈蟷螂〉の死は未だ〈再生〉の希望をなくしてはいない。

 


 この場面で、TOMが〈蟷螂〉の外套からボタン(そこには〈斧〉と〈王笏〉を十字に重ねた絵がデザインされている)を一つもぎ取っていることを見逃してはならないだろう。TOMは、やがて再び、〈英雄=皇帝〉としてこのボタンを自らの胸につけ、「第三のものから第四のものとしての全一的なるもの」を目指す、大いなる冒険へと旅立つ者として設定されているのである。


 アニメ『TOM THUMB』において女の館における七人の女たちは、確かに女性的なものを感じさせるが、しかし〈女性的なもの、母なるもの、肉体的なもの〉を圧倒的に感じさせるのは農婦である。この豊満な肉体を備えた農婦は一度も正面を向くことなく農作業に従事していたが、TOMが水辺から倒木をくぐり抜け、木こりたちの後を追っていった時には、その姿を黙って見守っていた。


 この農婦の正体は明かされていない。TOMは木こりたちと一緒に小屋に戻ってくるが、アニメを観るかぎり、農婦が彼らと生活を共にしているようには思えない。農婦は人間の母親(TOMの母親)と言うよりは、豊穣な大地・肉体そのものの象徴であるかのようである。
 〈ここ〉から〈あちら〉側の世界へと出かけていったのは木こりやTOMといった男たちであり、農婦は母親として、大地として〈こちら側〉にとどまっている。男たちは〈斧〉を振るって大木を伐採し、森の住人たちとバトルを展開し、さらに森の奥の館にまで踏み行って、〈蟷螂〉主宰の魔術的秘儀に参加して〈処刑〉された。が、男たちはどういうわけか何事もなかったかのように小屋へと戻ってきた(斧を担いで出かけた親方以外は)。もしこの小屋に〈農婦〉が住んでいて、木こりたちを迎え入れていたのだとすれば、灯りの点いた〈四つ〉の窓に象徴されるように、まさにこの小屋は〈女性的なるもの、母なるもの〉を体現していたことになる。が、どういうわけか農婦の姿は見えない。

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載14)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載14

三つ葉のクローバーと緑色の〈透明石〉

――宮沢賢治作『ポラーノの広場』との関連において――


 このシーンがアップされたとき、わたしの脳裏に思い浮かんだのは宮沢賢治の長編童話『ポラーノの広場』であった。この童話に関しては拙著『宮沢賢治・童話の謎――「ポラーノの広場」をめぐって』(一九九三年五月 鳥影社)で詳細に解読しているが、ここでは簡単に振り返っておこう。

 主人公の名前はレオーノキューストである。わたしはこの名前をレオのキリストと読み解いた。レオは宮沢賢治が深く影響を受けたロシアの作家トルストイの名前〈レフ=Лев=ライオン〉である。宮沢賢治が主人公の名前に〈トルストイのキリスト〉を当てはめていたというのがわたしの見解である。タイトルの「ポラーノの広場」はトルストイが生まれ育った〈ヤースナヤ・ポリャーナ=Ясная Поляна〉〉に由来すると見た。〈ヤースナヤ=Ясная〉は〈Ясный〉(光る。清澄な。晴れた。明らかな)の女性形であり、〈ポリャーナ=Пляна〉は〈森林中・森辺の小草原〉を意味する。つまりトルストイの生地ヤースナヤ・ポリャーナは森の中に開かれた明るい野原ということになる。

 主人公レオーノキューストと若い農夫であるファゼーロとミーロが目指すのは〈ポラーノの広場〉というユートピア空間である。さて、そこに至るためにはどうしたらいいのか。宮沢賢治のアイデアは独創的である。つめくさの花(クローバー)を上から見ると数字に見える。この花の番号を追って〈五千〉のところにユートピアが存在するという設定である。作中には花の番号〈1256〉〈17058〉〈3426〉〈3866〉〈5000〉〈2556〉〈2300〉が記されているが、これらの数字を数秘術的減算すると〈3〉〈6〉〈9〉〈5〉のいずれかになる。すでに指摘したように〈3〉はキリストが十字架につけられた時(午前九時)、〈6〉は正午、〈9〉はキリストが十字架上で息を引き取った時を示している。〈5〉は〈キリスト〉〈十字架〉そのものを意味している。

 レオーノキューストたちはすでに〈5〉の地点(〈たった一つのあかし〉=キリスト)に立っているが、彼らはそのことを認識することはできなかった。彼らが目指すユートピアとしての〈ポラーノの広場〉は彼らが立っている《今、ここ》にある。しかし、未だ彼らは理想郷としての〈ポラーノの広場〉は《ここではない、どこか》にあると思っていた。詳細は拙著にまかせるとして、アニメ『TOM THUMB』に戻ろう。


 三つ葉のクローバーは蟷螂の顔を連想させる。次にウサギの脚先は〈三〉に分かれており、二本で〈六〉、次いで〈透明石〉を拾い上げる前脚が画面に現れ、計〈九〉となる。見事に〈3〉〈6〉〈9〉の揃い踏みとなる。これを『ポラーノの広場』の〈3〉〈6〉〈9〉〈5〉に重ね合わせると、中央に置かれた緑の〈透明石〉が〈たった一つのあかし=キリスト〉(5)にも見えてくる。アニメ『TOM THUMB』において〈キリスト〉のイメージは薄いが、この〈透明石〉が霊的、魔術的な力を備えていたことは確かである。



 アニメ『TOM THUMB』を『ポラーノの広場』に関連づけて見ると、木こりたちが森辺の草原で野苺を摘んで食べたり、身を横たえて眠りについたりする場面が蘇ってくる。ここで木こりたち(ここに親方は存在しない)は母性的な大地に安心して身をまかせ、幼児のごとく眠りについている。しかし、彼らは目覚めなければならない。


 春の温暖はたちまち冬の厳寒に変わる。草原には雪が降りしきり、木こりたちは寒さに震えて起きあがり、再び森へと踏み込んでいかなければならない。彼らにとっての〈ポラーノの広場〉は永遠の憩いを保証しない。(因みに、ここで朝から晩までの時間が、春から冬への時間へと変容している。アニメ世界において時間と空間は物理的時空から解放され、変幻自在に変容する)。

 レオーノキューストたちにとっては理想としての〈ポラーノの広場〉にたどり着くという目的があったが、木こりたちにとってはそういった明確な目的は与えられていたのであろうか。彼らは当初、まるで奴隷のように〈斧〉を担いだ親方の後に従って森の中に踏み込み、大木の伐採に従事していた。やがて木こりたちは森の動物たちと壮絶なバトルを繰り広げ、団子状に丸め籠められるが、この団子が砕け散って解放されると同時に、場面は変換する。

 突然、森の奥が開かれ、遠く雪原の果てに〈六〉の明かりが灯った館が現れる(館の扉は〈八〉に区切られているが、灯りが点いているのは〈六〉)。この〈七人〉の女たちが住む館で、〈蟷螂〉主宰の祈祷式と晩餐式が挙行されたわけだが、この館が、〈ポラーノの広場〉に匹敵する〈ユートピア空間〉と同じような性格が賦与されていたのだろうか。

 何度観返してみても、この女の館が〈理想郷〉とは思えない。館は〈呪術師=蟷螂〉による不気味な祈祷によって眩暈的、魔術的な空間と化し、第二次晩餐式では、その場にいたすべての者たちが死の淵へと呑み込まれていった。呑み込んだ〈魔術師=蟷螂〉は死の館を飛び出し、巨大な〈影法師〉となって空中を飛翔し、やがて彼もまた電線につかまり、感電死を遂げることになる。このアニメにおいて〈ひとつのあかし〉が愛と赦しのキリストと重なることはなかった。

 バケツを被った一本脚の案山子は十字架上で息を引き取ったキリストを連想させないわけではないが、カラスに左腕の藁をつつき出されているこの〈キリスト〉に再臨のイメージを抱くことはほとんど不可能に近い。

 

清水正著『宮沢賢治・童話の謎――「ポラーノの広場」をめぐって』(一九九三年五月 鳥影社)

清水正著『ミステリーゾーン 謎がいっぱいケンジ童話劇場』 2001年3月 鳥影社

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載13)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載13

 本編批評でTOMの〈六〉〈八〉〈九〉の象徴的意味に関して『罪と罰』の主人公ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフに関連づけて言及したが、ここではもう一度、特に〈六〉に関して考察してみることにする。

 ロジオンは〈人殺し〉を意味する数字〈二〉に導かれて庭番小屋の〈斧〉を手に入れ、その〈斧〉で二人の女を殺害する。最初の老婆アリョーナ殺しは計画通りであったが、二番目のリザヴェータ殺しは予期せぬ出来事であった。しかしリザヴェータ殺しは作者ドストエフスキーが予め仕掛けていた犯行であった。ロジオンは犯行の前日の夕方、センナヤ広場で町人夫婦とリザヴェータの会話を耳にして、リザヴェータが翌日の晩〈七〉時に不在であると思い込んでしまう。しかし、リザヴェータは老婆アリョーナが殺された後に帰って来る。ロジオンは目撃者リザヴェータの頭上に〈斧〉を振り下ろし、彼女をも殺害してしまう。この二番目の犯行はロジオンが犯行前に呟いていた「本当に俺はアレをやるのだろうか?」(Разве я способен на это?)の〈アレ〉(原典ではэтоがイタリック体になっている)に繋がっている。ロジオンの〈アレ〉は単にがめつい高利貸しのアリョーナ婆さんを殺すことではなく、〈皇帝殺し〉をも意味していた。

 ロジオンのフルネームのイニシャル〈РРР〉を下から上に返すと〈666〉になり、これは悪魔を意味する。ところでTOMはどうであろうか。TOMは木こりの後について森へ向かうが、その時〈斧〉を所持していない。〈斧〉を持っているのは親方だけである。しかし森の中では親方以外の者たちも〈斧〉を手に大木を伐採していた。また、森の動物(シカ、クマ、オオトカゲ、ハサミ鳥)たちと壮絶なバトルを展開する時には、殺しの道具として〈斧〉を使っていた。ところで記憶に間違いがなければ、バトルの時にすでに親方は姿を消していた。壮絶な戦いを繰り広げた連中が団子状に丸められた時にも、そこに髭もじゃの親方の顔を発見することはできない。〈双頭の鷲〉の徽章を付けた親方はどこに行ったのか。

 TOMが女の館に着いた時、七人の女たちは勢ぞろいして彼を迎え、TOMめがけてボールを投げつける。ボールは〈六〉色にデザインされている。TOMはそのボールを両手(八本の指)でしっかりとつかむ。このシーンはアップでとらえられている。つまりTOMは〈悪魔のボール〉(六)を受け入れた〈第八番目の神〉として館へ入ることが許されたということである。


 TOMが〈6=悪魔〉でもあることを確認した上で、再び森の中のバトルの場面に戻れば、TOMが〈斧〉で〈親方=皇帝〉を殺していた可能性もあることになる。いよいよとんでもない謎解きになってきたが、このアニメは『罪と罰』における数字の象徴性と重なるところがいくつかある。

 羅針盤の針が東西を指して、画面一杯にアップされるシーンがある。人物たちは最初、画面左から右へと移動していた。つまり西から東へと移動していたことを示している。次に、この東西を示す針を時計の文字盤に重ねれば、〈西=9=3(古代ユダヤの時の数え方)〉、〈東=3=9(古代ユダヤの時の数え方)となる。ここでユダヤ人の時の数え方を優先し、木こりたちやTOMや〈巡礼者=蟷螂〉たちの移動を時計回りに重ねてみると、彼らは〈3〉から〈9〉へと動いていたことになる。〈3〉はキリストが十字架につけられた時(午前九時)を意味し、〈6〉は六時間後の正午、〈9〉はキリストが十字架上で息を引き取った時(午後三時)を意味する(因みに、〈6〉時から〈9〉時までの三時間、地は闇に覆われている)。


 


 女の館で、女が左手でラジオの針を七時五分の位置から水平に合わせるシーンがある。長針をロジオン、短針をアリョーナ婆さんと見、〈5〉をロジオンの屋根裏部屋、〈7〉をアリョーナ婆さんの住むアパートと見なして時計を七時五分から進めて長針が短針に重なった時(老婆殺害時間)を見ると七時三十八分である。この殺害時間を数秘術的減算すると〈9〉となる。ロジオンの住む〈5〉からアリョーナ婆さんの住む〈7〉までの距離は七三〇歩で、この数字を数秘術的減算すると〈1〉となる。

 西から東への移動を〈3〉から〈9〉への移動と見ると、キリストの六時間の受難の時と重なる。アニメ『TOM THUMB』においてこのことが予め認識されていたかどうかは不明だが、〈蟷螂〉の巡礼、祈祷、晩餐に続く飛翔と感電死をキリストの受難と十字架上の死、そして三日後の復活と重ねて見るのも面白い。〈蟷螂〉に愛と赦しのキリストを見いだすことはできないが、霊的なものの神聖と邪悪の融合した姿を見ることはできる。


 さて、ロジオンとTOMの決定的な違いは、ロジオンに〈斧〉を使っての〈踏み越え=преступление〉(〈老婆殺害〉〈皇帝殺し〉〈復活〉)の目論見が設定されていたが、TOMにあっては〈踏み越え〉(〈親方=皇帝〉殺し)の計画を見ることはできない。TOMは木こりの親方の後ろに従って森の中へと踏み込み、そこで木こりとしての仕事に励むだけである。〈斧〉は大木を伐採することに使われており、後にバトルの場面では動物を殺す武器としても使われるが、その〈斧〉が親方に向けられることはなかった。〈親方=皇帝〉が〈巡礼者=祈祷師=蟷螂〉と融合したとしても、TOMがこの〈蟷螂〉と正面きって戦うことはなかった。

 晩餐式でテーブルの下に隠れていたTOMは、〈蟷螂〉に発見され、直ちにつまみ出され、天井から吊されている。〈蟷螂〉を前にして〈TOM=6〉は余りにも無力である。〈蟷螂〉が館から巨大な影法師となって帰還の途を急ぐ時にも、TOMは〈蟷螂〉から逃れるべく必死になって森の中を走っている。〈蟷螂〉は十字架のような電信柱の上を何度も跨ぎ越え、そして感電して果てる。


 〈蟷螂〉を倒したのは、言うまでもなくTOMではなかった。TOMはこのアニメにおいて〈親方=皇帝〉〈巡礼者=祈祷師=晩餐の主宰者=蟷螂〉を殺す力を与えられていない。TOMは世界の創造主、第八番目の神として登場しながら、実質的には〈従う者〉、〈冒険者〉、〈視る者〉に留まっている。

 TOMはいったい何を視たのか。TOMはアニメ『TOM THUMB』で映像化されたすべての世界を視ている。TOMが左目に当てた緑と赤の〈透明石〉を、われわれ視聴者もまた自らの左目に当てて世界を視る必要があろう。この〈透明石〉は〈蟷螂の目〉〈鶏の目〉、そして世界全般を見通す〈一つ目〉と重なっている。この目に、キリストが、神が、悪魔が、自然がどのように映るか。

 アニメ『TOM THUMB』の作者が視た以上の世界が視えますか? 最後のシーンは、作者からの挑戦のメッセージがこめられている。今、自然を問い、神を問い、人間を問うて深く絶望している者に、どんな希望の光も見いだすことはできない。虚無の風が吹き荒れている。教会堂の鐘の音は繰り返し繰り返し鳴り響いているのに、その鐘を揺り動かしているのは虚無の風でしかない。〈蟷螂〉の抜け殻の外套に水仙の花が咲き乱れ、最後に〈トナカイ〉が通り過ぎても、〈キリストの再臨〉という幻想に心奪われることはない。すべての事象が自然の摂理に従って絶え間なく生成流動している世界が視えるだけである。

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載12)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載12

〈双頭の鷲〉の紋章をめぐって


 最初の方に小屋から出てきた男が切り株に刺さった〈斧〉を担いでいくシーンがある。この男は木こりの親方のように見える。彼の後に続く六人の男たち、そしてさらにその後にTOMがついた。この時点で〈斧〉を所持しているのは先頭の男だけだが、森の中に入った彼らは〈斧〉を使って大木を伐採する仕事をしている。伐採された大木は鋸で切られたりして製材所に送られ、やがて電信柱として利用される。〈斧〉は森の中の大木を伐採(殺す)する道具であるが、この伐採は人間の文明の発展にも寄与している。


 本編では〈殺し〉の象徴としての数字〈2〉に言及したが、この数字は同時に和解、調和の象徴的意味も担っている。伐採された大木を二人一組で鋸で切る場面は〈2〉の両義性を端的に示している。切られた丸太は次々に積まれていくが、その年輪を露わにした丸太は文字通り〈丸〉であり、これは調和、全を意味している。

 文明を発展させるためには森の木々を伐採しなければならない。破壊の中に発展があり、発展の中に破壊がある。その両義性を遺憾なく発揮していたのが〈斧〉である。やがてこの〈斧〉は森の中に住む動物たちにも向けられ、壮絶なバトルにおける有力な武器となっている。戦いは、結局すべての人物たちを団子状に呑み込んで幕を下ろすが、先にも指摘したように、このアニメの世界では死者は当然の如く復活し、さらなる舞台で再び三たび活躍することになる。

 ところで、終幕近く、様々な冒険を経て小屋に帰還した木こりたちの姿が映し出されるが、この場面において木こりの親方の姿が見えない。と言うよりか、その存在が曖昧に処理されている。つまり視聴者は親方が帰還したのかどうかを確認することができないのである。森の中では率先して伐採の任務をはたしていた親方が謂わば行方不明なのである。このことをどう理解したらいいのだろうか。


 森の奥が開かれ、彼方に女の館がその姿を現した時、それを森から眺めていたのは四人の木こりで、その中にTOMや親方は含まれていなかった。女の館を最初に訪ねて受け入れられたのはTOMであり、その後に〈巡礼者=蟷螂〉が訪れている。蟷螂による祈祷・晩餐式に出席しているのは木こり集団のなかではTOMだけである。後に六芒星のようなものが回転した後の第二次晩餐会で木こりたちも登場しているが、そこにも親方の姿は見えない。いつの間にか親方は、その姿を消しているのである。が、よほど注意深く映像を追っていかないと、視聴者はそのことにさえ気づかないことになる。親方は殺されたのか、それとも。


 親方の正面をアップでとらえた場面がある。よく見るとこの男の左胸に〈双頭の鷲〉の徽章が付いている。〈双頭の鷲〉はロシア帝国の象徴でもある。つまり木こりの親方は地上世界の絶対専制君主としてのロシア皇帝をも象徴しており、彼が肩に担いだ〈斧〉は皇帝が持つ王笏の意味をも担っている。要するに彼は単なる木こりの親方ではなく、神に匹敵する地上の王でもあったというわけだ。


 そこで改めて気になるのが、〈巡礼者=蟷螂〉が切り株に刺された〈斧〉の傍らを通り過ぎる場面である。もしかしたら、この時点で木こりの親方は〈蟷螂〉に同化したのかもしれない。霊的存在である蟷螂は皇帝をも呑み込んで、女の館に向かって急いでいたとも受け取れるのである。

 すでに何度も指摘しているように、このアニメには至る所に謎が仕掛けられている。第二次晩餐の後に、〈主宰者=蟷螂〉の抜け殻が映し出されるが、この抜け殻の頭部にはバケツが被されている。バケツは最初、農婦が収穫物を入れるためのものとして描かれている。次にバケツは案山子の頭に被さっており、案山子の脅しに屈しないカラスはその左腕の藁を執拗につついている。やがてカラスはその中から紐のついたブローチのようなものを嘴にくわえる。いったいこれは何なのか。これはTOMが手にした透明石と同じような霊験あらたかなものなのであろうか。この様子を遠くから見届け、吹き矢のようなものでカラスを追い払ったのがTOMである。

 紋章とバケツ繋がりで見ると、親方は蟷螂やウサギやTOMと同様の人智を超えた霊的能力を授けられたもののように見える。

 

 女の館で祈祷式の席についた男が外套を脱ぐ場面がある。その外套のボタンをよく見ると、そこには〈斧〉がデザインされている。ここで晩餐の主宰者〈蟷螂〉が木こりの親方(斧=皇帝)と融合した存在であったことが暗示されている。


 そこでもう一度、バケツを頭に被った案山子に注意してみると、なんと案山子の左肩に〈鷲〉を描いたワッペンが張り付いている。つまり〈バケツを被った案山子〉は〈斧を担いだ木こりの親方〉や〈蟷螂〉と象徴的次元で繋がっていたことになる。


 さらにバケツにこだわれば、ウサギもまた第二次晩餐の席でバケツを被っていた。このウサギは緑色の〈透明石〉をつぶれた左目にあてがったりするが、その時の右目は〈双頭の鷲〉がデザインされたコイン状のものとなっている。このウサギもまた〈案山子〉〈斧を担いだ親方〉〈蟷螂〉と同様、人智を超えた霊的な存在として登場していたことになる。

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載11)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載11

シカが横切る最後のシーン

───クリスマスの日に───


 TOMは小屋にたどり着くと、家の窓から外の世界を覗き見る。ドラマはここで幕を下ろしてもいい。が、幕は降りない。アニメは、灯りのついた小屋の前をシカが通り過ぎていくシーンで終えている。

 このシカを〈トナカイ〉と見なせば、一挙にこの最後のシーンは象徴的な意味を担うことになる。〈トナカイ〉はサンタクロースを乗せた橇を引いている。アニメには窓の前を通過する〈トナカイ〉の頭部しか描かれていないが、少し想像力を働かせれば、橇に乗ったサンタクロースの姿が浮かび出てくるだろう。

 今まで、アニメ『TOM THUMB』の世界では動植物の〈殺すか殺されるか〉の凄まじい闘争の場面が繰り返し描かれていた。TOMはアニメの主人公にふさわしく、何度死んでも蘇ってくるが、世界を凝視し続ける〈一つ目〉は冷徹に闘争の絶えない現実の諸相を捕らえていた。芋虫は鶏に捕食され、蝉は蜘蛛に捕食され、鶏は人間に調理され、人間同士は性懲りもなく戦争で命を奪い合っている。


 TOMがトロッコに乗って森に向かう途中、教会堂の墓地の前を通るシーンがある。墓場から蘇った骸骨は銃をかまえて銃弾を発している。人間は一度死んで蘇ってすら戦いをやめないのである。人道や民主主義や世界平和を素朴に願っている者たちにとっては認め難い人間認識の発露である。見ようによってはキリスト教の教義の根本であるキリストの再臨や最後の審判そのものを徹底的にパロディ化しているとも言えよう。


 二十一世紀の黙示録者は、宗教的な次元におけるいっさいの希望を断念しているかのようだ。しかし、この黙示録者が最後のシーンにおいて〈トナカイ〉を登場させていることは改めて注目しなければならない。振り返れば、TOMの親指と人差し指につかまれ、TOMの箱庭(世界)に最初に置かれたのは〈トナカイ〉であった。〈トナカイ〉は蟷螂の残骸(外套)に花開いた〈水仙〉と同様、世界壊滅後の再生を予告するものとして設定されていたと言えよう。

 が、この〈トナカイ〉はそもそもオモチャであり、藁で作られたような人工物であったことを忘れないならば、現代における〈再生〉〈希望〉は途方もなく絶望の淵に佇んだままとも言えよう。

 今日は二〇二十三年十二月二十五日クリスマスの日である。クリスマスは言うまでもなくキリストの降誕を祝う日である。「神は死んだ」と宣告したニーチェが死んで百年以上たった今日においても、世界は依然として〈神〉を信じる者たち同士で殺し合いをしている。もし、本当にキリストが再臨したとして、この殺し合いを止めることなど可能なのであろうか。

 鐘が鳴り響く教会堂の内部は死に神コウモリの巣窟になっていた。第八番目の神TOMは〈呪術師=蟷螂〉に捕らえられ、空中に吊り下げられていた。アニメ全般にわたって教会堂が祈りと救いの神聖な場として描かれてはいなかった。まずは絶望と諦念の椅子にじっくりと腰を据えて世界をとらえ返さなければなるまい。

 本編でチッブリン映画(『モダン・タイムス』『ゴールド・ラッシュ』)を連想させるシーンについて少しばかり触れたが、ここでは『独裁者』における独裁者ヒンケルと間違われた床屋(チャップリン)の演説に耳を傾けたい。

 「私は皇帝になんかなりたくない。それは私の仕事ではありません。私は、誰のことをも支配したり征服したりなんかしたくないのです。できるならすべての人を助けたい。ユダヤ人でも、それ以外の宗教の人でも。黒人でも白人でも。私たちは、みんな、お互いに助け合いたいと思っています。人間とは、そういうものなんだ。私たちは、他人の幸福と隣り合わせに生きたいのだ。他人の不幸と隣り合わせにではなく。私たちはお互いに憎んだり、さげすんだりしたいとは思っていない。この世界には、すべての人の場所があるのだ。この大地は豊かで、すべての人の場所があるのだ。この大地は豊かで、すべての人を養うことができる。人生とは自由で美しくあってほしいものなのに、私たちは、そうした生き方を失くしてしまった。」(引用は宇田川幸洋に拠る)

 映画の中で聴衆は熱狂的に拍手する。が、今、この演説を聴いてどれほどの人間が感動し拍手を送るのだろうか。『独裁者』は第二次大戦中の一九四〇年に制作された。それから今日に至るまで床屋の感動的な演説も空しく、第一次中東戦争(一九四八年~一九四九年)、ベトナム戦争(一九五五年~一九七五年)、第二次中東戦争(一九五六年)、第三時中東戦争(一九六七年)、第四次中東戦争(一九七三年)、イラン・イラク戦争(一九八〇~一九八八年)、イラク戦争(二〇〇三年~二〇一一年)……と人類は性懲りもなく戦争を続けている。独裁者ヒンケルと平和主義者の床屋の二役を演じたチャップリンは、おそらく人間の度し難さを知っていたに違いない。床屋の演説に熱狂的な拍手を送る人間たちが、同じく独裁者ヒンケルの演説にも熱狂的な拍手を送るのだ。精神の自由を願い、争いを憎む人間が、それにもかかわらず戦争を支持したりするのだ。キリストの「殺すなかれ」が守られたためしはないのだ。ウクライナ・ロシア戦争とハマスイスラエル戦争がその厳然たる証である。

 床屋の演説は最後に愛するハンナに向けて発せられる。

 「ハンナ、聞こえてるかい? 君が今どこにいようと、顔を上げなさい! 見上げるんだよ、ハンナ! 雲が晴れて行くよ! 太陽が顔を出し始めた! 私たちは暗闇から抜け出て、光に辿り着こうとしている! 私たちは新しい世界に入ろうとしているのだ。人々が、貪欲や憎しみや獣性をのり超えて、もっとやさしくなれる世界に。見上げなさい、ハンナ! 人間の魂には翼が与えられていたが、ついに、それが飛び立ち始めているのだ。人間の魂は、虹に向かって飛んでいる。希望の光に向かって、未来に向かって、あなたのものであり、私のものであり、そして私たちみんなのものである。栄光に輝く未来に向かって飛んでいるのだ。見上げなさい、ハンナ! 見上げなさい!」

 

 見上げたその両目に希望の〈虹〉は映るだろう。が、わたしたちはすでに知り尽くしている。〈栄光に輝く未来〉が幻想でしかないことを。希望の太陽は確かに昇るだろう。しかしその太陽も沈み、再び世界は暗闇に覆われるのだ。これが厳然たる自然の摂理である。自由と平等という対立概念を臆面もなく前面に押し出し、人類に善と正義を約束した革命家も床屋以上の美辞麗句を口に出し続けた。

 わたしたちは今、どういう顔をして空を見上げたらいいのだろうか。目的が正しければあらゆる手段が許されているという革命家の論理によって、独裁者スターリンポル・ポトが誕生した。美しい言葉(〈希望の光〉〈栄光に輝く未来〉)には要注意なのだ。

 革命の根源的問題に関しては「ドストエフスキーの『悪霊』は必読書である。少なくとも『悪霊』を読んだ後に、ここで〈希望の光〉に満ち溢れていると言われた大空を見上げるべきであろう。大空には希望の光を体現する天使も舞っているが、同時に悪魔もその翼を思い切り広げて宙を舞っているのである。鐘が絶え間なく鳴り続ける教会堂の中から、無数の蝙蝠が飛び立ってくるシーンを忘れてはならないのである。

 アニメ『TOM THUMB』の作者は安易な一義的な〈希望の光〉を提示してはいない。わたしは再び、三度、灯りのついた小屋の前を〈シカ〉が通過していく最終シーンの前に佇むほかはない。

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載10)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載10


 このアニメは様々な暗喩に富んだ、豊穣な世界を造りあげている。批評家の解読欲、わたしの場合はテキストの解体と再構築ということになるが、この〈二十一世紀の黙示録〉とも呼ぶべきアニメに関しては限りなく想像・創造力が刺激される。

 今、世界はロシア・ウクライ戦争、イスラエルハマス戦争の真っ最中である。人類が発明したヒューマニズムはその無力を晒し続けている。一神教の神(ユダヤ教キリスト教イスラム教)は各々、異教徒の殲滅を命じている。今、〈愛と赦し〉を説くキリストの言葉にどれほどの力があるのか。今、上着を剥がれて、下着を差し出すキリスト者がどこにいるのか。今、右の頬を打たれて、左の頬を向けるキリスト者がどこにいるのか。善と正義の神が、同時に邪悪な悪魔のような貌を見せて、お互いに殺し合っている。

 〈斧〉で二人の女を殺したロジオン・ラスコーリニコフは凡人と非凡人との永遠に続くかに見える戦いも「新しきエルサムの来現まで」(до Нового Иерусалима, )と断言した。ロジオンという分裂した精神の〈思弁家〉(диалектик〉、神の掟を破って二人の女を殺した背教者が、〈新しきエルサレムの来現〉を信じているところに『罪と罰』の一筋縄ではいかない信仰上の問題が潜んでいる。ユダヤ教キリスト教イスラム教といった一神教を信じていない者にとっては〈新しきエルサレム〉という言葉に衝撃を受けることはないが、しかし神の命令に従って敵の殲滅をはかって戦い続けている者たちにとっては、これはきわめてリアルな言葉として受け止められるのだろう。

 わたしは、アニメ『TOM THUMB』を観て、原初的なアニミズム多神教的な自然崇拝)と一神教的な信仰の融合した世界を感じ続けたが、わたしがこの作品に牽かれたのは、多義的な意味のせめぎ合いにあったのかも知れない。TOMと〈蟷螂〉に体現された神的な絶対性は不断に相対化の作用に晒されており、そこに視聴者は目眩くダイナミズムを感じる。ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のドミートリの言葉で言えば「神と悪魔の永遠の戦場」である広大な心の内なる世界を見せられたということである。

 このアニメは聖書、ドストエフスキー宮沢賢治の文学などに通底する深遠広大な世界を内包しており、時代を超えた永遠性を獲得した作品と言えるだろう。

 わたしは今回、批評衝動に駆られるままに、かなり自在に思うがままに書き進めてきたが、繰り返し観ているとそのつど新しい謎が浮上してくる。批評本編は今回で幕を下ろすが、書き足りなかった点に関しては「アニメ『TOM THUMB』の画像解読」として何回か連載したいと考えている。