清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載20


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載20

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

ジョージとロジオン
――革命家と殺人者――

 

 ドストエフスキーの作品に登場する人物のうちで、最もジョージに近い存在は虚無の権化と言われたニコライ・スタヴローギンではなく、通俗次元では〈ニコライの猿〉とも揶揄されたピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーであろう。真逆に位置するのはロジオン・ロマーノヴィチである。ロジオンは小説の出だしから思い惑っていた青年で、作者ははっきりと書いていないが、この青年が〈革命か神か〉で深く思い惑っていたことに間違いはない。問題はロジオンが思い惑いながらも、しかし神の世界へと続く〈橋〉へと向かっていたことである。ロジオンは作者によって復活の曙光に輝く運命をあらかじめ賦与された存在で、昨中で最も明敏聡明なポルフィーリイ予審判事ですら作者の思惑にとりこまれている。彼は作者の意図を越えてロジオンにきわどい質問をするようなことはしない。彼は雑誌に発表されたロジオンの「犯罪に関する論文」を読んだ時に、内容もさることながら、名前のイニシャル(РРР)に注意を払ったに違いない。彼は、そのまま上にひっくり返せば666という悪魔の数字になる著者が、論文を発表するだけの机上の理論家におさまるとは思っていなかった。彼は、ロジオン以上にロジオンのことが分かっている予審判事である。彼はロジオンに向かって「あなたは『おれにアレができるだろうか?』と思ったとき、老いぼれた高利貸しの代わりに皇帝を思い浮かべていたのではないですか」とか、「もし殺害現場を目撃したのがリザヴェータではなく、母親ブリヘーリヤであったら、あなたはそれでも彼女の頭上に斧を振り下ろすことができましたか?」などとは絶対に訊かない。
 ロジオンとポルフィーリイ予審判事のやりとりは、はるかに穏やかで抽象的な、いわば時の権力を十分に考慮した次元で展開されている。ポルフィーリイはロジオンの犯罪理論を「非凡人にはすべてが許されている」とまとめてみせる。即座にロジオンは反応する。論文を雑誌に投稿したことすら失念していたロジオンは、そんな論文は発表することすら許されなかっただろうと言い、自分がそこで主張したのは「非凡人は良心に照らしてて血を流すことがゆるされている」ということだと訂正する。注意すべきは「発表すら許されない」という言葉である。厳しい検閲制度下にあって、当時の小説家たちが自らの作品創造に際して検閲官の目を意識しないはずはない。ましてやドストエフスキーはゴーゴリ宛のベリンスキーの手紙をペトラシェフスキーの会で読み上げただけの罪で、ニコライ一世がたわむれに仕掛けた死刑執行劇を体験させられたあげく、八年のシベリヤ流刑を宣告された元政治犯であり職業作家である。こういった過去を持つ作家が小説の内容に細心の注意を払うのは当然である。
 ドストエフスキーはシベリアで転向した作家だと見なされているが、青春期に革命思想に熱狂的に沈潜した作家がそうそう簡単に自らの血肉化した思想を捨て去ることなどできはしない。ロジオンの内にはロシアの最新思想にかぶれていたレベジャートニコフなど歯牙にもかけない過激な革命思想が潜んでいたと見てまちがいはない。が、『罪と罰』の読者は百年以上にわたってロジオンの〈アレ〉=〈老婆アリョーナ殺し〉と見なして、それが〈皇帝殺し〉を内在させていたことを看破できなかった。
 ロシアの後進性の元凶は皇帝専制政治にあるなどという考えは、一八六〇年代の学生(知識人)にとってごく常識的なことであった。一八六二年にリャザン県ザライスクの田舎から単身ペテルブルクに上京して大学へ入学したロジオンが、そういった急進的、革命思想の嵐に巻き込まれなかったはずもない。しかし、見てのとおり、ロジオンの周りには革命思想を抱き、革命運動に身を投ずるような学友は一人も存在しない。読者に知らされるのは、ロジオンが下宿の娘ナタリヤと婚約しただの、その娘はウロート(不具)で一年半前に当時流行っていた腸チフスにかかって死んでしまっただの、前には家庭教師などの仕事もしていたが、今は大学もやめて、屋根裏部屋で無為の暮らしをしているなどという、そういった身辺雑記風のことだけである。
 ロジオンが考えていた非凡人思想や犯罪に関する思想は、彼の内で密かに成熟していったが、そのプロセスにおいてただ一人の友人との対話もない。どんなに孤独な、協調性のない青年でも、一人ぐらいは自らのうちで生育してきた思想を吐露する友はいるものだ。なぜ、ロジオンには思想や文学や芸術を語り合う友人が存在しないのか。これはロジオンの性格に帰するよりは、作者の側の都合に帰した方が納得がいく。もし、ロジオンが「犯罪に関する論文」に関して他の者たちと対話するようなことになれば、〈アレ〉を〈老婆アリョーナ殺し〉にだけおさめることはとうてい不可能であったろう。〈アレ〉はやがて〈皇帝殺し〉へと導かれて行ったにちがいない。
 元政治犯の作家にすれば、どんな凡庸な読者にでも分かるような展開は回避しなければならない。が、かと言ってロジオンの頭にあるのが単に高利貸しのアリョーナ殺しだけに限定されても困る。そこで作者は「おれに老婆アリョーナが殺せるだろうか」とは書かずに、「おれにアレができるだろうか」と書いて、解釈の幅をもたせた。当時の検閲官が〈アレ〉を〈皇帝殺し〉と見なせば、それこそ『罪と罰』は発表自体が許されなかったかもしれない。検閲下に置かれた小説家の生々しい戦いの現場をかいま見せられる思いである。もしロジオンの前に、皇帝殺しを謀るテロリストが登場して、彼の〈アレ〉に揺さぶりをかければ、彼はたちまち危険な淵に追いつめられることになる。
 作者はロジオンの前に穏健な革命思想家レベジャートニコフを立たせて、革命論議すらさせなかった。ロジオンの非凡人思想が作中で揶揄嘲笑されることはないが、ロシア最新思想の信奉者レベジャートニコフはその思想はもとより彼の存在自体が愚弄嘲笑の的となっている。『罪と罰』を読んでレベジャートニコフに魅力を感じる読者はおそらくいないだろう。彼はルージンよりはましな扱いを受けているが、殺人者ロジオンを凌駕する魅力を与えられることはなかった。作者がロシア最新思想の信奉者レベジャートニコフに付与したのは誰の目にもかなう魅力とは反対の性格である。
 『罪と罰』で最も魅力のある人物として描かれているのは二人の女の頭上に斧を打ち下ろす青年、しかもこの青年は自らの犯行になんの〈罪意識〉も覚えることはなかった。この価値が逆転した舞台で最も軽蔑されるのは、敏腕な実業家であり弁護士であるルージンである。この男ほど作中で、マンガチックに戯画化された悪党はいないだろう。『罪と罰』は少女マンガのような設定を臆面もなくほどこしているが、ルージンなどはギャグマンガの主人公の役割を十分に果たしている。
 ロジオンの母親と妹は、『罪と罰』の表層舞台の展開に充足する読者にとっては息子思い、兄思いの善良で純潔な女性に見えるだろうが、わたしの目にはこれほど罪深い、ロジオンを殺人へと追いつめていった張本人に見える。母のプリヘーリヤは二十三歳にもなった息子をロージャなどと愛称で呼びつづけ、この息子に没落したラスコーリニコフ家の再建を過剰に期待している。「おまえは私たちの杖だ、柱だ、がんばれ、頑張れ」と子供の頃から、重い荷物を背負わされている息子に安息の時はない。ロジオンがペテルブルクに上京すると、すぐにドイツ製の山高帽子などを購入して青年紳士を気取ってみたり、それほど好きでもなかった下宿の娘に手を出したりしたのも、母親の呪縛から解き放たれたいと願望した結果である。しかし、母親プリヘーリヤの異様な粘着力のある追い続けてくる〈愛の手〉を逃れることはできなかった。
 このどこまでも追いかけてくる母親と逃れようとする息子の文脈でロジオンの〈アレ〉を改めて考えれば、それは「おれは母親を殺すことができるだろうか?」となる。まさにロジオンは〈母親殺し〉をたくらんだ息子であった。が、彼は直接的に母親を殺すこともできなければ、その殺しの場面を明確にイメージすることもできなかった。ロジオンは〈母親殺し〉を実行するにあたって、ソーニャの存在を必要とした。地下の酒場でぐうぜん居合わせたマルメラードフの告白話を聞いたロジオンは、一家の犠牲となって娼婦に身を落としたソーニャの存在を聞き知って無意識の内に〈踏み越え〉を決意する。この時、ロジオンは家族との絆を断ち切り、ソーニヤと共に生きることを選んだと言える。ロジオンの意識は不断に思い惑う分裂のただ中にあるが、自分でも明晰に把捉できない領野においてはすでに一歩を踏み出している。
 ジョージにロジオンの思い惑いはみごとにない。ジョージは明確にテロリスト(террорист)であって、イニシャルに三つのрを含んだだけのロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(Родион・Романович・Раскольников)とはまったくその性格を異にする。
 ロジオンは自らの意識の分裂を統合することはできない。彼はポルフィーリイ予審判事に向かって神もラザロの復活も文字通りに信じていると口にして相手の度肝を抜いているが、しかし彼はラザロの復活の場面の朗読を要求されたソーニャに神を信じていない者と見なされている。ロジオンはポルフィーリイの前では神を信じると公言し、ソーニャの前では神を信じない者として立っている。不思議なことに、ロジオンはソーニャの言葉(神を信じていないひと)を拒まないし、この時、ポルフィーリイに向かって言った言葉(神を信じている)を思い出すこともない。作者もまた、改めて読者に注意を喚起させようともしない。その結果多くの読者は、ロジオンがポルフィーリイに向かって断言した「神とラザロの復活を文字通り信じている」という言葉そのものを忘れ去ってしまうのである。
 ロジオンは神を信じながら神に反逆する天の邪鬼である。彼は二人の女を殺して何の罪意識も覚えない青年でありながら、神を手放すことはない。彼は母親と妹との絆は断ち切っても、ソーニャという聖性を帯びた娼婦との絆を断ち切ることはできない。彼は同じく〈踏み越え〉た者としてソーニャを見ている。ソーニャを選んだことで、彼は自殺することもできない。彼は大きな一本の糸で〈復活の曙光〉の場面まで導かれている。  『罪と罰』を何度読んでも、ロジオンの卑劣は大きな幕に覆われている印象を拭い得ない。二人の女を殺しておきながら自分は蒼白い天使のような顔をしてペテルブルクを彷徨している、とはポルフィーリイ予審判事の言葉である。あいつは相当な悪党になる、とはスヴィドリガイロフの言葉である。にもかかわらず、ロジオンは多くの読者の心をとらえてはなさない。なぜか。一つは作者がロジオンの内面世界を丁寧に描写していること、一つはロジオンを徹底的に批判する人物を登場させなかったことにある。

 ソーニヤに冤罪事件を仕掛けたルージンはろくでなしだが、二人の女を殺しておきながらルージンの卑劣を責めるロジオンはさらなるろくでなしである。にもかかわらず大半の読者はロジオンを卑劣漢とは思わない。ロジオンは苦しんでいる。まるで全人類の苦悩を一身に背負っているかのように苦しんでいる。読者はロジオンのこの〈苦しみ〉を共に生きてしまうのかもしれない。かつてわたしもまたロジオンの苦しみに同化しながら作品を読みすすめた。ロジオンは作品世界の中の他者ではなく、紛れもなく自分自身であった。が、『罪と罰』を読み続けていると、どうしてもロジオンとわたし自身の違いを感じざるを得ない。ロジオンは実際にひとを殺したが、わたしは殺したことがない。ひとを殺したいと思うことはあっても、殺人へと駆り立てる決定的なものが欠けている。
 ロジオンは殺人後、ソーニャの前に跪拝して「ぼくはきみに頭を下げているんじゃない。ぼくは全人類の苦悩の前に頭を下げているんだ」〔Я не чебе поклонился, я всему страданию человескому поклонился,〕と言う。この言葉に胸を締め付けらるほどの感動を覚えた記憶がある。が、ある日、この同じ場面を読んで腹だたしくなった。全人類の苦悩の前にひれ伏す前に、おまえが殺した二人の女の苦悩の前にひざまずいたらどうだい、といった感じである。かつて二十歳前後の時には、ロジオンの言葉に心震わせたのに、今や同じその言葉がまるでギャグのように滑稽である。ロジオンは自分を〈キリスト〉とでも思っていたのだろうか。
 因みに『罪と罰』には自分を〈キリスト〉に擬したがる人物がほかにもいる。マルメラードフは地下の居酒屋で「おれははりつけに、十字架にはりつけされるのが相応で、気の毒がられる柄じゃないんだ!」とわめいているし、スヴィドリガイロフはソーニャに三千ルーブリの債券を与えて淫売稼業の泥沼から救い出すという〈奇蹟〉を起こしている。ソーニャなどは〈キリスト〉を擬しているというより、キリストの化身のような存在である。
 わたしは自意識過剰な人間には殺人などというだいそれたことは絶対にできないだろうと思っていた。ゆえに、わたしにとってリアリティのあるロジオンとは、絶対にひとを殺さない青年でなければならなかった。わたしにとって最もリアリティのあるのは、『罪と罰』全編を夢見たロジオンが屋根裏部屋で覚醒するような筋書きである。わたしは『罪と罰』を初めて読んでから今日に至る四十数年もの間、ロジオンと同じような殺人を想像したことすらない。第一、自分を非凡人と見なす若者が、最初の〈踏み越え〉に老いぼれた高利貸しを選ぶわけもない。
 ロジオンはルージンをしみったれた男と見なして軽蔑、憎悪しているが、彼自身のなしたこともまたルージン並にしみったれている。非凡人にせめてふさわしいのは〈皇帝殺し〉であって、〈老婆殺し〉であるわけはない。しかもロジオンは予測もしていなかった目撃者の出現によってうろたえ、さらなる殺人も犯してしまった。老婆アリョーナだけを密かに殺し、奪った金で起業し、成功したあかつきに恵まれない多くの人々に施す、そうすれば罪はあがなわれるのだとロジオンは考えた。しかし、ロジオンはこのとき、殺しの対象を老婆アリョーナ以外、だれ一人想定していなかった。彼が〈アレ〉を回避できない運命と感じたのは、センナヤ広場でアリョーナの腹違いの妹リザヴェータが明日の晩七時過ぎに家にいないと思いこんだことによる。彼はその時、リザヴェータが出かけずに家に残っているかもしれないとか、用事をすませて早く帰ってくるかもしれないとは考えなかった。彼は〈アレ〉をもはや逃れることのできない宿命と感じ、想像力を働かせることができなかった。
 ロジオンに次々と生ずる〈偶然〉はすべて〈必然〉へとつながっている。当初、殺人の道具に考えていた料理用の斧は、女中のナスターシャがいつものようにお使いにでかけないことで手に入れることができなかった。斧にこだわるロジオンは犯行をあきらめかかる。が、中庭にでてみると庭番小屋に光るものがある。近づくとたまたま庭番はいず、光っていたものは斧であった。こんな偶然はそうそう続くものではないが、ロジオンの場合は偶然はすべて必然へと結びついている。彼は庭番小屋の斧を誰にも見られずまんまと手に入れ、老婆宅へと急ぐ。……そうして老婆アリョーナの頭を斧でかち割ってしまう。
 いったい殺したのはロジオンなのか、それともロジオンは単なる或るなにものかによって操られているだけなのか。ロジオンの意志というより、或るなにものかが彼の意志を搾取してしまったかのように感じる。最初の犯行、ロジオンがアリョーナの頭に斧の峰を打ち下ろす場面は特にそれを感じる。ところが、目撃者リザヴェータを殺す場面、ここでは明らかにロジオンの明晰な意識のもとで斧の刃が振り下ろされている。
 犯罪の現場には絶対に現れるはずのなかったリザヴェータが出現したことの意味は大きい。ロジオンにとりあえず二つの道がある。ひとつはリザヴェータを置き去りにして逃げ出すこと、一つは現に小説で描かれたように第二の殺人である。前者を選んだ場合、殺人現場を目撃されたロジオンは即刻逮捕されることになっただろう。まさかリザヴェータが沈黙を守ることはないだろう。後者の場合、まずロジオンの「犯罪理論」が破綻、ないしは新たに注釈を加える必要が出てくるだろう。ロジオンは「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」と語った。ロジオンにとって高利貸しアリョーナは業突く張りな老婆で、生きていても害を与えるだけの社会のシラミであって、こんな者は殺しても何の良心もとがめられるものではないと踏んでいた。彼は臆面もなく「一つの犯罪は百の善行によってあがなわれる」と主張する。が、これはがめつい社会の害虫アリョーナ殺しには適用できるとしても、はたしてリザヴェータに適用できるのか、という点が問題である。ロジオンは犯行の対象はあらかじめ明確に定めていたが、目撃者をどうするかに関してはなんら考えていなかった。しかし、現に殺してしまったことが重要である。
 ロジオンはアリョーナ以外にも殺せる人間なのである。だからこそわたしは、ロジオンよ、おまえは目撃者が母親プリヘーリヤであっても、妹ドゥーニャであっても、ソーニャであっても……殺せたのかと問わずにはおれないのである。ネチャーエフは何の揺らぎもなく書く「革命家とは社会の絆であれ、家族の絆であれ、友人の絆であれ、彼を結びつける絆の一切を自ら断ち切る人間のことである」と。ロジオンはこんなことを少しも口にしていない。が、ロジオンが結果として二人の女を殺したことはこういったことを意味しているのだ。
 ロジオンは〈元学生〉〈一人の青年〉〈屋根裏部屋の空想家〉といったイメージで読まれている。『罪と罰』の読者でロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフを一人の〈革命家〉と見なした者はいない。作者がロジオンに託したのは〈アレ〉であり、この〈アレ〉こそが革命家の目指すものと重なる。ロジオンは『おれは自分の存在と結びつく一切の絆を断ち切ることができるだろうか?』と自問しても良かったのだ。
 ネチャーエフは続ける「どんな激しい感情が湧き起ろうと、それは革命というただひとつの目的に向けられる。彼はこのために、自己の利益、愛情、恋愛を犠牲にする」と。ロジオンは二人の女を殺害したことで、〈社会の絆〉〈家族の絆〉〈友人の絆〉を断ち切ることに成功した。が、ロジオンを革命家と見ることはできない。彼の〈踏み越え〉(преступление)はネチャーエフの言う〈革命というただひとつの目的〉に向けて踏み出されたものではなかった。ロジオンが最終的に目指していた〈踏み越え〉は〈復活〉(воскресенье)であった。だからこそロジオンは社会、家族、友人の絆を断ち切ってまで聖痴愚(ユロージヴァヤ=юродивая)ソーニャと共に生きる道を選んだのである。
 ジョージは「わたしが知っているのは、われわれがきのう殺したのなら、きょうも殺すし、あすも必ず殺すだろうということである」と書く。ここにはまったく揺らぎがない。ロジオンは殺す前も、殺した後も思い惑っている。苦しんでいる。しかもこの苦しみはアリョーナを殺したことによってでも、リザヴェータを殺したことによってでもない。強いて言えばロジオンは、自分が非凡人どころか、殺したアリョーナ以上にシラミのような存在であったことを発見して苦しんでいる。さらに言えば、〈踏み越え〉(преступление=殺人)はしたが、〈罪〉(грех)の意識に襲われないことに苦しんでいる。ソーニャが、このロジオンの〈苦しみ〉の内実をどこまで理解していたかは問うまい。ソーニャはロジオンの〈苦しみ〉(十字架)を共に背負っていく覚悟ができている、これだけは疑いようがない。
 ロジオンはアリョーナを〈殺し〉、続いてリザヴェータを〈殺し〉たが、おそらくこの二番目の殺しが最後の殺しとなったことであろう。もちろん、それは作者がロジオンをネチャーエフの言うような〈革命家〉としては設定していなかったことによる。ロジオンは目撃者リザヴェータをも殺すことができた青年であるから、作者側の保証(復活の曙光に輝くこと)がなければ、〈殺し〉続ける青年にもなりえたことを忘れてはならないだろう。恐ろしいのは人間なのだ。痩せ馬殺しの場面で激しく憐憫の情に駆られる幼年時代のロジオンが、やがて二人の女の頭を叩き割る青年に成長するのだ。さらに理不尽なのは、このロジオンが罪の意識に襲われることもなく、愛によって復活の曙光に輝くことだ。

以上「藝文攷」20号連載4(2015年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載19


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(連載19

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

連載19

テロリストの孤高な精神

 ロープシンの文章は詩的で、どこにも説明はない。こういったいさぎよい文章はどこから生まれてくるのか。内なる心の荒野に詩の泉が潜みかくれているのか。エレーナについて触れるロープシンのペンはロマンチストのそれだ。ペン先がロマンチックな憧憬に震えているのが伝わってくる。ロマンチストでなければテロリストの孤独を生きることはできないのか。現実をたくましく生きるリアリストにテロリストの孤高の精神を理解することはできない。日常をたくましく生きるとは俗にまみれて敗退しないことだ。要するに、生き延びようとする精神に孤高な精神は乖離し、同調しない。テロリストの詩的精神は散文家の卑怯で姑息な戦略を完璧に排除する。説明も弁解もない。決定的な変更不能の意志に生きる者のみがもつ孤高の泉から滴る水滴が言葉となって刻印される。研ぎ澄まされた感覚が外部の音や声を沁みいらせる。

  三月十四日
  わたしは自分の部屋にいる。階上で誰かが静かにピアノを鳴らしている。やわらかな絨毯をふむ音。(17)
  Я у себя в комнате. Наверху, надо мной, тихо звенит фортепьяно. Шаги тонут в мягком ковре.(11)

  こういった文章は状況を説明しているのではない。ジョージが部屋にいて、階上のピアノの音や、絨毯を踏む音を耳にしているというのではない。ジョージが〈いる〉(有)こと、ピアノの静かな音が聞こえて〈ある〉(有)こと、絨毯を踏む音が聞こえて〈ある〉(有)こと、――すなわちジョージという存在は〈ある〉(有)に溶けこんで〈ある〉(有)ということが表現されている。ジョージは限りなく存在の(有)にたたずんでいる。

  わたしは非合法生活にも、孤独にもなれてしまった。わたしは未来を知ろうとは思わない。過去のことは忘れるようにしている。わたしには故国も、名も、家族もない。わたしはひとりでつぶやく。(17)
    Я привык к нелегальной жизни. Привык к одиночеству. Я не хочу знать будущего. Я страюсь забыть о прошедшем. У меня нет родины, нет имени, нет семьи. Я говорю себе:(11) 

  ここでまず注目しておきたいのは「なれてしまった」〔привык〕という言葉だ。人間は何にでも慣れてしまうものだ、とは死の家を体験したドストエフスキーの言葉である。〈非合法生活〉と〈孤独〉に慣れてしまったジョージはそこからの脱出を望んでいない。彼はドストエフスキーの第二作品『分身』(двойник)の主人公ゴリャートキン氏のように頽落世界化した現存在ではない。ゴリャートキンは過去と未来から切断された〈今〉を生きる者、切迫した時性を生きる狂気に陥った者であったが、ジョージ・オブライエンはあくまでも冷徹な意識を保持する者である。彼は思い出したくもない不気味な過去に追われることもないし、一瞬先の未来が闇に覆われているわけでもない。ジョージは「未来を知ろうとは思わない」〔не хочу знать будущего.〕〈わたし〉〔Я〕が確固としている。ゴリャートキンの〈今〉は不安と恐怖に晒された恐るべき狂気の今の連続であるが、ジョージの〈今〉は自らの意志で未来と過去を打ち捨てた充足した孤高の今である。ジョージに「故国も、名も、家族もない」わけではない。テロリストになった〈わたし〉が故国も、名も、家族も打ち捨てただけである。
 『罪と罰』の主人公〈一人の青年〉〔один молодой человек〕には〈ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ〉〔Родион Романович Раскольников〕というれっきとした名前があった。ロジオンには母プリヘーリヤ、妹ドゥーニヤという家族があり、リャザン県ザライスクという故国ロシアの故郷がある。その意味でロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフという〈一人の青年〉は〈一人〉にはなれなかった。ロジオンは人殺しという〈踏み越え〉をなしてすら厳密な意味においては〈一人〉にはなれなかった。ロジオンはプリヘーリヤとドゥーニヤに〈さよなら〉〔прощайте〕するが、娼婦ソーニャと出会うことによって〈信仰〉による新たな家族の一員となるのである(ロジオンは母と妹に対してはいつも永遠の別れの思いを込めて〈прощайте〉と言っている。再会の意味を込めた〈さようなら〉の〈до свидания〉を使っていないことに注意)。ここがジョージ・オブライエンと決定的に違うところである。
  ロジオンは肉親との絆を断ち切るために老婆アリョーナを殺そうとはかったとも言える。彼は母親や妹を殺すことができなかった、その代わりにアリョーナとリザヴェータを殺した。肉親との絆を断ち切らなければ、彼はソーニャとの新しい関係の中へ踏み込んでいくことができなかった。
 ジョージは自分の過去を語らず、家族のことも語らない。彼はこの小説に登場したその時から、家族との縁を断ち切ったテロリストとして振る舞っている。彼が、どのようないきさつでテロリストになったのかを、彼の伝記をもとに探る途は閉ざされている。彼は故国も名も家族も喪失した孤独な〈ひとり〉者としての姿勢を崩さない。言い方を変えれば、彼はロジオンのように内的独白することを許されていないし、彼の内部に立ち入る他者や語り手の存在を認めない。彼は読者に最低限の情報を伝えることに充足している。
 ジョージには〈故国〉も〈名〉も〈家族〉もあるのだろうが、テロリストになったその時点でそれらを葬り去ったのであろう。葬り去るには葬り去るだけの理由があったに違いないが、彼は自らの過去を遡る道を完全に遮断し、なんびともその道に立ち入ることを禁じてしまった。

 

 Un grand sommeil noir            〔大きな黒い眠りが
 Tombe sur ma vie,                  私の生命に降りてくる
 Dormez,tout espoir,                眠れ、すべての希望よ
 Dormez,tout envie.                 眠れ、すべてのい羨望よ〕

 しかし希望は死にたえてはいない。なにへの希望か? 「暁の明星」にたいしてか? わたしが知っているのは、われわれがきのう殺したのなら、きょうも殺すし、あすも必ず殺すだろうということである。「第三の天使、その鉢を、河と水の源のうえに傾けたれば、そはみな血となれり」。そうだ、血は水によって流されもしなければ、火によって焼きつくされることもない。血とともにーー墓場へ。(18)

 

 ジョージの〈過去〉と〈未来〉を意志的に切断した〈今〉の有に〈大きな黒い眠り〉が降りてくる。彼はいつも死を念頭において生きている。過ぎ去った時を容赦なく葬り去り、来るべき未来の時を不断に無化しつつ、ひたすら死を抱きかかえて生きている。「眠れ、すべての希望よ」「眠れ、すべての羨望よ」これらの言葉は呪言のようにジョージの全存在を貫いていく。彼は過去を復帰(想起)させ、未だ来ぬ時を将に来るものとして受け止める、その散文的な生存を遺棄して、死と表裏一体の詩的生存に身を委ねている。彼に願望があるとすれば、それは〈眠り〉以外にはない。が、この眠りは安逸の眠り、母の乳房のあいだに顔をうずめて安らぐ赤子の眠りとは違う。彼は「わたしには故国も、名も、家族もない」と書き記していた。つまり彼は故国からも、家族からも、自分自身からも切断された存在であり、もし彼がテロリストでなければ、彼はこの世界においてすでになにものでもないということになる。彼はテロリストとして現実の世界を生きているが、その精神的内実は過去と未来から切断された〈今〉という瞬間、すなわち虚無のただ中に浮遊した存在でしかない。
 故国と家族を断ち切り、だれでもない名付けられぬ存在として浮遊するこの男に人間の生の声を求めることはできない。彼の〈今〉を散文的に引き延ばし、彼の〈過去〉や〈故国〉や〈家族〉を厚みのある光景へと映像化することはできない。彼の内部に心理学者のまなざしを向けても、すでに彼の内部世界に反射板は完璧に撤去されている。まなざしは限りのない虚空へと吸い込まれていく。

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載18

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

連載18
革命家と神の無関心
――自然の摂理――

  はじめて狩猟に行ったときのことをおぼえている。そば畑が赤く染まり、いたるところにくもの巣がかっていて、森はしずまりかえっていた。わたしは森の空地の、雨で掘りかえされた道端に立っていた。ときおり白樺がささやきあい、黄色の木の葉がとびすぎた。わたしは待っていた。とつぜん、草むらが妙なふうにざわついた。茂みから、小さな灰色の塊となって兎がとびだし、用心ぶかく後ろ足ですわり、あたりを見まわした。わたしはふるえながらも銃をもちあげた。森中にこだまが響きわたり、青い硝煙が白樺林のなかにとけていった。血で濃い褐色に染まった草のうえで、傷ついた兎がもがいていた。兎は子供が泣くような声で叫んでいた。兎があわれになった。わたしがもう一度射つと、兎は静かになった。
  家ではすぐ兎のことなど忘れてしまった。まるであの兎がはじめから生きておらず、わたしが彼のもっともたいせつなものーー生命をうばったりしたことなどないかのように。それで、わたしは自分に問う。兎が金切声をあげたとき、わたしはなぜ心が痛んだのだろうか? 慰みで殺したときには、なぜ心が痛まなかったのだろうか?(12~13)

  Помню, ― я был в первый раз на охоте. Краснели поля гречихи, падала паутина, молчал лес. Я стоял на опушке, у изрытой дождем дороги. Иногда шептались березы, пролетали желтые листья. Я ждал. Вдруг непривычно колыхнулась трава. Маленьким серым комочком из кустов выбежал заяц и осторожно присел на задние лапки. Озирался кругом, Я, дрожа, поднял ружье. По лесу прокатилось эхо, синий дым растаял среди беберез. На залитой кровью, побуревшей траве бился раненый заяц. Он кричал, как ребенок плачет. Мне стало жалко его. Я выстрелил еще раз. Он умолк.
    Дома я сейчас же забыл о нем. Будто он никогда и не жил, будто не я отнял у него самое ценное ― жизнь, И я спрашиваю себя: почему мне было больно, когда он кричал? Почему мне не было больно, что я для забавы убил его?(8)

 

 ここで書かれているのは何なのか。初めての狩猟。射たれた兎。もし兎が急所を射たれて即死していれば、ジョージの心を騒がすこともなかったであろう。ジョージの目は傷ついた兎がもがき苦しむさまを目撃し、耳は子供が泣くような叫び声を聞いてしまった。まさにそのことでジョージは兎を〈あわれ〉に感じる。しかし、この〈あわれ〉の感情は傷ついた兎を助ける方向に彼を向けなかった。彼はもう一度、傷ついた兎に弾丸を射ち込む。兎は静かになった。
 ジョージは傷ついた兎のもがきと叫び声に耐えることができなかった。兎は死によってもがくこと、叫び声を発することをやめる。傷ついた兎はもはや野原を自在に駆け回る自由を奪われた存在であり、一刻も早い死を与えることが唯一の救いとなる。狩猟民族にとって狩りの対象を即座に殺すことは当たり前のことであって、そこに一片の同情も入り込む隙はない。狩人は狩りの仲間である猟犬を守っても狩りの対象を守ったり同情したりすることはない。狩人に動物愛護の思想を植え付けることはできない。ジョージが傷付けた兎に〈あわれ〉を感じること自体が、彼の未熟さの証となっている。狩人は狩りの対象を確実にしとめなければならない。動物は世界に生きているときだけが生きているのであり、狩人は狩りの対象を一撃必殺することで対象を別の世界へと瞬時に送り出さなければならない。ジョージは初めての狩りでそのことに失敗してしまった。傷ついた兎のもがきと叫び声はジョージの脳裡に刻みつけられた。ジョージは家に帰ってすぐに兎のことなど忘れてしまったと書いているが、一度脳裡に深く刻まれた思いを消すことはできない。ジョージは改めて問わずにはおれない「兎が金切声をあげたとき、わたしはなぜ心が痛んだのだろうか?」と。

 ニコライ・スタヴローギンは小さな拳を挙げて威嚇するマトリョーシャの幻影を見て、これが良心の呵責というものなのかと自問自答する。善悪観念を摩滅してしまった虚無の権化にも良心は未だ摩滅し切ってはいなかったのか。神に成り代わって〈試み〉の実験をなしたニコライは神そのものではない。所詮、被造物のニコライは完全な沈黙と無関心の域にとどまることはできない。神に成り代わることも、神の無関心を装うこともできない。ジョージもまた同じである。射たれた兎の叫び声に反応してしまうジョージは神ではない。傷ついてもがき、叫び声を発する兎と同じ被造物である。もし、ジョージが兎の叫び声にまとわりつかれれば、今度は彼自身がもがき、何ものかに向かって叫び続けなければならなかったであろう。幸か不幸かジョージは兎のもがきと叫び声を忘れることができた。否、忘れることができなかったからこそ、彼は初めて猟に出かけた時のことを書いているわけだ。大人になってテロリストになっても、犠牲となった兎のもがく姿を忘れることはできないのだ。もがき苦しみ叫び声をあげて死んでいった兎、その張本人は射撃したジョージにほかならない。彼に良心の呵責や反省はない。彼はすぐに無関心になれる。射たれて死んだ兎と射撃したジョージの間にはまるで何の因果関係もなかったかのように彼は冷静である。ジョージの意識のうちでは兎も総督も皇帝も同じような存在であったのだろうか。
 狩人は獲物に同情しない。同情しながら射ち殺す狩人はプロの狩人とは言えまい。〈射殺〉と〈同情〉のあいだに生起するのは快楽であって、これは始末が悪い。ドストエフスキーの人物たちにはこういった快楽を覚える者が少なくないが、ロープシンが描くジョージにそういった傾向は見られない。

 ジョージは「そば畑が赤く染まり、いたるところにくもの巣がかかっていて、森はしずまりかえっていた」と書いている。静かだ。この自然の静かさの中にジョージもまた自然の一部として溶けこんでいるようだ。詩的な光景を眼前に見る思いがするが、この静かな自然のいたるところが戦場であることもまた確かである。無数のくもが巣を張って犠牲者をしとめようと身を潜めている。静かな森は聖性を感じさせるが、そこでは弱肉強食の生と死の凄絶なドラマも不断に展開されている。一瞬の隙が死を招くことになる。〈小さな灰色の塊〉となって茂みから飛び出した兎は、新米の狩人の眼差しに捕らえられ、次の瞬間にはそのふるえの止まらない手から銃弾を射ちこまれる。狩人の気配を察することができずに飛び出した兎は、その時点で生存競争に敗北したことになる。生きるも死ぬも、この世界のあらゆる事象は自然の摂理のうちにある。あわれみの感情もまた自然の摂理のうちにある。ジョージは最初の狩りにおいて興奮し、的確に獲物の急所をとらえることができなかった、その未熟な射撃とあわれみの感情は無縁ではない。ジョージが目指すとすれば、より高度の射撃術を身につけることであって、狩りをやめることではない。
 人間の欲求は果てしない。自由を外界へ向けて求める者に終わりはない。内的自由を求めるというのであれば禅や瞑想の途がある。ジョージの自由を求める心は〈政府高官や支配者〉を殺すというテロリズムへと向かった。


  三月十三日。
  エレーナは結婚している。彼女はここ、モスクワに住んでいる。それ以上のことはなにも知らない。ひまな日には、毎朝、わたしは彼女の家のちかくの並木路をぶらつく。霜柱がやわらかくなり、足もとでは雪がさくさく音をたてる。塔のうえで時計がゆっくりと鳴っているのが聞こえる。もう十時だ。ベンチに腰をおろして、しんぼうづよく時をかぞえる。きのうは彼女に会えなかったが、きょうは会えるだろう、とわたしは自分に言いきかせる。
  一年まえ、わたしははじめて彼女に会った。春、N市を通りかかったさい、朝になって、大きな木陰の多い公園に寄ってみた。湿った土のうえに頑丈な樫とすらりとしたポプラが立っていた。会堂のようにひっそりとしていた。鳥すらも啼いていない。ただ小川のせせらぎだけが聞こえる。わたしはその流れをみつめていた。水しぶきがきらきらと日に輝いていた。わたしは水の音に耳をすませる。ふと目をあげると、枝葉が織りなす緑の繻子に包まれて、むこう岸にひとりの女が立っていた。彼女はわたしに気づいていない。だが、わたしにはわかっていた。わたしが聞いているものに、彼女もまた耳をすませていることが。
  これがエレーナであった。
  13 марта.
  Елена замужем. Она живет здесь, в Москве. Я ничего больше не знаю о ней. По утрам, в свободные дни, я брожу по бульвару, вокруг ее дома. Пушится иней, хрустит под ногами снег. Я слышу, как медлено бьют на башне часы. Уже 10часов. Я сажусь на скамью, терпеливо считаю время. Я говорю себе; я не встретил ее вчера, я встречу ее сегодня.
    Год назад я впервые увидел ее. Я весной был проездом в И и утром ушел в парк, большой и тенистый. Над мокрой землей вставали крепкие дубы, стройные тополя. Было тихо, как в церкви. Даже птицы не пели. Только журчал ручей. Я смотрел в его струи. В брызгах сверкало солнце. Я слушал голос воды. Я поднял глаза. На другом берегу в зеленой сетке ветвей стояла женщина. Она не замечала меня. Но я уже знал: она слышит то, что я слышу.
    Это была Елена.(10~11)

 

 ここに引用しなかった「三月十一日」には元鍛冶工の労働者フョードルのことが書かれていた。ジョージはフョードルに十二月の革命の時にどこにいたのか尋ねる。フョードルは気乗りしないままジョージの問いに答えている。短い会話の最後だけを引用しておこう。

 

  彼はときどき口をつぐみながら、つづける。
  「そう、そこにゃ、女がひとりいた……おれの連帯責任者でね……女房のようなもんだったが」
  「それが?」
  「いや、別に……コサックどもが殺っちまった」
  窓のそとでは日がかけていた。(15~16)
  Он говорит нехотно. Я жду.
    ーДа, ーпродолжает он, помолчав, ーбыла тут одна...со мной солидарная...вроде будто жена. 
    ーНу?
   ーНу, ничего...Убили ее казаки.
    За окном гаснет день.(10)

 

  フョードルは重い口をあけて最後に連帯責任者で女房のような女がひとりいたことを話す。まるでそのことを言わせるためにジョージはフョードルに話しかけたのではないかと思わせるような展開の仕方である。女はコサックに殺されたと言う一言のうちに、どれだけの膨大なドラマが詰め込まれているか。ジョージは黙って窓の外を眺める。二人の姿は黄昏時の夕闇の中に静かにフェイドアウトして行く。
 「エレーナは結婚している」とは、エレーナはほかの男のものだ。エレーナとはジョージにとって〈むこう岸〉に立っている〈女〉である。ジョージが孤独であるようにエレーナもまた〈孤独〉である。〈孤独〉とは誰にも所有されない精神の孤高に佇んでいることを意味する。エレーナは〈むこう岸〉に立っているばかりでなく〈ひとりの女〉(женщина)なのである。原書で〈女〉の〈ひとり〉が強調されているわけではないが、ジョージはむこう岸に立っている女に自身の孤独を反映させている。

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載17


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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(連載17

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

  三月十日。
  彼のことを考えるとき、わたしには憎しみも敵意もない。あわれみもない。わたしは彼には無関心だ。だが、わたしは彼の死を欲する。わたしは彼を殺さねばならぬことを知っている。テロと革命のために必要なのだ。わたしは力が弱者を倒すことを信じるが、言葉は信じない。もしできるなら、わたしは政府高官と支配者の全員を殺すだろう。わたしは奴隷でありたくないし、奴隷がいることも望まない。
 殺してはならぬ、という。また、大臣は殺してもいいが、革命家はいけないという。これと逆のこともいわれる。
 どうして殺人がいけないのか、わたしにはわからぬ。それに、自由の名のもとに殺すのはよいが、専制の名のもとに殺すのは悪いなどという理くつが、わたしにはどうも理解できない。(12)
  10марта
  Когда я думаю о нем, у меня нет ни ненависти, ни злобы, У меня нет и жалости, Я равнодушен к нему. Но я хочу его смерти. Я знаю; его необходимо убить. Необходимо для террора и революции. Я верю, что сила ломит солому, не верю в слова. Если бы я мог, я бы убил всех начальников и правителей. Я не хочу быть рабом. Я не хочу, чтобы были  рабы.
   Говорят, нельзя убивать. Говорят еще, что министра можно убить, а революционера нельзя. Говорят и наоборот.
    Я не знаю, почему нельзя убивать. И я не пойму никогда, почему убить во имя свободы хорошо, а во имя самодержавия дурно.(7~8)

 「彼のことを考えるとき、わたしには憎しみも敵意もない。あわれみもない。わたしは彼には無関心だ。だが、わたしは彼の死を欲する。」この一文が沈黙を強いる。ライオンが殺して食する草食動物についてコメントを求められたらこう答えるかもしれない。肉食獣と草食動物、草食動物と植物の間に同情や友愛の感情を持ち込んでも詮方ない。神が創造したこの世界はそのように構築されている。
 殺す対象に〈無関心〉だが、相手の〈死〉は欲している〈わたし〉とは、いったい何だろう。一番近い存在は神であろう。ニコライ・スタヴローギンは沈黙し続ける神に代わってマトリョーシャを凌辱した後、徹底して無関心を装い、彼女を首吊り自殺に追い込んだ。ニコライは仕掛け、無関心を装い、そして相手の死を目撃する。が、ニコライは〈告白文〉を書いて、それをチーホン僧正に読ませた。ニコライは自分の実験に対して無関心そのものであることはできなかった。ジョージと名乗るテロリスト〈わたし〉もまた、日記をしたためずにはおれなかった。「わたしは彼を殺さねばならぬことを知っている。テロと革命のために必要なのだ。」とジョージは書かずにはおれなかった。
 ライオンは草食動物を殺し食した行為に関して何の説明もしない。が、ジョージは〈テロと革命〉を持ち出してしまう。持ち出しはするが、なぜ彼にとって〈テロと革命〉が必要なのかを説明しない、少なくとも論理的には。彼は続ける「わたしは力が弱者を倒すことを信じるが、言葉は信じない」と。言葉を信じないものが、今、このようなものを書き付けている。シェークスピアは「言葉だ、言葉だ、言葉」と書いた。言葉に絶望した者だけが言葉に託すことができる。ジョージの信じない〈言葉〉はテロと革命行為の対極に置かれている。
 言葉だけの輩がいる。テロリストに要求されているのは〈言葉〉ではない。殺す対象を実際に殺すことだけが求められている。極端なことを言えば、テロリストに殺す理由を説明する義務はない。殺すという〈今〉だけが求められており、殺した結果として未来に人類の破滅が待っていたとしても、テロリストはいかなる責任もとらないし、とる必要も感じていない。テロという〈今〉に生を燃焼しきることがテロリストの使命なのである。〈過去〉を語らず、〈未来〉を語らず、ひたすら定めた対象を殺すことに専念する、この異様な情念はどこから生じているのか。
 ジョージは「わたしは政府高官と支配者の全員を殺すだろう」と断言する。〈政府高官〉と〈支配者〉に対する個別の配慮などはまったくうかがえない。〈政府高官〉と〈支配者〉に属する者はジョージの前にあってすべて等しい。彼にとって〈政府高官と支配者〉は一つの袋に詰め込まれた石炭に過ぎない。石炭一粒一粒の質など問わない。このおおざっぱなくくり方に驚嘆する。主人公と作者を同一視することはできないとしても、ジョージが作者ロープシンの思想を色濃く反映していることは否めない。『蒼ざめた馬』を執筆する想像力豊かな詩人ロープシンがこんな単純な思想を主人公に与えていることに驚く。しかし、ここにこそテロリストの秘密が隠されている。
 思考は思考を産む。ドストエフスキーのような作品を、たとえばバフチンの言うポリフォニック的思考法で読めば、決して一義的結論を見いだすことはできない。神を信じないイヴァンと神を信じるアリョーシャがいくら時間をさいて議論しつづけたところで決着がつくわけではない。議論は議論を産んで永遠に議論し続けなければならない。政府高官と支配者の中の誰を殺し誰を見逃すべきか、などという議論をジョージははじめから問題にしていない。彼らのすべてを殺すと断言して、そのことで議論しようなどという腹づもりはみじんもない。なにが善で何が悪なのかという議論もしない。まさにジョージはニコライ・スタヴローギンの申し子のように、すでに十分、善悪観念を摩滅してしまった男なのである。
 ドストエフスキーの地下男は「行動するのは馬鹿ばかり」と毒づいて地下の小部屋に引きこもった。が、改めて考えてみれば、自意識過剰のこの男は歓迎されない同窓会へわざわざ出かけていったり、娼婦リーザに関係を結んだ後で説教したりとろくな男ではない。一口で言えば自意識過剰のロクデナシである。この男は気にくわない同窓生の一人から金を借りて、その金でリーザの肉体を弄んでいる。あげくのはての説教である。今、わたしは地下男のろくでもなさをいちいち指摘してみたいのではない。地下男もまた現実の世界においてはろくでもない〈行動者〉であったことに目をとどめたいということである。地下男は自意識過剰者であるから、自分のなすことすべてを即時に相対化してしまう。結果、彼の行動はだれが見ても醜い道化のごとき振る舞いにならざるを得ない。彼に欠けているのはジョージの〈無関心〉である。とりあえず、自分のことをだれがどのように見ていようが知ったことかという、そういう開き直りが地下男にはできない。彼は不断にひとの視線に晒された存在で一時も休息ができない。
 ジョージの目標は定まっており、みじんの揺らぎも見せない。地下男は不断の揺らぎのただ中において他者に対する毒念をため込んでいくが、ジョージに地下男に見られたような毒念はない。〈政府高官と支配者〉に対する個人的な恨みつらみも抱え込んでいるようには見えない。ジョージはゴルゴ13のようにテロの使命に従っているだけのように見える。ただ一つだけ「わたしは奴隷でありたくないし、奴隷がいることも望まない」という言葉のうちにジョージの根源的な欲求が表明されている。ジョージはだれにも支配されたくないし束縛されたくない。つまり彼は自由でありたいと欲している。しかし、人間の歴史をざっとかいま見ただけでも、ジョージの欲する自由など人間社会において体現されたことはない。もし可能だとすれば、それは現実の世界においてではなく、まさに空想や観念の世界においてのみである。ジョージはロマンチストであり空想家である。多くの場合、空想家は空想の領域で生きることに充足する。現実の社会で小説家や芸術家、哲学者や科学者というレッテルを貼られて満足する者は多い。
 ジョージは単なる空想家にとどまることはできなかった。空想家が行動家になるときほど恐ろしいことはない。空想家は現実の世界において独裁者を目指すかテロリストに徹するか、そのどちらかと言っても過言ではない。組織の中で実績を積み上げて地道に出世階段を昇るなどということを空想家は最も苦手とする。ジョージが政府高官と支配者とを憎悪する、その無意識の領野に〈政府高官〉と〈支配者〉が隠れ潜んでいることは明白である。そんな存在を自らの内に持たない者は憎悪すら抱かない。
 「わたしは奴隷でありたくない」ということと「奴隷がいることも望まない」の間には大きな溝が横たわっている。前者にとどまるものは、孤高の空想家(文学者、芸術家、哲学者、科学者)として生を全うすることができる。後者の思いが強くなれば、社会制度の改革という政治的次元への飛躍に駆られる。しかし、すべての人間が支配と束縛のない社会に生きることができるかどうかが問題である。ドストエフスキーの愛読者であれば、まずそんな理想的社会は空想家の頭の中にしか存在しないと思うだろう。『悪霊』のシガリョフはそんな理想的社会の実現を目指してピョートル・ヴェルホヴェーンスキーが組織する秘密革命結社の一員となったが、すべての人間が無制限の自由を発揮できる社会とは畢竟、独裁者が大多数の人間を奴隷化して支配する社会を構成してしまうことになると看破し、絶望して革命結社を脱退した。
 『悪霊』を読んでいたはずのジョージが、シガリョフ理論を知らなかったはずはない。にも拘らず、ジョージは奴隷のいない社会を望む。人間はジョージのようにあらゆる束縛を離れて何よりも自由でありたいと思う者ばかりではない。ひとを支配し束縛したいと考える者がおり、支配され束縛されたいと願う者もいる。イヴァン・カラマーゾフが創作した「大審問官の劇詩」において、大審問官が問題にしたことはまさに自由を手放して幸福を求める大多数の人間のことであった。
 ところで、支配されないこと、束縛されないこと、自由であることに人間としての最大の幸福を感じる者が、自分以外のすべての人たちもまたそのことを等しく願っているのだと思うのは楽観過ぎるだろう。しかも自由の内には、他者を傷つけること殺害することも含まれている。現に支配と束縛を嫌うジョージはテロリストとして「わたしは彼を殺さねばならぬ」という信念を生きている。ジョージの自由によって殺害される者がいる。ジョージは自らのテロリストの自由を発揮することによって他者の自由を抹殺する。しかも彼はそのことに何の疚しさも感じない。彼はテロリズムに関しては不感症になれる男なのである。
 「どうして殺人がいけないのか、わたしにはわからぬ」とジョージは書いている。ジョージが善悪観念を摩滅してしまっていたのであれば、殺人をいけないとも思わないし、いいとも思わないだろう。ジョージは〈彼の死〉を欲しているのであって、この欲求は善悪観念を超えた欲求なのである。現に殺すことを欲する人間がおり、殺されたくない人間がいるのであるから、両者は決着がつくまで闘争しなければならないことになる。これは人間が繰り返し行ってきたことで例外はない。政治・経済の世界から恋愛・性愛の次元まで、人間は〈善悪観念〉で生きてきたことはない。嫉妬・憎悪は理性の力では制御できないのである。ジョージは殺人の善悪などを問うてはいない。ジョージが〈彼の死〉を欲している以上、善悪観念などはこの欲求に隷属するのである。

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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(連載16

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

テロリストの情念と虚無

 ロジオンは「おれにアレができるだろうか」という不断の揺らぎのただ中にあって、悪魔の誘惑から解放されたり、悪魔の罠にかかったりする。ロジオンは老婆アリョーナの頭上に〈斧の峰〉を打ちおろした。ここでロジオンは自らの額に刻印された悪魔の数字〈666〉を叩き割っていたと解釈することもできるが、もちろんこれは作者の隠喩的演出ではあってもロジオン自身は何も意識していない。ロジオンは自らの確固たる意志をもって〈踏み越え〉たのではない。まさに彼自身が後に回想するように、そこには人知では計り知れない何か或るデモーニッシュで神秘的な力の作用が感じられる。
 ジョージの場合は、ロジオンに見られたような揺らぎは完璧と言っていいほどにない。彼が地図に線を引くその姿勢は確固たる信念に裏打ちされた厳粛な静けさを持っている。揺らぎのない確固たる意志を保持する者のみが備える美すら感じさせる。ドストエフスキーはニコライ・スタヴローギンに〈美〉を賦与したが、この〈美〉は彼の内面を描くことで崩れる。仮面のような顔、仮面ですらない顔と表現されたニコライの表情のない顔は、彼のあらゆるものに対する無関心、無感動の端的な反映と見えて、実は激しい魂の揺らぎの結果であった。そのことを残酷な天才心理学者でもあるドストエフスキーは描かずにはおれない。人間を常に生成流動する生きたものとして捕らえるドストエフスキーは、小説の人物を静止した置物のように客体化して描くことはしない。
 ドストエフスキー以降において小説を書く作家は、彼の微細にわたる顕微鏡的眼差しを敢えて放棄するしかなかった。いくら高度な性能を備えた顕微鏡を持っていても、それによって見えた世界をそのまま詳細に具体的に描くことはせず、分かるものには分かるであろうという詩的表現を採用する。これは読者への信頼があってできることでもある。信頼がなければみっともないほど饒舌に説明を書き加えなければならない。ドストエフスキーを読み続けてきた者の目にはロープシンの端的な短い描写は新鮮である。内的揺らぎを抱えたテロリストは醜悪である。〈白い雪〉に自分自身の内的世界を重ねるテロリスト・ジョージに黒い混沌とした内的領域を晒させるわけにはいかない。ロープシンのペンはストイックに押さえ込まれている。
 ジョージは想像の世界で総督の生活を再現しようと試みる。が、この想像力は相手を理解し、協調するためではない。総督はジョージの想像の世界にあっては人間存在というよりは、殺されるべきモノとして捕らえられている。『罪と罰』のレベジャートニコフは経済学の発達した英国では「同情などというものは学問上ですら禁じられている」と語っていたが、ジョージのようなテロリストにとっても同情は禁止条項の一つである。ジョージは総督も人間であり、彼の死によって不幸のどん底に落ちる家族もいることなどまったく考慮しない。予め殺す相手をモノ化する人間は、自らの存在をもまたモノ化せずにはおれない。喜怒哀楽の感情を激しく爆発させるような人間はテロリストとしてもっとも不適格ということになろう。
 ジョージは想像力の限りを尽くして総督の日常の生活に我が身を重ねる。神に祈る総督にすら我が身を重ねるジョージにとってテロリズムと祈祷とは何ら矛盾するものではないらしい。神を信ずると断言した不信者ロジオンには滑稽な揺らぎが見られたが、ジョージは神に祈ってすらテロリストに徹する確固たる意志がある。ジョージは神の名においてテロリズムを徹底的に遂行する男なのである。
 ロジオンとジョージは同じく神の前に祈ることができるのに、二人はお互いに手を取り合うことができない。テロリスト・ジョージの想像の世界の中では総督はいっさいの人間的な声を発することはない。ましてや彼の内的苦悩や悲哀は完璧に封じられる。総督は殺しの標的でしかなく、標的は人間の声をすべて封殺され、まさにモノとして扱われている。テロリストと標的の間にあるのはモノとモノとの関係である。この関係の延長線上に実現される革命が人間にもたらすもの、それが人間個々の幸福を約束するはずもない。

   わたしは、きょう、彼を見た。トヴェルスカヤで待っていたのだ。わたしは凍りついた歩道をながいことぶらついていた。夜のとばりがおりると、厳しい極寒だった。わたしはすでにあきらめていた。と、ふいに、街角で警察署長が手袋をふった。警官たちが直立して並び、刑事たちが走りはじめた。通りはひっそりとなった。
  そばを、四輪馬車が疾駆していった。黒い馬。赤毛のあごひげをはやした馭者。そりのあるドアの把手。車輪の黄いろい幅。そのあとに橇がつづく。これが特高だ。
  疾走していくなかで、わたしはどうにか彼を見わけた。彼のほうはわたしを見なかった。彼にとって、わたしは路傍にひとしかったのである。
  わたしは幸福な気分で、ゆっくりと家路についた。(11)
  Я его видел сегодня. Я жидал его на Тверской. Я долго бродил по замерзшему тротуару. Падал вечер, был сильный мороз. Я уже потерял надежду. Вдруг на углу пристав махнул перчаткой. Городовые вытянулись во фронт, сыщики заметались. Улица замерла.
    Мимо мчалась карета. Черные кони. Кучер с рыжею бородою. Ручка дверец изгибом, желтые спицы колес. Следом сани, ーーохрана.
    В быстром беге я едва различил его. Он не увидел меня: я был для него улицей.
    Счастливый, медленно я вернулся домой.(7)

 〈わたし〉(Я)が見ている〈彼〉(Он)とは誰か。〈彼〉とは〈総督〉(Генерал-губернатор)である。そのことに間違いはないが、〈わたし〉はひとりジョージというテロリストをさしているのではないし、〈彼〉はひとりの総督だけを意味しているのではない。〈わたし〉は十九世紀ロシアから今日に至るまでのあらゆるテロリストを含んでいるし、〈彼〉もまたあらゆるテロの対象者を含んでいる。しかもテロの対象は〈総督〉だけに向けられるのではない。〈総督〉の側に存在する者たち、さらにたまたまテロの現場にいた者たちすら犠牲になる。これはすでにロジオンの最初の〈踏み越え〉(アリョーナ殺害)において見られた通りである。ロジオンの殺人計画の中にアリョーナの腹違いの妹リザヴェータ殺しは含まれていなかった。それはロジオンの〈踏み越え〉理論の甘さを露呈するものである。が、結果としてロジオンはテロリズムの鉄則に従っている。アリョーナ殺しの現場を目撃したリザヴェータを生かしておくことは許されない。ロジオンはアリョーナ殺しの時とは違って、はっきりした意識を保持したままリザヴェータの頭上に斧を打ち下ろしている。目的を達成するためには一時の躊躇が命取りとなる。ただし、作者はロジオンにおける〈革命〉を意図的に回避して、読者に先鋭的な問題点を突きつけなかった。目撃者がリザヴェータでなく、母親のプリヘーリヤであった場合、ロジオンは意志的に彼女の頭上に斧を打ち下ろすことができたのかという問題に関して、作者は意識的に無関心を貫いた。
 はたしてロープシンの描くジョージはこの点を完璧にクリアーしていたのだろうか。テロの対象を〈モノ〉化し、自らの存在をもまた〈モノ〉化することなしに、どうして人間的な感情を抑圧しきることができるだろうか。戦争の最前線に送られる兵士はまずは敵と自己とを徹底して〈モノ〉化する訓練を受ける。敵の一人一人に彼を愛する家族や恋人がおり、彼もまた自分と同じような喜怒哀楽をもった人間であることを十分に認めた上で、彼を殺すことは心的困難をもたらす。戦争は合理的に効率的に遂行されなければならないと考える指揮官のもとで、兵士はどんな残酷な手段にも適応できなければならない。つまり兵士は戦時下にあってまず何よりも要求されているのは〈人間であってはならない〉ということである。〈人間であってはならない〉ことで戦場を生き抜いた兵士が帰還後、精神に異常をきたすのは、彼が今度は〈人間であること〉を人命尊重の民主社会で要求されるからにほかならない。精神のチャンネルを都合よく変換できる者だけが社会にうまく適応できるというわけである。
 ジョージという〈わたし〉がつけ狙う〈彼〉は未だ〈総督〉に限られている。〈わたし〉が見るのは総督の人間としての顔ではない。それは特高たちに護衛されて疾駆していく四輪馬車の中に座った銅像のような総督の顔である。
 人間は人間を殺すことができるのか。ロジオンが殺したのは〈社会のシラミ〉であり、目撃者のリザヴェータは恐怖に脅えて硬直化している。殺す対象をまず予め〈モノ〉化しておくか、瞬時に〈モノ〉化する心の作用が働かなければ、殺人は困難なような気もする。殺す対象に同情が働けば、殺人という行為はきわめて罪深いこととなるだろう。ジョージが一瞬見た総督の顔にはいかなる人間的な要素も含まれていない。総督の顔はいわば石化した〈モノ〉に過ぎず、同時にそれを見たジョージの顔もまた石化していたはずである。ジョージは〈路傍〉(улица)に等しい自分の存在に決して屈辱の意識を抱いていない。否、そこには他人には伺い知ることのできない暗い情念、執拗な復讐の念が潜んでいたのだろうか。
 〈路傍〉の石は一貫してテロリズムの情念を燃やし続けている。ジョージは〈幸福な気分〉で家路につく。この気分を共有する者のみがテロリストの何たるかを理解できるのだろうか。総督を〈モノ〉化して檻の中に封じ込め、決して人間的な次元へと解放させぬこと、これがテロリストに課せられた想像力の桎梏である。総督が子供と遊び戯れる、そんなあまりにも家庭的な光景は完璧に抹殺される。〈モノ〉に対して〈モノ〉として対応すること、そのことのうちにしかテロリストは自分の進むべき道を全うすることができない。
 ロープシンの描く叙述世界は静謐なモノトーンの霧状のまくに覆われている。人間のなまの声は二重、三重の透明な壁によって遮られ、読者の耳に達しない。総督を乗せた疾駆する四輪馬車、黒い馬、赤毛のあごひげをはやした馭者、橇に乗り込んだ特高……たしかに読者はジョージがとらえた光景を生々しく眼にするが、しかし同時にこの光景はまるでこの世のものではないようにも感じる。あの世とこの世の狭間につかの間、幻のように現象してきた幽玄世界のようにも見えてしまう。
 ジョージは〈路傍〉ですらなかったかもしれない。彼は光景をとらえ映し出すカメラのような存在、しかも小説における無形の説話者のような存在で、彼自身の姿が透明化されている。厳しい極寒の中で氷結したジョージの眼差しが石化した総督の顔をとらえている。両者の間に人間的な感情の交流、魂の交感はない。

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載15


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載15

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

テロリストの情念と虚無

 ジョージは何のために、どうしてテロリストになったのか。『蒼ざめた馬』を読んで一番感じたのは〈復讐〉である。テロリストであることを支えているのは何かに対する深い〈復讐〉の意識である。おそらく、この〈復讐〉をうまく他者に伝えることは困難をきわめる。論理的整合性を持った言葉によっては説明できない未だ確固としたかたちとなっていないマグマのようなものが渦巻いているのだが、このマグマをうまく掬って標本室に飾りたてコメントをつけることができない。ジョージは何かに駆り立てられているが、それが何であるのか自分自身にすら説明することができない。
 ジョージは〈白い広場〉を、〈白い雪〉を〈ばらのような雪〉を、そしてその延長線上に理想としての〈エレーナ〉を眺めている。ジョージはある意味でロジオンよりはるかに空想家であり、ロマンチストである。白い雪が溶けて黒い大地がその姿を現しても、ジョージが眺めるのは人間の深層に潜む〈闇〉の領域ではなく、その大地に芽吹く白い花である。
 ジョージは純粋で無垢で潔癖である。総督殺害は彼の純粋な精神のうちで完璧に肯定されている。ジョージはテロリストであることに懐疑を抱かない。彼にとって〈革命〉は絶対正義の強靱な球体であり、どんな鋭い懐疑の矢もその球体を射抜くことはできない。が、ジョージ自身はこの球体の中身に何が存在しているのか、実はよく知っていたのかも知れない。三島由紀夫が幼くして日本の神の実体を〈虚無〉として看破していたように、ジョージ、否、ジョージを主人公としてこの『蒼ざめた馬』を執筆したロープシンは〈革命〉の球体が実は虚無を包む強靱な皮膜であることを知っていたのかも知れない。〈革命〉は人間の理想的な社会を作るためなどという、誰にでもわかる幼稚な理論など、当事者のテロリストが信じていたとはとうてい思えない。ジョージが自らのテロリストであることに微塵の揺らぎを見せないのは、彼が抱えた〈虚無〉が不信も懐疑も丸ごと呑みこんでしまうからにほかならない。
 ジョージは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンのようには〈告白文〉を書かない。彼が書いたのは『蒼ざめた馬』というタイトルを持った〈日記〉である。彼は〈事実〉を書くが、内心の思いをロジオンのように延々とさらけ出すことはしない。揺らぎがあるとすればジョージではなく、作者のロープシンの方であるが、しかしロープシンはドストエフスキーのような大いなる揺らぎの坩堝の中でのたうち回るような作家ではない。ドストエフスキーは小説を書き続けることで、〈人間の謎〉を徹底的に解き明かそうとした作家であるが、ロープシンは小説を書いたテロリストであり、どんなに内的な揺らぎを描いても一義的に統一されたモノローグ的存在である。「バカばかりが行動家になるのだ」という地下生活者の言葉を全身に浴びてすら、テロリストになれたロープシンの心の秘密にどのように接近すればいいのか。
 わたしは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンなどより、ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーの方がはるかに興味深い。ピョートルを〈ニコライの猿〉の次元でとらえているような読者には『悪霊』自体がその姿を現さない。ニコライは揺らぎの果てに殺されてしまったような男で、虚無に徹して一義的行動を毅然として選択するような男ではなかった。彼のマトリョーシャに対する実験で明白なように、彼の〈神を試す実験〉には嫌悪感を抱かせる不純さ、卑劣さがつきまとう。彼の行動には美しさがない。彼の〈一義的行動〉、たとえばマトリョーシャを凌辱し、首吊り自殺へと追いやるその手口に〈美〉を感じることはない。それは彼の〈試す〉意識がヘドロのような悪臭を放っているからにほかならない。シマウマを追い、殺し、食するライオンに嫌らしさはない。それはその行動が自然性に則っているからである。ニコライの〈実験〉は、人間として〈実験〉してはならない、〈神への試し〉であることによって悪臭を放つ。ピョートルは最初から赤く長い舌を出し続けている二重スパイであるから、信じるに値する何ものをも持たずに虚無の川をお道化て泳ぎわたっている。ピョートルが唯一付けなかった道化の仮面は〈真面目な顔〉であるが、この虚無の井戸の中に居座った男にこそ、キリストの声が響きわたってくるのだ、というのがわたしの考えである。
 ジョージは書く「われわれは少数で、五人しかいない」と。が、ロジオンの〈踏み越え〉は彼一人によってなされている。ジョージはいわば五人組の頭で、テロの指揮者である。今のところ、メンバーのうち名前以外に紹介されているのは〈馭者〉のハインリッヒと〈化学者〉で〈爆弾の製造〉を受け持っているエルナだけである。この五人各々の生い立ちや年齢、それにこの五人がどのような経緯で出会い、結びついたのか何も報告されない。明白なのは、総督殺害というテロのために五人が各々の役割分担を負っていることぐらいである。
 彼らを結束させているのは〈革命〉という目的の遂行であろうが、しかしこの結束は不動のものではない。たとえ五人で構成された組織であろうが、そこには絶えず〈裏切り〉の可能性が潜んでいる。五人のうちの一人が当局に情報を流せば、たちまち逮捕、処刑の危険をはらんでいる。ジョージ以外の他の四人は〈監視の情報〉をジョージに報告する義務を持っているが、ジョージはその四人に対しても監視を怠ることはできない。同志の内部世界にも通じていなければ〈裏切り〉の犠牲になりかねない。
 ジョージは総督側の〈刑事と衛兵たち〉〈銃剣とようしゃない視線の二重の柵〉だけに注意を払っていればいい存在ではない。〈組織〉にあって最大の敵は情報を知っている仲間に他ならない。〈爆弾〉は敵の側に投げつけられるとは限っていない。化学者エルナはテロリストでもあるが、ジョージの魅力の虜にもなった一女性でもあるのだ。ジョージは女のファナティックな感情の爆発にも警戒心を怠ってはならないのだ。ジョージは他者の内部世界の奥深くへと踏み降りていくことを自ら禁じているかのようなストイックなポーズを崩さずにいるが、それは彼が詳細に具体的に書かないというだけのことで、彼の眼差しは遠くを漠然と見ているかのようでいながら、鋭い直観力で相手の核心部を見透かしている。
 ジョージは机に向かい、地図に線を引く。地図に線を引くとは、計画の全体図を俯瞰的に見るということであり、机にひとり向かうということは、この時彼はいわば〈神〉の視線を獲得しているということである。五人組の頭であるジョージは〈ひとり〉で作戦を練る。作戦の全体図を同志各々が予め知っていることは危険である。部下の同志は与えられた役割を果たすことだけが要請される。〈革命〉における戦士とは巨大な機械の一部品に徹するということであり、こんな非人間的なことはない。一部品に徹する革命戦士は、絵描きがキャンバス上に塗りたくる絵の具のような存在でしかない。一テロリストが〈絵の具〉に徹してまで実現したい〈作品〉(革命後の理想社会)が完成することを信じていたのだとすれば、彼らにとって〈革命〉は〈宗教〉のようなものであろう。シガリョフの想像した世界に関して、彼らはまともにコメントすらできない。想像力の欠如が〈革命〉を絶対視し、自らを英雄的な犠牲者として位置づけることになる。
 ジョージは地図に線を引きながら、最大限に想像力を発揮するが、それはテロの対象である総督の生活の再現に向けてのものであって、テロの根幹へ向けてのものではない。ジョージはテロ信仰者として一義的に屹立した存在であり、そこに内的揺らぎはまったく見られない。

 

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載14


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載14

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

〈総督殺し〉と〈高利貸し殺し〉

   三月九日。
  総督は自分の邸宅に住んでいる。周囲には刑事と衛兵たち。銃剣とようしゃない視線の二重の柵がめぐらされている。
  われわれは少数で、五人しかいない。フョードル、ワーニャ、それとハインリッヒが馭者である。彼らはたえず総督のあとをつけ、監視の情報をわたしに知らせる。エルナは化学者だ。彼女が爆弾の製造をうけもっている。
  わたしは部屋で机にむかい、地図に線をひく。総督の生活を再現しようと試みる。邸宅のホールで、われわれは彼とともに客を迎える。ともに庭園を、柵のむこうを散歩する。ともに夜ごと身をひそめ、ともに神に祈る。
  9 марта.
  Генерал-губернатор живет у себя во дворце. Кругом шпионы и часовые. Двойная ограда штыков и нескромных взглядов.
    Нас немного: пять человек. Федор, Ваня и Генрихーーизвозчики. Они непрерывно следят за ним и сообщают мне свои наблюдения. Эрна химик. Она приготовит снаряды.
   У себя за столом я по плану черчу пути. Я пытаюсы воскресить его жизнь. В залах дворца мы вместе встречаем гостей. Вместе гуляем в саду, за решеткой. Вместе прячемся по ночам. Весте молимся Богу.(7)

 ロジオンが殺しの対象に選んだのは高利貸しの老婆アリョーナであったが、ジョージの場合は総督である。ロジオンはアリョーナを殺し、彼女のため込んだ三千ルーブリの金を元手に事業に着手、成功した暁に恵まれない人々に善行を施そうとた。一つの犯罪は百の善行によってあがなわれると考えたのがロジオンである。このとき、ロジオンは自分を〈良心に照らして血を流すことが許されている〉非凡人の側に置いていた。彼の思いこみは、殺人を犯さなければそのまま崩れることはなかったであろう。が、彼はまさに悪魔の誘惑に唆されたような形でアリョーナの頭上に斧を振りおろしてしまった。
 ロジオンが殺人の対象に選んだ老婆は無力な女である。彼女を警備し守ってくれる者はただの一人もいない。アリョーナ婆さんは異端の宗派に属して年中身ごもっているような腹違いの妹リザヴェータを抱えて、いわば女手一つで功利主義がはびこったペテルブルクを生き抜いてきた女である。ロジオンはこんなアリョーナに微塵の同情も寄せることはなかった。ロジオンは決して想像力の虚弱な青年ではない。マルメラードフの眼から見ても、この青年は〈ものに感ずる心〉を備えていた。だからこそマルメラードフは迫真的な〈告白話〉をロジオン相手に聞かせた。なぜ、そんなロジオンがことアリョーナ婆さんに関しては同情のない生理的嫌悪感しか抱けなかったのだろうか。自分の心の闇の領域に潜む、自分でも決して認めたくないケチ臭い計算高さに激しい憎悪を抱いていたからだろうか。細かい計算をしなければ一日の生計がたたない環境に育てば、ひとは多かれ少なかれ打算的な側面を発揮するようになる。ロジオンの母親の手紙にどれだけ金の計算が出てくるか。プリヘーリヤは息子のためを思ってペテルブルク大学にまで進学させたのではない。プリヘーリヤの息子に対する過剰な思いのうちには、たっぷりと自己愛のアンコが詰め込まれている。ロジオンは母親を殺す代わりに老婆アリョーナとリザヴェータを殺害してしまった青年と言える。
 ジョージをテロリズムに駆り立てている情熱はどこに潜んでいるのか。今のところそれは不明だ。ジョージは自らの内部世界に厳重な柵を施し、他者の眼差しをシャットアウトしている。ロシヤ革命運動の歴史を表面的に検証したところで、テロリストの心の奥深くまで照明を当てることはできない。ジョージはここで殺人の対象が総督であることは語っているが、なぜ総督なのかについてはいっさい語っていない。しかし、老婆アリョーナ殺しよりははるかに革命的合理性がある。ロジオンの場合は単なる殺人強盗という犯罪でしかないが、総督殺しは、革命実現のために国家の有用な人物を殺すという意図が明確である。両者における決定的な違いはロジオンが自らの〈踏み越え〉の意味を、それを実行する前において誰にも表明できなかったことにある。ロジオンの犯罪はあくまでも彼の単独行動であり、同志を募って理想を実現するという意識は初めからなかった。彼には〈革命〉を語り合う唯一人の友もなかった。作者はロジオンの婚約者ナタリヤとの関係を現在進行形で詳細に語ることはなかった。読者はペテルブルク大学へ入学早々のロジオンが学生仲間とどのような議論を戦わしたのかいっさい報告されない。
 ジョージの場合、殺す対象と仲間が明記されており、革命の目的やその意義が詳細に語られなくても、彼と彼の仲間の同志的結合や理論は容易に察することができる。ただし、『蒼ざめた馬』においても、彼ら五人がどのようないきさつで、どのような動機で革命家としての道に踏み込んだのか、その究極のところは曖昧なままである。彼らは〈革命〉によってどのような社会の実現を目指したのか。彼らの何人かは作者ロープシンと同様にドストエフスキーの作品を熟読していたことだろう。わたしに大いなる疑問があるとすれば、ドストエフスキー、特に『悪霊』のような反革命的な小説を読んですら〈革命〉に希望を抱ける青年たちのその意識構造である。自由と平等が実現した世界は人間にとって本当に幸福を約束するのか。この地上世界にユートピアを実現しようとすれば、結果として一部の支配者と多数の家畜のような隷従する人々からなるある種の専制主義的国家を作ることになってしまうという、あのシガリョフ理論をどのように乗り越えたのか。わたしの眼に、ジョージを含め彼らの仲間がその問題を解決したとは思えない。
 〈革命〉は人類の幸福のために実現しなければならないという理論ほど眉唾なものはない。単純に考えてさえ、人間の幸福感は多種多様で、だれもが一緒であるわけではない。人間には様々な欲望があり、悪徳や犯罪と見なされる行為に悦楽を覚える者がいる。人間を一義的善悪観念の檻に入れて調教しようとしても、本来的に無理である。私とあなたの欲望の方向が真逆の場合はともに手をつないで道を仲良く渡ることはできない。ネズミを殺して食うことに幸福を感じる猫と、猫に食われることを拒むネズミが仲良く一つの檻の中で暮らすことはできない。総督を殺し、皇帝を殺して彼らが目指す〈革命〉が実現したとしても、そのことによって不幸のどん底に落とされる者もある。すべての人間を、同じように幸福にすることはできない。

 

以上「藝文攷」19号連載3(2014年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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