ネット版「Д文学通信」3号(通算1433号)。岩崎純一「絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘 ──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──」(連載2)

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ネット版「Д文学通信」3号(通算1433号)           2021年10月25日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第2回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

二、哲人たちの哲学の根底

 

純一少年の苦闘 「知性派ニーチェ」にとっての自我、学問、母、女性

 

 未だ「神」も「宗教」もよく考えなかった子供の頃の私が不思議に思って問うていたことの一つに、「人間はなぜ癌を治さなければならないか」、あるいは「人間はなぜ癌を治さなければならないと思わなければならないか」という問いがあった。狭義には、主語を「人間は」ではなく「先進国の国民は」、「科学文明の民は」などとすべきだろう。また、「癌を」ではなく「身体の病理・疾病一般や精神病理・神経症一般を」としてもよいだろう。

   私は、幼稚園・小学生の頃から、得体の知れぬ怪物が登場する色とりどりの悪夢を見て泣いたり、四十一度の熱を出したり、入院したりする一方で、そんなことをも問うていた。

 ともかく、私の就学時代(小学校、中高一貫校、中退前の大学時代)もずっと問うてきたし、いわゆる社会に(つまりは、自分の人材としての市場価値が勝手に他人の手で上下動する土俵に)出てからも、「病気を治さなければならないと思わなければならない」という暗黙の強制的な社会通念があるのを目の当たりにしてきた。

「病気で人が亡くなると哀悼の意を表さなければならない」という決まりになっているから、自分には縁遠い人でも、上司など目上の人に縁の近い人である限り、逐一その哀悼道徳に従い、お世話になったかのような日々を急いで創作し、お悔やみ申し上げていそうな表情を致し方なく作って、お悔やみ状や香典を出すほかないわけである。

 簡単に述べるならば、「人間は、逐一身体に手を入れて生命を修繕・管理するよりは、死んだほうがましではないか」という、うっすらと今でもある感想を、なるべく忘却したつもりで社会人生活を送ってはいるものの、さすがにしばしば気がおかしくなりそうになるのをどうするかという問題を今も抱えている。

 私のように、「自分自身や他人の病気について何も対応しないという態度が、自然であり、善であり、徳である可能性はないだろうか」とか、「癌で死んだ人に対して笑ったり、よくやったと拍手したりする形式の葬式がどうしてないのか」などと、すぐ少年に戻って疑問に思う人間にとっては、およそそれと思想の異なる人間(社会人)集団が日本社会で展開する冠婚葬祭に参加するのが苦痛で仕方ないのである。

 そこで、中学・高校生の自分なりに調べてみると、古代の歌垣や中世以来の盆踊りの娯楽性がそのまま死者の供養である時期が長くあった上、むしろ環太平洋地域・東アジアの供養文化は悲喜の感情の共存・混合形態のほうが自然だったことが分かってきた。今や真面目な葬式とやかましい盆踊り(阿波踊りなど)は完全に別物である。世話にもなっていない人の死について嘘泣きしなければならないのが、前者である。後者は完全に、和風のふりをした欧米風ダンスと化している。それで、先の巫女たちは多くの盆踊りへの参加を取りやめている。

 以来私は、今後の人生で、どうすれば人の葬式になるべく参加せずに生きられるか、自分なりに考えて生活している。私は、今の葬式は必ずしも供養にならないと考えているからである。結婚式にもほとんど参加しない。とりわけ、浄土真宗の葬式理念には、法華系新宗教のそれに対するのと同程度に疑問を感じる。これは経験した人にしか分からないのかもしれないが、自分がおかしいと思う社会規範との戦いは、単に私が武器を持っていないだけで、実態はほぼ闘争、戦闘に近い戦いであると感じられる。

 ともかく、このような戦後日本社会一般や日本の職場における暗黙の強制力の存在については、ずっと以前、幼少期から感じ取ってはいたが、芸能人の逸見政孝氏の「癌」告白会見を見て、決定的に思い知ることになった。今調べてみると、この会見は一九九三年九月六日、私が十歳の時のことだったようだ。

 私はこんなことに反応して悩む子だったのである。非常に失礼な言い回しにはなるのだが、この会見が、「戦後民主主義現代日本社会、進歩的文化人、昭和のほとんどの大人が作り上げてきた欺瞞精神」を私に認識させた出来事の一つであることをはっきり覚えている。これを見た視聴者は「癌を告白し、癌と闘う人は素晴らしい」と思わなければならないし、癌を告白した側も、視聴者がそう思うだろうと予定して会見していただろう。

 その頃から、自分の体が病に冒された場合に、それを(伝えておかなければ根本的に迷惑を被る可能性のある親族や恋人や友人に対してでなく)職場や学校や全国民に大々的にお知らせすることが流行しており、私にはこれが非常に苦痛である。この流行は、平成時代を通じて見事に完成した。

 しかし、そのような医療と葬式の実務上の問題はともかくとしても、その根底にある人間の「ルサンチマン(怨恨、反感)」と「弱者道徳」のほうが問題である。要するにこれは、大変厳しく言えば、「病気について語ったり立ち向かったり発表したりしている人たちは素晴らしい、そんな自分たち人間は素晴らしい」という、ニーチェの言う「ルサンチマン」と「弱者道徳」を、およそ先進国と日本の国民の多くが「畜群」・「末人」として共有していることによって初めて成り立つ流行だからである。

 これらの人々にとってこそ、肉親や友人は癌になって頑張って死んでよかったことになるし、癌で死んだ人を自己の正当性の維持のために再利用していると言える。根底には、病気が治った人や長寿の人、ひいては病気になったり震災にあったり事故に遭ったりして一躍時の人、頑張る人となった人たちのことが羨ましい、妬ましいという心理がある。これを「平成ルサンチマン」や「平成弱者(群衆)道徳」と名付けてもよいのではないかと思う。

 ちなみに、今単に「弱者道徳」と書いたが、ニーチェは『善悪の彼岸』や『道徳の系譜』で、これを概ね次のように分類しているように読める。

 すなわち、ニーチェはまず、動物の一派としての人間が共同体生活を営む限り自身(自我よりも身体・身体性)と共同体の滅亡への恐怖に基づいて抱えることになる、「安全」と「危機」とを対置させる最古の弱者道徳を、「畜群(末人・畜生・家畜)道徳」と呼ぶ。次に、元来の「畜群道徳」を抱き込んで曲げ、「貴族道徳」の高貴さから離れた、ユダヤ人に典型的な、「清浄」と「不浄」とを対置させる僧職者の弱者道徳を、「僧侶道徳」と呼ぶ。さらに、僧侶的民族(ユダヤ人)の「僧侶道徳」が、その曲げた「畜群道徳」を口実とし、「貴族道徳」に反抗しつつ(自分たちの道徳が本物の「貴族道徳」であるかのように平民に見せかけつつ)発明し、それに煽動された平民のルサンチマンが嬉々として受容し、これを起源に持つキリスト教徒のルサンチマンが発展・普及させた、「善」と「悪」とを対置させる新しい弱者道徳を、「奴隷道徳」と呼ぶ。

 一方ニーチェは、あらゆる弱者道徳を超克し(というよりも奴隷道徳の発祥以前から、畜群道徳・僧侶道徳と共にあり)、「良い」生を目指す、「良い」と「悪い」を対置させる道徳を「強者(君主、主人、貴族、高貴)道徳」と呼んでいる。ニーチェは、最も厳しく断罪されるべきは概ね「奴隷道徳」としつつ、その黒幕を「僧侶道徳」であるとしているように読める。

 ただし、必ずしもそれぞれの道徳に当代の実際の動物的人間、ユダヤ人、僧侶、キリスト教徒、奴隷、君主、貴族などが対応するわけでもない。ニーチェの言う「強者」や「君主」や「貴族」や「超人」は、ただ横柄に指図しているだけの富裕な君主や貴族ではなく、むしろ彼らの「僧侶道徳」や「奴隷道徳」を打ち破る勇者や戦士といった意味である。

 しかもニーチェは、「奴隷(道徳)」を痛罵して「畜群(道徳)」と呼ぶことがあるほか、為政者にも奴隷道徳者がいる場合もあれば、ドイツの群衆やユダヤ人にも稀有ながら君主道徳者・超人(まさにニーチェ自身など)がいる場合もあると見ているなど、その語の使い分けは(実は人種差別主義者ではないだけに)不徹底である。

 そのため、本稿でも必ずしも使い分けない。本稿では、強者道徳君主道徳)と弱者道徳の双方を冷静に観察するため、弱者道徳一般には、あえて主に社会心理学上の「群衆」の「群集心理」を転用する形で、基本的に「群衆道徳」なる語を用いるとする。(従って、私が本稿で用いる、弱者・畜群・末人・奴隷の総称としての「群衆」は、むしろハイデガーの「ダス・マン(世人)」に近いとも言える。)

 しかし、私が初めてニーチェを知ったのは、十七歳、一九九九年の頃であり、「ルサンチマン」や「弱者道徳」や「畜群」・「末人」などという語を使って自分の対社会的違和感を自分に説明し始めたのは、高校時代の後期以降である。それまでは依然として、「ほとんどの人は病気になった場合に、どうして治したいとか治さなければならないという気になるのか」、「病気になった人を見て、どうしていたわったり心配したりしなければならないのか」、という私の問いの答えは、同時代に生きている人々を観察しても全く出てこなかった。

「死ぬのがつらい、怖い」という人が周囲にいるが、現在でも改めて考えてみると、この言葉を私が使おうとする場合、単に「死ぬときに、その病気の結末として覚えることになるだろう痛みや苦しみが嫌だ」という意味で使うのであって、「(存在するはずの神や真理、病理の医学的な解決方法を追いかける)自分がこの世からいなくなるのが嫌だ」という意味にはならない。普通は後者の意味で、人間は(正しくは今の日本国民や欧米先進国民のほとんどは、とすべきだが)死が恐ろしいらしい。

 しかし、今の私からすれば、当時から私は、キリスト教の神ではなく「始原の汎神」、「遍在する多神」、「カオス」、「大いなるディオニュソス」を唯一神と見ていたことになるので、私の生死を含む世界の全貌が、私が回避しようとすべきでない「善」(というより「良い」もの・こと、強者の想定内の出来事)である。この「大いなるディオニュソス」は、清水先生の好む表現でもあって、ニーチェの言うアポロン的理知とディオニュソス的情動の双方を包み込むところのディオニュソスの宇宙を言う。

どうしても私には、血を抜くのが恐ろしいとか、注射の針が怖いとか、もう春の花や秋の紅葉が私の五感によって見られなくなるのだけは寂しいとか、幼い息子(私)が入院している姿を見る母が寂しそうなので早く退院しようといった、生々しい直接感覚のほうが自然であると思われたのである。

 私は、幼稚園や小学生のときからこれを先生に向かって主張し、知性の発達が後れている子だと思われていた。中学・高校時代には、表立っては主張しなかったが、考えていることは同じで、それどころか、苦悩しながらも、実は自分のほうが本当は強い道徳の持ち主なのではないかと思えるようにもなってきた。恐ろしいと決まっている(人間が勝手に「恐ろしい」、「長寿の敵だ」と決めたにすぎない)死を逃れるために血を抜いてもらったり注射してもらったりして安心する倫理道徳や、国家・厚労省・病院などを主軸とする生命管理制度のほうが、私には薄々、人間の、日本の群衆の、最大の臆病、腰抜けに思えたものだった。

 それに高校生のときに、自我の卑近な問題から開始されるこのような絶対真理への疑念そのものが、病の期間や死の瞬間における痛覚や不快感の出現・体験よりも自我(自己意識)の消失を恐ろしいと思わない性質を持った人間個体にしか生じない問いであるらしいことに気づいた。あるいは、受験科目の世界史・日本史の細目として宗教や哲学に触れる中で、形而上の存在である「神」というものを追いかける自我を自覚できなくなるのを損失だとか消滅だと思わない人間個体にしか生じない問いであるらしいことが分かってきた。その直後に、キリスト教道徳の転倒者としてのニーチェを初めて知ったわけだ。

 ところで、清水先生はここ数年、病から来る神経痛と闘っている。その闘いが、いずれ訪れる自我の消失を恐怖し回避しようとする打算的自我によるものなのか、そんなことよりも今の今覚えている痛覚に顔が歪むしかなく、早く原稿が書きたいという生命衝動によるものなのか、私はずっと観察していた。結論としては、後者の闘い方であり、その闘い方を、私に似た、あるいは後述の鷗外的死生観によるものと私は理解した。病に対するこのような姿勢は、どうも昔から私に安心感を与えるのである。

 私は難産で産まれ、母親に抱きしめられて育った。母胎で一度心臓が止まり、生まれてこないことになっていたが(翌日の処理の準備が進められていたが)、復活し、奇跡的に生まれてきたのであった。その後もあまりに病弱な幼少年期を過ごしたが、気がつけばこうして文章を書いている。

詳しくは書かないが、母はそのような育てられ方をしていない。一方私は、幼い頃から、現実か悪夢か、実に様々な色や形の模様が頭の中や天井を駆け巡っているのが見え、そのたびに泣いては、すぐに母親が駆けつけた。

 だからこそ、私の自然死の全肯定は、母の愛への敬服と同義である。あんな治療もある、こんな新しい薬が出たと言っては、あちこち体の手入れを執拗に渇望して回る人間は、母の妊娠・出産・抱擁そのものを否定し挑発していることになるがゆえに、巡り巡って自らの生を最初から否定していることになるという原理に気づいてしまった。

 そうしてみると、「人は死ぬのが怖いものだ」とか、「病気と戦っている人は素晴らしい」といった、我々が問答無用に遵守しなければならないと義務づけられている、お坊ちゃま・お嬢ちゃま気取りの(上流階級の意ではなく、ニーチェが言う弱者としての)絶対倫理を作った人種・人間集団と、彼らが勝手に想定・立脚している絶対存在というものがあるはずである。ここで言う義務とは、単なる近代法による義務ではなく、守らないことが反人間的であるかのごとく自覚される奴隷的恐怖心を利用して捏造され、反人間に陥らないために遵守すべき原理と思われている受動的義務のことである。

 大学受験までに、小学校の社会科や道徳、中学校・高校の世界史の授業を今一度振り返って精査してみると、そのような義務設計をしてきた人間集団とは、まずはユダヤ人であり、ギリシャ人であり、ローマ・ラテン人であり、ゲルマン人であり、アングロ=サクソン人であり、キリスト教徒であると分かってきた。要するに西洋人、特に西洋の聖職者・学者である。また、原理的義務とはキリスト教道徳にほかならない実態もいよいよ見えてきた。

 しかし、それ以上に、日本の(自称無宗教の)いい大人が寄ってたかる群集心理こそが、日本の子供たちに西洋的自我とキリスト教道徳の植え付けという恐怖政治を敷いている最たる存在だと知るのに、私の場合、そこからそれほど時間はかからなかった。これが、大学時代にニーチェ哲学さえ中途半端にして、社会人時代の早期に日本思想や日本文化の復権の試み、そして故郷・吉備への懐古と郷愁の再来に進む要因となるのだが。

 以上が、私の少年期における、いや、すでに幼少期の頃の私に芽生えていた、群衆の自我と自分の自我との耐えがたき断層の恐怖と葛藤である。私の場合それは、敬虔なクリスチャンの家に育ったニーチェや、日蓮宗の家に生まれながら自らはミッションスクールへ通いクリスチャンとなった松原寛とは違い、神自体への違和感、信仰への懐疑ではなく、道徳や世界史の教科書で教えられる戦後民主主義、国民道徳、死生観への違和感として始まった。

 とにもかくにも、これまで、「医学」とか「医療」と何気なく呼んでいたものが、つまりは「西洋医学・医療」や「キリスト教医学・医療」であることに、さすがに小学生や中学生の私が気づくはずもなかった。

 これは別に、現代科学・医療を全否定しているわけではなく(実際、私は精神病理学や生物学、物理学、工学にやたら詳しい)、私のような人間は、自分の病気を(単に横にいる)肉親(私を分身として生み出した人)などのためにしか治せないから、現代医療をこれらの人のためにしか使えない、ということを意味しているのではないかいうことである。ごく普通は、自分の現世利益(長寿願望)と来世利益(神仏による救済)のために病院に行くようだが、一方で、自我についての根源的思索に明け暮れつつ、肉親が自分を心配するから病院に行って、頑張って医者と会話している私のような人もいるということである。

 「職場に迷惑をかけて嫌われたくないから、病院に行く」という人までいるが、私がここで述べているのは、これも「群衆道徳に嵌まっていなければ不安だ」という利己主義の変種だということである。

 西洋人の子供にこのような葛藤があるか、未だ私も知らない。正しくは、私は言語学的・統語論的に西洋の幼児の言語世界を観察することによって、西洋人でさえ幼少期には非キリスト教的世界観、汎神・多神論的世界認識を持っている可能性が高いと知っているが、ここでは極度に学究的な説明は省略する。

 こうして私は、高校生のときにニーチェ哲学に出会い、ニーチェの死生観が私のそれに極めて近いことを知って救われることになる。ここから、ニーチェが好きでありながら、ニーチェ恐怖症でもあるという、私の人生が本格的に始まるのである。

 私は、東京大学を受験する前に、ドイツ哲学者の三島憲一の『ニーチェ』(岩波新書、一九八七)を読んで、初めてニーチェに出会っている。これが良くも悪くも、のちの東大中退へとつながる。つまりは、入学直前に永劫回帰と運命愛に出会った男が、その後の大学生活で名だたる教授陣から何か新たに学ぶことがあると期待できるわけがない。

 むしろ、様々な予備校の模擬試験を受けた中学・高校の時期、そして東大の入学試験の合格通知を得たところまでの時期において、私が確認できたのは、自分が東大に受かるということのみである。センター試験形式の世界史は毎回百点を採れること、その他の科目もそれに近いこと、自己採点してみると世界史と日本史のほか数学でも高得点を取れており、まるで数学で東大に入ったようなものであることなど、単に私の「お頭(おつむ)」、「お学力」に関する結果ばかりが、東大受験の思い出である。しかしそれを、東大には必ず素晴らしい学問世界と哲人の教授陣と友人たちばかりが待っていると勘違いしたことが、結果的に私自身を傷つけた。

 そもそも、受験前から、文系の教師は私に東大の文科が向いていると言い、理系の教師は私に東大の理科が向いていると言った。「君は日本の学校教育制度から外れた人生を過ごすことになり、あるところで急に先生側として大学に呼ばれるタイプだから、文理双方の道から大いに外れておいて構わない」と言った先生は一人もいなかった。先生方としては、そう言わざるを得なかったのだとも思う。要するに、東大の文理系のどちらを受けても受かるというのは、今も昔も私が自分で言っていることではなく、他人が私の成績の表層を見て言っていることの受け売りを私が言っているだけである。

 入学試験を突破できる学力が自分にあると自分で分かった時点で、おそらく私の日本の教育制度の観察は終了したのである。センター試験当日は、とてつもない胸痛に襲われていたことを覚えているが、それでもテストが解けないということはなかった。だが、その後の大学生活のことは、記憶が断片的にしかない。

 覚えているのは、東京大学駒場キャンパス近くの池ノ上駅から小田急線経堂駅までの、「東大からの逃走」と名付けた自転車での避難によって、東大生活は幕を下ろしたことである。無論、教務課への中退手続きは別にきちんと済ませてある。両親は、東大中退については全く何も言わず、それが私の前途を明るくしたことの一つである。大学を中退してから、むしろ周囲の人たちのほうが、「東大を中退するなんて、やはり何か考えることが人と違う天才や哲人だったんだ」と、また私に言い始めたのが大変興味深くも悩ましくもあった。ちなみに、最初に私のことを天才だとはっきり言ったのは、小学二年生のときの担任の先生であった。

 私は大学在籍時、人文学系と芸術系と社会学系の気質・性格と共に、理工学的・数学的な面での知識やパソコンに関する技術・能力も奏功して、西洋音楽の和声法や管弦楽法を一通り独学し、個人で(大学とは無関係に)楽曲も提供していた。

四歳から小学高学年まではピアノを習い、様々な発表会にも出た上、小学校の学習発表会でもいつもピアノや指揮者を任された私である。しかし本来は、今も昔も表舞台に出たい性格ではなく、大学に入った頃には、もはや演奏家・指揮者を務めることはなく、作曲家に徹するようになっていた。幼心にピアノを習いたくなったのも、人前で弾くことではなく、純粋に音の世界に興味を抱いたからだった。

 そのような裏方の理論家としての性格を生かし、大学生活初期の論文演習の必修授業では、ニーチェワーグナーの出会いと決別の音楽理論・音楽美学的側面について書いた。その時の担当教授が、国文学者で「九条の会」現事務局長の小森陽一先生であった。

 入学当初は、小森先生が、今知られるような、街頭におけるマイクを持った絶叫型の演説家で、共産党マルクス主義系の左翼思想をお持ちの先生だとはまだ知らず、授業での物静かな口調の通り、中道左派系の平和主義者だと思い込んでいた。そのため、ニーチェ思想と日本の保守思想の表向きの親和性と相違点という、触れないほうがよいことを語ってしまった。

 訝しげな顔をしながら良い成績を下さった小森先生ほか論文の先生方には、個人的には大変感謝している。だが、当時から何となく、東大の国文・哲学界から求められていないものを私は語ってしまっているという理解はあった。

 共産主義マルクス主義への移行の提唱や中国・北朝鮮賛美の言葉は、これら極左系の先生方の授業中にどうしても出てしまっていたので、教務課も他の教員たちも知っていたはずだが、当時このような極左系の先生方が新入生の必修授業に集中的に配置された理由は、未だによく分からない。いや、新入生が必ず所属することになる教養学部の大学院組織である総合文化研究科が、左翼勢力の学閥であったので、下部組織の教養学部がそれに染まっただけなのだろう。

 実は、私は中学・高校生の頃からX JAPANとそのリーダーYOSHIKIの音楽が好きだったが、YOSHIKIが一九九九年の「天皇陛下(現上皇陛下)御即位十年をお祝いする国民祭典」の奉祝曲を作曲・演奏することが決定した際、公開質問状(YOSHIKIは受取を拒否)を送ったのも、小森陽一先生をはじめとする当時の東大大学院総合文化研究科を中心とする東大極左学閥であった。

 

 私たちは、この(YOSHIKIファンの)「動員」に主眼をおいた「式典」が戦争に(戦争をすることへ)向けて「国民精神」を準備するねらいを持っていると感じています。(中略)

 YOSHIKIさんも御存知のように、この年(一九三七年)蘆溝橋で中日両軍が衝突し、中日戦争が全面化し、日独伊防共協定が結ばれた後、日本軍は南京を占領する際、大虐殺を行っています。(中略)

 YOSHIKIさんは、このような「式典」で、なぜ「奉祝曲」を自ら作って演奏なさるのでしょうか。

(「天皇陛下御即位十年をお祝いする国民祭典」をめぐる「YOSHIKIさんへの公開質問状」 東京大学教員有志、東京大学大学院総合文化研究科教授 石田英敬 小森陽一 代田智明 他、主旨賛同 東京大学大学院総合文化研究科助教授 高橋哲哉 他、一九九九年十一月十一日 より)

 

 YOSHIKIとファンを軍隊・兵士と見るこれらの言葉に、東大合格に向けて邁進する私の心は大いに傷ついたが、その傷でさえすぐに癒えたのは、まだまだこの東大学閥が私にとって遠い存在だったからである。東大入学当初から小森先生らの必修授業を受けることになって、ようやくこの一件を思い出したくらいであった。

 しかし次第に、東大左派陣営全体の行動の激烈化も目の当たりにするわけである。大江健三郎や小森先生が典型的だが、当時の東大の教養・文学部系学閥(大学院組織やOB含む)には、天皇制打倒論者、共産主義者はいくらでもいた。のちに「九条の会」で東大学閥と共に結集した京大系の梅原猛鶴見俊輔とも、まるでトーンが違った。

 ここに、「天皇」とは何か、「国民精神」とは何か、「神道」とは何か、といった問題が私の中に本格的に発生したのである。私は、小森先生の思想にも首肯しないが、小森先生が批判した国家主導の「国民精神」をも、確かに群衆道徳と見て抵抗するのである。

 ちなみに現在、YOSHIKIはただ黙々と、東日本大震災の被災地域をはじめ、世界中の苦しむ人々に莫大な額の寄付を続けている。東大の共産主義マルクス主義者たちとも、「国民精神」の主唱者である政府とも、やっていることが違う。

 当時、私の必修外国語(フランス語を選択)の先生は、大江健三郎と同じく東大仏文科出身の野崎歓先生(当時助教授。現在は早期退職・名誉教授)であった。野崎先生のフランス観・西洋文明観には当時から、ファッションとしての西洋・フランス(パリジャン、パリジェンヌ、シャンゼリゼシャンソンに対する日本人としての典型的な憧れ)を感じ取っていたが、野崎先生は、私の中退後、二〇〇八年に「『赤と黒』翻訳論争」といって、スタンダールの『赤と黒』の野崎先生の翻訳(誤訳)をめぐって大論争を巻き起こすこととなる。まず立命館大学文学部教授の下川茂が、野崎先生の誤訳は数百箇所にのぼると指摘し(下川茂 「『赤と黒』新訳について」 『スタンダール研究会会報』十八号)、他の文学者・作家・翻訳家らも誤訳を指摘したり様子見をしたりしていたが、光文社と野崎先生がその指摘を参考に黙って後追いで改訂し続けた、その学問・文芸に対する態度が、問題にさらに拍車をかけた。翻訳業界と海外文学ファンの間では、出版社と翻訳者の蜜月の悪いお手本として有名な話になってしまった。

 私は、この背後にも、東大の仏文科や総合文化研究科・教養学部陣営が持っていた無国籍的・進歩的左派思想に対して、京大や私立系の他大学の学者・文化人らが持っていた違和感があったと思う。これらの東大左派学閥には今でも、戦後民主主義の進歩思想の継承者として、大江健三郎村上春樹を賛美している先生方は多い。

 私が、言語学に手を出し、とりわけ日本の古典と言語的相対論に基づく人工言語学を自ら確立しようとして、岩崎式言語体系を考案し始めたのは、善くも悪くもこれらの文芸・語学の先生方への違和感からである。

 これまた個人的には、野崎先生ほか文芸・語学の先生方にも大変感謝している。一方では、自分も学問・芸術をやる以上は、東大内の学閥や東大と他大学の争いの構図というものも捉えられていなければならないと思って、自分なりに観察してきた。

 その後、私は仕事の関係で、野崎先生に原稿の執筆依頼を出す形で再会することとなる。これは、ほぼ東大人文系出身者で固められた私の上司・役員陣営が野崎先生を推薦したために、私に自動的に回ってきた実務であった。

 さて、東大入学後しばらくして、在学中の二〇〇一年八月二十二日、百年間続いた駒場寮が強制執行により廃寮となった。その光景を今でも覚えているが、大学側にも学生・寮生側にも与せず、どちらかというと廃寮を望んでいた私には、藤原定家の『明月記』の「紅旗征戎吾が事に非ず」の心境だったのである。私は、いわば自らの心境を藤原定家の言葉に仮託することで、左右どちらの勢力にも荷担しない姿勢を確認し、安心したのであった。

 一方、私がニーチェに活路を見出し、ドイツ語にも手を出すかと思っていた中、東大その他のニーチェ哲学陣営が右傾化し始めたのも、この頃である。ニーチェ学者らが盛んに賛同・介入した「新しい歴史教科書をつくる会」(以下、つくる会)の教科書が登場したのも、私が東大に入った二〇〇一年である。

 西尾幹二小堀桂一郎西部邁佐伯啓思などの保守論客は、皆口裏合わせをしたかのようにニーチェ哲学を学んだ者たちである。その多くがつくる会に参加・関与し、教科書を執筆している。会の結成メンバーである初代会長・西尾幹二の師からして、ニーチェの名訳者、手塚富雄であるが、西尾幹二に見られる、ニーチェ主義を原理主義的保守と考える立場は全く見られない。

 芳賀徹などは、仏文系からつくる会に入り、監修者から理事の座をも占めたが、よくよく見ると、これまたニーチェの名訳者、竹山道雄に師事している。ただし、竹山は独仏両国に留学し、戦前の軍国主義と戦後の左翼思想の双方を同様に批判した。芳賀先生とは後年、野崎先生と同様に、やはり仕事の関係でお会いすることとなったが、私とは全く異なるニーチェの読み方をしており、また私は、芳賀先生の東洋史観・日本史観に接することで、つくる会の上層部が目指す日本国・日本史の性格を改めて目の当たりにしたのであった。

 芳賀先生はまだ穏健なほうであったが、それでも当時(二〇一〇年前後)の時点で、極端な親米(米国追従)主義に立つ一方で、脱欧化の主張を伴う摩訶不思議な国粋主義的発言が目立っており、私としては真正面から聞いていられなかった。「まあ、アメリカの言うことにはついていくしかないでしょう!」という言葉が今も私の耳に残っている。脱亜入欧ならぬ入米脱欧を説く摩訶不思議な親米保守思想は、つくる会のメンバーには珍しくない思想である。

 要するに、ニーチェを正しく読んだ先哲たちの弟子たちばかりが、つくる会側こそが、ニーチェを曲解・誤読しているのであった。つくる会の教科書は、自虐史観の是正以前に、基本的な間違いが多い上、ニーチェをはじめとする様々な独仏・大陸哲学に対する曲解を日本史へ適用し披露する場になっていて、恥ずかしい思いがした(今もする)ものである。

 つくる会はその実態として、日本の右翼というよりも、東大を中心とするニーチェや西洋哲学・学問の曲解・誤読学閥が組織したと言ったほうが、本当は正確だと思う。その曲解・誤読には、意図的に行っている場合と、本当に読み誤っている場合の、両方が混在しているようである。

 小森先生、野崎先生、芳賀先生をはじめ、お世話になった(思想の左右を問わぬ全ての)先生方に対する私の深い感謝の念と、先生方の思想や発言について私が抱いている感想とに、かなり隔たりがあることが多いことが、私自身の中でもかなり厄介であるが、それがまた面白くもある。

 曲解・誤読学閥に属さなかった、真のニーチェ学者、ドイツ文学者・哲学者たる東大の学者には、先の手塚富雄竹山道雄のほか、氷上英廣、秋山英夫、原佑、吉沢伝三郎などがいるが、属さなかったというより、その弟子たちが勝手に後からこの学閥を作ったのである。吉沢伝三郎以外はこの学閥の隆盛とつくる会の誕生を知らずに世を去ったことが、せめてもの救いと言うべきだろう。もちろん、岩波文庫から『善悪の彼岸』と『道徳の系譜』の翻訳を出した東北(帝)大の木場深定や、ちくま学芸文庫ニーチェ全集の翻訳者たちも、真のニーチェ学者陣営のほうの学者である。

 これらの真のニーチェ学者たちは当然、私が生まれる少し前から高校を卒業する前後までに、次々と東大を退官し、この世を去っている。私が見た東大のニーチェ学閥は、全体が曲解・誤読学閥と化し、つくる会に関与・介入し始めてからである。

 こうして私は、どの先生からもニーチェや独仏哲学を学ぶことなく東大を去ったわけだが、この状況でよくも(正しく)東大のほうを見捨ててニーチェのほうを見捨てなかったものだと思う上、どうして東大中心の名だたる頭脳のほうがニーチェの狂気よりもおかしいと判断できたのか、このあたりに、どうやら私自身の哲学、日本論、文化・文明論などの一つの要諦があるのだと思う。要するに私は、私自身(後述する自然信仰的・汎神論的・多神論的「私」)を根拠としてニーチェと向き合うことだけは、この頃からできていたのだと思う。

 水島総らによる「日本文化チャンネル桜」の台頭とニーチェ哲学陣営らの参加も、この頃である。しかも信じられないことに、共産党系・共産主義新左翼の急先鋒だった知識人やネットユーザー・学生たちが、突然、日本だ、天皇だ、保守だと言い始めたので、驚いたものである。

 その走りと言えば、かつての西部邁藤岡信勝である。両名とも、つくる会の重鎮である。二〇一八年一月の西部邁の自殺(氏の自称は自裁死)のときには、水島総ほか保守論客らが西部邁を「実存主義者」だと称えた。私は、つくる会のメンバーのうち西部邁に対してだけはやや違う敬意を持って見ていたので、その死を悲しく思ったし、少しは涙も出たが、私からすると周囲の人間が安易に「実存主義」の語を用いすぎである。ただし、ニーチェが実は「哲学者」や「実存主義者」ではなく「哲人」・「反哲学者」や「実存引き受け者」であるとする私の文脈においては、西部邁は哲人ではなく「実存主義者」、つまりイデオロギーにとどまってしまった人であるとは思う。

 私の東大在学時代における、ニーチェ哲学陣営の(東大を中心とした)全国的な右傾化について、ナチズムがニーチェを利用したときの手法に似ているとまで言うのはやめて、ここでは少しだけ大袈裟に、「東大学閥」や「右翼学閥」という弱者・群衆道徳に自ら陥る学者が多かった、とだけ言っておこう。

 その頃の私のニーチェ論文は全て破棄したので、残っていない。共産主義者の先生に最初のニーチェ論文を提出し、まずいことをしたと気づいたときにはニーチェを誤読した右翼学閥に囲まれていた二十歳前後の若者の心境を、今まさに私自身が思いやるところである。しかし、本稿においてその頃の論文の内容の大部分が、私の記憶をもとに、新たな思想を加味しつつ蘇るであろう。

 無論、当時の論文も、東大の極左思想や伝統的な中道左派思想から、ニーチェを誤解したニーチェ学者らによる日本の伝統の捏造、極右思想までの全部に、違和感を表明するものであった。ただし、日本の古典の美に最も安堵を覚えるようになった私の性格もあって、もはや『新古今和歌集』の九条良経藤原家隆藤原定家らの日本的象徴美をたった一人で静かに愛する心が定まっていき、沈思黙考の日本精神・大和魂を目指すようになったのである。

 いずれにせよ、私は学生期と二十代を、思想の全く異なる先生や同窓生や仕事の上司とばかり関わるという皮肉な「強運」によって過ごしたのである。私はもし、一九八二年以外に生まれ、二〇〇一年以外に東大に入っていれば、中退しなかったかもしれない。だが私は、この年に母に産んでもらったことに感謝している。

 こうして私の場合、前述の死と葬式と大衆をめぐる問題を抱えつつも、ニーチェ的実存の意識的追究よりは、比較的早くから東洋的実存や日本的実存を直接模索するようになった。従って、後述する哲人たち(ニーチェ森鷗外夏目漱石、松原寛、清水先生、巫女たち)の少年少女期・学生期とは、共通点も多いが、全く異なる点もある。清水先生の十八番であるドストエフスキーには全く触れず、神道、仏教、神仏習合、巫女祭祀、日本庭園、和歌、雅楽、書、日本家屋を愛し、京都も旅した。

 ただし、西洋絵画のうち、象徴派絵画や唯美主義絵画や表現主義、とりわけベルギー象徴主義やロシア象徴主義には、大変慰められた。ウィリアム・アドルフ・ブーグロー、ローレンス・アルマ=タデマ、ジャン=レオン・ジェロームギュスターヴ・モローポール・デルヴォーオディロン・ルドン、レオン・スピリアールト、フェルナン・クノップフ、ジャン・デルヴィル、フランツ・フォン・シュトゥック、ヴァレンティン・セローフ、ミハイル・ヴルーベリ、ヴィクトール・ボリソフ=ムサトフ、ミハイル・ネステロフ、イサーク・レヴィタンなどは、私が好んできた画家である。それは私が、これらの絵画にニーチェへの親和性を見出しているからである。

 しかしながら、やや余っていた血気を利用して、中退後の数年間は、三島由紀夫、万場世志冶といった、天皇愛に死した男たちをも追っていた。

 「あなたはいつか、三島由紀夫のようになるでしょう」とは、私が二十三歳の頃に、私の曲を弾いてくれた一人の音大生、ヴァイオリニストの卵の女性が、私に対して述べた言葉である。その真意は、「あなたは三島由紀夫のように力強く天皇論を唱えることになるでしょう」ということではなく、「いつか死ぬのではないかと思える人の音楽を奏でるのは全く面白くない」ということであった。

 そのうち、その周囲のヴァイオリン奏者や管楽器奏者、作詞家、歌手の卵の女性たちの間でも、「岩崎さんは鬱病ではないか」、「そのうち死んでしまうのではないか」という噂が勝手に広まり、わざわざその心配を私に直接言ってきた女性までいる始末で、結局、うち何人かの女性と恋愛関係になりそうなところまで進みながら、誰とも恋愛関係にならなかった。それどころか、かなりはっきりとした失恋に終わっていった。

 一つ言えることは、私の危うさを察知したこの女性たちの発言と洞察力は極めて正しかったということである。同時に、私が煩悶している時期に出会う、ある種の女性たちは、私の死を(死なんとする具体的行為をではなく、思索に身がやられて痩せこける形式の死を)ぎりぎりのところで止める役割を担っていることを知った。この女性たちの一部は、研究所(IJAI)のスタッフとなった。

 しかし、全く不思議なことに、自分の実存の仕方について「日本的実存を呈している」などという言い方をするようになってからも、私は一度クリスチャン(カトリック)の女性(のいわば巫女)と交際している。あるいは逆に、全く交際したこともない統合失調症の女性が、インターネット上で一方的に、神の下における私との結婚宣言を行い(友人女性たちに宛てて投稿し)、症状から目覚めた女性とご家族に謝罪される事態も発生した。

 今思えば、これらの女性たちが私に対して果たした役割も、音楽系統の女性たちと全く同じで、簡単に言うと何度か私の死を防いでいる。これは、清水先生が失恋によって体重四十三キロとなっていたときに、結局は女性たちに助けられた経験の意義と合致すると思う。

 ある意味では、私を助けた女性たちも、本稿で挙げる神道の巫女たちに匹敵する巫女である。しばしば彼女たちも含めて「巫女」と書いてしまう所以は、そこにある。巫女は英語では「medium(媒介者、霊媒)」、要するに神々と交信する者である。一神教では、絶対者・超越者と交信する者である。先の統合失調症の女性についても、当時の私の苦悩を吸い取ったのだと本当に実感している。

 いくらニーチェの「生の哲学」に触れ、生きる意志と自然死(というより、今の日本では病院死、群衆道徳迎合死となるのが関の山で、真の自然死などあり得ないが)を決めていたところで、三島由紀夫のようになる恐れがあった男性だと理解された私は、八百万の神々や「究極の」絶対者を信じる女性の巫女性・聖母性の全てに助けられたわけである。

 最近は、神道儀式を担う本物の巫女たちと、東洋哲学・日本思想上の会話が非常に合うので、議論したり手紙・メールを交わしたり和歌を詠み合ったりして戯れ遊んでいるが、「絶対者の実在を信じることが人間の最大の強さだ」と私に言った、先のクリスチャン女性(巫女)を含むクリスチャンの知人女性たちの信仰と、何がどう同じで、違うのかについては、私の中で学究の対象となり続けてきた。先のクリスチャン女性に限れば、明らかに他の日本のカトリックの聖職者たちと違う絶対者を見ており、神道精神に通じるものがあった。

 改めて、巫女たちや今の私を支えているアニミズム神道、仏教の思想と同時に、それらの自然観とユダヤキリスト教の説く絶対真理との関係、そして一部のクリスチャン女性を含むこれらの女性の勘が見ている「究極的な」別の絶対者と、女性の勘(始原の力)について考えざるを得ない。

 私はこれらの女性たちに、第二の母を感じてきたと言ってよい。女性だけならいくらでもいるが、始原性と母性性と女性性の宇宙論的統合が成り立っているこのような巫女たちの存在は稀少である。今や私の中で、母の原理と女の原理を知ることは、宇宙・世界の原理を知ることと同義になっている。巫女たちと話していると、第二の母胎に入ったような気になることもある。

 私がこのような女性ばかりに出会う宿命の源流は、まさに第一の母、実母にあると思う。私の命を救った最大の存在が母であった。私の母は全くもって巫女体質であり、今私が交流している巫女たちの師になれる人である。昔から数日後に家の裏で亡くなるおばあさんを言い当てたり、枕元に子供が来たり、母が行ってはいけないといった雪道で交通事故が起きたり、数日後の地震を言い当てたりする。今や哲人を自称している私のほうが、母から雲や風の成り行きの観察と鋭敏な直覚による地震予知の報告を受けるたびに、気象庁のウェブサイトに注目し、科学的結果(実際の地震の発生と画面表示)を待機している有様である。

 これを非科学的と言う人は、その発言のほうが非科学的で、そもそも対象の人間や物質に聴診器や顕微鏡を使わずに、自らの体調の変化や変性意識(脳と身体のはたらきの変化)だけで外界を我が事として分かる科学を「霊感」や「神託」と呼ぶのである。「霊感」や「神託」の第一の名前が「母性」である。原始的霊感は純粋経験的直覚の最新科学である。それを担うのが巫女たちである。

 その意味では、私はニーチェや松原寛に似て、母という存在を支柱にして、実にいろいろな女性に出会い、女性たちに囲まれて生きているのであった。私は、母なるもの、巫女的なるものを、哲学や宗教や芸術の言葉で記録すべく産まれてきたと思う。

大学中退後、ずっと動向を追っていた哲学者の須原一秀が、「一つの哲学的プロジェクト」という名目で、二〇〇六年に神社で自死したのだが、この頃になると私は、神道や仏教に基盤を置きつつも、三島由紀夫などの自決の志士たちからは離れた日本的実存を呈するようになっていたので、ほとんど動じなかった。須原一秀は著書『自死という生き方』で、三島由紀夫伊丹十三ソクラテス、自分自身の能動的で快活な自死を群衆に「平常心」で解説・説得する形をとった。

 その後二〇一八年に、前述の通り西部邁自死したが、この時にももはや動じなかった。もちろん、三島由紀夫の場合、その人生の終盤には、「絶対者」という語を、キリスト教の神に対してだけでなく、天皇に対しても盛んに用いていた点が、他の自決者と一線を画する特徴であるが。

 私が注目し、動向を追っている哲学者、学識者や芸術家、文化人の男たちがなぜか順番に自死していく現実には、もう慣れた。私は今でも、これらの男たちの死生観を、群衆道徳で形成された国民の死生観よりはずっと評価しているが、彼らを超人思想の体現者などとは思わなくなったのである。ニーチェの生き証人と呼べる哲人など、戦後日本には元からいないのかもしれない。

 いずれにせよ私は、少年期から二十代におけるニーチェと女性たち(巫女的なるもの)との出会いの体験を通じて、嬉しくも哀しくも、絶対と相対の決闘に放り込まれることとなったのである。そして五年前に、松原寛との出会いが加わった。

 私の自我の苦闘体験が、ニーチェや松原寛、そして今回取り上げた(ニーチェを読んで自らの神道に生かしている)巫女たちのそれらに及ぶとは到底思わないが、あまりに深い関連性を有しているので、記しておいたのである。

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                        発行所:【Д文学研究会】

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清水正「 ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載24) 〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って ──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(9)」「江古田文学」107号からの再録

 

ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載24)

〈もうおしまいになった人間〉ポルフィーリイを巡って

──「回想のラスコーリニコフ」の頃を回想して──(9)」

 

清水正 

 さて、さらに一歩を進めよう。ポルフィーリイは作者と結託しているから、作者の意図に反するような言葉は発しない。特に最後の会見においてポルフィーリイがラスコーリニコフに発する預言者的な言葉はすべて肯定的である。

 それによればラスコーリニコフは神によって命を準備されており、イエスの命に飛び込めば必ず向こう岸へと立たせてくれるということである。まさにキリスト教の予定説を具体的に説かれたようなものである。

 ラスコーリニコフは最初の〈踏み越え〉(アリョーナ婆さん殺し)から最終的な〈踏み越え〉(復活)に至るまで、微塵の狂いもなく〈予定〉(決定)されていたのであり、ポルフィーリイはそれをこの時点で的確に預言していたというわけである。

 ポルフィーリイは作者の思いを忠実にラスコーリニコフに向けている。ラスコーリニコフは作者によって〈復活〉を約束されていた〈殺人者〉であり、ポルフィーリイの預言に対立するような言葉を発することも、さらに預言に反するような生き方(たとえば発狂や自殺やさらなる殺人)を選ぶこともできなかった。

 ポルフィーリイは物的証拠を握っていないのに、ラスコーリニコフに対して圧倒的に優位な立場に立っているように見える。それは彼の発する言葉が、何か実にもっともらしく聞こえるということがある。彼は立場上、殺人者ラスコーリニコフの対極に存在しているが、どういうわけか肯定的な預言者風言葉を一貫して発している。

 ポルフィーリイによればラスコーリニコフは神によって命を準備されており、さらにラスコーリニコフはみんなから仰ぎ見られる〈太陽〉ですらある。こうまで一気に大胆に、肯定的な言葉を発せられると、妙な説得力を感じてしまう。しかし、少し立ち止まって考えれば、ポルフィーリイの言葉はどれも説明を必要とする。

 神によって命を準備されているということは、ラスコーリニコフが命に飛び込めば必ず救済されるということなのか。もしそうだとして、殺された二人の人間はどうなるのだろうか。殺した人間が神の恩寵に授かって救われたとしても、殺された者のことをどう考えたらいいのだろうか。

 ラスコーリニコフの名前は〈ロジオン〉(Родион)で〈薔薇〉を意味し、(иродион〉は〈英雄〉を意味する。これらの意味から〈太陽〉を連想させないことはないが、しかしポルフィーリイが「太陽は、まず第一に太陽でなければなりません」と断言できるほどにラスコーリニコフが〈太陽〉的存在であったとはとうてい思えない。第一、〈太陽〉が斧など手にして二人の女を殺したりするだろうか。ポルフィーリイはいったい何を根拠にラスコーリニコフを太陽などと言い出したのだろうか。

 『罪と罰』を読む限り、ラスコーリニコフは〈非凡人〉でもなく、ましてや古今東西の万人が仰ぎみてきた〈太陽〉ではさらさらない。ラスコーリニコフは母親からは二百年の伝統を持つ由緒あるラスコーリニコフ家の再建を使命づけられた青年であったが、ポルフィーリイからはみんなから仰ぎ見られる〈太陽〉になれとまで言われている。

 このような過剰な期待を背負わされた青年が屋根裏部屋での思索生活から追い出され、悪魔に唆されて殺人行為に走ってしまった。いったいこの〈悪魔〉とはどういう存在なのか。

 わたしの目には、この〈悪魔〉は〈神〉と結託した存在、つまり「創世記」の〈へび〉、「ヨブ記」の〈悪魔〉と同様の存在に見える。どういうわけか〈神=悪魔〉はラスコーリニコフに最初の〈踏み越え〉を行わせることで、最終的な〈踏み越え〉(復活)へと至らせたかったように見える。これが作中の〈神=悪魔〉がラスコーリニコフに〈予定〉したことであり、作者がそのことに同意したことで決定づけられたのである。

(「江古田文学」107号からの再録ですが、ネット上で読みやすくするため改行を多くしてあります)

 

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「清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。(連載7)

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清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。(連載7)

【8】

 私は「表現する情熱」とは "出会い" と "好き" から来ていると考える。

 清水先生の展示会を見学している時に強く感じたことだが、自分の人生をも変えてしまうほどの本や作家に "出会い"、そこから生まれ育まれた "好き" という感情から溢れ出す情熱は絶えることがなく、この情熱こそが表現活動へと繋がっているのだと思う。"出会い"、そして "好き" という感情がなければ、何十年も研究や批評などできないだろうし、あんな膨大な量の作品や本ができるわけがない。

 また、文芸学科の人や文学に携わる人は何気なく手にした本から微量でも情熱をもらっているのではないかと思う。それでももっと大きな情熱を求め日々作品と触れ合っている人もいれば、すでに自分の人生を変える本や作家に出会え、情熱を注ぐ人もいるのだろう。清水先生がドストエフスキー作品に出会ったように、私も人生を変えるほどの一冊の本や一人の作家に出会いたいと思った。

 ここからはレポートというより感想となってしまうが、清水先生の手書きの生原稿を見た瞬間、「これが文学に対する情熱なのだな」と深く感じた。手書き(筆圧など)がまた一層味が出ていて、情熱の塊のように思えた。手書きの原稿だからこそ感じ取ることができる情熱がそこにはあった。清水先生の講演を通して、文学作品との向き合い方を改めて学ぶことができた。中でも、苦手な作品のパッと気になったページを適当に開いて読んでみる楽しみ方や翻訳された本を一人が訳した物だけで満足するのではなく、色んな人が訳した物も読んで比較することの意義(その大切さ)など、たくさん心にしみる話があり、とても面白かった。

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清水正ドストエフスキー論全集 第1巻~第11巻

 

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ネット版「Д文学通信」2号を発行します。岩崎純一氏の松原寛論を連載します。今年は日芸創設100周年の記念すべき年に当たる。創設者松原寛の哲学、思想、芸術観を総合的に検証した論文です。

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ネット版「Д文学通信」2号(通算1432号)           2021年10月22日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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連載 第1回

絶対的一者、総合芸術、総合感覚をめぐる東西・男女の哲人の苦闘

──ニーチェ、松原寛、巫女の対比を中心に──

 

岩崎純一日大芸術学部非常勤講師)

 

 序

 

 私が私淑している過去の偉人は多くいるが、本稿ではその中でも哲学者の、いや、哲人のニーチェと松原寛(日本大学芸術学部の創設者)を主に取り上げたい。この二人を中心としつつ、古今東西の哲人たちが、「絶対者」、「一者」、「真理」、「神」などと呼ばれている至高存在をめぐってどのような哲学、宗教論、芸術論を繰り広げてきたかを、見ていきたいと思う。

 一方で、私はここ十五年ほど、私の故郷である吉備・岡山の在住または出身で、特殊な立場にある巫女や歌道家の子女たちと、「絶対者」、「一者」、「真理」、「神」概念について議論する機会を持っている。これらの女性たちは、主に非神社本庁系・非伊勢神宮系・非神社神道系の神道(いわば多神教である神道のうちの異端派)を女系で継承している。最近は、他の山陽・瀬戸内地方や出雲、九州、四国、兵庫、信州などの巫女もこの議論に加わっている。

 そこで本稿では、これらの女性たち(とその母、祖母、曾祖母)が西洋の哲学概念や神概念にどのように対応し、近現代・戦後日本を生きてきたかにも、並行して触れたいと思う。あるいは、ニーチェや松原寛のような哲人の男たち、同じく男性である私が経験してきた苦闘を、これらの巫女たち(つまりは、神々との交信者、母なる存在、我々男性の源泉としての女性たち)の思想や神々の概念がどう包容・抱擁できるか、その可能性にも迫りたい。

 これらの巫女の多くは、女系の巫女家・社家の出自でありつつ、歌道家出身の子女や歌道の継 承者をも兼ねており、一部に旅館の仲居・女中や舞妓もいる。そのほか、私の作曲した交響詩、協奏曲、幻想曲、巫女舞バレエ音楽などのモデル、弾き手、舞い手、踊り手、女優、バレリーナとなった巫女もいる。巫女としての神事や勤務のない普段は、ごく一般の職に就いている女性もいる。

 そのため、本稿では、私と神道観・歌道観・芸術観を共有しているこれらの神道・歌道・芸術系列の女性たち(巫女家・社家の出自の女性たちから、私の芸術活動への協力女性としての巫女たちまで)を、総称して単に「巫女」と記す。

 それにしても、私という人間の故郷、我が生き方の本拠だと感じている学術研究、原稿執筆にこうして時々戻ってくる機会があることは、幸せである。今回も何枚書いてもよいと言われたが、およそ一年半近くの時間があるということで、いつもより思う存分に書いてみようと思うのである。

 今回も日本大学芸術学部(以下、日芸)文芸学科の清水正先生より執筆依頼を頂いたが、先生は二〇一五年から一六年にかけて、日大病院にご入院中にもかかわらず、一枚四百字×約四百枚の松原寛論を『日藝ライブラリー』No.3の松原寛特集に寄せている。ひとまず、それよりも多めとなることを目標に書くとしたい。改行の数にもよるが、一日四百字としても約四百日で目標に達するから、ちょうどよい具合になるだろう。

 やや愚痴を書いておくと、平日は、大学・学術研究とは無縁の職の雑多な激務(実務、その他の後始末、諸人間関係トラブルの処理)に忙殺されているため、ほとんど有意義な読書や原稿執筆の時間が取れない。時間が取れるときも、あまり集中できない。上からも下からも私に責任が降ってきて、人の代わりに片付ける、謝るという作業を繰り返しているが、慣れてもやはり違和感がある。労働というものは、本来、二・三時間で済む仕事が二・三日かかる事態の発生の繰り返しである。それに、仕事内容は増えることはあっても減ることはないという現実にも、いつも憂鬱になる。帰宅するとぐったりである。

 私はいわゆるパソコンマニアで、パソコンと自分の著作物アーカイブの管理環境を自室に自作・構築し、大きなディスプレイで作業しているのである(全てを仕事と学術研究と著作物の管理に費やしている)。

 ただ、最近ようやくスマートフォンを使い始めたため、今回から通勤・退勤の満員電車内で立ったままスマホで原稿を入力し、これを自宅のパソコンに移動、蓄積させる方法を取り始めた。しかし結局、スマホでやることと言えば、その日の労務で発生した問題の記録ばかりになってしまい、原稿入力は稀にしかできない。

 そうかと言って、そのような日常の労務からの逃亡先である大学の担当授業も、どこまでも突き進み、深めてもよい学術研究や原稿執筆とはやはり異なって、学生の興味に合わせて話をしてしまう。自分の授業と原稿とを少しは関連付けたいものだが、私が授業で話している内容は、私の原稿執筆に一切借用できない。二〇一九年四月の非常勤講師としての初授業から難解な学術色を抑えて話しているつもりが、それでも学生からは「岩崎先生の授業はとても難しい」と言われてしまい、私もこんなご時世に学生の頭を混乱させることが本懐ではないので、より学生に合わせようと気を遣うようになってしまった。(つまり、それだけ今の学生たちとも語り合ってみたいということである。)

 そのため、残された休日ばかりを学術研究や執筆や読書に充てているのである。しかし、毎週巡ってくるその休日とて、心底休んでいる気がしないことも多い。私にとっては、睡眠も学術研究・原稿執筆も「休む(無理をして生きることから全力で逃亡し、元祖の私自身と一体化、憑依する)」ことなのだが、これに集中できる時間は貴重である。

 むしろ、労働から離れて学術や原稿にのめり込んでしまうと、翌週に労働に戻れない気がするので、のめり込まないように注意しているところがある。時々、清水先生が主宰の、同心房で行われている火曜会(日藝文士會)に伺うときなどは、何とか江古田駅に降り立った瞬間に雑務のことは忘れなければと苦心している有様である。

 普段は目上の人々や他社に頭を下げる仕事をしていながら、突如として助教や助手や学生から「岩崎先生」と呼ばれるようになったことについて、まだ私の中では解決が付いていない。一応は大学教師の一人であるという自覚がほとんどない。学校教育法や教育基本法文科省の方針のもとに展開されている日本の学校教育制度の一員に入ったという自覚がない。一方で、学問・芸術の徒であるという自覚だけがある。それに、先生であることを無理に自覚した暁には、私の目指す学問・芸術が衰退を迎えるであろうとも思うのである。

 常々激しい緊張・闘争疲労状態にありながら、実際この通り生きていられるのは、私の特質のようである。それは私自身が、本稿で論じるような、誕生時・幼少期から変わらない元祖「自分」が哲理上で見えている証拠でもあると感じる。私は、いかなる社会的立場にあっても、言うこと書くこと、やること為すことを変えないできたことだけは自負している。

 その根底には、本稿で述べる「始原の存在」についての総合感覚による直観と解釈と思弁の一貫性があると思う。それに、ニーチェや松原寛や知人の巫女たちを思い出し、彼らのほうがよほど真正面から苦難を生き抜いてきた哲人ではないかと私自身に言い聞かせ、何とか生きている。今回も、かなり危うい、面白い心理状態で原稿を書き始めるのであった。

 

一、ニーチェ、松原寛、巫女との邂逅

 

 さて、今挙げた人物たちに私が出会った順序を書けば、まず高校時代の終わりにニーチェに出会い(を初めて読み)、次いで社会人となってから歌道・神道郷土史の研究の過程で巫女たちと出会い(実際に会い、和歌を詠み合ったり神道・宗教・哲学を語り合ったりし)、次いで三十歳を超えてから松原寛に出会った(を初めて読んだ)のである。本稿のタイトルでその順序を前後させてあるのは、本稿における論の展開上の事情からである。

 ニーチェには、誰かから教えてもらったわけでもなく、書店で突然の閃きにより出会った。巫女たちにも、神秘的直観により、神社や神道・和歌関連の文化事業やインターネットでほとんど自分から声を掛けた。つまり、ニーチェと巫女との出会いは、当初から私自らの直接行動が生み出したものと言える。

 一方、松原寛との出会いについては、清水先生および同じく日芸文芸学科のソコロワ山下聖美先生とのご縁に始まるものである。二〇一五年、山下先生を通じて清水先生(当時、日芸図書館長)にお目にかかり、清水先生が松原寛の著書三冊(『現代人の宗教』、『宗教の門』、『生活の哲學』)のコピーを下さり、松原寛論の寄稿をご依頼下さったのであった。私は松原寛を面白いと思い、その他の松原寛の著書も読み、まもなく『日藝ライブラリー』No.3の松原寛特集に寄稿した。従って今回は、松原寛関連の二作目、続編ということになる。

 もっとも山下先生は最初、私がソースコードから文章・内容まで丸々自作し運営していたウェブサイト(芸術、哲学の内容多し)を通じて、私に「一度日芸で、人間の知覚と芸術について講義をお願いしたい」と連絡を下さったのであり、山下先生と清水先生と松原寛との出会いも、私の周到な用意が生じさせたものだという矜恃がないではない。ウェブサイトを制作し公開する最新技能を持っていてよかった、などと我ながら思った次第である。

 しかし、やはりこれらの出会いと交流の多くは先生方、そして松原寛こそが生み出したものであり、深い感謝しかないのである。これが私と日芸創設者・松原寛との縁の由来である。

 いずれにせよ、ニーチェ、松原寛、諸先生方、巫女たちとの出会いの全てが、閃光のごとき邂逅(偶然の出会い)でもあり、運命的必然でもあるわけである。

 ところで、私のことを「知性派ニーチェ」と呼んだのは清水先生である。後述の通り、これは実は評価というより(それもあるかもしれないが)、皮肉も込められた両義性を持つと考えるのである。ともかく私は、二〇一五年以来、日芸でゲスト講師として毎回単発で講義を行ってきたが、二〇一九年度から文芸学科の非常勤講師となった。いわば松原寛芸術学園に正式に入門し、「知性派ニーチェ」として学び、教えることとなったわけである。

 その日芸は、二〇二一年には創設百周年を迎える。今のところ日藝文士會における清水先生の提案にすぎない『松原寛全集』と「松原寛記念館」は、何としてでも実現すべきだろう。私は、この計画に無理矢理参加するつもりである。日芸自身が松原寛の功績をほったらかしにしておいてはいけないだろう。

 一方で、私が出会ってきた巫女たちは、その神道の道統と祭祀上は、今でも「巫(かんなぎ)」、「神の依り代(憑り代、よりしろ)」、「斎(いつき)の巫女」、「斎女(いつきめ)」、「御杖代(みつえしろ)」などと呼ばれている、託宣の担い手である。「審神者(さにわ)」と呼ばれる審判者を兼ねる巫女たちと、その代表の巫女頭(みこがしら)もいる。その中には、自らの神道思想や和歌活動、何より国家・政府や神社本庁系・神社神道系の神道権力への抵抗運動との関連において、ニーチェを好んで読み、ニーチェ並みの背徳主義を自認し、価値転倒を目指している巫女もいる。あえてキリスト教神秘主義や西洋魔術の秘儀を学んでから、吉備や出雲など地方の土着神道に帰ってきた巫女もいる。

 そのため、私は彼女たちと異端哲学・宗教の論議を交わすことが多いのであるが、その中で最近は、あえて松原寛の思想についても触れてみている。それに私は、巫女たちが長らくその神道・歌道を継承する候補者を探していた中、候補者に望む様々な思想、学問、地理、出自上の条件を満たしていたこともあり、巫女たちの一部の家伝、秘伝、秘儀や和歌の書、歌道の継承を東京在住のまま依頼されている立場にもある。

 今現在、私の学術サークル群と先のウェブサイトは、「岩崎純一学術研究所(Iwasaki Junichi Academic Institute、IJAI)」として機能しており、スタッフにはこれらの巫女たちが多い。私がこれまで創作してきた芸術作品の著作権管理なども手伝ってくれている。この研究所は、従来の日本が保有している知の体系の間隙を突いて探究する意で、「知のすきま(Niches of Episteme)」を標榜している。「エピステーメー」とは、フーコーの用語である。

 私の作曲した巫女舞バレエ音楽を舞ったり踊ったりした巫女やバレリーナも、研究所に一部参加している。趣味や仕事として私の学術活動の各分野を手分けして手伝ってくれる代わりに、私が巫女たちの歌会遊びに和歌を詠進したり、私蔵している和歌の貴重書を提供したり、吉備の神道関連家伝を継承・復元し東京で発表したりする役目を担うことになったので、その整理も進行中である。

 和歌の方面では、私は岡山の正宗文庫やノートルダム清心女子大学などが出版した古い歌書を持っているので、それは日芸の授業にも持参して使用するなど、日の目を見ている。岡山のミッション系女子大学・女子高校は、全国的に見ても日本の古典に関する優れた知を蓄積していると思う。私は、岡山の神道の巫女とクリスチャン女性たちの協同を応援している一方、各社家の男性当主や岡山県神社庁の歴史に対する態度には甚だ不満を持っている。

 いずれにせよ、巫女たちと一部のクリスチャン女性やバレリーナ岡山県内の自宅や神社の社務所、巫女神殿で名乗っている「岩崎純一学術研究所 吉備支部」は、いずれ東京の私のところに集約されることになっている。

 ところで、かつて日大(日本法律学校)は、本稿で取り上げる戦前の神道界(国家神道教派神道の双方)と蜜月であった。日大は、学祖の山田顕義らが創設し自ら所長に就任した皇典講究所で講義を行い、その後大学内部に神道講座を開講し、さらに、総長の山岡萬之助や神道家の今泉定助らが同じく大学内に皇道講座を開講し、皇道学院を創設した。松原寛が日芸を創設・拡充した時期を含め、当時の神道界と日大の関係を知る巫女の子孫である巫女たちも、私の身近におり、彼女たちがくれる情報も重宝している。当時の巫女たちは最終的に、日大、國學院、皇學館などを含む神道教育界のいずれからも排除されている。

 そこで、今の機会にニーチェ、松原寛、神道の巫女たち、という対比を「絶対者」、「神」との向き合い方において取り上げるのは、非常に面白いと思った次第である。

もっとも私自身は、東洋哲学、日本精神、「日本的なるもの」、そして「古代吉備的なるもの」の申し子だという自覚がある。だがここでは、いずれかの立場のみの肩を持つわけではなく、ひとまず洋の東西の真ん中に立って、西(ニーチェ)と東(松原寛)を観察したい。そして、哲人男子たちを生み、育て、見守ってきた、大きな母なる存在としての巫女たちの思想を観察し、これらの思想を取りまとめた哲学概念や神概念、総合芸術、総合感覚概念を目指したいと思う。

 ニーチェに影響を受けて生きてきた上、東京で故郷岡山の巫女の思想を受け継ぎ、ここに来て松原寛の創設した芸術の学園たる日芸で教える立場になったとなれば、それぞれの思想を私なりに吟味し継承していきたいと思うのである。

 ところで時々、何を間違えたか、私の総合学術活動全般に憧れたのか、私に入門したいという男子たちがいるが、断っている。私と巫女・歌道子女たちとの間には、それに近い関係が成立しているが、むしろ私のほうがニーチェ日芸、松原寛、清水先生や巫女、歌道子女たちに入門していると捉えているくらいである。巫女たちとの師弟関係は、結果的には有耶無耶のところもある。

 ただし、もし本当に私が弟子をとるならば、これらの巫女をはじめとする限られた女性のみを選ぶと思う。私の思想では、男の弟子は女しかあり得ないと思う。清水先生も、「男は弟子にしない」とよくおっしゃるが、この点はどうやら私も同じ方針のようである。

 現時点でも、私の学術研究所を手伝ってくれているスタッフは、ほぼ全員が女性、しかも巫女や歌道家の子女が多いのである。男だと、どうしても断りたくなる。

 それは私が男として、「知性派ニーチェ」のような鋭い指摘をしてくる男の言動しか信じていない上、そのようなニックネームが付いた意味と、双方の距離感が相互に瞬時に分かってしまった男同士は師弟関係になる必要がないと考えているからかもしれない。あるいは、男が他の男の技芸なり思想に憧れて(嫉妬・羨望して)入門を考えた時点で、その男は生涯何の技芸も思想も持たないで終わるだろうと、私は予想しているからかもしれない。あるいは、私に対して(直接、あるいは霊的至言によって)そのような鋭い指摘をしてきたのは、清水先生やニーチェや松原寛のような数少ない男性(とその亡霊)を除いては、大抵が女性でもあり、私が現代日本の男に絶望していることにも起因していると思う。

 これは、後述したような、森鷗外ら明治の哲人文豪における自我の葛藤問題への、戦後日本の男たちによる無理解・無関心とも関係してくる。この鷗外の自我の葛藤の意味を分からない男ばかりが日本に増えているが、その一方で、意味が分かっている女性が私の周りに何人もいるのが幸いである。

 

  

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図一《ニーチェの肖像写真》Gustav-Adolf Schultze, Naumburg, early September 1882, Nietzsche by Walter Kaufmann, Princeton Paperbacks, Fourth Edition.

図二《松原寛の肖像写真》日本大学の歴史(https://www.nihon-u.ac.jp/history/)、一九三七年頃

図三《古代の巫女を想わせる現今の神子》中山太郎 『日本巫女史』第一篇第五章第一節「巫女の呪術的作法」、一九三〇年以前

 

執筆者プロフィール

岩崎純一(いわさき じゅんいち)

1982年生。東京大学教養学部中退。財団事務局長。日大芸術学部非常勤講師。その傍ら共感覚研究、和歌詠進・解読、作曲、人口言語「岩崎式言語体系」開発など(岩崎純一学術研究所)。自身の共感覚、超音波知覚などの特殊知覚が科学者に実験・研究され、自らも知覚と芸術との関係など学際的な講義を行う。著書に『音に色が見える世界』(PHP新書)など。バレエ曲に『夕麗』、『丹頂の舞』。著作物リポジトリ「岩崎純一総合アーカイブ」をスタッフと展開中。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                        発行所:【Д文学研究会】

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2021年9月21日のズームによる特別講義

四時限目

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清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月

 

ネット版「Д文学通信」を発行することにしました。ネット版「Д文学通信」第1号は当ブログに掲載した番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」の連載1と2、それに未発表の3回目を加えて一挙掲載することにしました。感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

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ネット版「Д文学通信」を発行することにしました。

清水正の著作、レポートなどの問い合わせ、「Д文学通信」掲載記事・論文に関する感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。

 

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ネット版「Д文学通信」1号(通算1431号)           2021年10月21日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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  ネット版「Д文学通信」を発行するに当たって。

   清水正(編集発行人)

「Д文学通信」は1991年1月1日に第1号を出し、2017年11月3日に1430号を出して中断しています。わたしの気まぐれの性質のため、「Д文学通信」は4ページ、8ページ、16頁仕立ての時もあったり、288号のときは160頁であったりと形式は自由、発行も一日に20号出すときもあったり、一年に1回の時もあれば0回の時もありと、まさに形式にも時間にもとらわれずに気ままに編集発行してきましたが、それでも約30年の間に総ページ7372を積み上げてきた事実には我ながら驚いています。

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 2016年に日大病院を退院、翌年の2017年に「Д文学通信」を久しぶりに編集発行して「帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー」を17回にわたって連載しました。が、神経痛の影響は大きく、「Д文学通信」はすでに三年半も刊行できずにいます。それで今回、当ブログでネット版「Д文学通信」を編集発刊することにしました。( )内にはペーパー版を引き継いだ号数をいれてあります。ちなみに「Д文学通信」は「デーブンガクツウシン」と読み、「ドストエフスキー文学通信」の意味ですが、このミニコミ通信においてはペーパー版と同様、ドストエフスキーにかぎらず小説、漫画、映画、絵画、芸能などに関するエッセイ、論文なども取り上げることにしたいと思っています。

 ネット版「Д文学通信」第1号は当ブログに掲載した番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」の連載1と2、それに未発表の3回目を加えて一挙掲載することにしました。感想などあればわたし宛のメールshimizumasashi20@gmail.comにお送りください。随時、ネット版「Д文学通信」に掲載し、誌面を活性化していきたいと思っています。よろしくご協力のほどお願い致します。

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    小沼文彦氏が校正した

    ドストエフスキー全集

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         番場恭治

 

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小沼文彦氏が自ら校正したドストエフスキー全集

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小沼文彦氏(1986年11月14日、江古田「和田屋」にて)

 ロシア文学者の故・小沼文彦氏が自ら校正したドストエフスキー全集(筑摩書房)を、東京・神保町の田村書店で購入した。今年七月中旬、東京五輪パラリンピックが始まる直前の時期のことだ。全集を補う『ドストエフスキー未公刊ノート』とセットで計二十万円もしたので当初買うつもりはなかったが、興味本位で見せてもらった。試しに第六巻『罪と罰』を手に取ると、表紙は手あかで汚れ茶色く、少し臭いもした。ページをめくると、赤や青、緑、黄色の鉛筆を使って、びっしりと校正した跡がある。名前しか知らなかった訳者の息づかいが伝わってくる気がした。田村書店の方から「世界で一セットしかない全集ですよ」と耳打ちされた。ちょうどボーナスの時期だったこともあり、所有していた筑摩書房ドストエフスキー全集を買い取ってもらい、差額を払う形でこの校正本を購入した。

 おそらく再版の際に翻訳の正確さを期すため、あらためて校正をしたのだろう。手書きのメモがはさんであり、登場人物の名前のほか、地名や動物といった特定の単語の翻訳に誤りがないかどうかを調べていたことがわかる。「いきなり」や「不意に」といった似た意味の副詞を黄色く塗ってチェックしていた。既に刊行した全集だったためか、翻訳を大幅にあらためるわけではなく、修正は最小限にとどめたようだ。

 小沼氏は一九一六年つまり大正五年生まれ。もし生きていれば百五歳になっている。在野でロシア文学の研究を続けた自身について詳しく語らないまま八十二歳で死去した。経歴をネットで調べても、ユダヤ人へのビザ発給で知られる杉原千畝の義弟に当たるというようなことがウィキペディアに書いてある程度だ。ただ、残された文献や関係者の証言を総合すると、小沼氏はソ連による収容所での抑留体験、晩年のてんかん発症といったドストエフスキーを彷彿させるような経験もしていた。

 清水正先生は大学生のころ週に一度のペースで小沼氏のもと訪れていた時期がある。今年5月に刊行した『清水正ドストエフスキー論全集11』で「とにかく小沼氏は裏表のある性格で、嫉妬や憎悪の感情も激しく、怒りの発作に襲われると自分でも感情のコントロールができずにしょっちゅう苦しんでいた」と興味深い人物像を紹介している。

 今年はドストエフスキー生誕二百年にあたる。小沼氏が全集の刊行を終えてから三十年でもある。校正本を入手したのをきっかけに、小沼氏の生涯について簡単にまとめてみようという気になった。私自身が通信社で外国語と格闘する仕事をしてきたことも、著名な翻訳者への関心につながっている。小沼氏は若いころ、米川正夫をはじめロシア文学の先達に批判的な文章も雑誌に書いていた。今の時代、同じ分野の研究者に向けた舌鋒鋭い文章を目にすることは滅多にない。日本の学会の問題点を突いている分析でもあり、引用が長くなっても紹介しておきたいと思った。清水先生の論文には小沼氏との交流がたびたび登場するが、若い学生にとって過去の人物になりつつあるのは否めない。詳しい人物像を伝えることにより清水先生の弟子や孫弟子にとって研究の一助になるのではないかとも考えた。

 

【1】東欧で10年ロシア語学ぶ、終戦ソ連に抑留

 

 小沼氏は、自伝のようなものを残さなかったが、五十歳でカトリックの洗礼を受けるまでの生き方を『月刊キリスト』(教文館)に寄せた「『悪霊』に導かれて ドストエフスキーと私と聖書」(一九六七年十一月)で語っている。わずか六ページの文章ではあるが、かなり率直に胸の内を述べているように感じる。その後、亡くなるまでの生き方については、清水正先生が「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」(『江古田文学41号』、一九九九年十月)をはじめとした論文で取り上げている。これら二つの文章を柱にすれば、小沼氏の生涯をある程度はたどることができる。引用は、断りがないかぎり「『悪霊』に導かれて」からである。

 小沼は「おぬま」ではなく「こぬま」と発音する。一九一六年三月二十一日に双子で生まれ、七カ月の未熟児だったという。ドストエフスキーの没後、三十五年が経過していた。第一次世界大戦のまっただ中であり、この年の五月に夏目漱石が『明暗』の連載を始める。翌年にロシア革命が起きた。埼玉県浦和市(現さいたま市)の出身で、六人兄弟の末っ子だった。秀才ぞろいだったようだが、運動神経抜群の小沼氏は、どちらかというと勉強は不得手であった。

 

 秀才の誉れをほしいままにした兄達とはちがって、学校へ行っても休み時間以外はまったく意気のあがらない劣等生でした。「どこの家庭にもしいなっ児といって出来そこないがいるものだ」と面罵する教師もいれば、「子供の時に脳膜炎でもやったのではないか」と真顔になってきく教師もいましたが、なにを言われても恥ずかしいとも思わず、へらへら笑っていたのですから、先生方もきっと手を焼いたにちがいありません。ところが学科のほうは劣等生ですが、体操では全校のスターで運動会の花形、弁論大会に出れば県下、全関東、全日本とこれまた優勝につぐ優勝なので、先生方も呆れて物が言えない始末です。

 

 慶應義塾大の文学部哲学科で学んだ。専攻は心理学だった。在学中にNHKの試験にも合格し「雑駁な知識だけは誰にも負けない自信がありました」と語っている。兄の小沼十寸穂(ますほ)氏も慶応義塾大で学び、医学部を卒業後に広島大教授を務めた。精神科が専門で、原爆の影響を記録した「小沼ファイル」が最近でも地元の新聞で取り上げられる。小沼氏はこの兄にいろいろなことを相談していたようだ。

 

 いま広島大学の医学部の教授をしている長兄が、そんな(注:体操に熱中している)私の行末を案じて運動などはやめて、もっと勉強するように意見してくれましたが、ちょっとやそっとの意見などで運動がやめられるものではありません。医学博士なんかは掃いて捨てるほどいるけれど、選手権保持者はひとりしかいないんだぞなどと、そのころ若くして学位をもらったばかりの兄にいやみを言う始末ですので手がつけられません

 

 体操に熱中していた小沼氏は突然、ドストエフスキーに目覚める。初めて読んだのは中学三年のころに中村白葉が翻訳したものだった。大学生になってドストエフスキーの作品を読み直した。

 

 三田(注:慶應義塾の所在地)の山の上の体育会ホールの合宿の一室で、教科書以外は本などは一冊も読まない仲間から離れて、二度目に読んだ『罪と罰』と『カラマーゾフ兄弟』が、私にはっとこの先生(注:紅露五郎)のことばと、亡くなった兄のことを思い出させてくれたのです。

 

 この兄は、二十六歳で亡くなった小沼達(いたる)氏である。一九〇三年生まれなので十歳以上も離れている。小沼氏はドストエフスキー全集の翻訳を終えた後、雑誌『ちくま』(一九九一年八月)に掲載したコラム「命なりけり」で「トゥルゲーニェフの薄い文庫本一冊を残して、若くして世を去った兄の遺志を継ぐ決心を固めさせました」とより踏み込んで当時の決意を記している。早稲田大教授だった紅野敏郎氏の「井伏鱒二と小沼達」(『群像37』、一九八二年三月)によると「早稲田の第一高等学院を経て、露文科に進み、のち国文科に転じ」たという。同じ早稲田出身の作家、井伏鱒二と同人雑誌を始め、自ら短編小説を執筆していた。岩波文庫からツルゲーネフの「プウニンとバブリン」の翻訳を出した一九二九年に亡くなっている。

 

 ともかくも通学の電車の中で岩波文庫赤帯(注:外国文学)だけはぜんぶ読んでいた私に、これではいけない、この世には考える世界があるのだ、肉体を使ってサーカスのまねをするのなら猿でもできる、と指摘してくれたのです。いくらかスポーツに疑問を持ち始めたところでしたので、その印象は強烈でした。スポーツの世界ではやるだけのことはやったと感じた私は、思い切ってスポーツを棄て、それまでの生活に終止符を打ちました。その一年後には将来の志望もロシア文学と決まっていました。

 

 小沼氏はロシア語がまったくできなかった。「いまさら学校に入り直してロシア語をやるのも気のきかない話」と思って留学を考えるが、一九三七年に始まった日中戦争の影響が影を落とす。

 

 日支事変は拡大する一方で、普通の手段ではもう外国へは行けなくなってしまいました。しかも当時の情勢では官費でロシア語を勉強させてくれるのは、政府派遣の外務省留学生だけです。一夜漬けの勉強が始まりました。

 それまでそんなものにはまるきり縁のなかった文学部の学生が、これだけは子供の時分から抜群であった記憶力に物を言わせて、国際法やら経済学やら財政学やらを丸暗記して、かつての劣等生もスポーツを棄てたおかげでどうやら試験に合格、昭和十四年の春四月、神戸から欧州航路の客船に乗り込んだときには希望で胸がはちきれ、まさに天にも昇る思いでした。

 こうして欧州にわたった私は、戦争にあえぐ国民の血税によって、十年間にわたってロシア語を勉強させていただけることになったのです。ロシア語だけを勉強していればいいのですからこんないい身分はありません。

 

 二十三歳の小沼氏は欧州に向かう。一九三九年は五月にノモンハン事件、九月にはドイツのポーランド侵攻に続き、英国とフランスによる宣戦布告で第二次世界大戦が始まった。激動の幕開けとなる年だ。

 留学先はバルト三国の一つのラトビアの首都リガだった。かつてロシア帝国の一部だったが、この時代は独立国家であり、ラトビア語だけでなく、ロシア語を話す住民も多かった。白石仁章氏の『諜報の天才杉原千畝』(新潮社、二〇一一年二月)によると「第一次世界大戦後、対ソ情報収集の拠点として、日本が最初に選んだのはラトヴィアだった。ラトヴィアは、バルト三国の真ん中に位置し、戦間期には人口、面積とも最大の国であった」という。

 ユダヤ人へのビザ発給で知られている杉原千畝リトアニア領事館の領事代理となったのは一九三九年だ。小沼もこの年、ラトビアに到着した。同じバルト三国であり、両国の距離は東京と静岡県西部くらいにすぎない。両者ともルーマニア終戦を迎えたが、この当時から交流があったのは容易に想像できる。杉原千畝は早稲田大で英語を学び、外務省に入った後にロシア語を学んだ。情報収集、つまりスパイのような活動もしていた。小沼氏は戦後に書いた随筆などで「留学生」や「通訳官」と名乗っていたが、留学生の身分だけでこれだけ長い期間を海外で過ごすと考えにくい。政府文書の翻訳や、通訳官として日本からの出張者の案内くらいはしていたのだろう。ひょっとしたら情報収集のような仕事にも従事していたのかもしれない。小沼氏は戦後、ドストエフスキー関係の文献を各国から取り寄せていたが、文献の入手に支障が出るのをおそれ、当時の詳しい経歴については口をつぐんでいた可能性があるのではないだろうか。

 小沼氏は当初「ロシア語といえばウォートカとトロイカのふたつの単語ぐらいしか知らなかった」という。「『悪霊』に導かれて」には、ドイツ語で個人レッスンを受けていた様子が描かれている。

 

 まったく馬の耳に念仏の私に、先生はやがてロシア語で授業するのをあきらめてドイツ語で講義をしてくださるようになりました。しかし大学で六年間も習ったとはいえ、こちらにとってはドイツ語だって怪しげなものです。それでも一年もするうちにロシア語にも慣れ、あまり日常生活に不自由を感じなくなったのですからありがたいものです。

 そしてある日、先生があしたからこれを読もうと取り出されたのが『罪と罰』だったのです。

 

 小沼氏はロシア語、ドイツ語、フランス語で『罪と罰』の発音を聞いたときの感激は終生忘れることができないと述べ「そのときの電光のような感激がついに私の一生を決定することになりました」と振り返っている。

 長年取り組んだ体操でのおかげで運動は得意だった。「小柄な私には畸形ともいえる胸囲一メートルの疲れを知らぬ肉体で、ロシア人の生活の中にまったくとけこんで、ロシア古典文学に取り組むようになりました。いくらか余裕ができたせいか、ふらりと近くの体育館に顔を出したのが縁になって胸に日の丸のマークなどをつけて全ラトヴィアの選手権をあっさりいただき新聞種になったのは愉快でした」というエピソードを明かしている。ソ連の侵攻によりラトビアを離れた。留学先はその後、ブルガリアルーマニアへとうつる。

 

 今度はバルカンの日本といわれたブルガリアに転学になりました。ここでの学生生活はまことに楽しいものでした。戦局拡大の一途をたどる戦乱の祖国をよそに、使っても使っても使いきれないほどの学費をいただいて、勉学に専念することができたのですから、まったく身に余る果報と言わなければなりません。

 

 小沼氏はトルストイの『戦争と平和』を三回朗読するという指導により「もはやロシア語は私にとって外国語ではなくなっていました。日本語を使わない何年かの生活がやっと実を結んだわけです」と述べている。指導教授からドストエフスキーも徹底的にたたきこまれ「もうこのときにはドストエフスキー専攻が、一生の仕事として迷わぬ目標になっていました」という。ブルガリア時代に、ロシア文学やことわざに関する著書をロシア語で執筆している。後に移ったルーマニアの様子は『随筆』(産経新聞社、一九五六年九月)に執筆した「洋画のスーパー」で紹介している。

 

 戦争前のルーマニヤ(原文のママ「ヤ」)は、殊にバルカンの小パリといわれるブカレスト(注:原文の「レブカスト」を修正)は、フランス文化全盛の都会でした。コルセットをつけて薄化粧をした将校から、デパートの売子にいたるまでフランス語に万能です。フランス語さえ知っていれば、田舎くさいルーマニヤ語などぜんぜん知らなくても、何不自由なく暮せたものです。ところが戦争が始まって、ルーマニヤは枢軸側に立ち、やがてドイツ軍が進駐してきました。

 するとどうでしょう。昨日までフランス語万能だったブカレストの町は、一夜にしてドイツ語万能の町に変ってしまいました。フランス語などはわずかにサロンの中でぼそぼそと語られるだけです。

 そしてドイツは敗れ去り、東の方から怒濤のような進撃を続けてきたソヴェート軍が、ブカレストの町に泥まみれ姿をあらわしました。そしてブカレストの町は、ルーマニヤは『スターリン万才、赤軍万才!』また一夜にしてロシア語の支配する国となったのです。

 

【2】日本のロシア文学者と距離、30年で個人訳

 

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小沼文彦訳『罪と罰

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小沼文彦氏(左)と江川卓氏(右)1986年11月14日、清水正研究室に於いて

 

 小沼氏はソ連軍侵入による自宅軟禁、さらに抑留を体験する。シベリア抑留を特集した『文芸春秋』(一九八二年九月増刊号)で抑留体験について語った「ドイツ人の豪胆さ」には「ルーマニア終戦になり、そこで収容所に入りました」と語り「私は正式にいえばルーマニア政府によってソ連の管理する収容所に抑留されたことになります」と説明している。小沼氏は二十九歳から二年にわたり収容所などでの生活を体験した。ドストエフスキーは二十八歳から四年にわたりシベリアで刑に服したので、偶然とはいえ、二人とも三十歳を挟んだ時期に極寒の地で厳しい体験をしたことになる。

 後に小沼氏は、抑留体験を清水先生に面白おかしく語っている。収集した膨大なドストエフスキーに関する文献全てを没収されてしまったことや、移送列車の暖房で使うため枕木を盗んだエピソードだ。ただ、実際は精神的にかなりの緊張状態に置かれた時期もあった。手錠をかけられたこともあるという。戦前はスポーツマンで弁舌爽やかだった慶応ボーイが、こうした過酷な体験がきっかけとなり、嫉妬や憎悪で苦しむ人間へと変わったのではないかとも想像している。当時の胸の内を語った部分を「『悪霊』に導かれて」から引用する。

 

 約二年間にわたる自由を奪われた生活は、それまでで最も恵まれた読書と内省の機会を与えてくれました。私の血となり肉となったドストエフスキー観が生まれてきたのです。金と暇にまかせて買い集めた本の山の中で、すべてを忘れて読書に没頭できたことは感謝のほかはありません。収容所の鉄条網の中で読んだドストエフスキー、特にその『死の家の記録』の印象はまさに強烈なものでした。疑心暗鬼の不安の中で、いつ銃殺されるか、いつ無期限強制労働のラーゲリ送りになるかと、いまから考えると滑稽な妄想に悩まされながら読んだドストエフスキーは、はじめて私に神の問題を考えさせてくれたのです。

 

 小沼氏は『死の家の記録』について、筑摩書房の『ドストエフスキー全集』の第四巻のあとがきで「この記録小説は、見方によればドストエフスキーの最高傑作と言えないこともない」と高く評価している。収容体験などについてやや感情的に語っており、ドストエフスキーが死刑を執行直前に免じられたことに触れ「いかなる強靱な神経の持主でも、平静な気持ちでこれを耐え忍び、皇帝の仁慈に素直に感謝する気分になったとは思われない」と指摘した。さらに「こうした極限状況(注:処刑の場)にあってすらも神を見出そうとしなかった彼が、四年間の『死の家』の生活によって、ついに神を発見した事実は決して軽く見過ごしてはならないものであろう」と語っている。

 ドストエフスキーは四年にわたるシベリアでの懲役に続き、四年の兵卒勤務を経験する。『死の家の記録』のあとがきでは「無期限兵役という義務が心に重くのしかかってはいたが、イルトゥイシ河に沿って数百キロの護送の旅は、ドストエフスキーにとっては楽しいものであった。完全な自由にはまだほど遠いものではあったけれども、彼は五年ぶりにしみじみと自由の味を噛みしめたに相違いない」と指摘している。一方で自身の移送について「『悪霊』に導かれて」で「十年にわたる留学生活の最後のしめくくりは、六ヵ月をついやしたオデッサ(現在はウクライナの都市)からウラジオまでの護送旅行でした」として振り返っている。わざわざ「旅行」という表現を使ったのは、ドストエフスキーと自身の体験の類似性を強く意識したためではないだろうか。

 

 零下五十五度の酷寒もすこしも苦にはならず、係官をうまくごまかして持ちこんだ三巻の書簡集を唯一の伴侶として、赤軍兵士に護送される身を、シベリアへ流刑される偉大な作家の身の上になぞらえて、幼稚な感傷にひたる余裕もありました。

 

 ソ連による収容生活を終えた小沼氏は一九四七年に帰国し、ドストエフスキー研究で生きていく決意をあらたにする。

 

 荒廃の祖国にたどりついた私は迷うことなく現在の仕事に足がかりを求め、鍛え上げられた健康な身体をもとでに、初志を曲げることなくドストエフスキー研究に全力を注ぐことになりました。

 

 しかし、翻訳のスタートはドストエフスキーではなかった。小沼氏は帰国した一九四七年十二月に世界文学社からガルシンの『四日間』を出した。この本の末尾にロシア文学者の原久一郎が「小沼文彦君を推す」という文を寄せている。早稲田大で教鞭をとっていたときに教えたのが、夭折した小沼氏の兄、達氏だったという。清水先生は『ドストエフスキー論全集11』で、小沼氏が戦後ロシア語の仕事の相談のため訪れた原久一郎から出戻り娘との再婚を勧められたエピソードを紹介している。推薦文にはこうした背景もあったのかもしれない。

 小沼氏は、あるロシア文学の大家から「この作品は私がすでに訳してあるのだから、新しく訳す必要はない」と言われたエピソードを清水先生に明らかにしている。ドストエフスキーの作品を翻訳したくても、できなかった時期があったのだろう。ドストエフスキーの作品を初めて翻訳して出版したのは、一九五〇年十月に三笠書房から出した『虐げられた人々』とみられる。翌一九五一年五月に新潮文庫で『白痴』を刊行したのに続き、岩波文庫で一九五四年一月に『二重人格』を出した。三笠書房から一九五七年四月に『罪と罰』、翌一九五八年三月に『カラマーゾフ兄弟』を出版したが、いずれも抄訳だった。

 小沼氏は、日本におけるロシア文学研究や翻訳のレベルの低さを嘆いていた。ドストエフスキートルストイは戦前から広く読まれていたものの、ロシア語を本格的に学ぶ人は少なかった。二葉亭四迷米川正夫、中村白葉、原久一郎といった、現在の東京外国語大でロシア語を学んだ人たちの努力によりロシア文学の裾野は少しずつ広がったものの、語学力が抜群の小沼氏からみれば、あまりにもお粗末な水準だったのだろう。日本出版協会の『書評』(一九四九年六月)に掲載した小論「ロシア文学憎まれ帖」で日本におけるドストエフスキーの翻訳を厳しく批判している。原文の旧仮名遣いをあらため、続けて引用する。

 

 従来のロシア文学者が安閑としてああした無責任な翻訳をつづけて来られたのも、ロシア語が人の多く知らない語学だというお蔭なのである。ロシア語がせめてドイツ語、フランス語程度に普及していて、日本にももう少しロシア語の読める人が沢山出ていたら、到底いつまでもあんな泰平の夢を食っていられたわけのものではない。

 

 だから比較的忠実に、原文の文字を辿って固いけれども日本文になおした翻訳よりも、分からないところは二行でも三行でもとばして、コンマもピリオドも完全に無視して、ただずらずらと訳し終わったものの方が、一応日本文になっているという理由でこの国では名訳ということになるのである。

 

 同じくドストエフスキーの全訳に取り組んだ、米川正夫の翻訳も「ロシア文学憎まれ帖」で厳しく批判している。「ずらずらっと頭も終わりもない比較的読み易い日本文になっている、所謂こなれた日本文になっているという点を除けば、この翻訳は、誤訳、曲解、脱漏至らざるはなき無責任極まるものではないか」と指摘している。この文章を掲載した日本出版協会の『書評』をどれくらいのロシア文学関係者が読んだのだろう。半年後の一九五〇年の正月ごろ、小沼氏に金沢大で勤務する話が持ち上がった。東京におけるロシア文学研究の世界で生きていくのに嫌気がさしたか、気まずくなったのではないかと勘ぐってしまう。

 小沼氏は『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房一九八二年三月)所収の「翻訳五十年」で「わたくし個人の考え方によれば、新訳はいくらたくさん出ても結構だと思います。長老のX氏のように、この全集は自分のだけがあればそれで十分だ、などと言うつもりはさらにありません」と閉鎖的な日本のロシア文学研究の世界を批判している。一九六八年八月の文章なので、自身によるドストエフスキー全集の刊行が始まった後に執筆したことになる。米川正夫の姿勢を批判しているとも考えられるが、戦後にロシア文学の大家から伝えられた言葉を思い出していたのだろうか。

 三十五歳の小沼氏は、金沢大講師として一九五一年五月に赴任する。北陸に行ったことはなく、現地の様子を知るため石川県で発行されている北國新聞を一年以上も前から取り寄せて読んだという。金沢大は、作家の井上靖らが学んだ旧制の第四高等学校が前身で、当時は城跡にキャンパスがある珍しい大学だった。小沼氏は赴任後に地元の雑誌「北国文化」(一九五一年十月号)に「金沢は文化の谷間か」という随筆を寄せ「金沢は予想に違わず私に大変はよいところのように思われます。不愉快なこともまだあまりぶつかりません。第一街がきれいです。東京のように街に紙くずがおちていません。砂ぼこりもたたないようです。これには全くほっといたしました」と述べている。「これからの半生を送るのに申分あるまいと喜び勇んで赴任してまいりました」とも述べており、当初この地に骨を埋める覚悟もあったようだ。一九五三年には金沢の放送局での連続講演をまとめた「新語の周囲」(大和出版社)を出版するなどしたが、その後、中央大講師に転じている。

 四十五歳から筑摩書房ドストエフスキー全集に取り組んだ。一九六二年十月に刊行が始まり、第一回の配本は『未成年』だった。同じ時期に雑誌『文芸春秋』(一九六二年十二月)に寄せたコラム「犬とは何であるか」で、わかりやすい日本語を心がけたことを次のように説明している。

 

 翻訳を業とするようになってからも、自分で読んでわからない、また他人が読んでわからない訳文だけは絶対に書くまいという翻訳態度が生まれました。

 ドストエフスキーは難解と言われています。たしかにある意味では難解かも知れませんが、ロシヤ語で読めばとにかくわかるのに、日本語で読むとますます難解であるというのは、これは日本語の表現の問題ではないでしょうか。

 

 翻訳した日本語が読者にいつまで受け入れられるかについても語っている。『学鐙』(一九七五年一月)に掲載した「初期のドストエフスキー全集」で「五十年以上の寿命は望めないのであり、それが翻訳の、そして翻訳者の悲しい宿命なのであろう」と述べている。それでも「評論家にも、作家にもなれない、学者にもなれない、その才能のない一介の翻訳者にすぎない、ドストエフスキーの翻訳者であることに最高の満足を感じ、生き甲斐を覚えている」との考えを「『悪霊』に導かれて」の中で明らかにしている。

 

 ドストエフスキー全集は一九九一年に全巻の刊行を終えた。小沼氏は三十年にわたる翻訳作業により七十五歳になっていた。第八巻の『悪霊』のように翻訳がなかなか進ます、刊行が計画より大きく遅れたケースもあったようだ。『悪霊』の月報にある「編集室より」では「何分にも二千五百枚を超える大作であるうえ、〝訳注・あとがき〟からも汲みとれるような翻訳上の苦心、また訳者の一身上の事情などもあって、当初予想したよりもはるかに多くの期日を要し、今日に至ってしまいました」と説明している。

 清水先生は、小沼氏の夫人から聞いた当時のエピソードを「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」で紹介している。「一身上の事情」とはこうした生活のことを指すのだろうか。

 

 ある日、夜遅く奥様から電話があった。何事かと思えば、小沼氏が家出をして帰ってこないという。何か気にくわないことがあったり、嫉妬の感情に襲われるとこういうことになるらしい。わたしはどうすることもできず、またそういうごく身内の話をされる奥様がふしぎでもあった。が、奥様が語ってくれた小沼氏の様々なエピソードはとにかく面白かった。

「夜中に突然私を起こして『悪霊』の話をされるの。スタヴローギンとかキリーロフの話を。神があるとかないとか……いきなり質問しておいて答えないものなら怒る怒る……前の奥さんなんかこの人が殺したようなもんです」

『悪霊』を訳している時がもっともひどかったそうで、奥様もだいぶ神経を傷めたようである。翻訳という仕事は人物が憑依しやすい状態を作るのかもしれない。

 

 筑摩書房の『ちくま』(一九九一年八月)に掲載した「命なりけり」で翻訳を終えた瞬間の気持ちを次のように振り返った。

 

『「未成年」創作ノート』の最後のセンテンスを書き終えペンを擱いたときには、不覚にもしばらく涙の落ちるのを禁じえませんでした。

 よくまあ無事に生き永らえて、途中で投げ出すこともなくここまでやって来られたものだというのが、いつわらぬ実感でした。

 

 実は、筑摩書房は一九七八年に一度、経営破たんしている。全集の発刊を続けられるかどうか危うかった時期もあったようだ。小沼氏は「さらに倒産というまったく予期しない事態に見舞われたにもかかわらず、そのままずっと仕事をつづけさせ、つねに支援してくださった筑摩書房の厚意には、それこそ感謝の言葉を知りません」と「命なりけり」に書いている。後半生をかけた翻訳作業だったが、ドストエフスキーだけでなく、この間にトルストイらの作品の翻訳も出版している。翻訳における気分転換が目的だったのだろうか、それとも経済的な事情があったのだろうか。

 

【3】嫉妬と憎悪に苦しんだ私生活、キリスト教洗礼

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清水正(左)と小沼文彦氏(右)日本大学芸術学部文芸学科研究室にて

 

 小沼氏のキリスト教との関わり、日本ドストエフスキー資料センター設立、清水先生との出会い、といった翻訳以外の活動について紹介する。清水先生による証言が柱になる。自らが語らなかった姿、つまり、嫉妬と怒りをコントロールできずに苦しむ様子が明らかになる。

 小沼氏はドストエフスキー全集の刊行が始まった後しばらくして、五十歳で洗礼を受けた。やや長くなるが「『悪霊』に導かれて」から続けて引用する。タイトルの通り、『悪霊』の翻訳で精神的に苦しんだのが洗礼の決め手になったようだ。

 

 お茶の水の高等師範を出てから間もなくこの世を去った、クリスチャンであった長姉に連れられて、子供のころから教会に通いなれた私は、中学に入ってからは当時の軍国主義の影響もあって、教会へ通うのはやめましたが、聖書だけはいつもはなしたことがなく、聖書の物語りには精通していました。留学時代には学友にさそわれるままにギリシャ正教の教会にもかかさず通いつめましたが、自分からその中へ飛びこんで受洗しようという気にはついになりませんでした。しかしいまから思えば、神だけはやはり信じていたのです。そして生意気にも、聖書を読み、キリスト教の精神にのっとった生活をし、なによりもまず神さえ信じていれば洗礼などは受けなくてもいいのだと、かたくなに思いこんでいました。

 

 日本に帰って、特にドストエフスキーの個人訳に取りかかってから教会遍歴がはじまりましたが、どの教会も私の心をなごませてはくれませんでした。

 

 翻訳の仕事が『罪と罰』から『カラマーゾフ兄弟』に進み、さらに『悪霊』に取り組むようになったとき、私ははじめて自分の誤りに気がついて極度の絶望にかられるようになりました。自我のかたまりである自分にはこのままでは救いがないことがはっきりとわかったのです。

 

「今度会うときには、君はきっと神を信じているでしょうよ」というスタヴローギンのことばほど私の胸をぐさりと刺したものはありませんでした。

 このへんのことは悪霊論としてもっと詳細に論じなければならないのですが、とにかく私はそれまで漠然としていだいていた神への信仰を、ドストエフスキーを信頼することによって、つまりドストエフスキーを心の牧師として身につけようと覚悟を決めました。

 ちょうどそんなとき八十年の光栄ある伝統をもった静岡英和が短大を創設することになり、私もその教員の一員に加わることになりました。これだ、この機会をおいては私は一生救われないぞという霊感に打たれた私に、「ためらわずに行け!」とういドストエフスキーの声がはっきりと聞こえました。

 

 小沼氏は、キリスト教系の静岡英和の短大創設に関わっていた。一九六六年十二月十七日に、創設間もない静岡英和の学院教会の仮礼拝堂で洗礼を受けた。

 

 五十歳になって入信した私に奇異の目をみはり、よくまあその年で決心がつきましたねと珍しい現象のようにたずねる人もおりますが、私にとってはそれは奇異なことでもなんでもないのです。ただ四十年来の生活にひとつのけじめをつけただけの話なのです。傍観者の立場を棄てただけのことなのです。

 

 この短大は、静岡メソジスト教会の牧師らが設立した学校がルーツという。小沼氏は「『悪霊』に導かれて」の原文の一部を削除したうえで前出の『ドストエフスキーの顔』に収容している。付記として「その数年後に私はカトリックに改宗しました」「稿を改めてまた語るときもあろうかと思います」と述べている。

 小沼氏は一九七〇年に東京・渋谷に日本ドストエフスキー協会資料センターを設立した。ロシアを専門とするナウカの雑誌『窓』(一九七二年七月)に掲載した「まぼろしの名著」というコラムで当時の様子を説明している。

 

 おこがましくもドストエフスキーの「資料センター」なるものを開いてから、早くも一年八カ月になります。その間、一日の休みもなく、日曜日を返上して、延べ一千人に及ぶ来館者の方々のお相手をしたわけですから、われながらよくからだがつづいたと思います。

 最初はそれも気分の転換に役立ち、いいレクリエイションになるなどと、のほほんと構えておりましたが、このごろはさすがに重荷になってきました。そのつもりで覚悟を決めてやりはじめたことですから、いまさら弱音を吐くのはなんともだらしないのですが、六日間みっちりと働き、日曜日は夜半までセンターに詰めきり、さらに毎月八ページの月報をひとりで発行するとなると、これはなかなかの大仕事です。

 

 清水先生と小沼氏の交流があったのもこの頃だ。清水先生が詳しく書き残したおかげで、小沼氏が洗礼を受けた後の暮らしだけでなく、複雑な性格について具体的に知ることができる。

 五十台半ばの小沼氏と大学生の清水先生が初めて会ったのは、一九七〇年に都内で開かれた「ドストエーフスキの会」第一回総会の場だった。自費出版した「ドストエフスキー体験」(清山書房・一九七〇年一月)を小沼氏が二冊購入したという。その後、清水先生は約一年にわたり毎週日曜日に小沼氏のマンションを訪れ、ドストエフスキーとの出会いや翻訳について話を聞く関係になる。清水先生の「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」から続けて引用する。

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ドストエフスキー曼陀羅』別冊鼎談ドストエフスキー(2008年1月)に掲載

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編集発行人:清水正 発行所:日芸文芸学科「雑誌研究」編集室 2008年1月20日発行

 二度目に小沼氏にお目にかかったのは渋谷のマンションにおいてであった。小沼氏は渋谷のマンション一室を借り切って「日本ドストエフスキー協会資料センター」(注:住所の説明略)を開設しておられた。紹介してくださったのは、近藤承神子さんである。(注:近藤氏の紹介略)ドアの上に「日本ドストエフスキー協会資料センター」の看板が眩しく光っていた。近藤さんと私は小沼夫妻に迎えられ、部屋の中へと足を踏み入れた。部屋の四方の壁はガラス付きの書棚になっていて世界各国のドストエフスキー全集や研究書が整然と並んでいた。

 

 清水先生を出迎えたのは、小沼氏の二番目の妻、勝子さんだ。英語の下訳の仕事がないかどうかを尋ねるため訪れた勝子さんに、小沼氏がプロポーズしたという。かなり年齢差があり、二人の間に子供はなかったという。最初の妻は戦後しばらくして亡くなったとみられる。最初の妻との間にいた娘は清水先生と同い年だったが、ずっと会っていないという。

 

 小沼氏は大学四年になったわたしに熱心に大学院進学を勧めた。「経済的に問題があるなら、あなたを日本ドストエフスキー協会の会員として給料も払いましょう」とまで仰って下さった。その日、小沼夫妻は自宅に帰り、わたしは一人、資料センターに泊まることになった。一度はベッドにもぐりこんで寝ようとしたのだが、どうも頭が異様に冴えて眠るどころではない。部屋中に小沼氏の神経の網の目が張りめぐらされているようでなんとも居心地が悪い。小沼氏は純粋にわたしの将来を考えて大学院進学の話をされたのかも知れないが、わたしはガラス付の書棚に入れられて外から鍵をかけられるような感じに襲われた。小沼氏の優しい微笑は時に悪魔の微笑のように感じられる時もあり、なかなか素直に氏の言葉を受け入れることはできなかった。結局、小沼氏の話にわたしは乗らなかった。まあ、こんなこともあって小沼氏との関係も気まずいものとなり、資料センターへの足も自然と遠のくことになった。

 

 小沼氏は、資料センターを訪れた人たちと口論になることもあったようだ。清水先生が目撃したエピソードは、洗礼を受けながらも激高しやすい性格をあらためられずに苦しんでいる様子がわかる。

 

 小沼氏はわたしの前ではいつも微笑を絶やさなかったが、なかなか気難しいところもあった。人の好き嫌いも激しく、いちおうそれなりに我慢はしていても、我慢しきれなくなると爆発するといったような性格であった。その激しい性格で人間関係がうまくいかなることも多々あったようである。ある日、小沼氏は自分の部屋に入ったきり一向に顔をださない。そんなことはわたしにとって初めての経験であった。小沼氏はわたしたちがお邪魔すると必ず玄関で迎え入れてくれたからである。心配してさりげなく部屋をのぞくと小沼氏は顔を真っ赤にして怒りを精一杯押さえている。わたしがなんでもない風を装って「先生、こんにちは。お仕事いそがしいんですか」と声をかけた。それからしばらくして小沼氏がみんなの前に姿を現し、「あのとき清水さんに声かけてもらってほんと助かりました」と言う。感情が高ぶると自分でも制御できずに苦しむことが多々あったらしい。

 

 清水先生は今年七月刊行の『江古田文学107号』に寄せた「ソーニャの部屋 リザヴェータを巡って」で、小沼氏の求めに応じ『罪と罰』に関する原稿を執筆して渡したものの、小沼氏がその分析を自著の解説で使ってしまったことを明らかにしている。これも小沼氏の一面なのだろう。清水先生は一年ほどで、小沼氏のもとに出入りするのをやめた。

 清水先生はその後、ロシア文学者の江川卓氏を交えた鼎談を企画したため、七十代になっていた小沼氏に久しぶりに連絡を取った。『江古田文学12号』(一九八七年五月)の「鼎談・ドストエフスキーの現在」を読むと、小沼氏が江川氏に対しトゲのある言葉を発するなど緊張感ある雰囲気で鼎談が始まったのがわかる。鼎談の背景を説明するため『清水正ドストエフスキー論全集11』にある「ドストエフスキー放浪記」から続けて引用する。

 

 アルコールがほどよくまわるにつれ、六畳ほどの部屋は熱気に包まれた。筑摩書房から個人訳ドストエフスキー全集を刊行し、世界的にも知名度の高かった小沼文彦、『罪と罰』の謎ときでドストエフスキー愛好者の注目を集めていた江川卓、この二人が心を開いてドストエフスキーを語るのは実はこの席が初めてであった。

 

 座談の席で、小沼文彦がトルストイドストエフスキーが生前一度も会わなかった話を持ち出したのは、江川卓を意識していたからである。二人ともドストエフスキー研究に対する自負があって、この日までお互いに声をかけあうこともなかった。

 

 わたしは小沼文彦の発する言葉に小悪魔的なおふざけ(わたしは〈小股すくい〉と名付けていた)があることを常々感じていた。片方の手でほめながら、同時にもう一方の手は足をすくうように動いている。

 

 清水先生が小沼氏と直接会ったのはこれが最後になった。電話や葉書のやり取りは続き、てんかんを発症した小沼氏と電話で次のような会話をした。高齢になってから、てんかんを発症するのは珍しいことではないようだ。「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」から引用する。

 

 いやあ、これは清水さんですから言いますが、実は私、ついにてんかんになりましてね。散歩の途中で倒れましてね、血まみれになって帰ったんですが、医者をしている兄に見てもらいましたらてんかんだって言うんですよ。私もドストエフスキーを長年、研究してきてようやくてんかんになりました……」こんなに嬉しそうに自分の病気について語る人も珍しい、というかいないであろう。わたしは変な気持ちになって小沼氏の言葉を聞いていた。ライフワークにしたドストエフスキーと同じ病気になったことがこれほど嬉しいとは。

 

 てんかんに関しては、全集を訳し終えた後の随筆「命なりけり」で「昨年は、あやかるに事欠いて老年に及んで、ドストエフスキーと同病であるという診断を受け、その奇縁に驚くとともに、これで私のドストエフスキーもいよいよ本物に近づいてきたのかななどと、ひとりほくそえんだりしています」と公表もしている。

 

 昭和から平成に年号がかわるころ、小沼氏は岩手県盛岡市に転居した。ドストエフスキー全集の翻訳は終盤、この地で取り組んだことになる。清水先生への転居通知には、盛岡出身の石川啄木のことが記されており、転居先は啄木との関係で選んだことを示唆している。次に紹介する転居通知は「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」からの引用だ。

 

 すっかり秋めいてきましたがお元気のことと存じます。このたびは大著をお送りいただき、ここ何年かの精力的活動に謹んで敬服の意を表します。ところでお礼のご挨拶が遅れたいへん失礼いたしましたが、実は今般急に表記の地に移転することになり、引っ越しの大騒動で心ならずも後回しになってしまいました。お赦しください。みちのくをついの棲家と定め啄木の渋民村に設けた仕事場で、やり残した仕事をつづけるつもりです。ご健康を祈りあげます。

平成二年九月十日

 

 小沼氏が亡くなった際の新聞記事をもとに自宅を調べると「盛岡市湯沢南二の一〇の一六」となっていた。啄木の出身地は旧渋民村だが、小沼氏が転居した場所からは離れているようだ。

 小沼氏は一九九七年七月、ドストエフスキー全集の補巻となる『ドストエフスキー未公刊ノート』を筑摩書房から刊行した。その翌年、一九九八年十一月三十日に死去する。喪主は、妻の勝子さんだった。

 清水先生は死の翌年、『江古田文学41号』に「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」同42号(一九九九年十一月)に「幻の雑誌『露西亜文學研究』と米川正夫訳『青年』をめぐって 文献収集家としての小沼文彦氏の或る一面」を掲載した。後者では、小沼氏が所有していた蔵書が極めて貴重だったことを指摘している。

 

 小沼文彦氏はドストエフスキー文献の収集家としても知られていた。何しろ全世界のドストエフスキー文献を収集しようというのだから中途半端ではない。日本の文献に関してもドストエフスキーに関する評論やエッセイが掲載されていれば同人雑誌やパンフレットの類にまで及んでいる。もうこれはほとんど病気みたいなものである。ご本人もよくそのことを自覚されていて「いっそのこと、みんな燃やしたいという気持ちになることもあります」と口に出すこともあった。

 

 小沼氏は生前、蔵書の一部を上智大に寄贈した。上智大図書館によると、一九九〇年から一九九四年にかけて和書九十五冊、洋書一千二百六冊の計一千三百一冊を受け入れたという。上智大の担当者は「当時対応した職員が残ったため臆測に過ぎないのですが、少なくとも当館での受け入れ記録が一九九四年より前となりますので、小沼氏がご存命の間にご意志によってご寄贈いただいたものと思われます。小沼氏がカトリックの信者だったことと、本学がイエズス会が設立した大学であること、本学にロシア語学科があることから、選んでいただいたのではないかと思われます」と述べた。

 小沼氏が亡くなった後、神保町の田村書店が約八百冊を引き取った。田村書店の奥平晃一(おくだいら・こういち)氏が親しく付き合っていた。小沼氏について「気難しい方だったが、わざわざベッドから降りてきて、熱心に話しているのを見た奥さんが驚いていた」と振り返った。田村書店は小沼氏の死後、蔵書を少しずつ店頭に売りに出し、最後まで残っていたのが、私が購入した全集の校正本だった。店の方によると「倉庫にしまったまま売り出すタイミングを待っていた。コロナ禍により在宅の人が増え、ドストエフスキーが静かなブームになっていたので販売すると決めた」ということらしい。(了)

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小沼文彦氏(左)と清水正(右)1986年11月14日 江古田「和田屋」にて

著者プロフィール

番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在はアジア経済ニュースを配信するグループ会社NNAに編集委員として出向中。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                          発行所:【Д文学研究会】

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清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月

 

番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」を三回にわたって連載します。(連載2)

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番場恭治氏の「小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集」を三回にわたって連載します。

小沼文彦氏が校正したドストエフスキー全集(連載2)

番場恭治

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小沼文彦訳『罪と罰

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小沼文彦氏(左)と江川卓氏(右)1986年11月14日、清水正研究室に於いて

【2】日本のロシア文学者と距離、30年で個人訳

 小沼氏はソ連軍侵入による自宅軟禁、さらに抑留を体験する。シベリア抑留を特集した『文芸春秋』(一九八二年九月増刊号)で抑留体験について語った「ドイツ人の豪胆さ」には「ルーマニア終戦になり、そこで収容所に入りました」と語り「私は正式にいえばルーマニア政府によってソ連の管理する収容所に抑留されたことになります」と説明している。小沼氏は二十九歳から二年にわたり収容所などでの生活を体験した。ドストエフスキーは二十八歳から四年にわたりシベリアで刑に服したので、偶然とはいえ、二人とも三十歳を挟んだ時期に極寒の地で厳しい体験をしたことになる。

 後に小沼氏は、抑留体験を清水先生に面白おかしく語っている。収集した膨大なドストエフスキーに関する文献全てを没収されてしまったことや、移送列車の暖房で使うため枕木を盗んだエピソードだ。ただ、実際は精神的にかなりの緊張状態に置かれた時期もあった。手錠をかけられたこともあるという。戦前はスポーツマンで弁舌爽やかだった慶応ボーイが、こうした過酷な体験がきっかけとなり、嫉妬や憎悪で苦しむ人間へと変わったのではないかとも想像している。当時の胸の内を語った部分を「『悪霊』に導かれて」から引用する。

 

 約二年間にわたる自由を奪われた生活は、それまでで最も恵まれた読書と内省の機会を与えてくれました。私の血となり肉となったドストエフスキー観が生まれてきたのです。金と暇にまかせて買い集めた本の山の中で、すべてを忘れて読書に没頭できたことは感謝のほかはありません。収容所の鉄条網の中で読んだドストエフスキー、特にその『死の家の記録』の印象はまさに強烈なものでした。疑心暗鬼の不安の中で、いつ銃殺されるか、いつ無期限強制労働のラーゲリ送りになるかと、いまから考えると滑稽な妄想に悩まされながら読んだドストエフスキーは、はじめて私に神の問題を考えさせてくれたのです。

 

 小沼氏は『死の家の記録』について、筑摩書房の『ドストエフスキー全集』の第四巻のあとがきで「この記録小説は、見方によればドストエフスキーの最高傑作と言えないこともない」と高く評価している。収容体験などについてやや感情的に語っており、ドストエフスキーが死刑を執行直前に免じられたことに触れ「いかなる強靱な神経の持主でも、平静な気持ちでこれを耐え忍び、皇帝の仁慈に素直に感謝する気分になったとは思われない」と指摘した。さらに「こうした極限状況(注:処刑の場)にあってすらも神を見出そうとしなかった彼が、四年間の『死の家』の生活によって、ついに神を発見した事実は決して軽く見過ごしてはならないものであろう」と語っている。

 ドストエフスキーは四年にわたるシベリアでの懲役に続き、四年の兵卒勤務を経験する。『死の家の記録』のあとがきでは「無期限兵役という義務が心に重くのしかかってはいたが、イルトゥイシ河に沿って数百キロの護送の旅は、ドストエフスキーにとっては楽しいものであった。完全な自由にはまだほど遠いものではあったけれども、彼は五年ぶりにしみじみと自由の味を噛みしめたに相違いない」と指摘している。一方で自身の移送について「『悪霊』に導かれて」で「十年にわたる留学生活の最後のしめくくりは、六ヵ月をついやしたオデッサ(現在はウクライナの都市)からウラジオまでの護送旅行でした」として振り返っている。わざわざ「旅行」という表現を使ったのは、ドストエフスキーと自身の体験の類似性を強く意識したためではないだろうか。

 

 零下五十五度の酷寒もすこしも苦にはならず、係官をうまくごまかして持ちこんだ三巻の書簡集を唯一の伴侶として、赤軍兵士に護送される身を、シベリアへ流刑される偉大な作家の身の上になぞらえて、幼稚な感傷にひたる余裕もありました。

 

 ソ連による収容生活を終えた小沼氏は一九四七年に帰国し、ドストエフスキー研究で生きていく決意をあらたにする。

 

 荒廃の祖国にたどりついた私は迷うことなく現在の仕事に足がかりを求め、鍛え上げられた健康な身体をもとでに、初志を曲げることなくドストエフスキー研究に全力を注ぐことになりました。

 

 しかし、翻訳のスタートはドストエフスキーではなかった。小沼氏は帰国した一九四七年十二月に世界文学社からガルシンの『四日間』を出した。この本の末尾にロシア文学者の原久一郎が「小沼文彦君を推す」という文を寄せている。早稲田大で教鞭をとっていたときに教えたのが、夭折した小沼氏の兄、達氏だったという。清水先生は『ドストエフスキー論全集11』で、小沼氏が戦後ロシア語の仕事の相談のため訪れた原久一郎から出戻り娘との再婚を勧められたエピソードを紹介している。推薦文にはこうした背景もあったのかもしれない。

 小沼氏は、あるロシア文学の大家から「この作品は私がすでに訳してあるのだから、新しく訳す必要はない」と言われたエピソードを清水先生に明らかにしている。ドストエフスキーの作品を翻訳したくても、できなかった時期があったのだろう。ドストエフスキーの作品を初めて翻訳して出版したのは、一九五〇年十月に三笠書房から出した『虐げられた人々』とみられる。翌一九五一年五月に新潮文庫で『白痴』を刊行したのに続き、岩波文庫で一九五四年一月に『二重人格』を出した。三笠書房から一九五七年四月に『罪と罰』、翌一九五八年三月に『カラマーゾフ兄弟』を出版したが、いずれも抄訳だった。

 小沼氏は、日本におけるロシア文学研究や翻訳のレベルの低さを嘆いていた。ドストエフスキートルストイは戦前から広く読まれていたものの、ロシア語を本格的に学ぶ人は少なかった。二葉亭四迷米川正夫、中村白葉、原久一郎といった、現在の東京外国語大でロシア語を学んだ人たちの努力によりロシア文学の裾野は少しずつ広がったものの、語学力が抜群の小沼氏からみれば、あまりにもお粗末な水準だったのだろう。日本出版協会の『書評』(一九四九年六月)に掲載した小論「ロシア文学憎まれ帖」で日本におけるドストエフスキーの翻訳を厳しく批判している。原文の旧仮名遣いをあらため、続けて引用する。

 

 従来のロシア文学者が安閑としてああした無責任な翻訳をつづけて来られたのも、ロシア語が人の多く知らない語学だというお蔭なのである。ロシア語がせめてドイツ語、フランス語程度に普及していて、日本にももう少しロシア語の読める人が沢山出ていたら、到底いつまでもあんな泰平の夢を食っていられたわけのものではない。

 

 だから比較的忠実に、原文の文字を辿って固いけれども日本文になおした翻訳よりも、分からないところは二行でも三行でもとばして、コンマもピリオドも完全に無視して、ただずらずらと訳し終わったものの方が、一応日本文になっているという理由でこの国では名訳ということになるのである。

 

 同じくドストエフスキーの全訳に取り組んだ、米川正夫の翻訳も「ロシア文学憎まれ帖」で厳しく批判している。「ずらずらっと頭も終わりもない比較的読み易い日本文になっている、所謂こなれた日本文になっているという点を除けば、この翻訳は、誤訳、曲解、脱漏至らざるはなき無責任極まるものではないか」と指摘している。この文章を掲載した日本出版協会の『書評』をどれくらいのロシア文学関係者が読んだのだろう。半年後の一九五〇年の正月ごろ、小沼氏に金沢大で勤務する話が持ち上がった。東京におけるロシア文学研究の世界で生きていくのに嫌気がさしたか、気まずくなったのではないかと勘ぐってしまう。

 小沼氏は『ドストエフスキーの顔』(筑摩書房一九八二年三月)所収の「翻訳五十年」で「わたくし個人の考え方によれば、新訳はいくらたくさん出ても結構だと思います。長老のX氏のように、この全集は自分のだけがあればそれで十分だ、などと言うつもりはさらにありません」と閉鎖的な日本のロシア文学研究の世界を批判している。一九六八年八月の文章なので、自身によるドストエフスキー全集の刊行が始まった後に執筆したことになる。米川正夫の姿勢を批判しているとも考えられるが、戦後にロシア文学の大家から伝えられた言葉を思い出していたのだろうか。

 三十五歳の小沼氏は、金沢大講師として一九五一年五月に赴任する。北陸に行ったことはなく、現地の様子を知るため石川県で発行されている北國新聞を一年以上も前から取り寄せて読んだという。金沢大は、作家の井上靖らが学んだ旧制の第四高等学校が前身で、当時は城跡にキャンパスがある珍しい大学だった。小沼氏は赴任後に地元の雑誌「北国文化」(一九五一年十月号)に「金沢は文化の谷間か」という随筆を寄せ「金沢は予想に違わず私に大変はよいところのように思われます。不愉快なこともまだあまりぶつかりません。第一街がきれいです。東京のように街に紙くずがおちていません。砂ぼこりもたたないようです。これには全くほっといたしました」と述べている。「これからの半生を送るのに申分あるまいと喜び勇んで赴任してまいりました」とも述べており、当初この地に骨を埋める覚悟もあったようだ。一九五三年には金沢の放送局での連続講演をまとめた「新語の周囲」(大和出版社)を出版するなどしたが、その後、中央大講師に転じている。

 四十五歳から筑摩書房ドストエフスキー全集に取り組んだ。一九六二年十月に刊行が始まり、第一回の配本は『未成年』だった。同じ時期に雑誌『文芸春秋』(一九六二年十二月)に寄せたコラム「犬とは何であるか」で、わかりやすい日本語を心がけたことを次のように説明している。

 

 翻訳を業とするようになってからも、自分で読んでわからない、また他人が読んでわからない訳文だけは絶対に書くまいという翻訳態度が生まれました。

 ドストエフスキーは難解と言われています。たしかにある意味では難解かも知れませんが、ロシヤ語で読めばとにかくわかるのに、日本語で読むとますます難解であるというのは、これは日本語の表現の問題ではないでしょうか。

 

 翻訳した日本語が読者にいつまで受け入れられるかについても語っている。『学鐙』(一九七五年一月)に掲載した「初期のドストエフスキー全集」で「五十年以上の寿命は望めないのであり、それが翻訳の、そして翻訳者の悲しい宿命なのであろう」と述べている。それでも「評論家にも、作家にもなれない、学者にもなれない、その才能のない一介の翻訳者にすぎない、ドストエフスキーの翻訳者であることに最高の満足を感じ、生き甲斐を覚えている」との考えを「『悪霊』に導かれて」の中で明らかにしている。

 

 ドストエフスキー全集は一九九一年に全巻の刊行を終えた。小沼氏は三十年にわたる翻訳作業により七十五歳になっていた。第八巻の『悪霊』のように翻訳がなかなか進ます、刊行が計画より大きく遅れたケースもあったようだ。『悪霊』の月報にある「編集室より」では「何分にも二千五百枚を超える大作であるうえ、〝訳注・あとがき〟からも汲みとれるような翻訳上の苦心、また訳者の一身上の事情などもあって、当初予想したよりもはるかに多くの期日を要し、今日に至ってしまいました」と説明している。

 清水先生は、小沼氏の夫人から聞いた当時のエピソードを「ロシア文学者・小沼文彦氏との三十年」で紹介している。「一身上の事情」とはこうした生活のことを指すのだろうか。

 

 ある日、夜遅く奥様から電話があった。何事かと思えば、小沼氏が家出をして帰ってこないという。何か気にくわないことがあったり、嫉妬の感情に襲われるとこういうことになるらしい。わたしはどうすることもできず、またそういうごく身内の話をされる奥様がふしぎでもあった。が、奥様が語ってくれた小沼氏の様々なエピソードはとにかく面白かった。

「夜中に突然私を起こして『悪霊』の話をされるの。スタヴローギンとかキリーロフの話を。神があるとかないとか……いきなり質問しておいて答えないものなら怒る怒る……前の奥さんなんかこの人が殺したようなもんです」

『悪霊』を訳している時がもっともひどかったそうで、奥様もだいぶ神経を傷めたようである。翻訳という仕事は人物が憑依しやすい状態を作るのかもしれない。

 

 筑摩書房の『ちくま』(一九九一年八月)に掲載した「命なりけり」で翻訳を終えた瞬間の気持ちを次のように振り返った。

 

『「未成年」創作ノート』の最後のセンテンスを書き終えペンを擱いたときには、不覚にもしばらく涙の落ちるのを禁じえませんでした。

 よくまあ無事に生き永らえて、途中で投げ出すこともなくここまでやって来られたものだというのが、いつわらぬ実感でした。

 

 実は、筑摩書房は一九七八年に一度、経営破たんしている。全集の発刊を続けられるかどうか危うかった時期もあったようだ。小沼氏は「さらに倒産というまったく予期しない事態に見舞われたにもかかわらず、そのままずっと仕事をつづけさせ、つねに支援してくださった筑摩書房の厚意には、それこそ感謝の言葉を知りません」と「命なりけり」に書いている。後半生をかけた翻訳作業だったが、ドストエフスキーだけでなく、この間にトルストイらの作品の翻訳も出版している。翻訳における気分転換が目的だったのだろうか、それとも経済的な事情があったのだろうか。

 

著者プロフィール

番場恭治(ばんば・きょうじ)一九六七年石川県生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。共同通信社の経済部、中国特派員などを経て、現在はアジア経済ニュースを配信するグループ会社NNAに編集委員として出向中。ノーベル文学賞を受賞した莫言氏への北京でのインタビューなど中国における取材をもとにした新聞連載をまとめた共著『中国に生きる 興竜の実像』(株式会社共同通信社、二〇〇七年六月)がある。

 

2021年9月21日のズームによる特別講義

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動画撮影は2021年9月8日・伊藤景

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撮影・伊藤景

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ポスターデザイン・幅観月

 

「清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。(連載7)

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清水正・批評の軌跡──ドストエフスキー生誕200周年に寄せて」展示会の感想を何回かにわたって紹介します。(連載7)

【8】

 私は「表現する情熱」とは "出会い" と "好き" から来ていると考える。

 清水先生の展示会を見学している時に強く感じたことだが、自分の人生をも変えてしまうほどの本や作家に "出会い"、そこから生まれ育まれた "好き" という感情から溢れ出す情熱は絶えることがなく、この情熱こそが表現活動へと繋がっているのだと思う。"出会い"、そして "好き" という感情がなければ、何十年も研究や批評などできないだろうし、あんな膨大な量の作品や本ができるわけがない。

 また、文芸学科の人や文学に携わる人は何気なく手にした本から微量でも情熱をもらっているのではないかと思う。それでももっと大きな情熱を求め日々作品と触れ合っている人もいれば、すでに自分の人生を変える本や作家に出会え、情熱を注ぐ人もいるのだろう。清水先生がドストエフスキー作品に出会ったように、私も人生を変えるほどの一冊の本や一人の作家に出会いたいと思った。

 ここからはレポートというより感想となってしまうが、清水先生の手書きの生原稿を見た瞬間、「これが文学に対する情熱なのだな」と深く感じた。手書き(筆圧など)がまた一層味が出ていて、情熱の塊のように思えた。手書きの原稿だからこそ感じ取ることができる情熱がそこにはあった。清水先生の講演を通して、文学作品との向き合い方を改めて学ぶことができた。中でも、苦手な作品のパッと気になったページを適当に開いて読んでみる楽しみ方や翻訳された本を一人が訳した物だけで満足するのではなく、色んな人が訳した物も読んで比較することの意義(その大切さ)など、たくさん心にしみる話があり、とても面白かった。

【9】

「表現する情熱」と「知りたいという情熱」はイコールで結び付けられると思う。なぜ文学を改めて自分流に表現(批評)するのかと言えば、それは新しい読み方を見つけたいという野心や情熱からくるものであろう。それを証拠に、展示資料には当時ドストエフスキーといえば小林秀雄であった時代に「小林秀雄をいかに乗り越えるか。それが当時の課題であった。」と書いてある。なぜ乗り越えるのかと言えば、それは小林氏に勝ちたいからという理由ではないだろう。「もっと先へ進みたい=もっと(ドストエフスキーを)知りたい」という希望のために彼は小林氏を乗り越える必要があったのだ。 全ての出来事は先人を乗り越えることで積み重なっていくと考えることができる。乗り越えることができなかった時にそれは衰退の一途を辿ってしまう。例えばチェンカイコーの映画に「花の生涯」というものがあるが、あれに出てくる京劇俳優がもし師匠に勝っていなかったら京劇は衰退していたであろう。であるから次の世代がまた清水正氏を乗り越えなければならないわけである。

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