清水正  村上玄一を読む(連載13)

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村上玄一を読む(連載13)

清水正

 

 

 このロクデナシにもなれない〈ぼく〉の価値を浮上させるためには、この〈ぼく〉を相 対化する人物の登場が待たれる。美樹子も富田も順子も沢井原も〈ぼく〉を相対化できて いない。〈ぼく〉は他者を不断に客観化して見ている。この対他者関係を徹底化すれば、 〈ぼく〉は他者を客体化することになる。要するに〈ぼく〉は他者を〈もの〉化し、生き た人間と見なさなくなる。生きた人間は何を仕出かすか分からない。それは危険な存在で ある。〈ぼく〉は他者を自分の存在を脅かすかもしれない危険な存在と見なして関わって いない。美樹子や順子と〈ぼく〉は長いあいだ肉体関係を取り結んでいるが、そのことで 精神的関係を濃密にしているわけではない。この小説に登場して〈ぼく〉と関係を持つこ とになる人物のすべてが、〈ぼく〉の〈価値観〉を脅かす存在となってはいないし、そも そも〈ぼく〉のその〈価値観〉に気づいてさえいない。そしてその原因の大半は自らの〈 価値観〉をしっかりと認識していない〈ぼく〉自身にある。

 

 いったい〈ぼく〉は何に対して最上の価値を見いだしているのであろうか。ここに描か れた限りで見れば、金でもないし、女でもない。〈ぼく〉には自らの命を賭してまで獲得 したいものは何もないように見える。かと言って〈ぼく〉は特別、自らの命に価値を置い ているわけでもなさそうである。〈ぼく〉は精一杯、命を燃焼させることもできないし、 だからと言って死ぬこともできない。〈ぼく〉には沢井原のように自ら命を絶つことは絶 対にできない。まさにこういった男は、ウイスキーのコップを手にして両目を閉じて立ち 尽くすほかはない。

 〈ぼく〉は順子と別れたことで束の間の解放感を味わっているが、そ んな解放感は彼の存在を覆い尽くしているどんよりとした空気に比すれば何ものでもない 。〈ぼく〉は決して孤立しているのではない。しかし孤独でもない。〈ぼく〉には孤独に 徹した男の透明な寂寥感がない。〈ぼく〉には孤独に徹した男の底無しの闇を感ずること もない。〈ぼく〉をとりまく空気はどこまでもどんよりとしている。それは、息苦しさを 感じるほど汚れてはいないが、深呼吸したいほどさわやかなものでは決してない。〈ぼく 〉は東京に住んでいるが、東京人ではない。故郷は九州だが、その故郷は郷愁を誘う魂の 古里とはなり得ない。〈ぼく〉には家族があり、愛人がおり、妻までいたが、彼らの誰一 人としてかけがえのない人とはならなかった。従って〈ぼく〉は、肉体を持ち、なんやか んやを考え、日々を呼吸して生きてはいるが、愛を知らず、憎しみを知らず、怒りを知ら ず、悲しみを知らない。ただひたすら冷静を装って、孤立もできず、孤独にもなれず、内 的に閉塞されたどんよりとした時空をばくぜんと生きている。はたしてこんな人間を〈生 きている〉と言えるのか。いったい〈ぼく〉の最上の価値はどこにあるのか。

 

 『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉は命懸けで小説を書くと言っていた。『謎謎』の〈ぼく 〉もまた、この小説の語り手であり主人公であるから、〈ぼく〉の最上の価値は自分を主 人公にした小説(ぼく小説)を書くことにある、と言ってもいいだろう。〈ぼく〉は自分 が生きてあるその姿をできうるかぎり忠実に描きだそうとしている、そのことだけがかろ うじて彼の生きる証となっている。

 〈ぼく〉は小説の中の〈ぼく〉であるから、とうぜん虚構の語り手であり人物である。 作者村上玄一とこの虚構の〈ぼく〉を同一視することはもちろんできない。しかし現実の 村上玄一を知る者から見れば、『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉も、『謎謎』の〈ぼく〉も かなりの部分において作者の内的外的諸相を反映している。明らかに違うのは〈ぼく〉と 村上玄一の容貌である。村上玄一はどういうわけか『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉を醜男 に設定しているが、わたしなどから言わせれば『鏡のなかの貴女』や『謎謎』の〈ぼく〉 は美男子に設定しておいた方がいい。そうした方が、なぜこういった中途半端な甲斐性な しの男に愛人や結婚相手ができるのか分かりやすい。甲斐性なしのロクデナシだが、ダン ディでナルシストで女好きの美男子であれば、そういった男と関係を持ちたがる女はあん がい多いかもしれないからである。

 わたしが村上玄一と出会った頃、会うとよく『鏡のなかの貴女』の話をした。「なぜ、 〈ぼく〉は鏡の中へ侵入していかないのか、それを書くと面白いのに」といったようなこ とを執拗に繰り返し言った覚えがある。が、村上玄一はわたしが言うような小説は何一つ 書かなかったし、『穴まどい』を「江古田文学」(昭和六十年十月)に発表してからは小 説自体を書かなくなった。『生き方の練習』が発表された「江古田文学」は平成五年八月 であるから、実に八年ぶりということになる。ここで詳細に批評することはしないが『穴 まどい』『生き方の練習』『うしろ姿』の主人公たちの性格は『鏡のなかの貴女』『謎謎 』の〈ぼく〉と基本的にはほとんど変わっていない。

  村上玄一の主人公は執拗に、まるで依怙地になったように鏡の前に立ち尽くし、鏡の中へ と侵入することもなければ鏡を叩き割ることもなかった。換言すれば、幻想や希望や夢を 抱くこともなければ、狂気や絶望や自殺に到ることもなかったということである。彼らは 、現実の世界で原寸大の自分自身を遠くを見ることのできない肉眼の眼差しで見つめるほ かはない。彼らは、別に世界に頽落(ハイデッガーが言う好奇心・おしゃべり・曖昧に生 きている人間の非本来的な様態)しているわけではない。彼らは自分の甲斐性なしや虚勢 や自惚れや曖昧さをそれなりに自覚しているが、ただそこから別の生の様態へと飛躍する 力もないし、飛躍することに何らの希望も抱いていない。

  絶対的な価値があり、その価値に従って生きながら、人生の途上で価値変換を強制され た者なら虚無や絶望を味わうのはとうぜんであろう。『謎謎』の〈ぼく〉のオヤジのよう な戦争体験者なら、敗戦後、口を閉ざさなければならなかった内的必然性がある。しかし 、戦後に生まれ、お仕着せの民主主義教育を受けてきた〈ぼく〉たちには、そもそも絶対 価値なるものが存在しなかったし、とうぜんのこととしてその崩壊感覚もない。〈ぼく〉 はまさに日本の敗戦後の曖昧さを自らの存在の証のようにして生きている。〈ぼく〉はそ の鳥餅のようなねばっこい曖昧さのぬるま湯の中に投げ出された存在と言えようか。〈ぼ く〉はそのぬるま湯の中で満足しているわけではないが、かと言って必死になってもがい ているわけでもない。〈ぼく〉はこのぬるま湯を日常として受け入れており、〈ぼく〉に とってはどんな突発的な事故や事件もこのぬるま湯の中に放り込まれればたちまち日常と 化すことを感覚的に知っているのだ。このぬるま湯の日常をアニメ的に表現すれば巨大な 灰色の化け物となろうか。実はこの灰色の化け物は、敗戦後の日本全体を覆い尽くしてい るようにも思える。そういう意味では、村上玄一の描く中途半端で卑小な〈ぼく〉という 存在は、敗戦後の日本人の一つの姿(側面)を隠喩的に表現したものだと言えないことも ない。

  問題は〈ぼく〉に対して作者の村上玄一がどこまで突き放して冷徹に見ているかである 。おそらく村上玄一は〈ぼく〉に対して明らかに距離を持っていると主張するだろう。〈 ぼく〉は作者によって作られた語り手であり主人公であるから、それは当然である。しか し、読者の目から見ると、〈ぼく〉が作者と重なって見えることはあっても、〈ぼく〉が 作者から突き放された存在には見えない。〈ぼく〉に対して最も親和的な関係を取り結ん でいるのは、鏡に映った〈もうひとりのぼく〉よりもはるかに作者自身であるようにさえ 見える。

 『鏡のなかの貴女』を例にとると、〈ぼく〉は鏡の中に〈もうひとりのぼく〉、すなわ ち〈鏡のなかの貴女〉しか見ていない。読者に見えるのは〈鏡のなかの貴女〉と鏡の前に 立っている〈ぼく〉である。換言すれば、作者はこの二人しか描いていないということで ある。もし作者が〈ぼく〉に対して冷徹な眼差しを送っていたならば、〈鏡のなかの貴女 〉の背後に彼女とは全く別の存在をも描いたであろう。描かないまでもその存在を読者に 感知させたであろう。同じことを鏡の前の〈ぼく〉に則して言うなら、この〈ぼく〉を見 つめるもう一人の存在を描いたであろうということである。こういったことをさらに換言 するなら、村上玄一の〈ぼく小説〉には批評が欠如しているということである。語り手で ある〈ぼく〉は自分を主人公とする〈ぼく小説〉において、自らの存在を他者の眼差しで 見る視点を欠いている、そのことによって自らのナルチシズムとダンディズムを無意識の 内に肯定し、それを厳しく撃つことができないのである。  

清水正  村上玄一を読む(連載12)

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村上玄一を読む(連載12)

清水正

 

 

  『謎謎』の〈ぼく〉はついに独り言をはじめる。『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉のよう に鏡や窓硝子に映ったもう一人の僕との対話ではないが、それが自分自身の本当の姿を掴 もうとする内的対話には違いない。が、はたして〈ぼく〉の内的対話は彼の深部へと踏み 込んで行くのであろうか。

 

 ・・もしかすると、沢井原よりも、お前自身のほうが死を選ぶには相応しい人間だった かもしれないね。

 「だけど、ぼくには自殺する勇気はないよ。ぼくが死んだからといって、ぼくが沢井原 のことを考えるほどには、誰もぼくのことを、こだわって思う者もいないし、それだから という訳でもないけどね、自ら命を絶つなんてことは、恐くてできないよ。ところで、お 前は誰なんだ?」

 ・・お前だよ。判ってるくせに。

 「もうひとりのぼくが。なるほど、それで、自殺をすすめようとしてるわけ? でも、 ぼくは生きつづけるよ。どんなに傷めつけられてもね。騙されても、笑われても、無視さ れようと、ぼくは平気な顔をして生きつづけるよ。ぼくには、それができるんだ。なぜな ら、ぼくが本気になったら、いますぐにでも、何日も何日も、ぼんやりしていることなん て、簡単に実行できるんだからね」

 ・・どんなに人に罵られても、中傷されても?

 「何か、ぼくが悪いことでもしたような言い方だけど。ぼくは何もしていないし、周辺 の人は、みんないい人たちばかりだ。立派な人間ばかりだよ」

 ・・たとえば?

 「沢井原だって、ひとつのものに対する執着心、それは凄かったよ、ぼくは感心してい たね。それは主に自衛隊に関することではあったけど、彼のその徹底ぶりには敬服してい たんだ。富田の広範囲な知識欲と、仕事における要領のよさ、これなんか、ぼくなんて、 とんと及びもつかなかったしね。金田氏の仕事を操ることにかけての不思議な力にも適う わけがなかった。みんな立派だよ」

 ・・女については、どうなんだ?

 「美樹子の万人に対する平等の優しさ、順子のこれまでの、ぼくに接した献身ぶり。そ れぞれ精一杯に生きようとしてる姿勢が素晴しいと思うね」

 ・・そして、お前自身は?

 「ぼくのことは、お前が知っているくせに。自分のことを言うのは恥かしいよ。判るだ ろう?」

 ・・お前は、どういう人間なんだ。なぜ生きてるんだ?

 「ふつうに生きていれば、いつか、いいことがあるかもしれないしね」

 ・・もっと正直に。

 「ぼくは冷静でありたい。どんなことが起ころうと、そのときの対処の仕方は、落ちつ いた状態でありたい。困難な問題や複雑な事情が発生したとき、うまく解決したい」

 ・・何を、そんなに怯えてるんだ?

 「ふつうに生きていても、何が起こるか判らないからね。突然の事故というのは仕方が ないにしても、人間関係の問題は、防ごうと思えば可能な気がするんだ。それで、他人が 何を考えているのか、それを見抜く能力、ぼくが、いま、もっとも欲しているものだけど ね。どのように生きたら得られるのか、教えてくれないかな。その方法を学びたいよ」

 ・・しかし、かなり冷静に悩みを悩んでいるような気もするけど。

 「そうなんだ。お前も知っているように、ぼくは昔から、自分のことを天才だと思って るんだ」

    ・・そんなこと知らないよ。

 

 この〈もうひとりのぼく〉との内的対話は深みへと降りていくことはない。〈もうひと りのぼく〉は単なる質問者であって、〈ぼく〉が生に執着するその根拠を問いもしない。 〈もうひとりのぼく〉は〈ぼく〉の対立者として現れているのではなく、〈ぼく〉の内心 の思いを引き出す役目を発揮するために現れている。『鏡のなかの貴女』の〈貴女〉と同 じように、この〈もうひとりのぼく〉は決して〈ぼく〉を糾弾したり告発したりはしない 。換言すれば、〈もうひとりのぼく〉はいつまで経っても〈もうひとりのぼく〉であって 、〈ぼく〉にとって〈他者〉とはなりえない。〈もうひとりのぼく〉が〈ぼく〉自身が否 定し、拒むような〈秘中の秘〉に肉薄していかないので、この内的対話は少しもスリリン グに展開していかない。

    どうしてこのような平板な展開になってしまうのか。それは〈ぼ く〉が自分自身の生のあり方を始めから肯定しているからである。〈ぼく〉はひとからど んなに傷めつけられても、騙されても、笑われても、無視されても平気な顔をして生きつ づけると宣言している。この宣言の裏には、〈ぼく〉は何も悪いことなんかしていないと いう思いが潜んでいる。それだけではない。〈ぼく〉はひとからどんなに悪く言われよう と、そんなひとたちを悪く言うつもりはない。だって〈ぼく〉はそんなちっぽけな人間じ ゃないからね、という自負もある。そこで〈ぼく〉は非難の代わりに「周辺の人は、みん ないい人たちばかりだ。立派な人間ばかりだよ」と、歯が浮くような言葉を発することに なる。

    もし〈もうひとりのぼく〉が〈ぼく〉に対して容赦のない〈他者〉として機能して いれば、すぐに突っ込みを入れたくなるセリフである。まあ、褒め殺しということもある から、〈ぼく〉の歯の浮くようなセリフも全き皮肉と受け取れないこともないが、それに しても〈もうひとりのぼく〉の質問に鋭さはない。〈ぼく〉の発する言葉を聞いていると 、ほんとイイ気なもんだな、という感じを抱いてしまう。〈ぼく〉は〈もうひとりのぼく 〉に対して、言っても差し支えのないことばかりを言っている。そしてその〈ぼく〉の甘 さを〈もうひとりのぼく〉もまた許している。

 女についての〈ぼく〉のコメント「美樹子の万人に対する平等の優しさ、順子のこれま での、ぼくに接した献身ぶり。それぞれ精一杯に生きようとしてる姿勢が素晴しいと思う ね」に到っては何をか言わんやである。このセリフが本音であろうと、皮肉であろうと、 もはや問題ではない。この小説において読者の誰が美樹子に〈平等の優しさ〉を、順子に 〈献身ぶり〉を感じただろうか。少なくともこの小説の語り手である〈ぼく〉は、美樹子 や順子の〈精一杯に生きようとしてる姿勢〉を描いていない。〈ぼく〉は〈もうひとりの ぼく〉に「そして、お前自身は?」と訊かれて「自分のことを言うのは恥かしいよ」と答 えている。おそらくこのナルシストの〈ぼく〉は自分自身のことを「精一杯に生きようと してる姿勢が素晴らしい」と思っているのであろう。

 〈ぼく〉が自分を評価していることは疑い得ない。読者のわたしから見れば過大評価で あるが、〈ぼく〉にすれば過少評価ということになるのだろう。〈ぼく〉の自己評価の根 拠はどうやら〈冷静〉ということにあるらしい。「ぼくは冷静でありたい。どんなことが 起ころうと、そのときの対処の仕方は、落ちついた状態でありたい。困難な問題や複雑な 事情が発生したとき、うまく解決したい」この言葉が、〈ぼく〉の自己評価の根拠を端的 に語っている。〈ぼく〉は困難な問題や複雑な事情が発生した時に、冷静に対処し、うま く解決できる能力を持っていると自負しているのだ。それを〈もうひとりのぼく〉の言葉 を入れて換言すれば、〈ぼく〉はかなり冷静に悩みを悩むことができる天才だと自負して いるということである。現に、〈ぼく〉は十年以上もつきあっていた美樹子にとつぜん結 婚したいからいい人を紹介しろと言われた時も冷静に落ち着いて対処することができた、 また妻の順子が浮気していることを知っても心を乱すようなことはなく冷静に相手の出方 を見ることもできる、自分の女を紹介した富田のアパートにも平気で訪問することができ る……まさに〈ぼく〉はどんな状況下にあっても冷静に対処することができる〈立派な人 間〉というわけだ。この〈立派な人間〉を同時に〈鉄面皮な破廉恥漢〉と見る視点が〈ぼ く〉にあれば問題はない。が、〈ぼく〉の内的対話からはそのような視点があるようには 見えない。〈もうひとりのぼく〉は、〈ぼく〉の中途半端な生ぬるい生のあり方を鋭く告 発する眼差しに欠けている。その結果、〈もうひとりのぼく〉は〈ぼく〉に都合のいい弁 護人のような存在と化すことになる。

 一九八四年一月十九日の午前、〈ぼく〉はオフクロからの電話でオヤジの死を知らされ る。〈ぼく〉は「ついに、やって来るべき時がきた。いやでも九州へ戻らなくてはならな い」と書く。〈ぼく〉にとってはオヤジの死よりも、九州へ帰らなくてはならない、その ことの方が重いようである。〈ぼく〉に、父親の死に直面した悲しみの感情を窺い知るこ とはできない。〈ぼく〉はここでも冷静に対処することに価値を置いているかのようだ。

  〈ぼく〉は父親が死んだこの日、電話を掛けてきた美樹子と喫茶店で待ち合わせ、そこで 美樹子から富田と別れたいという話を聞くことになる。美樹子は富田は変態だと言い、〈 ぼく〉はそれを知っていて富田を押しつけたのではないかと責める。「男なら誰でもいい なんて思ってたけど、とんでもないことだったわ。……不運な女なのよ、わたしって」「 申し訳ない。富田には、ちゃんと決着をつけさせるよ」美樹子と〈ぼく〉はこんな会話を 交わしているが、ほんとこの二人どうしようもない。この、二人のどうしようもなさは、 ともに自分たちのくだらなさを自覚していないところにある。富田を変態とかなんとか言 う前に、二人の関係を秘密にしたまま自分の女を富田に押しつけた〈ぼく〉の卑劣さを、 そして男なら誰でもいいと富田と一緒になった美樹子のバカさ加減を、この二人はじっく りと考えた方がいい。〈ぼく〉には想像力が欠けているから、蒸発して三日もたった富田 の内面世界の襞をなぞることはできない。順子や美樹子や富田を自らの内的対話の中で〈 立派な人間〉なんぞと言っている〈ぼく〉は、それが本音であれ皮肉であれ他者の世界を 的確に凝視することはできない。

 

 「わたし、あの人と別れるわよ」

  その言葉を聞いて、とっさに、ぼくの頭に浮かんだのは、順子と別れたぼくが、いま 目の前にいる窶れた美樹子と、どこか私鉄沿線の、アパートの小さな部屋で、なぜだか幸 せそうに暮らしている光景だった。ぼくは慌てて、その考えを振り払った。

 

 この場面はつげ義春の『やなぎや主人』を想起させる。どこかしらこの〈ぼく〉には、 つげ義春の漫画の主人公を気取ったところが見られる。が、〈ぼく〉がつげ漫画の主人公 と決定的に違うのは、〈ぼく〉が中途半端な自意識を捨てきれずにいることである。言い 方を変えれば、〈ぼく〉は堕ちきれていないのである。

 美樹子と別れ、家についた〈ぼく〉は帰って来た順子にオヤジが死んだことを報告した 後、自分の方から別れ話を持ち出す。順子の出方を待って、自分からは決して仕掛けない と言っていた〈ぼく〉だが、オヤジが死に、美樹子が富田と別れると言いだしたことで心 境に変化が生じたのだろうか。順子は「へえ、意志薄弱で決断力のないあんたが、よく思 い切れたわね」と言う。この言い方は〈ぼく〉をかなりの程度においてバカにしている証 であるが、それだけでは腹の虫がおさまらないらしく、矢継ぎ早に罵りの言葉を吐きつづ ける。「まったく意気地がないんだから。わたしはそんなあんたのことを、ずっと軽蔑し つづけてきたんだから」「もう、あんたの底は知れてるんだからね。本当は話もしたくな いんだよ」「結局は、あんたが何もかも悪い。自分でも判ってるでしょ。ろくに稼ぎもし ないくせに、女房ひとり養うこともできないくせに、コソコソと、あんなババアと付き合 って、知ってるんだよ。何よ、あのだらしなさそうな美樹子って女、どこが気にいってる の。あんたまで不潔っぽい感じ。大嫌いよ、あんな女。わたしの、いちばん嫌いなタイプ ね。でも、もう、そんなこと、どうだっていいけど。それに、もう、あんたにも、何の能 力もないクズみたいな男だって見切りをつけたからね。つまり、金儲けのできない人って こと。そんなの最低だよ」「最初から最後まで、ついにあんたはお金とは縁がなかったね 」「いろんなことを言っても、仕事のできない人にはお金がない、お金のない人はスケー ルも小さいし、みみっちいよ。そんなことを言いながら貧乏な生活をつづけていけばいい じゃない。本当はイヤなくせに」。八年間を一緒に暮らしてきた女の〈ぼく〉に対する判 断であり、見限りの言葉である。

   美樹子のこの罵りの言葉の合間に〈ぼく〉が言えること はせいぜい「けっしてお金だけが人生じゃないぜ」「お金というものは本質的には汚いも のなんだ」といったありきたりのセリフだけである。順子とは「若いということだけで一 緒になった」と臆面もなく書いた〈ぼく〉が、離婚話の最中にもっともらしいことを言っ たところでそんなことは恥の上塗りでしかない。

 〈ぼく〉は他人から自分に向けられた非難や罵りの言葉を正確に記憶し、それを書き留 める才能を持っているが、その他人の言葉を受け入れて納得しているわけではない。〈ぼ く〉は他人が何と言おうが、それとは関わりなく自分自身に対する認識を持っており、そ れを変えることはない。〈ぼく〉は一人そっと呟く「ぼくは悪い男ではない、汚い男では ない、ずるい男ではない」と。要するに〈ぼく〉は自分を〈卑劣漢〉とか〈ロクデナシ〉 などと思ってはいない。〈ぼく〉は妻の順子からどんなにバカにされ罵られても、おそら く自分が世界中で一番好きなのである。

 〈ぼく〉は順子と決着がついたことを美樹子に報告する。美樹子は「あなたとわたしは 、いつになっても一緒にはなれない気がするの。これまでと同じような状態で付き合って いたほうがいいわ」と言い、〈ぼく〉はそれを受けて「ふたりが同時に別れたからといっ て、一緒になる必要はないんだよ」と言う。この小説の最後の場面を引用しよう。

 

  電話を切ったあと、ぼくは、これまでに経験したことのない緊張感を覚えた。明日か らの美樹子が、どのように生きていくのかは知らない。順子が、どのような人生を歩むこ とになるのか、見当もつかない。ぼくの生活にしても同じことだ。さて、まず何から始め るべきか。ウイスキーグラスを両手で握ったまま、立ち尽くし、目を閉じてみた。

 

 この最後の場面は〈ぼく〉という人間をきわめて的確に表している。〈ぼく〉は最後に この地点に行き着いたのではない。〈ぼく〉は始めから、何をしていいのか分からず、目 を閉じ、立ち尽くしていたのだ。美樹子と十年以上も付き合い、順子と八年の結婚生活を 送り、富田と友達付き合いをし、幼なじみの沢井原とは成人して酒を酌み交わす仲になっ てさえ、結局〈ぼく〉は他人のことは何も分からなかった。

 〈ぼく〉は他人の内部に侵入していくことがない。否、他人ばかりではない、〈ぼく〉 は自分自身の内部へも降下して行こうとはしなかった。〈ぼく〉の人生の基本的な態度は 他人に必要以上に関わらないことであるようだ。この態度は他人を傷つけないし、他人か らとやかく言われないでもすむ。しかし、こういった態度はいつまでも自分を曖昧なまま にしておくことでもある。

  この小説世界は〈ぼく〉の曖昧な態度を反映してどんよりと曇っている。快晴の瞬間も ないし、大嵐になることもない。いつも冷静に事にあたりたいという〈ぼく〉は、自分の 冷静さをついに崩すことはなかった。しかし、それは別に褒められたことではない。〈ぼ く〉のなまぬるき冷静さが保持される限り、〈ぼく〉を取り囲む現実のどんよりした天気 模様が変わることはないだろう。

 〈ぼく〉が生きる日常に非日常が入り込んでくることはない。美樹子が男なら誰でもい いから結婚したいと言いだしたことも、妻の順子が浮気していることも、沢井原が自殺し たことも、オヤジが死んだことも……〈ぼく〉にとってはなんら〈非日常〉とはならなか った。〈ぼく〉はただただ灰色のような変哲のない日常を生きている。この男に情熱や愛 を感ずることはできないし、深い断念を抱えているとも思えない。〈ぼく〉に悲しみや憤 怒を感ずることがないように、この〈ぼく〉と関わりを持った美樹子や順子や富田にもそ ういった感情を覚えることはない。自殺した沢井原に関しても、その自殺の原因を生々し く感ずるような表現はない。〈ぼく〉が語った〈ぼく〉の人生の断片には生きてあること のせつなさのようなものを感ずることはできない。

 確かにこのような男は存在するだろう。中途半端な生ぬるい自らの人生をナルシスティ クに肯定しながら、そういった自分の生きる姿にダンディズムを感じている男、どんなに 他人に否定され罵られても〈もうひとりのぼく〉とはいつまでも親和的関係を取り結べる 男……確かにこういった男が現実に生きていてもおかしくはないだろう。

   おそらくこの男 は何かに対して反抗し続けている。その具体的な形象として敗戦後おめおめと生き続けた オヤジがおり、その延長線上に天皇がいるのだろう。〈ぼく〉は中途半端のロクデナシで ありながら、そのことをしっかりと自覚できないままに生き延びている。この男は何に対 しても責任などとらないし、崇高な夢を見ることもないし、従って絶望することもない。 断念もないし、希望もないし、かと言って虚無に落ちているのでもない。自分とかかわっ た女を幸福にすることもできないし、不幸にすることもできない。〈ぼく〉はロクデナシ にすらなれないのだ。〈ぼく〉は超人でもないし、非凡人でもないし、そして最も肝心な ことは、彼はただの人ですらないということである。

 この小説を読んで、語り手であり主人公である〈ぼく〉をつくづく嫌な男だと思う読者 は少なからずいるだろう。こういった中途半端な甲斐性なしのナルシストの顔は見たくな い。なぜなら、この男を否定したいと思う読者にとって、この男の顔は最も見たくない〈 もうひとりのぼく〉でもあるからである。そういった点においては、この小説の〈ぼく〉 は現代日本人の典型的な負の裸形を晒している。が、おそらくこの〈ぼく〉は多くの日本 人によって拒否されるか、または無関心のままに放置されるだろう。ひとつの問題は、こ の〈ぼく〉が三面鏡の一面に映った〈もうひとりのぼく〉にしかなり得ないところにある 。もし仮に、この卑小な中途半端な〈ぼく〉が読者一人一人にとって正面の一面鏡に映っ た〈もうひとりのぼく〉そのものであれば、この小説は現代日本文学の代表作ともなった であろう。が、現実にはこの〈ぼく〉とは全く違った生の様態を生きる者は多い。そうい った様々な人間たちの坩堝の中にこの〈ぼく〉を置いてみるのでなければ、この主人公の 特質性を鮮やかに浮き彫りすることはできない。 

 

 

清水正  村上玄一を読む(連載11)

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村上玄一を読む(連載11)

清水正

 

 

 〈ぼく〉は割付の仕事をしながら富田を思い、沢井原を思い、そしてオヤジのことを思 う。

 

  オヤジの病気が悪化していなかったら、冷静に断わっていた仕事かもしれない。九州 まで帰る交通費を稼ぐ必要がなかったら、いま頃、ぐっすり眠っているはずなのだ。しか し、ここはオヤジのために何としても乗り切らねばならぬ。だけど、なぜオヤジのためな のだろう?

  いつ死ぬかもしれないオヤジ。オフクロの連絡によると、「想像を絶する苦しみ」と 闘っているらしいけれど、用意されている死に一歩一歩、近づいているということだろう 。そこには、ひとつの平凡な死があるだけ。

  オヤジの一生はもうじき完了する。はて、これまでに考えてみたこともないけれど、 オヤジの一生とは、一体どんなものだったのか。

 

 このあたりの叙述はしんみりとした感じがよく出ている。三十数歳までは国のために戦 地に狩り出され、敗戦後三人の子供をもうけ、今、癌になって死のうとしているオヤジの 一生……。〈ぼく〉は「何の趣味もなく、ただ三人の子供を平凡に養い、普通の教育を受 けさせるために、金の苦労だけはしたであろう、存在感の薄かったオヤジ」と書いている 。

  〈ぼく〉のオヤジはわたしの父親のイメージにも重なり合う。わたしの父親は大正四年 生まれ、近所に住んでいた同じ年頃の男達も同じような性格のひとが多かったように思う 。おしなべて寡黙、余計なことなどいっさい口に出さず、黙々と仕事をしているひとが多 かった。丙種合格のわたしの父親が徴兵されたときは、近所の者たちがいよいよ日本は負 けるのかと噂しあったそうである。しかし、そんな話はぜんぶ母親から聞いたことで、父 親は自分の人生についていっさい語ることはなかった。はっきりと言えることではないが 、戦争に狩り出された日本人の多くもまた戦争の犠牲者であったと思う。誰が好きこのん で戦地に赴くであろうか。しかも戦争から帰ってくれば日本の戦争行為そのものが全否定 されている。わたしの父親は戦地につくこともなく、したがって人を殺したことはないが 、それでも戦争のことについて触れることはなかった。ましてや戦地で戦闘行為に参加し た者の口が重くなるのは当然であろう。

 〈ぼく〉のオヤジは九州、わたしの父親は関東の 千葉で、戦争体験も異なるはずなのに、その姿には共通したものが漂っている。〈オヤジ の一生〉を考えるとは、自分の意志とは関係なく狩り出されたオヤジ達の戦争を息子達が きちんと捕らえ返すことにあるように思える。

 〈ぼく〉は東京オリンピックが開催される前年、中学二年のある日の事を思い出す。

 

 オフクロと妹が市内に買い物に出かけて、思いもよらぬものを持ち帰った。真っ白な一 個のバレーボールだった。嬉しがり屋の兄は、さっそく近似の友達を集め、オフクロや妹 も一緒に、七、八人で円陣をつくり、ボールを打ち合った。ぼくも調子に乗って、「回転 レシーブだ」なぞと、必要もないのに転んでみせて、みんなを笑わせたりした。そんな日 々が二か月もつづいたろうか。しかし、オヤジは、そのグループの輪のなかに、一度も加 わろうとはしなかった。縁側にぼんやり腰かけていたオヤジは、ぼくらが遊び興じている のを見ているふうでもなかった。この、いかにも平和な家庭の風景に照れてでもいたのだ ろうか。

  それから半年ほどが過ぎて、誰も相手にすることがなくなり、薄汚れて庭の隅に放置 されたままだったバレーボールを、大切そうに両手で持っていたオヤジの後ろ姿を見たこ とがある。オヤジは何を思っていたのだろう。

 

 この場面はしみじみしていていい。〈薄汚れて庭の隅に放置されたままだったバレーボ ール〉とはまさに〈ぼく〉のオヤジそのものの姿と言えよう。このオヤジの後ろ姿をとら え、記憶に刻み込んだ〈ぼく〉の眼差しは信用するに足る。このときの〈ぼく〉が陳腐な 解説や分析をしていないのがいい。平凡な家庭の風景のなかで、ひときわ平凡な姿のまま に浮上してくるオヤジが抱え込んだ闇ははてしなく深い。三十数歳まで戦地に狩りだされ ていたオヤジの人生が平凡であるはずはない。オヤジが心の奥に沈めた闇は深すぎて平凡 に映るまでのことである。オヤジの死に対して「そこには、ひとつの平凡な死があるだけ 」と断定した〈ぼく〉は、はたしてどこまでオヤジの闇を覗き込むことができたのか。  〈ぼく〉は妻の順子に関しては次のように書いている。

 

  順子が別れたいと言ったら、きっと、ぼくは同意するだろう。ぼくに、男としての魅 力が欠けていることは、自分自身が一番よく知っている。それに、ぼくには順子を責める 資格がない。結婚してからも、美樹子との関係は長くつづいていた。順子が、そのことを 察知していたのかどうか、それは判らない。おそらく薄々は感じていたはずだ。だけど、 美樹子が富田と一緒になってから、順子に男ができるとは皮肉なものだ。           順子が家を出てしまったあと、ぼくにかかってくる最大の負担は、家賃の八万円を、 ひとりで支払わねばならぬことだ。ぼくが五万、順子が三万だして、高すぎる家賃を、こ れまでどうにか賄ってきた。生活費も八割以上を順子が出費していた。ぼくの収入のほと んどは、交際費の名目で酒代として消えた。銀行預金の残高は、いつも五万円前後。

  それでも、ひとりになっても何とかやりぬけるような気がする。具体的に面倒なこと が沢山でてくるだろうことは想像できる。でも、ぼくは時間を拘束されたサラリーマンで はない。ウィークデイに布団を干すことも可能だし、クリーニング屋にも行ける。自分で 、自由に時間の組み立てができる。金銭的に少々の不安はあっても、さしあたって心配事 はないといっていい。

 

 〈ぼく〉は妻の順子になんの執着も覚えていない。この感情は美樹子に対しても基本的 には同じである。否、順子や美樹子に対してばかりではなく、〈ぼく〉はオヤジやオフク ロや兄や妹、それに富田に対しても特別の感情を抱いているようには思えない。現実に生 きていながら、現実に丸ごと参加しているといった生の感覚が希薄である。〈ぼく〉には 烈しい感情の爆発が全くない。まさに熱くもなく冷たくもない、なまぬるい人間、つまり 神の口から吐きだされてしまうような典型的な俗物である。この俗物は『罪と罰』に登場 する俗物ルージンに較べてもなまぬるい人間である。

     ルージンは自分の嫁さんにしたい女 性は貧乏な家の美人で処女で夫を無条件に尊敬してくれるような女性にかぎると真剣に思 っているような中年の弁護士である。この男、かなりの敏腕家であるが、同時にしみった れで、婚約者となったドゥーニャとその母親を三等列車で首都に招くような男でもある。 まあ、ルージンのしみったれは、彼と結婚することでロジオンの将来の安泰をはかろうと したドゥーニャや母親プリヘーリヤの打算を考えれば、要するにどっちもどっちというこ とになる。が、許しがたいのはソーニャに冤罪事件を仕掛けたことである。一家の犠牲に なって娼婦に身を落としたソーニャに百ルーブリの金を盗まれたと公衆の面前で一芝居う つこの男の卑劣度はそうとうに高い。要するにこういったルージンのような卑劣漢に較べ れば、〈ぼく〉はかなり普通の良くも悪くもない俗物ということになる。

 ところで、ルージンが『罪と罰』という小説の中でその俗物性が突出してしまうのは、 彼がロジオン・ラスコーリニコフやソーニャといった、言わば〈純粋人間〉の直中に登場 してきたからと言えよう。ところが『謎謎』という小説では、〈ぼく〉を始めとしてすべ ての人物が俗物であるので、〈ぼく〉の俗物性や卑劣さは特に目立つことはない。あるい は、〈ぼく〉を卑劣漢と見なすわたしの批評に意外な感じを持つ読者さえいるかもしれな い。『謎謎』において〈ぼく〉の卑劣さを告発し糾弾する人物はいない。語り手である〈 ぼく〉自身が自らの卑劣さに気づいていない可能性すらある。  『罪と罰』においてロジオンは二人の女性を斧で叩き殺してすら自分を潔癖な人間だと 思っている節があった。鋭利な分析力を持つ予審判事ポルフィーリイはロジオンを、二人 の女を殺しておきながら自分は蒼白き悩める天使のような顔をしてペテルブルクを彷徨い 歩いている青年と皮肉っている。

      ロジオンは彼の母親と同じようにくだらない人間に属し ている。息子に向かって、おまえはラスコーリニコフ家の杖だ、柱だ、などと過剰な期待 を寄せて、せっせと仕送りを続ける母親プリヘーリヤと、高利貸しの婆さんを殺してその 金を奪い、その金を元手にして企業を立ち上げ、成功した暁に恵まれない人々に報いれば 、その一つの犯罪は贖われるのだなどと考える息子ロジオンは、確かに濃い血によって繋 がっている。

 このロジオンというロクデナシの殺人青年が、それにもかかわらず多くの読 者に支持されているとすれば、それは彼の苦悩の深さにある。一つの犯罪は百の善行によ って贖われるとか、非凡人は良心に照らして血を流すことが許されているとかいう、そう いった理屈を正当化しながらも、ロジオン自身は犯行後、一時として不安と恐怖から解放 されることはなかった。この不安と恐怖は単に逮捕、裁判、判決へのそれとばかりは言え ない。ロジオンは殺人という〈踏み越え〉を実践することで、論理を越えた何か絶対的な もの、微塵も疑い得ぬ〈真理〉を見いだそうとした。その、何か絶対的なるものを見いだ そうとして見いだせぬ、その苦しみに悶える、その姿に読者は共鳴するのである。

 

 ドストエフスキーが主人公格として据えるのは、殺人者ラスコーリニコフ、娼婦ソーニ ャ、酔漢マルメラードフなどである。ドストエフスキーは彼らに肯定的な照明を与え、殺 された高利貸しの老婆アリョーナやルージンなどにはどちらかと言えば否定的な照明しか 与えていない。『罪と罰』はその殆どの場面が主人公ロジオンの視点から描かれているの で、その語りの機能に乗せられた読者は無意識のうちにロジオンの感情を共有することに なる。つまり読者もまた人類全体の苦悩を一身に背負ったような気分になってしまうので ある。

 〈ぼく〉にはロジオンが抱えた問題、つまり或る何か絶対的なるものを見いだそうとす る視点が当初から欠けている。従って、それを見いだそうとする止むにやまれぬ衝動に駆 り立てられることもない。〈ぼく〉にはロジオンのような〈踏み越え〉の実験衝動がない ばかりではない。ルージンのような実業家としての野心もないし、自分の好みにあった女 性と結婚しようとする意志もないし、子供を作って幸福な家庭を築きあげようとする考え もない。〈ぼく〉はかろうじて夫であり、情夫であり、アルバイターである。〈ぼく〉は たまたま東京で働き、生活しているが、もちろん東京は彼にとって故郷とは言えない。〈 ぼく〉の故郷は九州の田舎にあるが、そこは彼にとって帰りたいと思う心の故郷ではない 。いったい〈ぼく〉は何を心の拠り所として生きているのだろう。親も兄弟も、妻も愛人 も、仕事先の上司や仲間も、〈ぼく〉の心の中心部に存在することはない。というよりか 、〈ぼく〉に心はあるのだろうか。〈ぼく〉は自分の人生をどこかで捨て去ってしまった のだろうか。しかし、〈ぼく〉には〈捨て去る〉などというドラマチックなものを感じ取 ることもできない。〈ぼく〉は自分を余計者として把握しているのだろうか。しかし、〈 ぼく〉に余計者としてのアンニュイな雰囲気を感じることもない。〈ぼく〉はかなり中途 半端なところにとどまっている。そして、その止まり方はかなり自己保身的で受け身であ る。おそらくこの男は今後とも、我を忘れて熱くなったり、泣いたりわめいたりすること はないだろう。なにしろ、この〈ぼく〉は『鏡のなかの貴女』の〈ぼく〉と同じように、 この優柔不断な、中途半端な、自分の生きるスタイルをダンディだと思い込んでいるのだ から。

  もし、〈ぼく〉が自らのダンディズムの空っぽさをきちんと認識し、その空っぽな 状態から一歩でも踏み出そうとすれば、新たなドラマが展開されることになるだろう。し かし、この〈ぼく〉はこの〈空っぽ〉な状態をこそ愛しているらしい。何しろ、熱くも冷 たくもない〈ぬるま湯〉につかっていることは、それはそれで快適な状態には違いないの であるから。

 〈ぼく〉が気にしているのは別れ話をもちかけてくる順子のことではない。順子と別れ た後、自分一人で負担しなければならない家賃のこととか生活費のことである。良くも悪 くも、〈ぼく〉は順子の内面にはいっさい関わろうとしない。〈ぼく〉と順子はただ肉体 関係だけで続いてきた夫婦であったのだろうか。肉体関係がなくなれば、夫婦である必要 もなくなったということであろうか。〈ぼく〉と順子の関係は夫婦というより肉体関係を 続けていた同居人と言った方がいいかもしれない。〈ぼく〉は妻にした順子に対しても、 愛人の美樹子に関しても、特別の所有欲はない。肉体関係をもった女に対するこういった 態度を何と形容したらいいのだろうか。〈ぼく〉は始めから〈男らしさ〉みたいなものを 放棄してしまっているから、男性優位主義的な考えはない。そういう意味では〈ぼく〉は かなり肩の力を抜いて生きている。〈ぼく〉は妻に対して主人でもないし、ヒモでもない 。自分の心のうちをすべて開いて、妻と〈愛〉によって結ばれているわけでもないし、そ んなことは始めから不可能であることを承知している。〈ぼく〉には結婚する前から美樹 子という女がいたわけだから、順子を純粋に愛していたなどとは口が裂けても言えない。 確かにこういった男に魅力を見いだすことは困難である。が、世の中は広いもので、こう いった男にイライラしながら離れられずにいる女がいないわけではない。

 それにしても、こんな中途半端なロクデナシの男と八年も一緒にいた順子のどこに魅力 があるのだろうか。この小説にはついに登場しなかったが、順子の浮気相手にぜひとも彼 女の魅力について語ってもらいたかったものだ。

清水正  神尾和由の新世界(連載2)

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神尾和由の新世界(連載2)

清水正

 

神尾和由「INTERNO e ESTERNO」を観る

 2019年5月1日午後二時十分、わたしは神尾さんの作品「INTERNO e ESTERNO」の前に立った。作品は国展会場の四番室に展示されていた。神尾さんの絵は「丘」を葉書で観ていたのですぐに分かった。

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 「丘」と同じく土色が基調となっているが、白、緑、黄、青が土色と同調するように配色されている。二枚の絵をまとめて観れば、人物は男が一人で女が三人である。男は白シャツの胸部上から描かれているのにたいし、女は三人ともに白、白、黄のワンピース姿でほぼ全身が描かれている。

 タイトルのイタリア語「INTERNO e ESTERNO」は「内と外」を意味する。画面右が「INTERNO」(内)、画面左が「ESTERNO」(外)で二枚合わせて「INTERNO e ESTERNO」ということである。独立した〈内〉と〈外〉でありながら同時に二枚の世界が調和して現出している。〈内〉と〈外〉の二つの世界に何らの確執、闘争、分裂、煩悶がなく、実に穏やかに安らかに調和している。女は腕を組んだり、両腕を上方に大きく掲げたり、両手を髪に当てたり様々な立ち姿のポーズをとっているが、他の男一人を含めてすべてが前方を向き、その表情は穏やかで友好的である。

 「INTERNO」(内)の室内を見てみよう。

 床は緑のカーペットが敷かれ、がっしりした四脚のテーブルは真っ白なクロスに覆われ、上にはオリーブ、水差し、カップなどが整然と置かれ、大きく開かれた右の窓には青空と白い雲、隣家の土色の建物と緑の大地が描かれている。左の小窓も全開され、青空と緑の立木二本と細長い建物が描かれている(壁に描かれた絵とも見える)。立っている白いワンピースを着た女の背後の壁も青く塗られており、全体にさわやかで涼しげな、開放感あふれた感じを受ける。

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「ESTERNO」(外)を見てみよう。

 画面右下に白シャツを着た首の長い短髪の男がおだやかな表情で正面を向いて立っている。この男の頭部にはまるで角のような白く細長い塔が描かれている。画面左には黄色のワンピースを着たふくよかな女が両腕をあげて手を髪(短髪)に当てている。画面中央には戸を全開した長方形の部屋に白いドレスを着た女が両腕をバンザイしたかたちで前を向いて立っている。画面右上部には雌雄を思わせる二本の木が真っ直ぐに立っている。画面上部には青空とそこに浮かぶ白魚のような雲が〈三匹〉描かれている。

 三人の人物、白い塔、二本の木に共通しているのは〈立っている〉ことである。これは〈独立〉〈自立〉〈毅然〉を表している。二本の木は寄り添わず一定の距離を保って立っている。三人の人物も同じく、彼らは決して見つめ合わず、接近せず、抱擁することがない。かといって、彼らは孤立しているのではない。ひとりひとりが自立し、孤独に徹することで、彼らは精神の自由を保持し、お互いに深く通底しているのである。神尾さんの描く絵の世界では一本の白い塔も、緑の二本の木も、青空に泳ぐ白い〈三匹〉の雲も、けっして慣れ合うことなく、自立し、孤独の自由を悠々と満喫している。

 〈白〉い雲、〈白〉いドレス、〈白〉い塔、〈白〉いテラス、〈白〉いシャツ、〈緑〉の木、庭、〈青〉い空、〈土色〉の顔・首・腕・脚、建物の屋根・壁・塀……これらがバランスよく配置され、透明感のある清潔でさわやかで明るい世界をつくりあげている。

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 画面中央の白いドレスを着た女は黒い部屋を背景にして立っているように見える。が、この黒は女の内部の暗い感情や閉塞的な闇の心理を象徴しているのではない。画面いっぱいに溢れている明朗潔癖は謂わばすでに〈黒〉を克服してしまっている。この一見〈黒〉く見える背景は、限りなく黒に近い〈土色〉で、これは白いドレスを身にまとった女が〈永遠の命〉を象徴する女神であることを意味している。

 

 さてここで二枚の絵を同時に観ることにしよう。

 画面右の「INTERNO」の両腕を組んで立っている女は、〈何〉かを待ち受けているように見える。ただ漠然と待っているというよりは、彼女の眼差しはすでに来たるべき〈何か〉をとらえ、その〈何か〉を知っているかのような余裕を見せている。

 画面左の「ESTERNO」の三人は、各々の表情と姿で、その〈何か〉を出迎えているように見える。〈女神〉をもバンザイ(歓迎)の姿で出迎えさせた〈何か〉とは何か。  これは本来名付けられないもの、描いてはいけないものである。 「INTERNO e ESTERNO」の明朗清潔な世界は、眩しい曙光に照らされた世界ではない。敢えて言えば、真昼の陽光に照らされた世界である。

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 「熱いか冷たいかどちらかであってほしい。あなたは生ぬるいのでわたしの口から吐き出そう」というユダヤキリスト教絶対神に支配された世界ではない。「INTERNO e ESTERNO」の世界は、人間も動物も植物も物質もすべて等価で、生きてあることの〈有〉の喜びをしずかに満喫できる世界である。

   ローマから一時帰国した神尾さんと三回目に会ってから実に26年の歳月が経った。先日5月1日に会った神尾さんは実におだやかな表情をしていた。かつてのエネルギッシュなぎらつくようなオーラの代わりに、好好爺の優しい笑みをたたえていた。もちんこれは神尾さんの創作意欲の減退を意味しているのではない。

    わたしは「INTERNO e ESTERNO」に〈新世界〉の現出を観たが、これは今、神尾さんが創作家として最高の自由の境地に至り着いた一つの証といえよう。気取りも虚勢もない、ふつうの人間の〈存在〉のうつくしさを、こんなに〈ふつう〉に描けることは実はただ事ではないのだが、それさえも感じさせないみごとな境地で、〈内〉と〈外〉の出入り自由な〈新世界〉が現れでている。

 国展の展示場で「INTERNO e ESTERNO」を前にした時、わたしは確かに〈新世界〉に自然と参入できたし、〈新世界〉の人物たちがこちらの世界へと歩み来たるのも感じた。この地上世界はいつも戦争や紛争の危機に襲われ、不条理な悲惨が続いているが、神尾さんがキャンバス上に現出させた〈新世界〉は永遠の平穏を獲得している。神尾さんの絵には深く秘められた〈祈り〉を感じ、くつろぎと共に厳粛な気持ちにもさせられる。

 今年七十歳になった二人が、様々な身体的精神的危機を乗り越えて〈創作〉の現場で再会できたことに、ひとり、孤独な部屋で祝杯をあげることにしたい。

神尾和由の新世界(連載1)

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神尾和由の新世界(連載1)

清水正

 

神尾和由の「丘」を観る

 2017年11月某日、ギャラリーユニコンでの「神尾和由展」(2017.11.19~12.3)案内の葉書が届いた。文面に手書きで「お時間ありましたら是非見て下さい。KAMIO」とあった。
 神尾さんと最後にあったのは1993年5月17日である。この日を正確に覚えているのは、当時わたしは「江古田文学」の編集長をしており、神尾さんに表紙絵をお願いした経緯を24号の編集後記に書いておいたからである。
 この編集後記は「江古田文学」100号記念号に掲載した「情念で綴る「江古田文学」クロニクル――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様――」に再録した(当ブログでも載せましたが、この文章の最後に再び載せておきます)。

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神尾和由画 「丘」60号変形

 案内の葉書に「作家関係者によるパーティ」が11月19日の午後四時からあるというので、24年ぶりに是非お会いしたいと思ったのだが、帯状疱疹後神経痛と難病治療中のこともあり、残念ながら欠席せざるを得なかった。

 葉書に記された略歴によれば神尾さんは1948年に愛知県瀬戸市に生まれ、1971年に日本大学芸術学部美術学科油絵科を卒業している。1982年~2005年までの23年間をローマに滞在し、現在は国画会会員とある。

 展示会へ行くことができなかったので、葉書に印刷された作品(「丘」60号変形)をしばし眺めていた。「江古田文学」24号(1993.8.20)、25号(1994.3.30)、26号(1994.10.15)、27号(1995.2.20)の表紙を飾った絵は青を基調にした抽象画であったが、二十数年を経て葉書に印刷されていた絵は黄土色を基調にした具象画に変わっていた。

 神尾さんの中で何が起きたのだろうか。葉書を手にして、ずいぶんと画風が変わったな、というのが最初の感想であった。抽象画には多層の具象が埋め込められており、抽象の線を想像力豊かに繋げていけば、鮮やかに具象の姿が浮上してくることもある。抽象画の鑑賞の仕方にはいろいろあろうが、わたしはそこに作者の精神・感情の直接的な反映を見たり、秘められたさまざまな具象の姿をかいま見てそこに作者の動的な精神のドラマを想像して楽しんだりする。

 青という色彩から受けるイメージは冷静、透明、寂寥、孤独、煩悶、孤立、憂鬱、絶望、死などである。芸術家は孤独に徹していなければ、観る者の魂を戦慄させる作品を創造することはできない。わたしの批評家としての実存的信条は「ひとり ひとりで ひとり」である。この信条はひとり批評家のものではなく、すべての芸術家に共通したものであろう。社会の商業的要請に迎合して作品を仕上げるひとは別として、自己の内在的欲求に従ってキャンバスに向かう絵描きは厳しく孤独に徹しなければならない。青を基調とした絵を描き続けていた横尾さんはまさにそういった芸術家の一人である。

 孤独に徹するということは、孤独に閉塞することではない。孤独に淫し、孤独に溺れるひとに、魂の解放はない。「江古田文学」の表紙絵の基調となった神尾さんの青は、自らの孤独を客観視していることで透明感を獲得している。孤独と癒着せず、孤独を精神の自由な世界に放し飼いして楽しんでいると言ってもいい。青は暗い憂鬱なイメージの檻から解放されて、観る者に楽しく明るい音楽をさえ響かせる。


 「丘」には三人の男と一匹の犬、壷、二本の立木が描かれている。画面左の男は白いパンツと白い靴を履いている。上半身は裸で背中を向け、顔は右に向けている。真ん中の男は白い半袖シャツと白いズボン、裸足で顔は左に向けている。三番目の男は白い半袖シャツ、薄い灰色の半ズボンを穿いて正面を向いている。

 彼らはジョギングする者、たたずむ者、散歩する者のごとくに描かれているが、すぐに気づくのは彼らの視線が交わっていないことである。ぽつんと描かれた一匹の犬もが目線をはずしている。画面上部左右に描かれた二本の立木もまた孤立しており、その間の交信は閉ざされているように見える。第一と第二の男の間に置かれている茶色の壷もまた、他の存在と無関係に孤立してある(かのように描かれている)。
 
 男たちが立ち、二本の木が立ち、犬が立ち、壷が立っている三角台地は土色に描かれ、それは山、ピラミッド、教会、墳墓などをイメージさせる。
 
 土色にひとはどのようなイメージを抱くのか。土は生命を生み出し死を受容する。神尾さんの土色が見るものに安らぎを感じさせるのは、土色が生と死を包み込んだ永遠の大地を象徴しているからであうか。
 
 立っている男たちは立ち止まっているように見えるが、これは動を孕んだ静の姿で、謂わば時を停止させた〈永遠の姿〉である。男たちは〈墳墓〉(死)から蘇生した者たちであり、〈墳墓〉(死)へと還りゆく者たちである。彼らは生者であり死者であり、〈永遠の時空〉に顕現した者たちである。この〈永遠の時空〉に顕現した男たちは人間としての特権を与えられていない。この〈永遠の時空〉では人間も犬も木も壷も土も空もすべて等しい価値をもった存在である。

 神尾さんの「丘」は〈永遠の時空〉としての〈母なる大地〉(母胎)、魂の原郷を感じさせる。

 第三の男の背後には箱型の建物が描かれている。建物の正面の四角い大きめな戸はしっかりと閉ざされている。この建物の中にはいったい誰が住んでいるのだろうか。

 ヒントは第一と第二の男の間に置かれた壷にある。画面には三人の男が描かれているが、女は一人も描かれていない。絵の中で、壷は女を象徴している。この壷が閉ざされた建物の中に潜む女性を象徴的に指示していると見ることができる。三人の男と一匹の犬が歩きながら、たたずみながら探していたものとは〈永遠の時空〉を体現した女神にほかならなかったということになる。


 「丘」の画面には様々な象徴的な線が隠されている。三人の男を直線(A線)でつなぎ、画面左右の二本の立木を横線(B線)でつなぐと十字架を意味する線となる。第三の男の背後の建物はこの文脈では教会堂となり、中には聖母マリア的な永遠の女性が潜んでいることになる。

 丘自体は巨大なロボットの仮面のように見え、直線と曲線でバランスよく描かれている。また画面には男性三人の他に女性のシンボルとして壷と画面左の立木が描かれている。つまりこの「丘」は直線と曲線、男性性と女性性がバランスよく配置されている。全体の印象として、女性性が優位を保っているように感じるのは〈丘〉が巨大な乳房、基調の土色が母なる大地、命を生み育てる肥沃な土壌を意味しているからであろうか。

 

参考資料として「江古田文学」24号の編集後記を再録しておく。

 ■二〇年前、わたしが大学を卒業してすぐに文芸学科に残った頃のふた昔前の話である。学科事務室に神尾佳代子さんという美術学科を卒業された方が勤めておられた。ある日のこと、前日のテレビで放映されたモジリアニをモデルにした『モンパルナスの灯』が話題にのぼった。神尾さんのご主人は毛布を頭からすっぽりかぶって、わずかばかりの隙間からだまって観ていたとのことであった。その時わたしは神尾さんのご主人に興味を抱いた。機会があれば一度ぜひお目にかかりたいと思った。しばらくしてわたしはその機会を得た。
■神尾宅におじゃましてわたしは初めてご主人と会うことになった。彼は描きかけの静物画のキャンバスを背に座っていた。彼は初対面のわたしに向かっていきなり「あなたは何をしている方ですか」と静かではあったが鋭く問うてきた。わたしは彼以外にこのように問われたことはそれまで一度もなかった。そこでわたしもいきなり、彼の描きかけの絵を批評した。
■彼は“存在そのもの”を描こうとしていた。“ある”ということ、“ある”という決して眼には見えないものをはっきりとキャンバス上に描きだそうと苦闘している姿がそこにあった。そこには一片のてらいも気取りもなかった。
■何時間が過ぎたただろうか。彼はおもむろに立ち上がると「自分の絵をすべてみてくれ」といって、隣の部屋に入っていった。最終電車まで二〇分あるかないかの短時間のうちに、彼はそのとき所有していたすべての絵をわたしの眼前に運んだ。その運びかたは狂気じみていたが、運ぶ方も見る方も大正気であった。彼が静物画にたどり着くまでの痛々しいほどの精神の軌跡がそこには刻まれていた。
■わたしと彼との付き合いはこうして始まった。とはいっても、この二〇年間のうちに会って話をしたのは三回きりである。二度目は彼が四年間滞在していたローマから一時帰国して、銀座の現代画廊で個展を開いた一九八七年、そして三回目が今年の五月十七日である。池袋の芳林堂書店前で待ち合わせたのだが何しろ六年ぶりのこと顔が分かるか少し心配などしたのだが、それはとんでもない杞憂であった。芳林堂書店の中から二〇分近くも遅れてあらわれた“輝いている”ひとが彼であった。自分の仕事をきちんとしつづけているひとがこんなにも輝いているのかと、わたしは改めて思った。
■六年前の個展で、彼の絵は“存在”がやさしく動きだした、“ある”という“有”がかすかに戯れの場へとうごめきはじめていた。彼の絵は根源の場を微動だにしないが、不断に変容し続けている。彼はいつもキャンバスに向かって闘い続けている画家である。
■今度彼に見せてもらった絵には、“革命”が起きていた。彼の絵は“存在”から“時間”へと飛躍していた。これは、六年前の“存在”が動き出して“時間”にたどり着いたのではない。おそらく彼のうちで何か途方もないことが起こったのだ。“時間”をキャンバス上に描き出すということは、描く対象に包まれかえされること、対象とともに生きることである。彼は今、ローマで“時”とひそやかな関係をとりむすんでいる。それは壮絶な孤独との闘いでもあるが、同時に彼はその至福の時をだれよりも享受していることもたしかである。
■彼の名は神尾和由。氏の快諾を得て本号より「江古田文学」の表紙を飾れることになった。光栄である。文学もまた、それにかかわるひとりひとりが壮絶なる内なる闘いを続けるほかはない。
■「不射の射」は「射の射」をきわめた者の境位。「不射」は「不射の射」をきわめた者のさらなる境位。画家は描き続け、作家は書き続ける現場を一歩も退くことは許されない。安易に悟って楽に座る事を自らきびしく戒めなければならない。

(一九九三年・七・二六)

 

 

我が家のミーコが天国へ召された

近況報告

我が家のミーコが天国へ召された

ミーコが我が家にきたのは2000年(平成12年)の4月であった。まだ両目はあいておらず、スポイトでミルクを与え、おしりはお湯を含ませたガーゼでふいた。三人家族に新たに子供が増えた感じであった。平成の18年間を元気に生き、わたしたちに多くの励ましを与えてくれた。令和になって二日目、5月2日、ミーコは眠るように息を引き取った。享年19歳、天寿を全うしたとはいえ、悲しみはどうしようもない。誰よりもミーコを愛し、寝食をともにした妻が描いた絵を掲げて冥福を祈る。

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