ロープシン再論 連載9 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

 

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ロープシン再論 連載9

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

人神論と神人論

――キリスト=人神――

 キリスト者でない異教徒の目から見ればキリストを〈神の子〉(神人)とみなすことはできない。ドストエフスキーは特に後期五大作品において人神論者と神人論者を描き分けているが、ロジオンに代表されるように自らを神的立場におく人物の内部にキリストを求める声が潜んでいる。換言するならドストエフスキーの描く人神論者たちは例外なく神を求めてのたうち回っている。イワン・カラマーゾフは神の存在を認めるが、神が造りあげた地上の世界、その不条理に満ちた世界を認めることはできないと断言した。一方、真実美しい人間の具現化を目指した『白痴』のムイシュキン公爵はナスターシャとロゴージンを救うことができなかったし、余命いくばくもないイッポリート少年に奇蹟を起こすこともできなかった。アリョーシャは父フョードルに神は存在するかと問われて躊躇なく〈存在する〉と応える。しかしこのアリョーシャの内部に〈悪魔の子供〉が潜んでいることを彼自らが告白している。師事していたゾシマ長老の死後の腐臭、グルーシェンカによって密かに覚醒した性愛的欲望、神に抗議し続けたイワンへの共鳴などを考えると、アリョーシャの信仰は根底から揺らぎ始めていたと見ることができる。

 『カラマーゾフの兄弟』はアリョーシャを囲んだ子供たちの「カラマーゾフ万歳」の合唱で幕を閉じた。この場面からアリョーシャのキリスト教的調和の世界を見ることはできない。〈カラマーゾフ〉のディオニュソス的混沌はキリストをも呑み込む力を備えている。わたしは〈カラマーゾフ万歳〉にニーチェのディオニュソス的統合の世界を見たが、ドストエフスキーの寿命はアリョーシャの未来の姿を描くことを許さなかった。

 わたしが今回はっきりと指摘しておきたいのは、イエスこそが最初の〈人神〉だったということである。わたしは四福音書を岩波文庫版・塚本虎二訳で熟読したが、イエスが自らをはっきりとキリストと名乗ったことはない。イエスは弟子たちに向かって、人々が自分をどのように言っているかと聞くことはあっても、キリストという言葉を自らにあてはめることはなく、たいての場合〈人の子〉と称している。イエスをユダヤ人の多くは間違いなく〈人の子〉と思っていただろう、だからこそイエスが〈キリスト〉のごとき存在と見なされた時に、ユダヤの王を騙る者として危険視し、最後には十字架刑に処することになるのである。

 ドストエフスキーはデカブリストの妻フォン・ヴィージナ宛の手紙で「キリスト以上に美しい、深い、共感できる、合理的な、男性的な、完璧なものは何一つ存在しない、いや、存在しないだけでなく、熱烈な愛をこめて言うなら、存在するはずもない、ということを信じるのです。それだけではなく、かりにだれかが、キリストは真理の外にあることをわたしに証明し、また、キリストが真理の外にあることが実際であったとしても、わたしとしては、真理とともにあるよりもキリストとともにとどまるほうが望ましいでしょう」(原卓也訳)と書いている。

 この熱狂的な感情過多の言葉を読む限り、ドストエフスキーの内にイエスを〈人神〉と見る視点はない。同書簡の中でドストエフスキーは不信と懐疑の時代の子でもあると書いているが、イエスが本当にキリストだったのだろうかという懐疑はない。ドストエフスキーの全作品を読んでも、イエスがキリストであること自体を疑う人物は登場しない。その意味ではドストエフスキーもまたユダヤ・キリスト教の圏内から抜け出せていなかったと言えよう。

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ロープシン再論 連載8 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載8

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

「はじめて神をみたとき」

――ユダヤ・キリスト教圏内にとどまる者―― 

 

 ここで〈八月八日〉に記されたワーニャの告白を確認しておこう。ワーニャは〈キリストを知り、はじめて神をみたときのこと〉をジョージに語っている。シベリアに追放されていたとき、オビの河口に猟に出かけたワーニャは、島をうろついて一羽の鴨を打ち落とす。が、その鴨を探しているうちに湿地に足をとられ身動きできなくなる。ワーニャは全身凍えながら死を覚悟する、そして「すべては、どうだっていいことだ、どうせ死ぬんだから」と思う。しかし、ワーニャは最後に足を引き抜くことに成功する。ワーニャは一晩中立ち尽くして仲間の救助を待つ。

 

 「このながい夜、ぼくが泥のなかに立ちとおし、雨が降り注ぎ、空は暗く、風がうなっていた、この夜、ぼくは心の底から真に理解した。神はぼくらのうえにあり、そしてぼくらとともにあるのだ、と。それでぼくは恐ろしさをおぼえず、ぼくは悦ばしかった。胸につかえていた石がとれたようなぐあいだった。朝、友人たちがやってきて、救いだしてくれた。(54)

 

 このワーニャの告白を聞いてジョージは「死をまえにすると多くの者が神を見るもんだ。ワーニャ、それは恐怖からだよ」と応じる。

 ジョージの言葉から連想するのは『悪霊』のキリーロフの人神思想である。キリーロフは人間が一番恐れているのは死であり、死の恐怖を克服できた者は自らが神になれると説いた。キリーロフは神がなければ自分が神になる、それが当たり前だとも説いた。キリーロフは建設技師であったがピョートルのために利用されているスパイでもあった。秘密結社から脱会したシャートフを殺したピョートルは、その犯人を自殺思想の持ち主であったキリーロフに負わせる。キリーロフはピストル自殺をして果てる。ここで詳しく語ることは控えるが、ジョージはドストエフスキー文学をよく読んでいるので、ここでの言葉がキリーロフの人神思想を反映していることは確かである。

 ワーニャの言葉に戻ろう。ワーニャはキリストを知り、神をみたと言う。この言葉をどのように受け止めればいいのか。ワーニャはキリストを知り、神をみてさえテロリストであることをやめなかった。キリストの教えに反する思想に殉じながら、臆面もなくキリストを知り、神をみたというワーニャの言葉はわたしにはまったく説得力がない。

 ワーニャもジョージもドストエフスキー文学を熟読し聖書に通じているテロリストであるが、わたしの目から見るとユダヤ・キリスト教圏内にとどまる者である。その意味ではキリスト者もテロリストも同様の圏内におさまっている。同じ根から生え成長した異なる二つの枝葉(キリスト教徒とテロリスト)にすぎない。この解釈の一つの根拠をワーニャ自身の言葉から示そう。ワーニャは猟に出かけて一羽の鴨を撃ち落とす。この時のワーニャに、鴨を殺したことに対する憐れみの情などまったく感じられない。キリストは〈殺すなかれ〉と命じているのに、ワーニャは平然と鴨を殺している。この行為は猟にでかけたワーニャにとってごく当たり前の感情である。キリスト教徒にとって人間以外の動物を殺すことに対する罪の意識はない。その意味では鴨の〈命〉は、標的にされた積み木の一片にしかすぎない。ワーニャに鴨の命に寄り添う意識や感情はない。ワーニャにはわが宮沢賢治が数々の童話で描き出したあらゆる生物に対する憐憫の感情が見事なほどに欠落している。その意味でワーニャの〈愛〉はきわめて人間中心主義的な偏狭な愛と言える。

 さらにワーニャが「みた」という神がきわめて曖昧である。そもそも福音書における〈キリスト〉と〈父なる神〉の関係が曖昧なのであるが、ワーニャはこういったことを明晰に認識したうえで言葉を発していない。ワーニャの告白を聞いているジョージもまたユダヤ・キリスト教圏内でのテロリストであるので、わたしが今こうしてして指摘しているようなことを指摘することができないでいる。

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ロープシン再論 連載7 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載7

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

革命=正義の根拠は?

 

 ワーニャは自分を〈キリスト〉と重ねているように見える。もちろんワーニャは〈愛と赦し〉のキリストの後をついていこうとはしない。おそらくワーニャは「殺すなかれ」と命じるキリストと同様の、あるいはそれ以上の愛を持つものとしてテロリストになっている。テロリストは単なる人殺しではない。彼らは革命=正義という不動の信念によって支えられている。

 不思議なことだが、彼らは〈革命〉を根底から疑うようなことはなかった。いったい彼らは何をもって革命を正義と見なしたのだろうか。皇帝による専制主義的な国家体制を打ち崩し、それに代わって多くの人民の幸福を実現する。抑圧され搾取された人民を解放することによって彼らに自由と平等を与える。まるで小学生の理想家が空想したような単純明快な国家の未来図である。ドストエフスキーの諸作品や聖書を熟読した稀にみるインテリでもあるワーニャやジョージが、社会主義や共産主義の未来国家像になんの疑問も抱いていないことが不思議である。

 社会主義者にとって資本家は労働者から搾取する悪者であり、資本家に搾取される労働者は虐げられた奴隷である。こういった単純な図式によっては〈人間〉という複雑な動物を理解することはできない。人間は経済的法則を適用するだけではとうてい理解できない複雑な生き物である。人間には権力欲、金銭欲、性欲、名誉欲、自己承認欲があり、さらに自己破滅欲すらある。仏教では百八煩悩を説いている。かつて人間の煩悩を百八まで数えたひとがあったとみれば面白い。要するに人間の心にはありとあらゆる欲望が渦巻いている。搾取する側にも、搾取される側にも百八の煩悩があり、これは階級闘争や革命運動によって解消される問題ではない。マルクスだけを読んで、ドストエフスキーの文学を読むことのない者には、人間の複雑な精神世界に参入することはできない。

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ロープシン再論 連載6 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載6

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

連載6「

殺すなかれ」と「殺せ」

 

 ワーニャとジョージの最後の会見をロープシンは次のように書いている。

 

  「じゃ、ジョージ、さようなら。永久におさらばだ。元気でいてくれたまえ」

  彼の澄んだ瞳には悲しみがうつっている。わたしは言う。

  「ワーニャ、だが、『殺すなかれ』はどうなる?」

  「いいや、ジョージ、殺せだ」

  「きみがそう言うのかい?」

  「そう、ぼくが言うんだ。そうぼくが言うんだ。殺せ、殺させないために。殺せ、人びとが神の意志によって生き、愛が世界を浄めるために」  「それは神聖冒涜だ、ワーニャ」

  「ぼくは知っている。だが『殺すなかれ』は――神聖冒涜ではないのか?」

  彼は両の手をわたしにさしのべる。おおらかな、晴れやかなほほ笑みをこぼす。そして、ふいに、かたく、兄弟のように接吻する。

  「幸福でいてくれたまえ、ジョージ」

  わたしもまた彼に接吻する。(110~111)

 

 ワーニャは〈見ずして信ずる者〉の幸福を得ることはできない。もしワーニャの前に復活したイエスが現出すれば、彼もまたトマスと同様『わが主よ、わが神よ』と口にしたかもしれない。しかしワーニャは回心することはできなかった。ワーニャは『殺すなかれ』のイエスの言葉に背を向け「殺せ」の命令に従う途を選んだ。ワーニャはその理由を「人びとが神の意志によって生き、愛が世界を浄めるために」と言う。ジョージはそれは〈神聖冒涜〉だと言うが、ワーニャはその指摘に屈することはない。ワーニャはキリストと同じ立場に立って「殺せ」と言っている。それは〈神の意志〉であり、〈愛〉の結果でもある。

 ワーニャはジョージに「それは神聖冒涜だ」と言われたとき、「だが『殺すなかれ』は――神聖冒涜ではないのか?」とやり返している。ワーニャもジョージもキリストの『殺すなかれ』をそのまま受け入れれば、その時点でテロリストをやめなければならない。彼らにとって〈革命〉は正義であり、それは弾圧され続けた人民を解放に導く愛そのものである。〈革命〉が正義と愛に反するものであるなら、彼ら二人のテロリストとしての存在根拠は瓦解することになる。彼ら二人は「兄弟のように接吻する」。キリストの言葉「殺すなかれ」を誰よりも深く受け止めながら、彼ら二人は彼らなりの〈正義〉と〈愛〉のために革命を阻害するものたちを〈殺す〉ことを引き受けるのである。テロリストが〈殺せ〉の命令に従えば、とうぜん処刑は免れない。キリストが処刑されたように、テロリストも処刑される。彼らにこの運命を与えたのは〈神の意志〉である。

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ロープシン再論 連載5 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載5

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

イエスの孤独

――〈奇蹟〉と〈おとぎ話〉――

 

  キリストの弟子になるためには家族も友人も恋人も、財産も地位も捨てなければならない。キリストに従うことは、やがてキリストと同じように十字架に掛けられて死ななければならない。弟子は自らの十字架を背負ってキリストに従わなければならないのである。この厳しさを、キリストの十二弟子でさえ本当には理解していなかった。この男の弟子たちはキリストが処刑されると一人の例外もなく師から離れた。一番弟子のペテロの裏切りなどは目に余るものがある。鶏が鳴く前に三度わたしを知らないと言うだろう、というのが忠誠を誓ったペテロに向けてのキリストの言葉であった。このキリストの予言は見事に的中し、それを覚ったペテロは泣き崩れる。この場面を読んだ多くの者は、そこにペテロの心からの改悛を読みとったかもしれない。しかし、泣き崩れる場面に、ペテロ本人にさえ自覚されないさらなる裏切りを見ることもできる。この〈裏切り〉はドストエフスキーの言葉を借りれば〈秘中の秘〉ということになる。

 わたしは福音書を読んで、イエスの孤独と孤立感を強く感じる。イエスは弟子たちの内面など隅から隅まで知り尽くしている。

 ところで、福音書の中でイエスは自分のことをキリストと言ったことは一度もない。ヨハネ福音書の中で、死んで四日も経ったラザロを復活させる前に、イエスは自分が〈父なる神〉から遣わされた存在であることを証すために死者を蘇らせる奇跡をなすのだと口にしている。この場面でイエスは自分が〈復活〉であり〈命〉であることを表明し、そういう自分を生きて信じる者は死ぬことはないとまて断言している。イエスに「信じるか」と問われて、マルタはイエスがこの世に来るべきキリスト(救世主)であることを信じると表明する。

 この〈ラザロの復活〉の場面をドストエフスキーは『罪と罰』でソーニャに朗読させている。ソーニャは死者ラザロが復活した場面を朗読し、これでロジオンが信仰を獲得するであろうことを熱望する。しかし、ロジオンはマルタのようにはイエスをキリストと認めることができないでいる。ロジオンは〈ラザロの復活〉に関して肯定も否定もせず、ひたすら沈黙を守っている。

 『蒼ざめた馬』の中においてもジョージとワーニャの間で〈ラザロの復活〉が取り上げられている(五月十一日)。ワーニャは言う。

 

 「奇蹟を信じるのはたいへんなことさ。だが奇蹟を信じてしまえば、もう問題はない。そのばあい、なんのために暴力が必要だろう? なんのために剣が? なんのために血が? なんのために『殺すなかれ』という必要があろう? ところが、このぼくらには信仰がない。奇蹟は子供のおとぎ話だ、と人は言う。しかし、言ってくれないか。おとぎ話なのか、そうでないのか。きっと、たしかにおとぎ話ではなくて、事実なのだ。ね、そうじゃないだろうか」(106~107)

 

  ワーニャはテロリストだが黒皮のバイブルを持っている。ワーニャは〈ラザロの復活〉を「偉大なる奇蹟」だと言っている。さらにワーニャは処刑されたイエスの復活の場面をとりあげ、ジョージに向かって「はたして、これがおとぎ話だろうか?」と問う。ジョージの返答は「ワーニャ、きみは、信じるか?」である。さらにワーニャは復活したイエスが不信の弟子トマスの前に現れた場面を取り上げる。

 

 『汝の指をここに伸べて、わが手を見よ、汝の手をのべて、わがわきにさしいれよ、信ぜぬ者とならで、信ずる者となれ』。トマス答えて言う、『わが主よ、わが神よ』。イエス言いたもう、『なんじ我を見しによりて信じたり、見ずして信ずる者は幸福なり」

  「ジョージ――『見ずして信ずる者は幸福なり』だ」

  日がとけ、春の冷気が漂ってきた。ワーニャは捲毛をふるわせている。(110)

 

 ワーニャは〈ラザロの復活〉を〈イエスの復活〉を〈おとぎ話〉として片づけることができるかを自分自身に対しても、そしてジョージにも問いかけている。ワーニャのキリストをめぐる内的煩悶は未だ幕を下ろしていない。ワーニャは不信のトマスの段階にとどまっているのか。それともイエスを眼前にして『わが主よ、わが神よ』と口にすることができるのか。イエスはトマスの前にその姿を現したが、ワーニャとジョージの前にはその姿を現さない。が、ワーニャはイエスの言葉『見ずして信ずる者は幸福なり』を深く受け入れているようにも思える。

 問題は、このイエスの言葉を受け入れてさえ、ワーニャはキリストの後を追うことができずにいることである。ワーニャはキリスト者になることではなく、テロリストを全うすることによってイエスの言葉に従おうとする。この矛盾をワーニャはどのように乗り越えるのか。ワーニャの捲毛のふるえが彼の矛盾の深さを端的に物語っている。

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ロープシン再論 連載4 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載4

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

革命家を支える情念

 ジョージの革命家としての信念は何によって支えられているのか。ジョージの言葉で言えば〈復讐〉と〈憎悪〉である。しかし『蒼ざめた馬』の中に、ジョージが復讐と憎悪の念を抱くに至ったその経緯は書かれていない。書かれているのは同志たちが殺されたという事実のみである。革命のための活動に対して、国家権力は全力を尽くして阻止するのは当然である。革命家の何人かが殺されたからといって、そのことが〈復讐〉〈憎悪〉の根拠となり得るのか。わたしは『蒼ざめた馬』の中でジョージの革命家になったその内的必然性が描かれているようには思えなかった

 ジョージはなぜテロリストになったのか。その経緯をロープシンは描かない。『蒼ざめた馬』を開けば、そこにはすでに確固不動の信念を持ったテロリスト・ジョージが存在している。ジョージの対話相手のワーニャもその点については触れない。従って読者が想像を逞しくするほかはない。

 ジョージは革命のために人の命を奪うことになんら戸惑いがない。ジョージはワーニャとの対話によって明白なように神やキリストを信じてはいない。ジョージにはキリストの愛を前にして、革命を断念するような迷いはない。読み方によっては、ジョージはワーニャの惑いを内深くに抱え込んで、そのことを秘めていたとも言えるが、しかしジョージには神か革命かの二者択一の前に迷うことはない。ジョージはキリストの愛に懐疑することはあっても、革命の正義を疑うことはない。

 『悪霊』を熟読していたであろうジョージは、とうぜんシガリョフの思想を知っていたはずである。シガリョフはピョートルが組織した秘密革命結社の一員であったが、後に革命に関して根本的な疑いを抱くにいたって革命結社から離脱している。シガリョフは人民の自由と平等の実現を目指すはずの革命が、実はそれとはまったく反対の独裁者による専制主義的な国家をつくりだすという結論を得た。世界で初めて社会主義国家を実現させたソビエト社会主義共和国連邦(一九二二~一九九一年)の破綻に至る運命を知っている者にとって、シガリョフ理論はロシアの運命を的確に先取りしていたと言うべきであろう。

 ジョージは本当に革命を信じていたのだろうか、という疑問が再び三度よみがえる。ロジオンが〈アレ〉(老婆アリョーナ殺し)を〈幻想〉(фантазия)、〈自慰行為、玩具〉(игрушка)と見なしていたように、ジョージもまた革命をそのように見なしていたとしても不思議ではない。問題は、そんなロジオンが実際に老婆アリョーナを殺してしまったことであり、ジョージが革命家であり続けたことである。ドストエフスキーはロジオンの実行には〈ある神秘的で、デモーニッシュな力の作用〉が働いたと書いているが、ロープシンはジョージが革命家になるにあたって作用した力に関しては完璧に沈黙を守っている。

 ジョージにとって身近な存在、たとえば愛する家族の誰かが国家当局の者に理不尽にも殺されたというようなことがあったとすれば、読者もジョージの復讐や憎悪の念を理解しやすい。が、ロープシンはジョージの家族関係や生い立ちに関してなにも語ろうとしない。テロリスト・ジョージはすでに自分の経歴を捨て去り、革命に殉ずる覚悟ができた者として登場している。ジョージが〈革命〉にシガリョフ的疑念を抱き、その理論の検証にでもとりかかれば、もはやその時点で彼は革命家失格の烙印を自ら押すことになる。ジョージはシガリョフ理論の追随者になる途を選ばず、「革命家の教理問答」の著者ネチャーエフの指示に従う途を選んでいる。

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ロープシン再論 連載3 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載3

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

ジョージとワーニャ

 『蒼ざめた馬』の中で最も魅力のある人物はジョージである。ワーニャはロジオンの思弁的煩悶を継承する存在で、彼のキリストに対する向かい方はきわめてドストエフスキー的である。ワーニャとロジオンの決定的な違いは、ワーニャはキリストか革命家かの二者択一において後者を選んだことである。ワーニャは革命的正義のためにキリストの説く愛から離れる。否、ワーニャは革命のためにキリストの愛を自らの行為に限りなく引き寄せようとしたとも言える。

 ジョージの内部にワーニャ的魂の煩悶がまったくなかったとは言えないが、描かれた限りでみればジョージはワーニャの煩悶をすでに超克した存在として振る舞っている。ジョージは何度もワーニャとの会話を思い出すが、これはジョージの内的要請によるものというよりは、むしろ作者ロープシンの要請であったとも思える。

 わたしが『蒼ざめた馬』を読みながら、いつも念頭にあったのは革命家の行為に向けての情念である。ロジオンの場合を見れば明白なように〈思弁〉は〈おしゃべり〉を生むだけで、それは行為へと誘引する力をそもそも備えていない。ロジオンは作者ドストエフスキーの意図によって行為者へと仕立て上げられた〈思弁家〉であって、もしロジオンが思弁に忠実な存在であれば屋根裏部屋の空想家にとどまっていたはずである。

 ワーニャもロジオンと同じく、テロリストよりは屋根裏部屋の空想家にとどまっていたほうが、彼の実存様態としてはふさわしかったと思える。が、ワーニャはキリストの愛の教えに執着しながら、革命の夢を放擲することはできなかった。ワーニャにあってはキリストの愛以上に革命家としての愛の方がはるかにリアリティがあったのだろう。『蒼ざめた馬』を読むかぎり、ワーニャにとって確固不動のテロリスト・ジョージの存在が大きかったと言える。ジョージはエレーナに関しては初なロマンチスト並の煩悶を表出したりはするが、こと革命に関しては微塵の迷いを見せることはない。

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