帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載25) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載25)

師匠と弟子

清水正

  わたしは現実を生きたイエスを知らない。イエスと共に生きて彼を裏切ったユダを知らない。無自覚のうちに裏切り続けるペテロを知らない。福音書記者マルコを知らない。知り得るのはマルコ福音書というテキストのみである。このテキストをもとに、そこに描かれたイエスとその弟子たちの肖像をわたしなりに浮上させるほかはない。

  わたしの人間観から言えば、首を吊って死ぬユダよりも、あつかましくふてぶてしく生きながらえるユダの方が面白い。そのことでイエスの生き方に対するユダの生き方が鮮明になる。イエスを人間とのみ見れば、彼はマリアから生まれ、戒律を遵守するユダヤ教徒から疎まれ、十字架刑に処せられた新興宗教の教祖ということになる。生前のユダにとってイエスが神の子と思えたことは一度もない。マルコは、ユダがどういうわけで十二弟子のひとりに選ばれたのかについていっさい触れていない。が、敵側に銀貨三十枚でイエスを売ったということは、ふつうに考えればユダがイエスに対して何か根深い恨みと不信を抱いていたことを意味している。それともユダは、イエスとの信頼関係以上に金を第一に考える男だったのであろうか。どの時代にあっても人間が人間である限り、生きてあることの意味を問わない者はいない。イエスにおける生の意味とユダのそれとを決定的に隔てているのは、前者においては生はこの地上の世界に限定されるのではないのに対して、後者は生をこの世に限定したことである。この世界にのみこだわれば、金、権力、地位名誉が何よりも尊重されることになる。

 福音書に描かれたイエスは、地上の価値観を超脱している。イエスの求めている生は、誕生し生きそして死んでいくだけの生ではない。

 

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載24) 師匠と弟子

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近況報告

近藤承神子さんから五味康祐の著書が二冊送られてきた。そのうちの一冊『西方の音』(中公文庫)を読み終えた。わたしは髭もじゃの五味康祐をテレビなどで見知っていたが、彼が剣豪小説家であるという以外のことはなにも知らなかった。つまり彼の存在はわたしにとって何の影響もなかったし、今回近藤氏がこの本を送ってこなかったらまったく無縁の存在に終わっただろう。

五味康祐はオーディオの飽くなき探求者であり、本の中身ももっぱら彼が聞き続けてきたクラシック音楽とオーディオ蒐集にまつわるマニアックな話で構成されている。鬼気迫る蒐集熱で読んでいて圧倒される。テレビで抱いていた通俗的なイメージはすぐに払拭された。

本書に三か所ほどドストエフスキーに関する言及があった。夫々興味深いので引用して紹介しておこう。

外国文学で、ドストエフスキーバルザックをのぞけば、もっとも深く感銘し繰り返し読みふけったのはリルケの著作である。(50)

ゲーテはワグナーに比べれば聡明すぎるし、バルザックは人間的な幅がまるでない。辛うじて、ワグナーに匹敵する感動を文学で現代にもたらしたのはドストエフスキーかと思う。(139)

ハンス・ホルバインの描いた『墓の中のキリスト』という絵がバーゼル美術館にあるが、ドストエフスキーはこの絵を見て「人々から信仰を奪いかねない」と叫んだそうだ。たしかにこれほど凄惨なイエス・キリストを私は見たことがない。同時代のドイツの今一人の画家グリューネバルトの『十字架のキリスト』をコルマール美術館で見たときも、これほどの凄絶さは受けなかった。

 ホルバインのは、言ってみればリアリズムである。一五二〇年代の作である。カンタベリーのアンセラムらにより、すでに神の存在の証明にリアリズムが顔を出しているとは言え、古くはギリシャやゴシック彫刻に神も人間的・現実的生体と肉感を付与されたと断ってみた所で、なんになるか。イエスがナザレの大工のせがれであることは分りきっている。十字架にかかったのは、だが、ナザレのイエスではなくてすでにキリストなのである。神に一つの理想化された生体美を与え、崇厳にこれを描くことこそが、他ならぬリアリズムではないのか。宗教心でのリアリズムとはそういうものだと私は思う。イエスが放尿している図を描くのはばかげていると同様、『墓の中のキリスト』のリアリズムを私は採らない。(173~174)

三番目の言及に関しては、引用だけではすまされない重要な問題提起を感じる。が、ここでは私見を述べることは控えよう。

もう一か所、紹介したい箇所がある。

 私は日本人だから、ノーベル文学賞といえば──川端康成三島由紀夫氏らを連想するが、このすぐれた日本人も、しょせんは井の中の蛙ではないか。全世界の人々に、救世主として待ち望まれる文業を本当に想定できるだろうか。日本でいうエリートとは、せいぜい東大出である。神を有たなくても彼自身痛痒は感じないし、ジャーナリズムもそんなことは気がつかない。そういう国に、私はいる。まぎれもなく私はそんな日本人の一人だ。大学はかつて神学を講義する場として建てられた。およそ神を抜きにした思想など西洋にあり得ない。神観念をもたぬ哲学はない。言葉も同様だろう。日本人だけが、神をほったらかしてヘーゲルを論じマルクスを語る。バッハやベートーヴェンを聴いている。断じて私もそんな一人だった。(292)

来年2021年は日本大学芸術学部創設100周年である。実質的な創設者松原寛は苦悶と求道の哲人であった。今、わたしは「松原寛&ドストエフスキー」特集の『ドストエフスキー曼陀羅』の編集と校正に従事している。松原寛の著作を読めば、彼の哲学がおつにすました机上の空論でないことはすぐに分かろう。松原寛は苦悶と求道の宗教的な哲学者であり、生涯を通じて神を求め続けていた。哲学、神学なき大学はもはや大学とは言えまい。いくら設備を整え、規模を拡大しても、大学人に哲学、神学がなければそれは就職予備校にすぎない。大学人はここに引用した五味康祐の言葉を苦く噛み締めなければなるまい。

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載24)

師匠と弟子

清水正

 

    ペテロは、遠くからイエスのあとをつけながら、大祭司の庭の中まではいって行った。(14章54節)

 

    ペテロが下の庭にいると、大祭司の女中のひとりが来て、

  ペテロが火にあたっているのを見かけ、彼をじっと見つめて、言った。「あなたも、あのナザレ人、

あのイエスといっしょにいましたね。」

  しかし、ペテロはそれを打ち消して、「何を言っているのか、わからない。見当もつかない。」と言って、出口のほうへと出て行った。

  すると女中は、ペテロを見て、そばに立っていた人たちに、また、「この人はあの仲間です。」と言いだした。

  しかし、ペテロは再び打ち消した。しばらくすると、そばに立っていたその人たちが、またペテロに言った。「確かに、あなたはあの仲間だ。ガリラヤ人なのだから。」

  しかし、彼はのろいをかけて誓い始め、「私は、あなたがたの話しているその人を知りません。」と言った。

  するとすぐに、鶏が、二度目に鳴いた。そこでペテロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは、わたしを知らないと三度言います。」というイエスのおことばを思い出した。それに思い当たったとき、彼は泣き出した。(14章66~72節)

 ペテロはなぜ危険を犯してまで逮捕されたイエスの後を追って行ったのか。ペテロはイエスの弟子として、イエスの身を守る者として大祭司の庭に至りついたのではない。ペテロはいわば目撃者としての役割をはたすためだけにイエスの後を追ったに過ぎない。ペテロはすぐに大祭司の女中にイエスといっしょにいた者であることを見破られてしまう。この女中はかつてペテロがイエスと行動を共にしていたのを見ていたのか、それともペテロは肉体や衣装においてナザレ人としての特徴を備えていたのか。言葉を発すればナザレ人独特のなまりでもあったのか、いずれにせよペテロはイエスの仲間であることを看破されてしまう。イエスの預言通り、三度にわたってイエスを知らないとしらを切ったペテロは、その後、どのような扱いを受けたのか、マルコはいっさい触れない。

  ユダの裏切りとペテロの裏切りではその性格を異にする。ユダの裏切りはあくまでも自覚的である。書かれてはいないが、ユダにはイエスを裏切る明確な理由があったはずである。ユダはイエスが神の子を僭称する不埒な者と思っていたのかもしれない。ペテロはイエスの何たるかを分かっていないが、イエスの圧倒的な力の前にはひれ伏すしかない無力な存在であった。ペテロはイエスに悪魔と罵られても反逆の牙を剥くことはできなかったし、最後の晩餐においてもイエスへの忠誠を誰よりも強く口にしている。にもかかわらずペテロはイエスの預言通りに行動してしまう。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」と断言したペテロが、敵の陣営で三度もイエスを知らないと言い張ってしまうのである。

 イエスの預言の言葉に思い当たって、とつぜん泣き出したペテロは、はたしてこの時、真にそれまでの自己欺瞞に気づいたであろうか。欺瞞に覚醒して、さらなる欺瞞の底へと落ちていく者がある。ペテロの裏切りの構造は決して単純ではない。裏切りから脱する、さらなる裏切りというものがある。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載23) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載23)

師匠と弟子

清水正

  福音書に描かれたイエスは、『罪と罰』のマルメラードフがラスコーリニコフに向かって説いた悪人正機的な、どんな卑劣な人間をも最終的には赦すといった優しい神様ではない。彼の言動を真に理解できない弟子たちにいつも苛立ち、激しく厳しい言葉を発していたのが福音書のイエスであり、その肖像は十九世紀の作家ドストエフスキーが思い描いていたような真に美しく善良な理想的なものとは異なっている。

 たとえば、ドストエフスキーがキリストの具現化を目指して描いたというムイシュキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフ福音書に登場するイエスとは明らかに異なっている。イエスは人間イエスから神の子キリストへと変容するその過渡期の姿を福音書記者によって描かれているが、ムイシュキン公爵やアリョーシャ・カラマーゾフはあくまでも人間の次元にとどまっている。ドストエフスキーは彼らを神秘のヴェールに包み込んで神聖化することはなかった。ドストエフスキーは処女作『貧しき人々』から最晩年の未完の大作『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、あくまでも人間を主人公として小説を描き続けた。そこでは天使も悪魔も神も人間存在から超脱して独自の存在性を主張することはなかった。イワン・カラマーゾフにおける〈悪魔〉、アリョーシャ・カラマーゾフにおける〈天使〉は存在しても、悪魔や天使や神が主体性を確保して登場することはない。その意味でドストエフスキーはどこまでも近代の作家であって、理性や知性の次元をファンタスティックに飛び越えて、読者を空想、妄想、信仰へと洗脳するようなことはしなかった。

 ドストエフスキーは「人間の謎」を解こうとした作家であって、謎そのものに無条件に寄り添おうとした作家ではない。「何でもしてくださる」と無条件に神を信じていたのは狂信者ソーニャであって、決してドストエフスキーではない。ソーニャの信じる神に跪拝したのはエピローグにおけるラスコーリニコフではあっても、ドストエフスキー自身がソーニャとラスコーリニコフの〈信仰〉を共にしていたという証にはならない。ドストエフスキーは〈信〉と〈不信〉の間を永遠に揺れ動いたディオニュソス的な作家であり、この作家の内実を包みきれる存在をひとりイエス・キリストに求めることができるかどうかをこそ問わなければならない。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載22) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載22)

師匠と弟子

清水正

 

 

  イエスはなぜすべての弟子たちによって裏切られたのか。生前のイエスには、彼を裏切らずにはおれない何かがあったに違いない。マルコ福音書によってはユダの内心はまったく触れられていない。それだけにユダは後生の詩人や小説家たちの想像力をいたく刺激することになった。ユダの裏切りはどのような意味を持っているのか。ユダはイエスに接吻し、敵側の者たちに彼の存在を示す。イエスはユダが彼を敵側に売った者であることを知っていて、敢えて接吻を拒まなかったし、最後の晩餐においてもユダを名指しで責めることもしなかった。

 うがった見方をすれば、イエスとユダは予めひとつの明確なシナリオのもとにそれぞれの役割を演じただけだということにもなる。ユダの裏切りによってイエスは逮捕され、裁かれ、十字架上で息を引き取ることになる。イエスの逮捕が長引けばながびくほどイエスの英雄性はその輝きを失うことになる。イエスの悲劇が栄光に輝くためには、しかるべく予定された時に逮捕されなければならない。そうでなければイエスは、単なるナザレの人にとどまる。ナザレ人イエスが神の独り子としての栄光に輝くためには是非とも劇的な逮捕と処刑が演出されなければならなかった。イエスを売ったユダはそのことをよく知った上で、あえて悪役を一身に背負った。このようにユダを見れば、イエスと弟子たちの関係は表層のテキストを超えて改めて再構築する必要が出てこよう。イエスは彼と共に「同じ鉢にパンを浸している者」ユダに向かって「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」と言い切っている。マルコはイエスを売ったユダのその後を描いていない。

 マタイ福音書には、イエスがピラト総督に引き渡された後のユダを次のように書いている。

   そのとき、イエスを売ったユダは、イエスが罪に定められたのを知って後悔し、銀貨三十枚を、祭司長、長老たちに返して、

  「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして。」と言った。しかし、彼らは、「私たちの知ったことか。自分で始末することだ。」と言った。

  それで、彼は銀貨を神殿に投げ込んで立ち去った。そして、外に出て行って、首をつった。(27章3~5節)

  この記述を読む限り、イエスとユダの間に特別の黙契があったとは思えない。ユダはペテロ以上に愚かな弟子のひとりに過ぎないことになってしまう。ユダが神殿に投げ込んだ銀貨は神殿の金庫には納められず、陶器師の畑を買う資金となり、その畑は旅人たちの墓地となった。マタイは、これらのことは預言者エレミヤの言われたことが成就されたのだと書いている。福音書記者はこのことだけに限らず、イエスの言動を旧約聖書に書かれたことが実現されたのだ、というような言い方を多用している。新約の神とされるイエスは、旧約の神の呪縛を背負った存在とも言える。イエスは旧約の神から完璧に解放された存在ではなかったということを決して忘れてはならないだろう。

 ユダの裏切りと首吊り一つをとってみても、彼のその行動のすべてが聖書に預言されていたわけではない。ユダの自殺が預言されていたとすれば、それは聖書によってではなく、最後の晩餐において発せられたイエスの容赦のない厳しい言葉「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです」にこそあろう。マタイの記すように、ユダがイエスを裏切ったことを後悔したのであれば、彼はイエスの言葉に素直に従うほかはなかったであろう。イエスは裏切り者ユダを赦す言葉を発することはなかったことを忘れてはならない。ユダに限らず、すべての弟子たちに対してイエスは常に厳しい態度で臨んでいる。イエスは、人間は裏切る存在である、ということを厳しく告発することはあっても、そういった弱く卑小な人間を大きく包容し赦す言葉を持っていない。

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載21)

師匠と弟子

清水正

   マルコは何者かである前に、語りの機能である。マルコはイエスの内部に侵入しない。『罪と罰』の語り手がラスコーリニコフやスヴィドリガイロフの内部深くに侵入して、その世界に隈無く照明を当てたようにはマルコはその機能を発揮しない。マルコは自らの運命に脅え嘆く人間イエスの心理心情に限りなく身を寄せるようなことはしない。マルコは人間イエスに神の子の衣装を着せたものを完璧に拒むことはない。人間イエスに対して人間マルコが正面切って対面することはない。

 が、マルコ福音書には人間イエスの真実を伝えようとする不屈の意志を感じる。マルコは裏切り者ユダを、裏切り者ペテロのありのままの姿を伝える。マルコはイエスの内部に侵入しなかったように、裏切り者ユダとペテロの内部に立ち入ることはない。マルコが伝えるのはユダとペテロの裏切りの事実の姿である。ユダの裏切りは師イエスを敵の側に売り渡すことであった。ユダはなぜイエスを裏切ったのか、マルコはその理由に対していっさい説明しない。

 マルコ福音書を読む限りにおいて、ユダは最後の晩餐において名前さえ出されなかったがイエスによって〈裏切り者〉として扱われている。この時、ユダがどのような思いであったのか、マルコは微塵も注意を向けない。マルコは裏切り者ユダの心理心情を完璧に無視する。無視されたユダの存在に余すところなく照明を当てようとするのは批評の眼差しである。

 

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載20)

師匠と弟子

清水正

 

  福音書を読んでいると、弟子たちのろくでもなさには唖然とする。こういった弟子たちにイエスはいったい何を期待していたのだろうか。裏切り、つまずく弟子たちを、なぜイエスは見捨てなかったのだろうか。逆に言えば、なぜ弟子たちは今までイエスについてきたのだろうか。福音書を読む限り、サタン呼ばわりされたペテロはもとより、他の弟子たちはなぜイエスに愛想を尽かさずにいられたのだろうか。おまえたちは裏切り、つまずくと断言されてなお、イエスに付き従っていこうとするその意思はいつたいどこからわきあがってくるのだろうか。ペテロはきわめて巧妙な心理の劇を生きているが、ユダの内心はどうだったのだろう。

  イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。

  立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

  そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現われた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

  イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」

  それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生。」と言って、口づけした。

  すると人々は、イエスに手をかけて捕えた。

  そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。

  イエスは彼らに向かって言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕えに来たのですか。

  わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕えなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

  すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

  ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。

  すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。(14章41~52節)

  イエスはわざわざ三人の弟子を連れて行き、起きておれと命じて、ひとり祈る。いったいイエスはだれに向かって何を祈ったのか。もし弟子たちが起きていれば、イエスの祈りの声を聞くことができたのか。三人の弟子のうちひとりぐらいはイエスの祈りの言葉に特別な注意を向けて覚醒していてもよさそうなものなのに、ここでも見事に馬鹿弟子ぶりを存分に発揮している。それともここには何か、読者をたぶらかす仕掛けが施されているのだろうか。

 この時、福音書記者はいったいどこにいたのだろうか。彼だけはひそかにイエスと三人の弟子の目をくぐって、イエスの動向に全注意を払っていたのだろうか。彼のみはイエスの祈りの内容をも把捉していたのだろうか。福音書記者の役割は表現と伝達という意味では弟子たちの役割をも超えている。福音書記者はイエスの内部にすら深く入り込む機能を備えている。

 マルコ福音書の記者を実在する人物と見た場合、彼はイエスと三人の弟子たちのごく近くに接近することに成功している。彼の姿はイエスや弟子たちに目撃されていない。しかし、マルコ福音書に書かれた情報(事柄)は、実在する人物では入手し得ないものを含んでいる。つまり福音書記者は、坂口安吾の言葉で言えば〈無形の説話者〉、つまり作中人物ではない、語りの機能だけを作者から賦与された透明人間のような存在ということになる。

 人間の外部と内部をまで見聞きできる高度の聴覚機能と視覚機能を備えた機器を自在に操作し再構築できる記者であれば、福音書ドストエフスキー文学並の深さをもった作品となるだろう。

 記者は、ひとりになったイエスが「深く恐れもだえ始められた」ことを伝えるが、その内実を詳細に語ることはなかった。イエスは自らの過酷な運命を引き受けようとしているのか、それともここでイエスはひとりの人の子として、運命からの解放を願っていたのか。もしイエスがキリストであるなら、自分の運命に恐れもだえることはなかったであろう。わたしはここに深い恐れともだえに苦しむ人間イエスの姿を見る。弟子たち三人がイエスの命令に背いて寝入ってしまったのは、〈人間イエス〉を目撃しないためであったとさえ思える。換言すれば、〈人間イエス〉であっては困る者たちによる、書き換えとさえ思えるということである。マルコ福音書にはイエスを〈人の子〉と見る視点と〈神の子〉として見る視点の混在が見られる。確かにイエス自身にも迷いが見られるが、福音書記者は迷いを迷いのままに描きながら、イエスを〈人の子〉から〈神の子〉へと変容させる語りの魔術を駆使している。

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載19) 師匠と弟子

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載19)

師匠と弟子

清水正

 イエスを〈人の子〉として見るなら、イエスほど孤独な存在はない。わたしは人間は孤独な存在だと思っている。わけも分からずこの地上世界に誕生し、わけも分からず死んでいく。しかし孤立する必要はないと思っている。選りすぐった十二弟子のすべての弟子がイエスを理解できずにいる。わたしはかつて生前のイエスと弟子たちのこういった関係性を〈実存の異時性〉と名付けた。物理的に同一の時空を生きながら、イエスと弟子たちの立っている舞台は異なっているのである。イエスの死後、弟子がイエスの生きていた舞台に立てた時、その時こそ弟子がイエスの復活に立ち会えたというのがわたしの復活理解である。イエスが〈三日後〉に復活するという〈三日〉は象徴的に理解されるべきで、弟子によっては何年もかかったであろうし、死ぬまでイエスの復活に立ち会えなかった者もいたであろう。イエスの復活に立ち会えた者をわたしは〈実存の同時性〉を獲得した者と見た。この理解は基本的には今も変わらない。

  わたしは師イエスの気持ちはよく分かるが、ペテロをはじめとしてユダ、その他裏切る弟子たちのその屈折した心理を体感的に知ることはできない。口先ではイエスの後に従うと言いながら、心の内では裏切り続けている。こういった卑小卑劣な感情を抱いて生きるとはどういうことなのだろうか。

 

  ゲッセマネという所に来て、イエスは弟子たちに言われた。「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい。」

  そして、ペテロ、ヤコブヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。

  そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」

 それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、

  またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」

  それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。

  誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

  イエスは再び離れて行き、前と同じことばで祈られた。

  そして、また戻って来て、ご覧になると、彼らは眠っていた。ひどく眠けがさしていたのである。彼らは、イエスにどう言ってよいか、わからなかった。(14章32~40)

 

 ゲッセマネでイエスは何を祈ったのか。なぜペテロ、ヤコブヨハネの三人のみを連れて行ったのか。なぜこの三人は、イエスに命じられたように起きて待つことができなかったのか。

 イエスは自分が裏切り者によって逮捕されることを知っていた。福音書記者は「イエスは深く恐れもだえ始められた」と記している。ここでのイエスの恐れともだえを〈人の子〉のものとしてとらえればよく理解できよう。イエスは逮捕、ゴルゴタの丘での十字架刑を予知している。イエスの三人の弟子に向けての言葉「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」を孤独な人間の言葉として聞くことができる。しかし、弟子たちはどういうわけかイエスの人の子としての悲痛な言葉さえまともに受け止めることができず、三度にわたって眠りほうけている。

 なぜイエスは悲しんでいるのか。自分が裏切り者によって逮捕され、処刑されることを悲しんでいるのか。それとも自分のことをまったく理解できない弟子たちを思って悲しんでいるのか。そのどちらとも言えよう。いずれにしてもイエスときわめて身近な時空を生きている弟子たちが、師イエスをまったく理解していない。イエスの悲しみ、恐れ、もだえを自分のものとして体感できるは弟子はいない。イエスがひとり祈っているとき、十二弟子より選ばれた三人の弟子は眠りほうけている。しかも三度にわたってである。

 

 

 

  ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

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