ロープシン再論 連載27 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

 

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ロープシン再論 連載27

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

エルナとマトリョーシャ

 

 先を急ぎすぎたかも知れない。わたしが九月二十六日の日記を引用し、しばしこの箇所にこだわってみたいと思ったのは、ジョージがエルナの自殺に至る場面を想像豊かに再現した直後の文章にある。

 

  だがいま、たったいま、彼女はまるで生きているかのように、目のまえのドアのそばにたたずんでいる。髪は乱れ、空色の目はくもっている。彼女は折れそうな体をふるわせながら、ささやく。
  「ジョージ、だって、あなたも来るんでしょう……ジョージ」
   ……………………………………………………………………(236~237)

 

 わたしがこの箇所を読んですぐに想起したのはニコライの告白である。ニコライに凌辱された十一歳の少女マトリョーシャは納屋で首を括った。ニコライは彼女が死ぬことが分かっていたが、完全に無視した。ニコライは沈黙の神に自らを重ねた。この傲岸不遜の実験に耐えられるかどうか。ニコライは書いている「私は善悪の別を知りもしないし、感じてもいない男である、たんにその感覚をうしなってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ」(下・566)と。
 この善悪観念を摩滅してしまったニコライがドイツの田舎町の旅館でマトリョーシャの夢を見る。「私は目の前に見た!(中略)あのときと同じように、私の部屋の戸口に立って、私に向って顎をしゃくりながら、小さな拳を振りあげていたあのときと同じように、げっそりと痩せこけ、熱をもったように目を輝かせているマトリョーシャを」――ニコライは彼の眼前に現出してきたマトリョーシャに〈孤立無縁の存在のみじめな絶望〉を読みとり「これが良心の呵責、悔恨と呼ばれるものなのだろうか?」(下・572)と思う。
 善悪観念を摩滅させてしまった男に〈良心の呵責〉など起きようもない。が、これはニコライが恐れていた〈一つの偏見〉の現れなのだ。善悪観念を超脱した《神》の如きニコライもこの〈偏見〉から逃れることはできなかった。逃れることができなければ、ニコライは神を僭称した〈いやしい卑劣な臆病者〉〈卑劣な男〉に成り下がるほかはない。もしニコライが眼前に現れたマトリョーシャに〈良心の呵責〉を心の底から感じたならば、彼はその瞬間、罪の意識に襲われたことだろう。すなわち《神》ニコライがキリスト教の神に屈したことになる。が、ニコライは告白を書いているさなかにおいてすら、「これが良心の呵責、悔恨と呼ばれるものなのだろうか?」という自問に対して「私は知らないし、いまもってそう言いきることはできない」としている。
 ニコライは現出してきたマトリョーシャが〈現実〉であれば、〈ほんものの幽霊〉であればとも書いていた。まるでニコライは不信のトマスの眼前に現れた復活したイエスのような存在を求めていたかのような書きっぷりである。いずれにせよ、ニコライは〈一つの偏見=良心の呵責〉に捕らわれた《神》および〈卑劣な男〉であり、ユダヤ・キリスト教圏内から超脱できなかった虚無家にとどまっていた。
 ニコライは眼前に現れたマトリョーシャが〈現〉ではなかったことを認識している。そして彼女がせめて〈ほんものの幽霊〉であったらと思う。納屋で首を括って死んだマトリョーシャが〈ほんものの幽霊〉として現出してくれば、それは〈復活〉を意味する。ニコライは復活したマトリョーシャに心の底から懺悔したいとでも思っていたのだろうか。いずれにせよニコライの眼前にマトリョーシャが〈現〉となって現れることはなかった。ロジオンはソーニャに、リザヴェータ殺しの犯人を〈打ち明け〉たが、それは〈懺悔〉ではなかった。ニコライの場合も、彼の〈告白〉は〈懺悔〉とはならなかった。
 ジョージの眼前に現れたエルナは、「まるで生きているかのように」ドアのそばにたたずんでいる。現出してきたエルナが幻想であろうが妄想の産物であろうが関係ない。ジョージにとってエルナは〈懺悔〉の対象ではない。ジョージはエルナとの関係を罪深いものとして考えたことはない。エルナはマトリョーシャと違って大人の女であり、ジョージとの性愛関係も納得ずくのことである。エルナは爆弾製造担当としての重要な役割を担った、不断から死を覚悟したテロリストである。このエルナが一人の女としてジョージに深い恋心を抱き、彼に執着したまでのことである。
 ジョージはエルナの恋心に応えることはできなかったが、しかし彼はエルナの恋心を誰よりも受け止めてはいた。「まるで生きているかのように」現れるエルナを、ジョージの眼差しはしっかりと見つめている。微塵の感傷もつけいる余地はない。これが〈砂漠のなかの石〉の愛の表現と言っても許されるだろう。エルナの心臓を打ち抜いた弾丸は、ジョージから贈られた拳銃から発せられたのだ。エルナは〈死〉によってしか結ばれないジョージとの愛を成就したのだ。ジョージはすべてを知り尽くした上で、長い沈黙(……)に佇む。

 「ジョージ、だって、あなたも来るんでしょう……ジョージ」――エルナの問いに対して、ジョージは「わからない」とも「どうでもいい」とも応えない。ジョージはひたすら沈黙を守っている。

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ロープシン再論 連載26 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載26

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

エルナの死

 ジョージと深く関わったもう一人の女エルナの場合はどうだったか。九月二十五日の日記にジョージは次のように記している。

 

  きょう、たまたま新聞を買って読んでいると、ペテルブルク発の三行記事があった。
  「昨夕、警察官はペトロフ公爵夫人逮捕のためグランド・ホテルを襲った。ドアをあけるようにとの要求にたいし、室内で発砲の音がした。警官がドアをうち壊してはいると、まだ冷えきっていない自殺死体が床上に発見された。目下調査中」
  ペトロワの名でエルナは陰れていたのである。(235)

 

 エルナの死は三行の新聞記事で片づけられる。前日の日記でジョージはエレーナをことを考え「いまとなっては、彼女を愛したことや、愛のために殺せたことがふしぎでならない」と書いている。彼を支配している気分は〈たいくつ〉でり〈ゆううつ〉である。彼はエレーナの夫を殺したことさえ、まるで他人事のように語る。愛も殺しも、彼を根底から揺さぶることはできない。彼は〈鋭い鎌〉を振るときも振った後も無感動である。無感動であることが彼に自らの《神》であることを証明しているかのように。《神》の生活は、いっさいの出来事に関して無感動であり、人間の感情に即して言えば〈たいくつ〉〈ゆううつ〉ということになる。そしてそんな《神》の目がエルナの死を新聞記事に発見する。
 翌日九月二十六日、ジョージはエルナの死に至る光景をリアルに思い描く。

 

 明けがたちかく、ドアがノックされる。たかくない音。室内は暗くて静かだ。彼女の眠りは浅く、すぐ目ざめる。二度目のノックだ。まえよりもしつっこく、音もたかい。彼女はさっと髪をなおして、起きあがる。灯はつけないまま、はだしで右手のピアノわきの大きな机にちかずく。手さぐりで、やはり音も立てず、引き出しから拳銃をとりだす。わたしが贈ったものだ。それから彼女は、あいかわらず闇のなか、手さぐりで服を着る。三度目のノック、これで最後だ。つま先だちで隅の窓ぎわへいく。暗いカーテンをあける。湿って、せまい、たたき石の中庭を見た。星のかわりに、下のほうにうすぐらい街燈が……すでにドアをこわしはじめた。誰かが斧で規則正しく打つ。彼女はドアのほうをむいて、つよい、しなやかな動作で胸に拳銃をおしあてる。はだかの胸へ。心臓のちかく、乳首のすぐ下に。彼女は部屋の隅へあおむけに倒れる。拳銃は絨毯のうえに黒ずんで見える。ふたたび暗闇と静寂。(236)


 この描写からは、エルナが隠れ家としていたグランド・ホテルの一室をジョージが知り尽くしていたように思える。ジョージはエルナと一緒に過ごした時があったのかも知れない。それにしてもこの描写からうかがえるのは、エルナに対するジョージの一種特有の思いである。ジョージははっきりとエルナを愛していないと記している。確かにエレーナに対するような恋愛感情はなかったであろう。しかし、エルナは化学者として爆弾製造を担当しており、謂わば二人は革命運動に命を賭けた同志である。エルナはジョージから贈られた拳銃で自殺をはかっている。見ようによっては、エルナはジョージによって殺されたとも言える。エルナはテロリストとして、同時にジョージに恋する女としてジョージに命を預けている。悲しいことにエルナは、ジョージの拳銃で自殺することでしかジョージとの一体化を実現させることができなかった。
 ジョージは恋愛の次元ではエルナを抱きしめることはできず、終始、冷たい態度を崩さなかった。が、ここに引用した場面を読めば、なにかしら彼特有の〈あい〉を感じずにはおれない。この〈あい〉はキリストの愛ではないが、強いていえず〈砂漠のなかの石〉の〈あい〉である。エルナはジョージのこの〈あい〉を恋する女特有の直感でわかっていたと思う。ただ、彼ら二人は〈あい〉の次元で会話する言葉を持っていなかった。砂漠の石は、誰にも通用するような言葉を持ち合わせていなかったのである。
 この孤独にエルナはひとり耐えなければならなかった。エルナは、〈無感動〉の退屈な仮面をつけていたジョージの〈砂漠の石〉の孤独をわが胸に受け止めることができなかった。「どうでもいい」「わからない」「たいくつ」「ゆううつ」などと呟いているジョージの孤独を抱きしめられる者を強いてあげれば作者ロープシンということになろうか。否、作者ロープシンですらジョージの孤独から疎外されていたとも見える。

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ロープシン再論 連載25 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載25

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

〈砂漠のなかの石〉と〈鋭い鎌〉

 

 九月二十二日の日記を見よう。

 

  ワーニャは生きて、そして死んだ。フョードルは生きて、そして殺された。総督も生きていたが、いまはもういない……人びとは生き、そして死に、つぎの人びとが生まれる。生きて、死んで……空はくもり、雨が降りそそいでいる。
  わたしは後悔していない。いかにも、わたしは人を殺した……エレーナへの苦しい愛着もない。わたしの強奪的な発砲が愛を焼きはらってしまったかのようだ。彼女の苦しみも、いまのわたしには無縁だ。彼女がどこでどうしているのか、わたしは知らない。(230)

 

 ジョージのこういった言葉に彼の冷酷非情なテロリストの貌だけを見て通り過ぎれるのならなんの問題もない。文字通りジョージを〈砂漠のなかの石〉と見なしておけばいい。しかし、この砂漠の石は手に〈鋭い鎌〉を持っている。ジョージは愛するエレーナの夫を殺すことができる男なのである。ジョージは人間としての喜怒哀楽から完璧に抜け出すことはできない。ただ彼は、自分を《神》と同一視して、《神》としての〈権利〉を行使できると思っている。この《神》はキリスト教の〈父なる神〉とも〈神の子〉とも違って、強いて言えばニーチェの言う〈反キリスト〉〈ディオニュソス〉〈超人〉に近似的だが、しかしジョージはどう受け止められようと「どちらでもおなじだ」と軽くいなしている。
 砂漠の石にまで自分を物質化してみせたジョージだが、しかし彼は物質そのものとして世界と融合調和することはできない。彼の言う〈砂漠のなかの石〉は未だ梵我一如の境地に至ることはできない。彼は「すべてが許されている」《神》として〈鋭い鎌〉を振る自由を自らに許している。この《神》はもはや人間一人一人の喜怒哀楽に寄り添う気持ちを捨て去っている。夫を殺されたエレーナの苦しみを想像することはしても、その苦しみに同調することはない。《神》ジョージには後悔も罪の意識も訪れない。〈鋭い鎌〉を振っても、彼の意識は〈砂漠のなかの石〉、すなわち無感覚のままにとどまっているのである。
 ここに二人の女の頭上に〈斧〉を振り下ろした後のロジオンとの決定的な違いがある。ロジオンの苦悩は最終的には〈愛による復活〉によって乗り越えられるが、ジョージにはキリスト教の〈復活〉など初めから想定されていない。ジョージにとって世界は、社会は〈砂漠〉であり、彼はその砂漠に産み落とされた《神》なのである。しかし、その彼もまた《神》でありながら、人間としての自意識からは解放され得ない。この自意識の隙間から、「どうでもいい」はずのワーニャの言葉が忍び込んでくるのを、ジョージは完璧に防御しきれないでいる。
 〈神の子〉になったイエスは十字架に掛けられたが、《神》になったジョージには自殺が用意されていた。人間は人間である限り、《神》として生きることはできない。傍から見れば、イエスが〈神の子〉を自称したように、ジョージは《神》を自称していたに過ぎない。
 ジョージは現実世界を生きる一人の人間として愛にこだわることはなかった。人妻エレーナに対しては自分だけを愛するように願ったが、この切実な願いは受け入れられなかった。「どうでもいい」が根本気分のジョージに激しい嫉妬や憎悪があったかどうかは不明だが、エレーナの夫を決闘に誘って殺したことの背後には《神》の復讐が潜んでいたことは確かであろう。《神》の願い(命令)を頑強に拒み続けたエレーナは厳しく罰せられなければならないのだ。《神》ジョージは革命のための殺しも、自分のための殺しも自らに許しているのである。

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ロープシン再論 連載24 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載24

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

ジョージの《神》

 

 ジョージの言う「どうでもいい」は人生における究極的な結論である。が、この結論は生きている限り、一つの生き方を強制する。ワーニャは子供を殺すことに躊躇するが、ジョージは革命のためには子殺しをも許容する。ワーニャは問う「どうして、きみはそんな方法をとることができるんだ? 誰がきみにそんな権利をあたえたんだ? だれがきみに許したんだ?」と。ジョージは冷静に答える「ぼく自身が自分に許したんだ」と。子供を殺すことはキリストの教えに背くことだ。もちろんジョージは十分に承知の上だ。ジョージの「どうでもいい」はキリストも神も超え、自分自身を神の座に据え置いている。自分=神にすべての決定権は委ねられている。ニコライは少女マトリョーシャを陵辱することで沈黙する神を試みた。この行為は自らを沈黙し続ける神に擬した実験であったが、結局、ニコライは神に成り代わることはできなかった。ドストエフスキーはニコライの〈告白〉によってそのことを白日のもとに晒した。が、ジョージにあってはニコライの〈告白〉はない。ニコライは〈告白〉ではなく〈日記〉を書く主体にとどまっている。ニコライの眼前にマトリョーシャの幻影はリアルに現出してくるが、ジョージの眼前には殺された子供はもとより、殺された敵側の人間も、殺された同志たちの誰一人も現れ出てくることはなかった。
 ニコライのような虚無家も、〈罪〉の意識に苦しまねばならなかった。しかしジョージは日記を読む限り罪におそわれることは一瞬たりとてなかった。ジョージは書く「ワーニャはキリストをもとめていたが、エレーナは自由をもとめている。わたしはどちらでもおなじだ。キリストであろうと、反キリストであろうと、ディオニュソスであろうと。わたしはなにものももとめない。わたしは愛しているが、この愛のなかにわたしの権利がある」(「九月十七日」222~223)と。
 ワーニャはキリストを求めてキリストに背き、エレーナは自由を求めて夫を失い、ジョージはなにものも求めないと言いながらエレーナを求めた。ジョージのエレーナに対する求める愛は我欲の愛であり、彼の言葉で言えば〈権利〉だ。この〈権利〉は単なる人間の権利ではない。キリストも反キリストもディオニュソスも超脱した《神》の権利なのだ。ジョージはこの《神》の境地を「神秘な魔法のとりこになる」といった詩的な言葉で表現する。この日記は「わたしは砂漠のなかの石だ。だが、手には――鋭い鎌をもつ」でくくられる。
 ジョージの言葉は思弁の域を一挙に超えて詩的表現となる。この表現は、思弁の域にとどまる者には理解できない。しかし、ジョージの《神》に寄り添えば、砂漠のなかの石も、手にした鋭い鎌も理解できるだろう。ジョージの《神》の内的時空には〈キリスト〉も〈反キリスト〉も〈ディオニュソス〉も内包されており、そのどれか一つが絶対性を獲得することはない。ジョージの言葉で言えば「わたしはなにものももとめない」ということになる。なにものももとめない者が「権利がある」と言い、「神秘な魔法のとりこになる」と言う。この矛盾を矛盾のままに自ら許容し、〈砂漠のなかの石〉のままに〈鋭い鎌〉を打ち捨てようとはしない。ニコライ・スタヴローギンの後に世界を生きることになった虚無のテロリスト・ジョージの面目躍如たる意志の詩的表出である。

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ロープシン再論 連載23 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載23

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

「どうして」と問い、「わからない」と答える


 ジョージは様々な問題に関して「どうして」と問い、「わからない」と答える。「どうでもいい」はずのジョージは、それでいていちいち「どうして」と自らに問わずにはおれない。答えはいつも「わからない」である。フョードルはイワンとアリョーシャに向かって「神はあるかないか」と問う。イワンは「存在しない」と答え、アリョーシャは「存在する」と答える。この場にジョージが居合わせたら「わからない」と答えるだろう。
 ドストエフスキーは神の存在に関して「わからない」と答える人物を登場させなかった。ドストエフスキーの人物たちは神の存在に関して「あるかないか」の二者択一を迫られている。ロジオンはポルフィーリイに対しては神の存在を肯定しながら、〈ラザロの復活〉を朗読するソーニャの前では無神論者の貌を装っている。〈ラザロの復活〉の場面を聞いた後でもロジオンは深く沈黙を守っている。この時、ロジオンは神があるともないとも口にしていないが、決して「わからない」とは言わない。ジョージは「わからない」と答えた後で「どうでもいい」と呟いてもよかっただろう。が、もしこのようなことを口にする人物を登場させたら、まさにドストエフスキーの文学は成立しなかったであろう。
 例の有名なフォン・ヴィージナ宛の手紙で、ドストエフスキーはキリストと共にありたいと願いながらも同時に不信と懐疑の時代の子であることを表明しているが、しかし「わからない」とか「どうでもいい」とは書かなかった。『悪霊』でこれらの言葉に最も相応しい人物はニコライと言えるが、この男は作中でこういった言葉を口にすることはなかった。ニコライは人神論者のキリーロフやロシアの神を信じると言ったシャートフよりも、〈神〉にこだわり続けたニヒリストであり、さらに不断にこのニヒリストという仮面をさえ脱ぎ捨てようとしていたが、この仮面を脱ぎ捨てた〈のっぺらぼう〉の顔を鏡に映し出すことはできなかった。
 ユダヤ・キリスト教の圏内から抜け出せなかった作家には、キリストを超克した人間の内面世界を描き出すことはできなかった。ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーのみが、革命ばかりかキリスト教をもおちょくる虚無の視点を備えていたが、ドストエフスキーは彼を〈ニコライの猿〉の次元に据え置いてすましている。ピョートルとジョージを繋げる、または重ねる視点を抱えもつ読者によってのみ、彼ら二人ののっぺぼうを視ることが可能となる。

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ロープシン再論 連載22 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載22

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

ジョージとワーニャの渠


 七月二十七日の日記にジョージは次のように記している。

 

  わたしはときにワーニャのことや、彼の愛や、信仰にみちた言葉について思いをめぐらす。わたしはそれらの言葉を信じない。(略)どうして愛を信じたり、神を愛したり、愛によって生きたりできるのか、わたしは理解に苦しむ。もしあの言葉を言ったのがワーニャでなかったら、わたしは笑っていたかもしれない。(152)

 

 「どうでもいい」のジョージが、それでもワーニャのことを意識の外に追いやることはできない。ジョージにとってワーニャは切っても切り離せない双生児の片割れのような存在である。神の存在やキリストの愛を求めずにはいられないワーニャと、それらを信じられないジョージの間には乗り越えられない深い渠が横たわっている。ジョージはこの渠を渡ってワーニャと抱き合う瞬間を持つことはできない。ジョージの不信と懐疑はワーニャのそれとは性質を異にする。ワーニャのそれはキリストの愛を否定していない。ワーニャはキリストの愛を肯定しながら、暗殺を許容するテロリストの途を閉ざすことができない。彼は求めながら背くという二律背反を生きながら、そのことの矛盾を徹底して凝視することはない。右の頬を打たれたら左の頬を差し出せというキリストの教えと、暗殺を許容するテロリストの途は真逆である。一つの身しか与えられていない人間は真逆の途を同時に歩むことはできず、矛盾を凝視する者は二つの途を前にして佇むほかはない。キリストの愛を信じながらテロリストとして行動するワーニャ、神も愛も信じず「どうでもいい」と呟きながらテロリストであることを止められなかったジョージ、この二人を超克する人物は『蒼ざめた馬』に登場することはなかった。

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ロープシン再論 連載21 ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──


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ロープシン再論 連載21

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

「どうでもいい」(Все равно)

  七月七日の日記を見てみよう。

  目をあける。真夏の日ざしがカーテンをとおしてはいり、床に照りはえている。わたしはまた忘我の状態におちる。それからまた、おなじ考え。ハインリッヒはどうして爆弾を投げなかったのだろうか? どういうわけなのだろうか?……ハインリッヒは臆病者ではない。しかし、過ちは恐怖よりわるい。それともこれは偶然なのか? どうにもならぬ偶然なのか?
  いずれにしろ、どうでもいいことだ。すべて……どうでもいいことだ。ハインリッヒのテロ参加がわたしの責任なら責任でいい。総督の命びろいがハインリッヒのせいならせいでいい。エルナが爆死しようと、ワーニャやフョードルが処刑されようと、わたしの知ったことではない。どのみち総督は殺されるだろう。わたしがそう望んでいるからだ。わたしは身をおこす。窓の下の広場には、人間たちが黒蟻のようにもぞもぞ動いている。ひとりひとりが自分の心配ごとや日々の雑用に首をつっこんでいる。わたしは彼らを軽蔑する。フョードルが言ったことは、じっさい、正しいのではなかろうか?

  「うむをいわさず、やつらをみんな爆弾でやれたらなあ」(146~147)

 

 ここでまずジョージの存在の特質性を端的に表している言葉は「いずれにしろ、どうでもいいことだ。すべて……どうでもいいことだ」(Все равно, всеーвсе равно.)である。ワーニャにも同じような表現が見られたが、本家はやはりジョージである。『悪霊』の読者ならすぐにニコライ・スタヴローギンを連想するだろう。なにも信じない、信じないということさえ信じないという虚無の権化のような存在性格をジョージは引き継いでいる。
  ジョージを愛していたエルナに対するジョージの対応は徹底して冷たい。おそらくジョージとエルナの間には肉体関係があっただろうが、ジョージはそういった関係に引きずられることはまったくない。エルナはまるで醜女の深情けの次元に追いやられている。どんなに惨めにすがりついても、ジョージはまるで赤の他人のように冷たくあしらっている。エルナは化学者で爆弾製造を担当しているが、もしエルナが製造過程で爆死したとしても同じく化学者のワーニャが爆弾をつくることになるだろうとジョージは書いている。ジョージに人間らしい同情心はない。これは他の同志たちワーニャ、ハインリッヒ、フョードルに対しても同じである。テロリストにキリストの愛や、ドストエフスキーの言う同情(сострадание=憐憫)などはまったく必要がない。愛や同情はテロリストにとっては邪魔な感情なのである。
 ジョージには日々の暮らしを生きる民衆の喜怒哀楽に寄り添う気持ちなどまったくない。むしろ彼はそういった民衆を腹の底から軽蔑し、彼らを爆弾でいっぺんに壊滅させたいという欲望にさえ駆られている。ロジオンには未だ〈良心〉に基づく殺しの対象が選ばれていたが、ジョージにあってはまさに「神がなければすべてが許されている」ということで無差別殺人が許容されている。ここにはイワン・カマーゾフの神に対する疑念も迷いもない。その意味でジョージはドストエフスキーの人神論者たちの次元を飛び抜けた存在とも言える。が、同時にそのこと自体がジョージを漫画(劇画)的英雄に押し上げることになる。『悪霊』はニコライを中心にして読む限り、ジョージのような実にせっかちなニヒリズムを継承することになる。
 『悪霊』はニコライの猿を演じ尽くしてスクヴォレーシニキを無傷で立ち去った二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーに焦点をあてなければならない。『悪霊』は未だ本当には読まれていない。ドストエフスキーが作品に仕掛けた謎は百年や二百年では浮上してこないのである。ロープシンはジョージの眼前に一人の〈ピョートル・ヴェルホヴェーンスキー〉を用意することができなかった。ロープシンは剥製化したニコライに今再び命を吹き込み、新たなる舞台を構築することができなかった。わたしの目にはジョージは剥製化したニコライの中途半端な模造品にさえ見える。
 さて、ジョージの「どうでもいい」(Все равно)に戻ろう。この言葉で想起するのはニコライとは別に、チェーホフの作品『六号室』のラーギン医師である。2026/09/05 13:13
2026/09/06 09:53 ラーギン医師を不断に支配している感情は「どうでもいい」(Всё равно)である。この虚無と退屈と諦念を混ぜ合わせたような気怠い気分はラーギン医師に限らずチェーホフの人物たちの基底に流れている。
 わたしは二〇〇三年の九月から翌年の一月にかけて集中してチェーホフの作品(『小犬を連れた貴婦人』『かわいい女』『六号室』『黒衣の僧』『退屈な話』)を批評した。この作品批評は『チェーホフを読め――空虚な実存の孤独と倦怠――』(二〇〇四年四月 鳥影社)のタイトルで上梓した。このチェーホフ論もドストエフスキー文学と絡めて展開している。チェーホフとドストエフスキーに関心のある方には是非読んでもらいたい。この本の刊行後、わたしは『イワーノフ』(「江古田文学」62号に掲載)や『かもめ』について批評したが、これらは一本にまとめていない。
 チェーホフはトルストイやドストエフスキーの後に作家活動を展開した小説家であるから、謂わば行くところまで行った究極の精神状態を描く必然性があったと言えようか。チェーホフの虚無はドストエフスキーの人神論者たちのそれとは明らかに異なっている。ドストエフスキーの人物たちは激流の渦のただ中に投げ出されているが、チェーホフの場合はディオニュソス的混沌は底なしの沼に沈んで、表面は穏やかなさざ波程度のアポロン的整合性を保っている。ニコライの虚無はどこまで行ってもその垂直性から解放されない。換言すればニコライの虚無は深刻な相貌を拭いきれずにいる。ピョートル・ヴェルホヴェーンスキーの虚無はニコライとは違って無限の水平性を表象しているが、それでもチェーホフ的気怠い虚無の相貌を見せることはない。ドストエフスキーの人物たちはまさにグロテスクなカーニバル的時空を激しく生きるが、チェーホフの場合は日常的な平板な生活空間の中で穏やかな虚無と共に生きている。もちろん例外はあるが、チェーホフはドストエフスキーの人物たちに体現された過剰なるものを彼流にアレンジし、洗練化している。ドストエフスキーの人物たちの過剰は野暮だが、チェーホフの虚無は洗練されて粋である。「どうでもいい」は人生に飽いた退屈家のため息であり、彼が身を委ねている船には希望も絶望の荷も置いていない。この退屈家を熱い行動に駆り立てるマグマはない。チェーホフの眼差しは誕生から死に至る全人生を俯瞰的にとらえている。それでいて否定的なニヒリストにとどまってはいない。彼は全事象の諸行無常を受け入れた虚無家であり、その意味ではユダヤ・キリスト教の圏内を超脱した存在とも見える。
 ジョージは〈黒蟻〉のようにもぞもぞ動いている〈民衆〉を軽蔑している。彼は民衆一人一人の顔をのぞき込もうとはしない。ここには明らかに自分を民衆の優位に置く感情が露わである。〈自分の心配ごと〉や〈日々の雑用〉に追われている人間たちの、その個別性を無視して〈民衆〉という大ざっばな括りの中に押し込んでいる。これでは人類を非凡人と凡人の二つの範疇にわけたロジオンのやり方と五十歩百歩である。ロジオンは高利貸しのアリョーナを社会に有害な凡人と見なしたが、ジョージは民衆を凡人の集団ぐらいにしか思っていない。ロジオンは自分を非凡人の範疇に属する者として社会に有害なシラミを殺す計画を立てた。ロジオンは非凡人は自分の「良心に照らして血を流すことが許されている」と考えた。テロリストのジョージは革命のためには国家権力の中枢部にいる要人を暗殺することは当たり前と考えていた。しかし「うむをいわさず、やつらをみんな爆弾でやれたらなあ」の呟きは、テロリストの正義観を逸脱している。ジョージはロジオンの〈非凡人〉の概念を超えたテロリストである。彼の内には正義のためなどという革命家のもっともらしい理念を超えた人類全体の壊滅願望が潜んでいる。
 イワン・カラマーゾフは「神がなければすべてが許されている」と考えたが、ジョージには「神にはすべてが許されている」という思想が宿っていたように思える。その意味でジョージは単なるテロリストではない。彼は自分を神の立場に置いたテロリストなのである。どうやら彼は、ワーニャの言うキリストもキリスト教の神も問題ではなく、なんでも許されている神となった自分だけが問題なのである。「やつらをみんな爆弾でやれたらなあ」の〈みんな〉は文字通りみんなであって、黒蟻のような民衆だけを指しているのではない。ジョージは描かれた限りで見ればテロリストですらない。彼は〈テロリスト〉という衣装に飽き飽きしている。しかし、彼の「どうでもいい」(Все равно)のため息を真に理解する者はいない。同じ言葉を発していたワーニャにも、ジョージのこの気分は理解できない。ジョージの「どうでもいい」の白い虚無を共有しているのはロープシンのみと言ってもいい。革命家の衣装を着続けて、結果、命を落とすことになるジョージとロープシンがぴったり重なる瞬間を、わたしはわたしの汎神論的眼差しで見とどけるまでである。

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