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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。
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ドストエフスキーをめぐる対談 4
日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。
(連載20)
ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む
──ドストエフスキー文学との関連において──
清水正
ジョージとロジオン
――革命家と殺人者――
ドストエフスキーの作品に登場する人物のうちで、最もジョージに近い存在は虚無の権化と言われたニコライ・スタヴローギンではなく、通俗次元では〈ニコライの猿〉とも揶揄されたピョートル・ステパノヴィチ・ヴェルホヴェーンスキーであろう。真逆に位置するのはロジオン・ロマーノヴィチである。ロジオンは小説の出だしから思い惑っていた青年で、作者ははっきりと書いていないが、この青年が〈革命か神か〉で深く思い惑っていたことに間違いはない。問題はロジオンが思い惑いながらも、しかし神の世界へと続く〈橋〉へと向かっていたことである。ロジオンは作者によって復活の曙光に輝く運命をあらかじめ賦与された存在で、昨中で最も明敏聡明なポルフィーリイ予審判事ですら作者の思惑にとりこまれている。彼は作者の意図を越えてロジオンにきわどい質問をするようなことはしない。彼は雑誌に発表されたロジオンの「犯罪に関する論文」を読んだ時に、内容もさることながら、名前のイニシャル(РРР)に注意を払ったに違いない。彼は、そのまま上にひっくり返せば666という悪魔の数字になる著者が、論文を発表するだけの机上の理論家におさまるとは思っていなかった。彼は、ロジオン以上にロジオンのことが分かっている予審判事である。彼はロジオンに向かって「あなたは『おれにアレができるだろうか?』と思ったとき、老いぼれた高利貸しの代わりに皇帝を思い浮かべていたのではないですか」とか、「もし殺害現場を目撃したのがリザヴェータではなく、母親ブリヘーリヤであったら、あなたはそれでも彼女の頭上に斧を振り下ろすことができましたか?」などとは絶対に訊かない。
ロジオンとポルフィーリイ予審判事のやりとりは、はるかに穏やかで抽象的な、いわば時の権力を十分に考慮した次元で展開されている。ポルフィーリイはロジオンの犯罪理論を「非凡人にはすべてが許されている」とまとめてみせる。即座にロジオンは反応する。論文を雑誌に投稿したことすら失念していたロジオンは、そんな論文は発表することすら許されなかっただろうと言い、自分がそこで主張したのは「非凡人は良心に照らしてて血を流すことがゆるされている」ということだと訂正する。注意すべきは「発表すら許されない」という言葉である。厳しい検閲制度下にあって、当時の小説家たちが自らの作品創造に際して検閲官の目を意識しないはずはない。ましてやドストエフスキーはゴーゴリ宛のベリンスキーの手紙をペトラシェフスキーの会で読み上げただけの罪で、ニコライ一世がたわむれに仕掛けた死刑執行劇を体験させられたあげく、八年のシベリヤ流刑を宣告された元政治犯であり職業作家である。こういった過去を持つ作家が小説の内容に細心の注意を払うのは当然である。
ドストエフスキーはシベリアで転向した作家だと見なされているが、青春期に革命思想に熱狂的に沈潜した作家がそうそう簡単に自らの血肉化した思想を捨て去ることなどできはしない。ロジオンの内にはロシアの最新思想にかぶれていたレベジャートニコフなど歯牙にもかけない過激な革命思想が潜んでいたと見てまちがいはない。が、『罪と罰』の読者は百年以上にわたってロジオンの〈アレ〉=〈老婆アリョーナ殺し〉と見なして、それが〈皇帝殺し〉を内在させていたことを看破できなかった。
ロシアの後進性の元凶は皇帝専制政治にあるなどという考えは、一八六〇年代の学生(知識人)にとってごく常識的なことであった。一八六二年にリャザン県ザライスクの田舎から単身ペテルブルクに上京して大学へ入学したロジオンが、そういった急進的、革命思想の嵐に巻き込まれなかったはずもない。しかし、見てのとおり、ロジオンの周りには革命思想を抱き、革命運動に身を投ずるような学友は一人も存在しない。読者に知らされるのは、ロジオンが下宿の娘ナタリヤと婚約しただの、その娘はウロート(不具)で一年半前に当時流行っていた腸チフスにかかって死んでしまっただの、前には家庭教師などの仕事もしていたが、今は大学もやめて、屋根裏部屋で無為の暮らしをしているなどという、そういった身辺雑記風のことだけである。
ロジオンが考えていた非凡人思想や犯罪に関する思想は、彼の内で密かに成熟していったが、そのプロセスにおいてただ一人の友人との対話もない。どんなに孤独な、協調性のない青年でも、一人ぐらいは自らのうちで生育してきた思想を吐露する友はいるものだ。なぜ、ロジオンには思想や文学や芸術を語り合う友人が存在しないのか。これはロジオンの性格に帰するよりは、作者の側の都合に帰した方が納得がいく。もし、ロジオンが「犯罪に関する論文」に関して他の者たちと対話するようなことになれば、〈アレ〉を〈老婆アリョーナ殺し〉にだけおさめることはとうてい不可能であったろう。〈アレ〉はやがて〈皇帝殺し〉へと導かれて行ったにちがいない。
元政治犯の作家にすれば、どんな凡庸な読者にでも分かるような展開は回避しなければならない。が、かと言ってロジオンの頭にあるのが単に高利貸しのアリョーナ殺しだけに限定されても困る。そこで作者は「おれに老婆アリョーナが殺せるだろうか」とは書かずに、「おれにアレができるだろうか」と書いて、解釈の幅をもたせた。当時の検閲官が〈アレ〉を〈皇帝殺し〉と見なせば、それこそ『罪と罰』は発表自体が許されなかったかもしれない。検閲下に置かれた小説家の生々しい戦いの現場をかいま見せられる思いである。もしロジオンの前に、皇帝殺しを謀るテロリストが登場して、彼の〈アレ〉に揺さぶりをかければ、彼はたちまち危険な淵に追いつめられることになる。
作者はロジオンの前に穏健な革命思想家レベジャートニコフを立たせて、革命論議すらさせなかった。ロジオンの非凡人思想が作中で揶揄嘲笑されることはないが、ロシア最新思想の信奉者レベジャートニコフはその思想はもとより彼の存在自体が愚弄嘲笑の的となっている。『罪と罰』を読んでレベジャートニコフに魅力を感じる読者はおそらくいないだろう。彼はルージンよりはましな扱いを受けているが、殺人者ロジオンを凌駕する魅力を与えられることはなかった。作者がロシア最新思想の信奉者レベジャートニコフに付与したのは誰の目にもかなう魅力とは反対の性格である。
『罪と罰』で最も魅力のある人物として描かれているのは二人の女の頭上に斧を打ち下ろす青年、しかもこの青年は自らの犯行になんの〈罪意識〉も覚えることはなかった。この価値が逆転した舞台で最も軽蔑されるのは、敏腕な実業家であり弁護士であるルージンである。この男ほど作中で、マンガチックに戯画化された悪党はいないだろう。『罪と罰』は少女マンガのような設定を臆面もなくほどこしているが、ルージンなどはギャグマンガの主人公の役割を十分に果たしている。
ロジオンの母親と妹は、『罪と罰』の表層舞台の展開に充足する読者にとっては息子思い、兄思いの善良で純潔な女性に見えるだろうが、わたしの目にはこれほど罪深い、ロジオンを殺人へと追いつめていった張本人に見える。母のプリヘーリヤは二十三歳にもなった息子をロージャなどと愛称で呼びつづけ、この息子に没落したラスコーリニコフ家の再建を過剰に期待している。「おまえは私たちの杖だ、柱だ、がんばれ、頑張れ」と子供の頃から、重い荷物を背負わされている息子に安息の時はない。ロジオンがペテルブルクに上京すると、すぐにドイツ製の山高帽子などを購入して青年紳士を気取ってみたり、それほど好きでもなかった下宿の娘に手を出したりしたのも、母親の呪縛から解き放たれたいと願望した結果である。しかし、母親プリヘーリヤの異様な粘着力のある追い続けてくる〈愛の手〉を逃れることはできなかった。
このどこまでも追いかけてくる母親と逃れようとする息子の文脈でロジオンの〈アレ〉を改めて考えれば、それは「おれは母親を殺すことができるだろうか?」となる。まさにロジオンは〈母親殺し〉をたくらんだ息子であった。が、彼は直接的に母親を殺すこともできなければ、その殺しの場面を明確にイメージすることもできなかった。ロジオンは〈母親殺し〉を実行するにあたって、ソーニャの存在を必要とした。地下の酒場でぐうぜん居合わせたマルメラードフの告白話を聞いたロジオンは、一家の犠牲となって娼婦に身を落としたソーニャの存在を聞き知って無意識の内に〈踏み越え〉を決意する。この時、ロジオンは家族との絆を断ち切り、ソーニヤと共に生きることを選んだと言える。ロジオンの意識は不断に思い惑う分裂のただ中にあるが、自分でも明晰に把捉できない領野においてはすでに一歩を踏み出している。
ジョージにロジオンの思い惑いはみごとにない。ジョージは明確にテロリスト(террорист)であって、イニシャルに三つのрを含んだだけのロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ(Родион・Романович・Раскольников)とはまったくその性格を異にする。
ロジオンは自らの意識の分裂を統合することはできない。彼はポルフィーリイ予審判事に向かって神もラザロの復活も文字通りに信じていると口にして相手の度肝を抜いているが、しかし彼はラザロの復活の場面の朗読を要求されたソーニャに神を信じていない者と見なされている。ロジオンはポルフィーリイの前では神を信じると公言し、ソーニャの前では神を信じない者として立っている。不思議なことに、ロジオンはソーニャの言葉(神を信じていないひと)を拒まないし、この時、ポルフィーリイに向かって言った言葉(神を信じている)を思い出すこともない。作者もまた、改めて読者に注意を喚起させようともしない。その結果多くの読者は、ロジオンがポルフィーリイに向かって断言した「神とラザロの復活を文字通り信じている」という言葉そのものを忘れ去ってしまうのである。
ロジオンは神を信じながら神に反逆する天の邪鬼である。彼は二人の女を殺して何の罪意識も覚えない青年でありながら、神を手放すことはない。彼は母親と妹との絆は断ち切っても、ソーニャという聖性を帯びた娼婦との絆を断ち切ることはできない。彼は同じく〈踏み越え〉た者としてソーニャを見ている。ソーニャを選んだことで、彼は自殺することもできない。彼は大きな一本の糸で〈復活の曙光〉の場面まで導かれている。 『罪と罰』を何度読んでも、ロジオンの卑劣は大きな幕に覆われている印象を拭い得ない。二人の女を殺しておきながら自分は蒼白い天使のような顔をしてペテルブルクを彷徨している、とはポルフィーリイ予審判事の言葉である。あいつは相当な悪党になる、とはスヴィドリガイロフの言葉である。にもかかわらず、ロジオンは多くの読者の心をとらえてはなさない。なぜか。一つは作者がロジオンの内面世界を丁寧に描写していること、一つはロジオンを徹底的に批判する人物を登場させなかったことにある。
ソーニヤに冤罪事件を仕掛けたルージンはろくでなしだが、二人の女を殺しておきながらルージンの卑劣を責めるロジオンはさらなるろくでなしである。にもかかわらず大半の読者はロジオンを卑劣漢とは思わない。ロジオンは苦しんでいる。まるで全人類の苦悩を一身に背負っているかのように苦しんでいる。読者はロジオンのこの〈苦しみ〉を共に生きてしまうのかもしれない。かつてわたしもまたロジオンの苦しみに同化しながら作品を読みすすめた。ロジオンは作品世界の中の他者ではなく、紛れもなく自分自身であった。が、『罪と罰』を読み続けていると、どうしてもロジオンとわたし自身の違いを感じざるを得ない。ロジオンは実際にひとを殺したが、わたしは殺したことがない。ひとを殺したいと思うことはあっても、殺人へと駆り立てる決定的なものが欠けている。
ロジオンは殺人後、ソーニャの前に跪拝して「ぼくはきみに頭を下げているんじゃない。ぼくは全人類の苦悩の前に頭を下げているんだ」〔Я не чебе поклонился, я всему страданию человескому поклонился,〕と言う。この言葉に胸を締め付けらるほどの感動を覚えた記憶がある。が、ある日、この同じ場面を読んで腹だたしくなった。全人類の苦悩の前にひれ伏す前に、おまえが殺した二人の女の苦悩の前にひざまずいたらどうだい、といった感じである。かつて二十歳前後の時には、ロジオンの言葉に心震わせたのに、今や同じその言葉がまるでギャグのように滑稽である。ロジオンは自分を〈キリスト〉とでも思っていたのだろうか。
因みに『罪と罰』には自分を〈キリスト〉に擬したがる人物がほかにもいる。マルメラードフは地下の居酒屋で「おれははりつけに、十字架にはりつけされるのが相応で、気の毒がられる柄じゃないんだ!」とわめいているし、スヴィドリガイロフはソーニャに三千ルーブリの債券を与えて淫売稼業の泥沼から救い出すという〈奇蹟〉を起こしている。ソーニャなどは〈キリスト〉を擬しているというより、キリストの化身のような存在である。
わたしは自意識過剰な人間には殺人などというだいそれたことは絶対にできないだろうと思っていた。ゆえに、わたしにとってリアリティのあるロジオンとは、絶対にひとを殺さない青年でなければならなかった。わたしにとって最もリアリティのあるのは、『罪と罰』全編を夢見たロジオンが屋根裏部屋で覚醒するような筋書きである。わたしは『罪と罰』を初めて読んでから今日に至る四十数年もの間、ロジオンと同じような殺人を想像したことすらない。第一、自分を非凡人と見なす若者が、最初の〈踏み越え〉に老いぼれた高利貸しを選ぶわけもない。
ロジオンはルージンをしみったれた男と見なして軽蔑、憎悪しているが、彼自身のなしたこともまたルージン並にしみったれている。非凡人にせめてふさわしいのは〈皇帝殺し〉であって、〈老婆殺し〉であるわけはない。しかもロジオンは予測もしていなかった目撃者の出現によってうろたえ、さらなる殺人も犯してしまった。老婆アリョーナだけを密かに殺し、奪った金で起業し、成功したあかつきに恵まれない多くの人々に施す、そうすれば罪はあがなわれるのだとロジオンは考えた。しかし、ロジオンはこのとき、殺しの対象を老婆アリョーナ以外、だれ一人想定していなかった。彼が〈アレ〉を回避できない運命と感じたのは、センナヤ広場でアリョーナの腹違いの妹リザヴェータが明日の晩七時過ぎに家にいないと思いこんだことによる。彼はその時、リザヴェータが出かけずに家に残っているかもしれないとか、用事をすませて早く帰ってくるかもしれないとは考えなかった。彼は〈アレ〉をもはや逃れることのできない宿命と感じ、想像力を働かせることができなかった。
ロジオンに次々と生ずる〈偶然〉はすべて〈必然〉へとつながっている。当初、殺人の道具に考えていた料理用の斧は、女中のナスターシャがいつものようにお使いにでかけないことで手に入れることができなかった。斧にこだわるロジオンは犯行をあきらめかかる。が、中庭にでてみると庭番小屋に光るものがある。近づくとたまたま庭番はいず、光っていたものは斧であった。こんな偶然はそうそう続くものではないが、ロジオンの場合は偶然はすべて必然へと結びついている。彼は庭番小屋の斧を誰にも見られずまんまと手に入れ、老婆宅へと急ぐ。……そうして老婆アリョーナの頭を斧でかち割ってしまう。
いったい殺したのはロジオンなのか、それともロジオンは単なる或るなにものかによって操られているだけなのか。ロジオンの意志というより、或るなにものかが彼の意志を搾取してしまったかのように感じる。最初の犯行、ロジオンがアリョーナの頭に斧の峰を打ち下ろす場面は特にそれを感じる。ところが、目撃者リザヴェータを殺す場面、ここでは明らかにロジオンの明晰な意識のもとで斧の刃が振り下ろされている。
犯罪の現場には絶対に現れるはずのなかったリザヴェータが出現したことの意味は大きい。ロジオンにとりあえず二つの道がある。ひとつはリザヴェータを置き去りにして逃げ出すこと、一つは現に小説で描かれたように第二の殺人である。前者を選んだ場合、殺人現場を目撃されたロジオンは即刻逮捕されることになっただろう。まさかリザヴェータが沈黙を守ることはないだろう。後者の場合、まずロジオンの「犯罪理論」が破綻、ないしは新たに注釈を加える必要が出てくるだろう。ロジオンは「非凡人は良心に照らして血を流すことが許されている」と語った。ロジオンにとって高利貸しアリョーナは業突く張りな老婆で、生きていても害を与えるだけの社会のシラミであって、こんな者は殺しても何の良心もとがめられるものではないと踏んでいた。彼は臆面もなく「一つの犯罪は百の善行によってあがなわれる」と主張する。が、これはがめつい社会の害虫アリョーナ殺しには適用できるとしても、はたしてリザヴェータに適用できるのか、という点が問題である。ロジオンは犯行の対象はあらかじめ明確に定めていたが、目撃者をどうするかに関してはなんら考えていなかった。しかし、現に殺してしまったことが重要である。
ロジオンはアリョーナ以外にも殺せる人間なのである。だからこそわたしは、ロジオンよ、おまえは目撃者が母親プリヘーリヤであっても、妹ドゥーニャであっても、ソーニャであっても……殺せたのかと問わずにはおれないのである。ネチャーエフは何の揺らぎもなく書く「革命家とは社会の絆であれ、家族の絆であれ、友人の絆であれ、彼を結びつける絆の一切を自ら断ち切る人間のことである」と。ロジオンはこんなことを少しも口にしていない。が、ロジオンが結果として二人の女を殺したことはこういったことを意味しているのだ。
ロジオンは〈元学生〉〈一人の青年〉〈屋根裏部屋の空想家〉といったイメージで読まれている。『罪と罰』の読者でロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフを一人の〈革命家〉と見なした者はいない。作者がロジオンに託したのは〈アレ〉であり、この〈アレ〉こそが革命家の目指すものと重なる。ロジオンは『おれは自分の存在と結びつく一切の絆を断ち切ることができるだろうか?』と自問しても良かったのだ。
ネチャーエフは続ける「どんな激しい感情が湧き起ろうと、それは革命というただひとつの目的に向けられる。彼はこのために、自己の利益、愛情、恋愛を犠牲にする」と。ロジオンは二人の女を殺害したことで、〈社会の絆〉〈家族の絆〉〈友人の絆〉を断ち切ることに成功した。が、ロジオンを革命家と見ることはできない。彼の〈踏み越え〉(преступление)はネチャーエフの言う〈革命というただひとつの目的〉に向けて踏み出されたものではなかった。ロジオンが最終的に目指していた〈踏み越え〉は〈復活〉(воскресенье)であった。だからこそロジオンは社会、家族、友人の絆を断ち切ってまで聖痴愚(ユロージヴァヤ=юродивая)ソーニャと共に生きる道を選んだのである。
ジョージは「わたしが知っているのは、われわれがきのう殺したのなら、きょうも殺すし、あすも必ず殺すだろうということである」と書く。ここにはまったく揺らぎがない。ロジオンは殺す前も、殺した後も思い惑っている。苦しんでいる。しかもこの苦しみはアリョーナを殺したことによってでも、リザヴェータを殺したことによってでもない。強いて言えばロジオンは、自分が非凡人どころか、殺したアリョーナ以上にシラミのような存在であったことを発見して苦しんでいる。さらに言えば、〈踏み越え〉(преступление=殺人)はしたが、〈罪〉(грех)の意識に襲われないことに苦しんでいる。ソーニャが、このロジオンの〈苦しみ〉の内実をどこまで理解していたかは問うまい。ソーニャはロジオンの〈苦しみ〉(十字架)を共に背負っていく覚悟ができている、これだけは疑いようがない。
ロジオンはアリョーナを〈殺し〉、続いてリザヴェータを〈殺し〉たが、おそらくこの二番目の殺しが最後の殺しとなったことであろう。もちろん、それは作者がロジオンをネチャーエフの言うような〈革命家〉としては設定していなかったことによる。ロジオンは目撃者リザヴェータをも殺すことができた青年であるから、作者側の保証(復活の曙光に輝くこと)がなければ、〈殺し〉続ける青年にもなりえたことを忘れてはならないだろう。恐ろしいのは人間なのだ。痩せ馬殺しの場面で激しく憐憫の情に駆られる幼年時代のロジオンが、やがて二人の女の頭を叩き割る青年に成長するのだ。さらに理不尽なのは、このロジオンが罪の意識に襲われることもなく、愛によって復活の曙光に輝くことだ。
以上「藝文攷」20号連載4(2015年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収
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