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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。
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ドストエフスキーをめぐる対談 4
日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。
ロープシン再論 連載27
ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む
──ドストエフスキー文学との関連において──
清水正
エルナとマトリョーシャ
先を急ぎすぎたかも知れない。わたしが九月二十六日の日記を引用し、しばしこの箇所にこだわってみたいと思ったのは、ジョージがエルナの自殺に至る場面を想像豊かに再現した直後の文章にある。
だがいま、たったいま、彼女はまるで生きているかのように、目のまえのドアのそばにたたずんでいる。髪は乱れ、空色の目はくもっている。彼女は折れそうな体をふるわせながら、ささやく。
「ジョージ、だって、あなたも来るんでしょう……ジョージ」
……………………………………………………………………(236~237)
わたしがこの箇所を読んですぐに想起したのはニコライの告白である。ニコライに凌辱された十一歳の少女マトリョーシャは納屋で首を括った。ニコライは彼女が死ぬことが分かっていたが、完全に無視した。ニコライは沈黙の神に自らを重ねた。この傲岸不遜の実験に耐えられるかどうか。ニコライは書いている「私は善悪の別を知りもしないし、感じてもいない男である、たんにその感覚をうしなってしまったばかりでなく、善も悪もない男なのだ」(下・566)と。
この善悪観念を摩滅してしまったニコライがドイツの田舎町の旅館でマトリョーシャの夢を見る。「私は目の前に見た!(中略)あのときと同じように、私の部屋の戸口に立って、私に向って顎をしゃくりながら、小さな拳を振りあげていたあのときと同じように、げっそりと痩せこけ、熱をもったように目を輝かせているマトリョーシャを」――ニコライは彼の眼前に現出してきたマトリョーシャに〈孤立無縁の存在のみじめな絶望〉を読みとり「これが良心の呵責、悔恨と呼ばれるものなのだろうか?」(下・572)と思う。
善悪観念を摩滅させてしまった男に〈良心の呵責〉など起きようもない。が、これはニコライが恐れていた〈一つの偏見〉の現れなのだ。善悪観念を超脱した《神》の如きニコライもこの〈偏見〉から逃れることはできなかった。逃れることができなければ、ニコライは神を僭称した〈いやしい卑劣な臆病者〉〈卑劣な男〉に成り下がるほかはない。もしニコライが眼前に現れたマトリョーシャに〈良心の呵責〉を心の底から感じたならば、彼はその瞬間、罪の意識に襲われたことだろう。すなわち《神》ニコライがキリスト教の神に屈したことになる。が、ニコライは告白を書いているさなかにおいてすら、「これが良心の呵責、悔恨と呼ばれるものなのだろうか?」という自問に対して「私は知らないし、いまもってそう言いきることはできない」としている。
ニコライは現出してきたマトリョーシャが〈現実〉であれば、〈ほんものの幽霊〉であればとも書いていた。まるでニコライは不信のトマスの眼前に現れた復活したイエスのような存在を求めていたかのような書きっぷりである。いずれにせよ、ニコライは〈一つの偏見=良心の呵責〉に捕らわれた《神》および〈卑劣な男〉であり、ユダヤ・キリスト教圏内から超脱できなかった虚無家にとどまっていた。
ニコライは眼前に現れたマトリョーシャが〈現〉ではなかったことを認識している。そして彼女がせめて〈ほんものの幽霊〉であったらと思う。納屋で首を括って死んだマトリョーシャが〈ほんものの幽霊〉として現出してくれば、それは〈復活〉を意味する。ニコライは復活したマトリョーシャに心の底から懺悔したいとでも思っていたのだろうか。いずれにせよニコライの眼前にマトリョーシャが〈現〉となって現れることはなかった。ロジオンはソーニャに、リザヴェータ殺しの犯人を〈打ち明け〉たが、それは〈懺悔〉ではなかった。ニコライの場合も、彼の〈告白〉は〈懺悔〉とはならなかった。
ジョージの眼前に現れたエルナは、「まるで生きているかのように」ドアのそばにたたずんでいる。現出してきたエルナが幻想であろうが妄想の産物であろうが関係ない。ジョージにとってエルナは〈懺悔〉の対象ではない。ジョージはエルナとの関係を罪深いものとして考えたことはない。エルナはマトリョーシャと違って大人の女であり、ジョージとの性愛関係も納得ずくのことである。エルナは爆弾製造担当としての重要な役割を担った、不断から死を覚悟したテロリストである。このエルナが一人の女としてジョージに深い恋心を抱き、彼に執着したまでのことである。
ジョージはエルナの恋心に応えることはできなかったが、しかし彼はエルナの恋心を誰よりも受け止めてはいた。「まるで生きているかのように」現れるエルナを、ジョージの眼差しはしっかりと見つめている。微塵の感傷もつけいる余地はない。これが〈砂漠のなかの石〉の愛の表現と言っても許されるだろう。エルナの心臓を打ち抜いた弾丸は、ジョージから贈られた拳銃から発せられたのだ。エルナは〈死〉によってしか結ばれないジョージとの愛を成就したのだ。ジョージはすべてを知り尽くした上で、長い沈黙(……)に佇む。
「ジョージ、だって、あなたも来るんでしょう……ジョージ」――エルナの問いに対して、ジョージは「わからない」とも「どうでもいい」とも応えない。ジョージはひたすら沈黙を守っている。
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