清水正 「情念で綴る「江古田文学」クロニクル」(連載2)

情念で綴る「江古田文学」クロニクル

――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様

 

 特集主体で組む「江古田文学」と人間模様


  わたしは〈「江古田文学」同人〉のような魂の交流のある書き手を中心に様々な特集を組み、インパクトのある誌面作りを心がけた。

 8号(昭和60年10月)は中村文昭企画で夭折した詩人山本陽子(映画学科・中退)を特集した。山本の詩編・遺稿詩の他、批評「神の孔は深淵の穴」、中村の山本陽子論「詩と死の内臓図鑑」などを掲載。山本陽子の文芸雑誌での最初の本格的な特集となった。創作は村上玄一の「穴まどい」、評論は富岡幸一郎の「三島由紀夫論」、エッセイには酒井幸雄の「電信柱への怨念」、松本鶴雄の「戦後文学と私小説」などを掲載した。

 酒井幸雄は日大法学部出身で読売新聞政治部の記者、当時は日大研究所教授、文芸学科では「新聞研究」を担当していた。「江古田文学」復刊当初から協力を惜しまなかった。わたしは副手時代からおいしいお酒を飲ませてもらっていた。松本鶴雄はドストエフスキー文学にも深い関心を寄せていた文芸評論家で、わたしは当時行きつけの池袋の居酒屋「玉淀」で会い、原稿を依頼し、快諾を得た。

 

 9号(昭和61年2月)は発行人・進藤純孝企画で「中国における日本文学の現在」を特集。創作は村上玄一の「シャッターチャンス」、池田博(映画学科教授)の「荒唐無稽物語」。詩は中村文昭の「物質まであと何歩?」、坂井信夫の「鏡」。評論は大貫虎吉の「昭和三十年代の家族小説(一)」。エッセイは木島知草の「わたしのなかにすむこども心へ」など。

 坂井信夫は同人誌「あぽりあ」を中村文昭と共に主宰。わたしは15号(昭和48年4月)に「回想のラスコーリニコフ」を掲載した。坂井にはアルベール・カミュに関する著作もある。

 大貫虎吉と最初に会ったのは小山田チカエオのアトリエであった。大貫は早稲田大学の大学院を出て映画評論を書いていた。彼はわたしの最初の著書『ドストエフスキー体験』を早稲田の古書店で見て「こいつは天才かきちがいか」と思ったとか。酔って、新宿にあった彼のアパートを訪ねた時、柱に掛かっていた人形の青い眼が輝いてわたしを凝視した。とつぜん電話のベルが鳴った。彼は机の引き出しから金をとり、飲みに行こうと部屋を出た。

 新宿の夜、激しくビル風が吹きまくり、外套にくるまった彼の後姿はまるで黒い段ボール箱のようであった。ゴールデン街の二階の店、カウンターの隅に腰掛けた彼は、ボソッと「弟が死んだ」とつぶやいた。反対側のカウンターで静かに呑んでいた初老の男は、派手なマフラーを首に巻き、ベレー帽を被っていた。今村昌平監督『にあんちゃん』の撮影監督だと教えてくれた。大貫は弟との確執を語った。優秀な兄といつも比較される弟の鬱屈は死によってしか幕を下ろせなかったのか。新宿の夜の闇は深かった。  

木島知草は文芸学科在学中から人形劇を主宰するチャーミングな女性で男子学生のアイドル的存在であった。

 

 10号(昭和61年8月)は特集として「追悼 土方巽」を組んだ。「日本読書新聞」(昭和59年2249~2273号)に掲載された舞踏批評家・合田成男と詩人・中村文昭の土方巽論、及び座談「舞踏は“世界”を演出できるか」(合田成男・中村文昭・市川雅・木幡和枝)を再録。合田成男の講演「燔犠大踏鑑(土方巽を語る)」を掲載した。創作は村上玄一「ジュニアは戦場へ行った」。評論は大貫虎吉「昭和三十年代の家族小説(二)」、青山健の「三島由紀夫における“虚”と“実”」。エッセイは松原剛(演劇学科教授)の「Oさんへ――中国五訪記――」などを掲載。

 わたしは中村文昭に招待券をもらい、大森政秀の舞踏公演を見た。公演後、会場近くの居酒屋で打ち上げがあった。その席で、わたしは初めて土方巽と会った。和服姿で現れた土方はわたしの真ん前の席に座った。彼の静謐な佇まいにわたしは〈舞踏〉の神髄を感じた。彼は「舞踏ドストエフスキー派」をつくりたいと話した。わたしは近刊予定の『ドストエフスキー罪と罰」の世界』を彼に読んでもらいたいと思った。その日は早めに帰路についた。いずれ彼とは思う存分、ドストエフスキーについて語り合いたいと思っていた。が、彼は二ヶ月もたたないうちに逝去してしまった。

 わたしは土方巽の『病める舞姫』を徹底して批評することで彼の舞踏に肉薄しようと試みた。『土方巽を読む――母性とカオスの暗黒舞踏』は平成14(2002)年7月にD文学研究会(限定50部私家版)と鳥影社より刊行した。わたしの批評活動の中で最も難産であった。非論理的な霊的インスピレーションに溢れた土方の詩的言語を批評の言葉に置き換えるには、異様なエネルギーを必要とした。この本は三年後に詩人で絵本作家、当時鳥影社に勤めていた窪田尚(文芸学科卒。現・文芸学科講師。わたしの大学院での一期生)により『暗黒舞踏論』(平成17年3月)として装いを新たに刊行された。

 合田成男は本物の批評家。「追悼 土方巽」特集のため文芸学科の特別講義で公演していただいた。公演中、教室の天井近くの窓ガラスが小刻みに震え続けていた。単なる空気による振動ではない。土方巽の霊の訪れを感じた。合田成男はこの日「皮剥ぎ」の話をした。すれ違った瞬間に全身の皮が剥がされてしまうという、出会いの恐ろしさ。北斗の拳のセリフじゃないが、殺されて二十年たっても気づかないようなひとには無縁の話。批評家の見えない刃の鋭さを、わたしは初めて感じた。

 この号の表紙絵とカットは近藤承神子に依頼、彼には14号まで力作を寄せていただいた。彼はわたしのドストエフスキー論を最初に評価し、『ドストエフスキー体験』の増補改訂版を豊島書房に紹介してくれた恩人である。彼は「るうじん」編集長時代にわたしの『分身』解釈を連載してくれたり、つげ義春滝田ゆう大友克洋石井隆などの漫画家をいち早く紹介してくれたひとでもある。彼とは小沼文彦が主宰していた「日本ドストエフスキー協会資料センター」を一緒に訪れたり、とにかくわたしの青春時にかかわった大切なひとの一人であり、わたしの依頼には惜しみのない無償の力を注いでいただいた。

 

 11号(昭和62年2月)は山形敬介の企画による「高知詩人」特集。高知在住の林嗣夫、小松弘愛、坂本稔、岡本弘、沢英彦など十四人の詩人の詩作品を掲載。編者の山形敬介は「詩人が時間を守り始めるようになったのはいつ頃からだろう。今日のぬくもりを明日に残すようになってからどれだけの時間が経っただろう。そのような時の自覚がないままに詩人が詩を書くようになって……。」と書き、日本の詩壇が忘れてならない詩人として昭和36年に三十六歳で「つぶれこんだ」大川宣純の詩「てんごう」を引用している。山形が方言を日本語にまで高めたと評価する「てんごう」の最初の一節を紹介しておこう。「あしあ/根が百姓ぢゃった/その外に能がなかった/けんど/ひょっとしたことで/みょうな女を知ってから/しょうことものう好きになった」。

 評論に中村文昭の「何んだ! 詩とは?」、今野靖人の「エラン・ヴィタールの場所をもとめて――太宰治中原中也の間――」、小柳安夫の「書かれざるノートから」などを掲載。今野は昭和61年度の卒業論文・創作「感触」副論文「『病める魂の所有者』としての文学論」で芸術学部賞を受賞。ちなみにこの年度、吉本真秀子(吉本ばなな)は創作「ムーンライトシャドウ」副論文「MAKING OF “MOONLIGHT SHADOW”」で芸術学部賞を受賞している。

 

 12号(昭和62年5月)は特集として「鼎談・ドストエフスキーの現在」を組んだ筑摩書房から個人訳『ドストエフスキー全集』で知られている小沼文彦、新潮社から『謎とき「罪と罰」』(1986年2月)を刊行した江川卓とわたしの鼎談の記録である。場所は江古田駅近くの居酒屋「和田屋」の二階、時は昭和61年11月14日。ビールを飲みながらの座談でたいへんリラックスした楽しい雰囲気の中で話がはずんだ。ドストエフスキー文学の現代性、永遠性が熱く語られた。

 わたしは編集後記に「ドストエフスキーの影響を受けた作家は世界に五万といる。だがドストエフスキーを超えた作家は未だ現われてはいない。この事実をきちんと認識した上で、われわれはペンを持たなければならない」と書いた。  わたしが小沼、江川両氏に初めて会ったのは早稲田の大隈会館で「ドストエーフスキイの会」の総会があった時である。わたしはまだ学生で、出来立ての『ドストエフスキー体験』を持参し、江川氏に一冊、小沼氏には二冊購入していただいた。お二人に対する思いはつきないが、いずれにしてもこの鼎談はドストエフスキー研究史上に残る画期的な出来事だったと自負している。

 

 13号(昭和62年10月)は山形敬介の企画で「詩人大川宣純の世界」を特集。「1925年~1961年、36年間の詩人大川宣純の無頼と時代の足跡を問う!」ということで生前に発表された詩、遺稿、小説、絵画、エッセイ、短歌、俳句、川柳などを掲載。さらに大川宣純に関する批評として岡本弘「ひとりの詩人の死」、大崎二郎「大川宣純・その稚拙の時代」、甲藤勇「放浪の詩人 大川宣純」、沢英彦「大川宣純の詩」、山形敬介編「その他の大川宣純論」を掲載。

 山形敬介はこの特集で大川宣純を〈現代〉に蘇生させようと渾身の力をしぼって取り組んだ。わたしは編集後記に「噴出する悲しみを、深く抑えて記した、大崎二郎氏の“大川宣純の回想”は胸を打つ。はてしない沈黙、はてしない沈黙が雨だれのごとく、ひとつ、またひとつと言葉を紡ぎだす。残された者たちの沈黙から重さがとれたとき、大川宣純は紛うことなき一人の詩人として生きはじめるだろう」と書いた。

 評論は清水正「死と復活の秘儀――『白痴』の世界――」、大貫虎吉「昭和三十年代の家族小説(三)――『海辺の光景』論――」、中村文昭「何んだ! 詩とは?」を掲載。  わたしは「江古田文学」に初めて評論を載せた。山形敬介と中村文昭両氏は昭和62年度に文芸学科の非常勤講師として後進の指導にあたることになった。ちなみに両氏は文芸学科の長い歴史の中で日芸出身者最初の非常勤講師である。当時の文芸学科主任に何度も働きかけ、説得した結果である。「江古田文学」を内容面で支える有力な執筆者のうちの二人を文芸学科教員スタッフに迎えたことで、「江古田文学」はより強固な地盤を獲得することになった。

 エッセイに小島良隆「坂口安吾の母と女」など七編。小島は文芸学科卒でわたしの主宰していた「ドストエフスキー狂想曲」の同人で一番弟子。二十代から三十代まで週に何回かは必ず酒を呑んでいた。現在、音信不通、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。

 14号(昭和63年5月)は中村文昭の企画による第二弾特集「詩人・山本陽子山本陽子の詩作品のほか、山本陽子論として筏丸けいこ「酒と笑う」、坂井信夫「山本陽子の〈死〉まで」など五編を掲載。  創作は山形敬介の「風儀」など四編。エッセイは米倉巌「萩原朔太郎研究のことなど」、柳澤睦郎「私の中の落語」など八編。評論は清水正「死と復活の秘儀(二)――『白痴』の世界――」、芦崎大和「『アンナ・カレーニナ』をめぐって」、内田收省「魂の光景―フリードリッヒの絵画より―」など五編。

 柳澤陸郎とは酒井幸雄の紹介で知り合った。昭和6年生、映画学科卒業の大先輩、大の落語ファンでいつお会いしても優しい笑みをたやさなかったが、相手によっては容赦のない皮肉を浴びせることもあった。最初の著書『落語つれづれ草』(1994年7月 鳥影社)のあとがきで柳澤は次のように書いている《はじめ、「江古田文学」にエッセイを書いてみないかと、お誘いいただいたのが、日大芸術学部の酒井幸雄教授でした。先生が読売新聞で健筆を揮っておられたころ、わたしの勤める池野建設株式会社の会長、社長と昵懇の間柄だったことから、私も面識をいただいていたのがご縁のはじまりでした。その後、先生が日大で教鞭をとられることになり、その卒業生である私としては、二重のご縁を感じたものでした。先生から、「江古田文学」の編集長で、ドストエフスキー宮沢賢治研究の泰斗である清水正教授にご紹介いただき、エッセイを書くようになりました。そして、「本にしたら?」とおっしゃっていただいたのが、発刊の端緒となりました》。ちなみに柳沢は平成7年より文芸学科専門講座「風俗論」を担当することになった。

 芦崎大和はわたしのゼミの学生で才能を感じさせる独自のレポートを出していた。文芸学科には天才肌の書き手がたまに現われるが、今、彼は何をしているのだろうか。

 内田收省は山形敬介と同郷・高知のいごっそう詩人である。内田は山形を追って東京に出てきたが、上京の頃は毎週、池袋の「玉淀」で「ドストエフスキー狂想曲」の同人連中を交えて呑んでいた。当時のわたしは日本酒オンリー、吐くまで呑むのが当たり前だったので、いわば壮絶な飲み会が連日五、六時間続いたことになる。書き出すときりがないのでやめておく。

近況報告 教授会・退職挨拶

三月十二日は平成三十年度最後の教授会。今年は十名ほどが教授会メンバーからはずれることになる。九名が参加。わたしが最初に挨拶することになる。十分ほど話した。「情念で綴る「江古田文学」クロニクル」でも触れたが、わたしが入学した昭和四十三年は、文芸学科合格者七十名だったが、いざ入学してみると三百名もいた。当時、日大は大学とは認められておらず、世間では日大株式会社などと言われ、石を投げればポン大生に当たるなどと揶揄されていた。授業は一回ぐらいしかできず、すぐに大学は紛争状態に入った。江古田校舎は全共闘の学生たちによって封鎖され、授業は不可能となった。わたしは江古田の段ボール工場で一時間百円のバイトにでかけ、ドストエフスキー論刊行のための資金作りに励んだ。授業がなかったおかげで自分のしたいことに全力を集中できた。学生によっては教授の影響を強く受ける者もあるだろうが、わたしはさっさと見切りをつけた。文学研究とか創作における大学教育の無力をわたしは痛感している。ドストエフスキートルストイも、否、世界的な作家はすべて独自の力で創作活動を続けたのだから、大学の教師は自分の指導に過信しないほうがいいと思っている。やる学生は放っておいてもやるし、やらない学生はいくら追い回してせっついてもやらない。自らの使命に生きるべし、その姿を学生は見て参考にすればいい。授業の回数を増やせばいいなどと思っているひとはかなり能天気である。

清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクhttps://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208で購読してください。 https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208 日芸生は江古田校舎購買部・丸善で入手出来ます。

 

清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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清水正ドストエフスキー論全集第10巻が刊行された。
清水正・ユーチューブ」でも紹介しています。ぜひご覧ください。
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清水正   情念で綴る「江古田文学」クロニクル  ――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様――

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 情念で綴る「江古田文学」クロニクル
 ――または編集後記で回顧する第二次「江古田文学」(8号~28号)人間模様――

    清水正


 序章「江古田文学」復刊まで

 昭和四十三年四月、文芸学科の入学ガイダンス時に「文藝科」という雑誌が配布された。なるほど、文芸学科ではこういった学内誌が刊行されているのだな、と妙に記憶に残っている。
 わたしは一年浪人して文芸学科を受験するため初めて江古田に降りた。北口を降りてすぐに背後から何かにつかまれたような感触を覚え、この霊的な体験をずっと不思議に思っていた。
 合格発表の掲示板には七十名ほどの受験者番号が張られていた。なるほど、文芸学科は少数精鋭の学科なのかと漠然と思い、すぐにその場を離れた。さて、入学してみると文芸学科の新入生は実に三百名近くいた。七学科全学年でいったいどれくらいの学生が在籍していたのか。狭い江古田キャンパスは学生で溢れかえっていた。渋谷駅前の混雑どころの騒ぎではない。文芸学科に限っても正規合格者七十名、補欠二百三十名である。この半端なしの営利主義はマンガを越えている。正確なことはわからないが、当時、学生間でささやかれていたのは、補欠は一次から五次まであり、一次ごとに十万円上乗せ、従って五次補欠者は五十万円上乗せ、しかもこれだけにとどまらず学部長推薦とか理事推薦もあるということだった。
 当時、巷間で、日大は日大株式会社と呼ばれており、学術研究、教育の機関と見なされてはいなかった。学生の大半は研究意欲も問題意識もなく、体育関係の部に所属する学生は大学の犬とさえ言われていた。わたしが最初に受けた大講堂での授業は、千名以上の受講生がぎっしりつまり、そのほとんどが雑談や週刊誌を読んでいた。教授の講義に熱心に耳を傾ける学生は皆無に近く、講義も単にノートを棒読みするような程度のもので、教授の独創性など微塵も感じなかった。わたしは一浪までして入学したが、日藝を最高学府としての大学とはとうてい思えなかった。まもなくして大学紛争が勃発するが、これは当然の成り行きといえよう。
入学当時、校舎は本校舎と完成した大講堂しかなく、まだ学科棟と図書館棟は完成していなかった。一般教育科目の講義は大講堂、専門科目の授業は本校舎の教室で行われた。わたしが受けた授業で記憶にあるのは三浦朱門の「演習1」と坪井一のフランス語ぐらいである。三浦朱門の授業は受講生の一人に家から大学までの道順を口頭で発表させ、次に他の受講生にその道順を黒板に書かせるものであった。言葉によって物事を正確に伝えることがどれほど難しいか、それを実際にわかりやすく説明する授業であった。「演習1」はゼミのようなもので、クラスのような役割も果たしていた。しかし、紛争前で学内はゴタゴタ続き、この授業は一回しか行われなかった。フランス語の授業で覚えているのは、講師が遅刻する学生を教室に入れさせないために入り口のドアの前に何脚かの椅子を受講生におかせたことである。要するに授業以前の体たらくであった。
 当時、文芸学科は英語の他に第二外国語としてドイツ語かフランス語を履修しなければならなかった。マンガみたいに多くの補欠者をとっていた学科で、外国語履修に厳しかったのはどういうことだろう。語学に旧制高校並の厳しさを求めたからなのであろうか。文芸学科出身者でドイツ語やフランス語で大成した者はひとりもいない。
 わたしは入学してすぐに文学クラブに入った。顧問は助手の関井光男ときいていたが、会ったことはなかった。機関誌に「『罪と罰』におけるラスコオリニコフの問題」を載せた。この機関誌は粗末な用紙をホチキスで止めたもので頁数も三十頁に満たないようなものと記憶している。新入部員歓迎会が江古田の居酒屋「和田屋」の二階で催された。先輩の大半が芸闘委に所属していたこともあり、話題はもっぱら政治のことであった。文学を話題にしない文学クラブはその後自然消滅した。文学クラブがいつ誰によって創部され、どのような活動をしてきたのか、わたしはその歴史を何も知らない。
 授業は一、二回しただけで江古田校舎は全共闘の活動家たちによって封鎖された。わたしは江古田銀座から環七を渡って十五分ほど歩いた所の段ボール工場で、時給百円のアルバイトに精を出した。大学前の路地には機動隊員が何十名も控えていた日もあったが、わたしはその前を通ってバイト先に向かった。当時のわたしは体重四十三キロ、長髪で髭を生やしており、まるで十九世紀ロシアのニヒリストのような格好をしていたが、別に尋問されるようなこともなかった。
 芸闘委の学生が大学改革や社会改革をスローガンに暴力闘争も辞さずに連日デモを繰り返していた時、わたしは真っ赤なカバー表紙の平凡社版『悪霊』を小脇にかかえ、彼らに負けぬ悶々とした情熱を胸深くに押さえ込んでバイト通いを続けた。校舎封鎖のおかげで、わたしは一年近くドストエフスキーに没頭することができた。『白痴』『悪霊』『カラマーゾフの兄弟』『罪と罰』について三百七十枚の批評を書き、それを『ドストエフスキー体験』として自費出版した。発行所は清山書房とした。学生時代、最も親しくしていた山形敬介は高知県吾川郡の出身で、高知学芸高校二年の時に『疑陽性』という詩集を刊行していた。印刷所を山形に紹介してもらったこともあり、二人の苗字の一字を取って発行所名を清山書房としたのである。山形は詩人だが、彼の詩論など聞いたことはない。彼の話題はもっぱら女で、〈女が世界〉のような男であった。
 女といえば、日芸の入学式に左隣りに座った男が、ふいに黙ったまま原稿用紙の束をわたしの眼前に置いた。「読め」ということらしい。主人公は中学生の男子。隣家の人妻と肉体関係を結ぶにいたったいきさつが描かれていた。彼とは段ボール工場で何回か顔を合わせた。彼はバイト代がたまるとトルコ(今のソープランド)に出かけた。彼はサングラスをかけた寡黙な男で、一緒にいてもほとんど何も話さない。ある日、バイトの帰り道、彼はポケットからトルコ嬢の名刺を出してわたしに見せた。「からだのつきあいから始まる愛もある」なるほど。話題を変えてわたしは聞いた「なんでおまえはいつもサングラスをかけているんだ」。「世界がいつも黄昏時にみえるからさ」――忘れようとしてもわすれられない名セリフだ。
 ちなみに、卒業を間近に控えたある日、文芸学科研究室棟前のテラスにいたわたしに静かに近づいてくる男がいた。長髪をリクルートカットにし、サングラスの代わりに透明レンズの眼鏡をかけていた彼はボソッとつぶやいた。「おれ、就職がきまったから」わたしは去っていく彼の後姿を忘れたことがない。卒論でサローヤンを書いた彼は、今頃いったい何をしているのだろうか。名前は敢えて記さない。
 一年次、ろくすっぽ授業はなかったが、単位は取れた。レポート提出という措置で切り抜けたのであろうか。大学側の事情はわからない。わたしは大学の講義(文芸の講義)は年に四回もやれば十分だと思っている。大学で自主的に学問研究・創作に励むために必要なのは自由な時間である。本を読み、映画・演劇を観、音楽を聴き、自分の頭で考え、書き、仲間と語らい、尊敬する師の指導に接することが大事である。授業の回数が多ければいいというわけではない。特に文芸の場合、一人にならなければ満足に本を読むこともできない。
 わたしはドストエフスキーについて批評し続けているが、批評の書き方を誰かに教わった訳ではない。わたしは様々なドストエフスキー論を読み、書き続けることで自分の批評の仕方を身につけた。はかり知れないマグマが内部に蓄積されていなければ、方法論など学んでも役にはたたない。持って生まれた資質と書き続ける宿命を背負っていなければ、文学などやれたものではない。
 三年浪人して文芸学科に入学、すぐに学生運動に参加、文学クラブの機関誌に「鬼瓦」一篇を発表、紛争収束後除籍処分で大学を去っていった同期生もいる。あの頃(昭和43年)は熱い政治的季節で、ゲバ棒で頭を強打され、以来、精神に異常をきたし大学をやめた幼なじみも近所にいた。
芸闘委の製作した記録映画「日大闘争」はすばらしい作品で、当時の全共闘運動の生々しい現実が伝わってくる。わたしが江古田の段ボール工場や所沢のゴム工場でバイトに精を出していた時、芸闘委の連中は必死で大学改革のために闘っていたというわけだ。
 わたしは日芸に入学して丸一年をかけ、『ドストエフスキー体験』という〈わが闘争〉の歴史を刻んだ。『地下生活者の手記』でドストエフスキーに魅入られ、『悪霊』で革命幻想を打ち砕かれていたわたしは、革命運動に身を投ずることはできなかったが、同世代の芸闘委の闘う心情は痛いほどわかる。紛争後、学生証を提示しなければ学内に入ることは許されなかった。「鬼瓦」の活動家は学生証の提示を拒み続け、やがて江古田の地から離れていった。
 一年次のクラス担任であった三浦朱門赤塚行雄と共著『さらば日本大学――バッタ派教師の見た日大紛争――』(昭和44年8月 文藝春秋)を刊行し、日芸を去っていった。日芸の文芸学科出身で助教授であった赤塚行雄とは顔を合わせることもなかったが、三浦教授とは紛争解決のために数名の有志学生が集まった居酒屋で会い、ドストエフスキーの話をしたことがある。三浦教授は酒が飲めずオレンジジュースを飲んでいた。「ドストエフスキー全集を資料室に入れましょう」と言っていたが、約束は守られなかった。
 紛争後、大学は何事もなかったかのように授業が再開された。文芸学科では昭和四十四年からゼミ雑誌が発行されることになった。わたしは二年次にアルベール・カミュを研究するゼミに、三年次にニーチェを研究するゼミに入った。
 卒業した昭和四十七年の五月にゼミ教授の推薦でティーチング・アシスタントとして文芸学科に残った。この年のある日、わたしは学科事務室で進藤純孝教授と雑談していた此経啓助助手の口から初めて「江古田文学」の存在を知った。進藤教授によれば江古田文学早稲田文学三田文学と並んで〈三〉田文学と称されてもいたとのことだった。後で『日本近代文学大事典』(全6巻 講談社)にあたったが、「江古田文学」は項目にすら入っていなかった。
 三浦教授が日芸を去ったことで文芸学科の専任はフランス語、英語、ドイツ語などの語学系の教授が主導権を握ることになった。此経啓助は助手の任期を終えるとインドへと旅立っていった。ちなみに紛争時に文芸学科の研究室に所属していた藤田勢津子助手(後に専任講師)と関井光男助手も大学を去っていた。わたしは副手になってから指導教授との折り合いが悪くなり、窓際に追い込まれた。副手時代七年の後半には辞職勧告も二度ほどあった。わたしが同期から三年遅れで助手になったのは、学内政権の移動があったからである。
 新たに文芸学科主任になった進藤教授はわたしをすぐに助手に推薦し、彼が担当するゼミを全面的にまかせてくれた。進藤教授は早速「江古田文学」復刊のために動き、わたしは一編集委員として協力することになった。復刊創刊号は昭和56年11月20日に刊行された。実に二十年ぶりの復刊である。
 ちなみに、第一次「江古田文学」は昭和25年12月15日に日本大学芸術学部江古田文学会より創刊された。創刊号後記に刊行に至る経緯などは記されておらず、詳しいことは分からないが、文芸創作に情熱を持った学生有志を中心に学内に発行所を置くことになったのであろう。発行人は創刊号と2号が山下秩光、3号と4号は田代三千稔、5号から終刊39・40号(昭和36年11月)までが神保光太郎である。
 わたしは第二次「江古田文学」創刊(1981年)から7号(1985年)まで編集委員として、8号(1985年)から28号(1995年)まで編集長として制作に関わり、29号(1996年)から50号(2004年)までの九年間は江古田文学会会長として江古田文学会の運営に関わってきた。
 今回は編集長時代のことを振り返ってみたい。編集長を引き受けてすぐにわたしは、友人知人の書き手に声をかけ協力を求めることにした。文芸学科同期の山形敬介(詩人・デザイン会社経営)、村上玄一(小説家・編集者)、後輩で学生編集者でもあった小柳安夫(学生時代にわたしの『分身』論を本格的に鋭く批評した。マンガや映画に関する批評もあった)、映画学科出身の中村文昭(詩人で宮沢賢治論や中原中也論の著作もあった)、富岡幸一郎(文芸評論家の秋山駿が担当していた「文芸批評論」を中央大学の学生時代から聴講していた)には直接会って、「江古田文学」に対する熱い思いを語り、執筆を依頼した。
江古田文学」は大学から補助金をもらって印刷製本費にあてていたので、編集費、会合費、原稿料はいっさい出せなかった。ただひたすら熱い思いをぶつけることで協力を仰いだ。彼らには何年か後に非常勤講師として文芸学科の教員スタッフに加わっていただくことになった。何かことをなすに当たって最も重要なのは、要するに〈ひと〉である。わたしは、「江古田文学」をしっかりと支えるために、まずは有能で独創的な書き手を江古田の地に結集させなければならないと考えたのである。

(以上は「江古田文学」100号に掲載予定の原稿である。刊行が遅れているので、まずは最初の箇所をここに載せる) 

「日藝ライブラリー」3号松原寛特集を読んだ「雑誌研究」受講学生のレポートを紹介

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「日藝ライブラリー」3号松原寛特集を読んだ「雑誌研究」受講学生のレポートを紹介します。

 

松原寛特集を読んでの感想

 

私たちの日常は平和なものだと、つくづく思う。
 私が大学紛争、という言葉と向き合ったのは、高橋和巳の『わが解体』を読んだ時であった。
 大学で授業をまともに聞く機会もなく、時には命を落とす程の戦いが行われたことなど、その本を読むまでは考えたこともなかったし、実際に現在には一遍も、その跡が残っていないと思う。
 平和ボケな私たちは、平和ボケしたまま、過去にどのような歴史が繰り広げたのかなど、呑気に何も考えず、ただこの日本大学芸術学部という空の箱に通い、そこで「芸術」の薄っぺらい言葉の上澄みだけをすすって、卒業後に「芸術をかじっていた」というつまらない大人になる将来を考えると、暗い気持ちになったのを覚えている。
 そのくらい私たちには「これでなければだめ」という熱意をかけられないほどの、のっぺりとした平和と、無駄なほどの将来への不安を抱いているのだと思う。これがつくづく馬鹿げたことであるというのは、私自身分かっているし、これが「現代病」と言われるのも、それはそれで平和ボケが一層増していることを理解していない世間もあほらしいと思ってしまう。
 人間が、追い詰められたときでなければ力を発揮しないというのは、この3年間で痛いほど痛感した。私たちは「課題」をやりに来たためにこの大学に入ったわけではないのに、いつの間にか目的を見失っていることすら忘れている。「通学」することが第一目的となってしまって、授業中には睡眠時間となっているのだから滑稽だ。そうして4年生になって、いよいよ最後というところにくると、何かを得なければならない、と焦りだすのだ。
 私がそんな平和ボケした現実から目が覚めたのは、坂口安吾の『不良少年とキリスト』を読んだためであった。
 彼の小説はもともと好きであったし、作品から読み取れる、どことなく感じるほの暗さや、心の空白感に惹かれているのには気づいていた。しかし、それにすべてをかけられるほどの強い情熱を感じるかというと、そうではなかった。
 『夜長姫と耳男』を読んで、この人は誰かに恋い焦がれたまま終わってしまった人なのだろうな、と思い、史実を調べたのが、今を思うと始まりだったのかもしれない。そこで矢田津世子という女性が彼の作品の背景にいることを知った。
「現実は小説よりも奇なり」。その言葉は、実際正しいと思う。小説のお手本のような文を書く志賀直哉は、山の手線に自転車でぶつかってもほぼ無傷であった男だし、坂口安吾は薬物にやられてカレーを百人前頼んだ。小説よりも、現実の方がよほど面白いし、恥であるのだ。
太宰治の恥は、彼らに比べてよほどこじれていた。その拗れ具合が、「青春の文学」などと言われて持ち上げられているのだから、もしかしたら恥は買ってでもするべきなのかもしれない。
 坂口安吾は、彼の恥と、同時にその人間性をよく捉えていた。だから、故人について書かれていた『不良少年とキリスト』を読んでも、それは決して同情の表情もみられなかったし、彼に純粋に「生きて」いて欲しかったことが伝わってきたのだろう。
 『日藝ライブラリー』の8ページ目を読んで、「負けないという言葉は坂口安吾から譲り受けた。」という文は、この『不良少年とキリスト』の「負けぬとは、戦う、ということです。それ以外に、勝負など、ありやせぬ。戦っていれば、負けないのです。決して、勝てないのです。人間は、決して、勝ちません。たゞ、負けないのだ。」のことだと思った。
 私は、生きるという戦いに負けた、太宰の弱さを、安吾の作品から学んだ。そしてその時初めて私は、この平和ボケした世界で生きようと、(それは生命の意味と、精神的な意味の二つの意味である)彼の文学や背景をきちんと学ぼうと思ったのである。

 私は演劇学科に所属しているが、この大学は割と放任主義であると思う。他学科公開の授業もそこそこ多いし、ゼミナールも、きちんと話せば違う学科の教授に教えて貰うこともできる。一つの学科に所属しているはずなのに、1年間の単位の半分は他学科に費やすこともできてしまう。何を学ぶかは、個人の自由なのだ。
 しかし反対に厳しい面もある。演劇学科は映画学科に比べ、きちんと申請しようとしても、授業外では絶対に機材を使わせてもらえない。使えるのは「教室」、たったこれだけなのである。
 私たち演劇学科はその制約に悩み、怒り、二年生になる頃には大学に匙を投げたものもいた。しかし、松原寛の「苦悶の叫びこそ芸術ではないでしょうか。」「真に生きんとするならば、其処に苦悩があり、其処に苦悶がある、此の苦しみを描くところにこそ、真の芸術が生まれるのである。」という言葉を目にし、この苦悩の二年間が救われた気がした。(きっと彼のこの文はそのような意味ではないと思うが)
 私は、芸術とは、傷を負ったことのある人間しかつくりだすことの出来ないものだと思っている。
 先生も初めに本の中で述べている「失恋の痛手」というのも、これの中に入ると思っている。そしてそれが一番分かりやすい例だと思う。
 何かを失い、それの穴を懸命に埋めようとする。しかし、全く同じものなどもう手に入らないのだから、どうやっても心の空白は埋まらない――その、それぞれがもつトラウマや、悲しみが具現化したものが芸術なのではないかと、私は思うのだ。
 私たちがこの学生生活で体感した制約も、現時点で、松原寛の言うような「叫び」となっている。その葛藤が、いつかは芸術に昇華できるのだろうかと、私はひそかに、淡い期待を抱いている。(2246文字)

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船木 拓馬 日藝の大蛇路 ~日藝ライブラリーNo.3 「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」清水正 を読んで~

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日藝の大蛇路
~日藝ライブラリーNo.3
「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」清水正 を読んで~


船木 拓馬


 「歴史に名前を刻むほどの文学者、芸術家は、その本質を処女作においてすでに表出していると言われる。ドストエフスキーで言えば、処女作『貧しき人々』は最晩年の作品『カラマーゾフの兄弟』に直結しているということだ。その意味で松原寛の「若き哲人の苦悶」は若書きの熱狂と過度のロマンチシズムに溢れかえっている文章だが、ここに彼が生涯に渡って煩悶し続けた哲学、宗教、芸術の問題が一つの壷に凝集していることに間違いはない。このいわば、ニーチェ風に言えば、大いなるディオニュソス的混沌(カオス)の坩堝から、熱く燃えさかる火と恐るべき噴煙を挙げて大量の溶岩群が噴出し、日大芸術学部創設に至る一本の確固たる大路となったのである。」(157)

 はたして、いまの日本大学藝術学部に松原寛の処女作より流れ出でた大路は続いているだろうか。しかり、ただし細々と、だがけっして絶えることなく続いてきた大路である。この大路はもはや地下水脈とでもいうべきであろう。
 いかに地下水脈とはいえ枯れるものは枯れる。ほとんど枯れかけのこの苦悶の血に滲んだ流れは、ふたたび鮮血としてよみがえり奔流しようとしている。きっかけはときの日本大学藝術学部図書館長が病室で「松原寛との運命的な邂逅」を果たしたことにはじまる、いや、それはある一人の青年が昭和四十三年三月一日に江古田の地に初めて降立ち、日藝校舎に向かう途中で突然背中がゾッとした、その瞬間であったかもしれない。
 日藝ライブラリーNo.3「特集 松原寛」の刊行に寄せての序文の見出しにはこう書いてある―日芸魂の源流と、その発展継承―「その発展継承」の文字を見逃してはならない。まずそのためには源流がおぼつかなくては話がはじまらない。ここに「特集 松原寛」および清水正による松原寛批評がある。
 広げた大風呂敷は、日藝ライブラリーNo.3というわれわれに残された遺産にあたってもらうとして(そこで私がけして大風呂敷を広げたのではないことはおのづから判明しよう、)ここではひとりの日藝生として、清水正による「松原寛の生活と哲学を巡る実存的検証」について書いて行きたい。

 恩を着せるつもりではないのだが、清水正がいなければ、私は日藝に入ったことをのちのち後悔する羽目になっていた。私は日藝に小説を書くために入った。私はそのための時間を欲した。高校卒業後、無職で週五六日、一日十時間ひたすらアルバイトをしていたが、静脈瘤をわずらい、その手術・入院費の額をみて、このままバイト暮らしでは生きてゆかれないと思った。病気になったときの保証などなく、いっきに収入ゼロの人間になってしまう。
 両親および祖父母には、大学に行くなら金銭援助をしてもいいといわれた。バイト暮らしの中では、思うように執筆ができなかった。なにより、ドストエフスキーを読むかたわら、バイト先の人々と人間関係を保っていることが当時の私には非常にむつかしかった。
 私のアルバイト先は人間関係の濃厚な場所であった。そこをまとめていた店長、社員の人、それから先輩、同期後輩と、その人たちにはいまだに頭があがらない。十年に渡る恋の破局によって〈死の谷〉にいた私が再び立ち直ったのもほとんどその人たちのおかげであるといっていい。私はそこで更正していった。社会の入口まで連れ戻してもらった。そのためにかなりの迷惑をかけもした。そこでの恋愛事件もあった。私が四度目(二人目の)大きな失恋に遭ったのは、先の静脈瘤のための入院当日の朝であった。文字通り、身も心もズタズタになったまま、ひとり病院の門を叩いた。
 結果的に静脈瘤とは判ったものの、手術を終えるまで、医者からは悪性のガンであることを覚悟したほうがいいと、両親ともどもいわれていた。私自身、ああこれで自分は死ぬのだなと思っていた。
 死ぬ前の最後の望みの恋(それは甘えでしかなかったのであるが、)も絶たれた。病床にはなぜか、私を拒絶した人がもう一人のバイト先の先輩と一緒に訪れた。ぎこちない会話のあと、すぐに行ってしまった。ほんの小さな救いの時間であったが、直後にもっと深い絶望に私をおとしこむ最後の一撃でもあった。まさに女のおそろしさである。ドストエフスキーを読んでいたから、当時の私にも振った男の病室に訪れる女の、意識無意識がそれとなくわかった。死ぬ間際に、ちょっとしたドストエフスキー体験をしたぞ、となんだか笑いたくもなった。
 手術の後、一ヶ月してようやく動けるようになった。私は生き永えた。すぐに三月になった。そのときたまたま高校の後輩に日藝を勧められた。その日が願書提出の締切日であったから、そのまま江古田の地に赴き、届を出した。これで受かったら、私の人生は書くことにきめてしまおうと思った。いやその前に、悪性のガンでなかったと判った時点で、人生あとは書くだけだときめていた。すべてが必然であり、私はなおかつそのなかで自分はどこまでも自由であると思った。
 そして四月、さらなる必然は、文芸特殊研究Ⅲにおける清水正とその批評との出会いである。入学前から私の核はドストエフスキー宮沢賢治であった。この二人が己の文学の双北極星であること、また自分の書くものにもそれなりの自恃があった。その自恃は清水正をまえにことごとく打ち壊されることになる。
 そこから先の詳細な経緯は、ここでは省くことにする。とにかく私は、清水正批評をまえに自分が書けなくなってしまっては困ると、迂路をとることにした。私は、あえて清水正とは距離をとって自分の創作に没頭した。一年半かけて長篇小説に挑んでいたが、そこでドストエフスキーの壁にぶつかった。私はやはり自分は徹底的にドストエフスキーに向かわねばならないことに気がついた。三月にドストエフスキー作品を読み返すのと同時に、手元に置いてあった清水正の「停止した分裂者の覚書」と「宮沢賢治論全集1」を読んだ。機は熟した。ドストエフスキー清水正を読んで思ったことは「これ以上書いて何になる?」ということであった。私は、七百枚の小説原稿を一旦しまい、三年次は清水正ドストエフスキー全集をとりあえずすべて読むこと、それから先生の授業を受けることに決めた。私のこのとき、ようやく日藝生になった気がした。それまでは、ただ小説を書くために都合で大学にいる人間のつもりでいた。

 話はようやく「松原寛との運命的な邂逅」「苦悶の哲人・松原寛」である。僭越ながら私はこれを、清水正批評のひとつの到達点であると思う。あくまでドストエフスキー論全集十巻を残すところ二巻の未熟な一読者としての意見ではある。
 ここでは松原寛についてと断っておきながら、清水正の幼少期、学生・教授時代、家族、我孫子の風景、それから志賀直哉三島由紀夫ニーチェ、イエス、いうまでもなくドストエフスキー宮沢賢治、とこれまでの清水正ネジ式螺旋批評の縮図ともいうべきものが展開されている。螺旋の糸はそれらすべてを的確に貫き、大曼荼羅を描くに至る。未読のひとには、これを清水正批評の入門書として勧めたくなるくらいだ。私は、どうしてここに清水正批評のひとつの到達点がマークされるに至ったかの理由に、松原寛と清水正の「運命の邂逅」を思わずにいられない。

「松原寛の著作を読んでいると、哲学書の中にも、母、父、子供、友人について語っている。松原寛はそれこそ自在に著書の中であちこち歩き回って、しかも全体のまとまりを崩さない巧みな編集感覚を備えていて、ぐんぐんと読者を松原寛ワールドへと引き込んでいく。」(182)

「彼の著作は、チャンコ鍋のように具が豊富で、崇高なるものも俗なるものも、古今東西の哲学者も家族の者も同等の価値を備えた、かけがえのない〈具〉として熱湯鍋の坩堝の中に投げ込まれている。あわてて口にするとどれも火傷するように煮詰められている。」(165)

 これらはそのまま、清水正批評にもあてはまる。ただ、この書き方の共通項だけでは「運命の邂逅」とまではいえない。「運命の邂逅」というのは「その発展継承」に掛かっている。清水正の松原寛批評がおそろしいというのもこの点にある。

 松原寛は、信仰と科学的理性の水と油の相克に生涯かけて苦悶した。

「松原寛の思索のうねりは一義的、直線的に目的地に着くことはない。蛇が全身をくねらせながら前方へ進むしかないように、松原寛の思索もまた蠕動的であり、それは彼の全身全霊を賭した止みがたき精神運動なのである。彼の文章には、彼の惑い、煩悶の血潮が漲っており、一義の結論に至ったその時には、すでに懐疑の芽が息吹いている。」(161)

「松原寛は思弁展開の上では肯定―否定を限りなく旋回する。松原寛はその烈しい活火山的な蛇行によって対象を一気に呑み込むということはない。最初は尊敬の眼差しで近づき、次に優しく全身でからみつき、やがてそれは抱擁から締め付けに変わり、相手が失神すると頭から一気に呑み込んでしまう。そして次なる獲物へと向かって蛇行し続ける。」(192)

 なぜ松原寛は懐疑し蛇行し続けるのか。そこには〈論理の悲しみ〉がある。以下は清水正の批評からの松原寛『生活の哲学』の孫引である。(括弧内筆者による註―清水正批評からの引用)

「(神を論理的に根拠づけたいとしながら、)覚り得たのが『理屈を去れ』の一語であるとは云うもののその実践ができなかった。今一歩と云う処まで来て居ながら畢竟は信仰生活のルンペンにすぎなかった(259~260)」(196)

 この境地に、いったい何人の人間が辿りつくことができるであろうか。松原寛の〈論理のかなしみ〉という言葉のもつ悲哀の波動がこれを書く私の手をふるわせる。同じポメラワープロ機)で書いているが、清水正の筆はそこから先もいっさいの躊躇することを知らず、松原寛のかなしみにこれでもかといったくらい照明を当て続ける。松原寛は、最後の著作『親鸞の哲学』においても彼の蛇行に終点を見出だすことができずに、その生涯を終えたと清水正はいう。まるで大蛇を食らう龍のごとくである。そして最後に批評家は「彼は日本大学芸術学部創設者として精力的に活動した稀にみる行動する哲学者であったが、その精神世界においては終生変わらぬ煩悶し求道する哲学者であったと言えようか。」と書き、病室でひとりポメラを閉じる。

 清水正は十代半ば前にすでに〈まっしろな虚無〉に行き着いたという。けっして同じとはいわないが私にはそのことが分からないでもない。私も遅れること十七歳のときに「存在が存在として存在するあるがままの宇宙」に出会っている。たしかにそこはまっしろのようであった。私はそれを愛ではないか思った。宇宙がすべて愛に満たされれば、それは無と同じである。そのとき、有はなく、すなはち無もない。存在が存在として存在しているだけである。そしてそれはこのような言葉ではなく、体感として味わわれたものである。むろんその時間は継続しない。気がついた時には、何も変わらない孤独な現実が目の前にある。
 いま私は清水正の〈まっしろな虚無〉にたいして、私がそのとき出会った虚無は弱いと感じている。私は無限を永遠と取り違えただけである。松原寛の終わらない無限の螺旋運動に対する清水正の目線は永遠のそれと同じである。私は清水正の松原寛批評を読み終えたとき、その永遠の眼差しを感じた。より強き愛は弱きものの眼にはつねにしばし冷徹として映る。
 私は、清水正を前にするといつも思う、〈まっしろな虚無〉を抱える人間を、これほどまでに突き動かしているものとはいったいなんなのだろう、と。不断の神経痛と戦いながらも、その筆は止まることを知らない。昨年(2018年)は十年に渡る林芙美子論を完結させ、いま氏はふたたび『罪と罰』に向かおうとしている。私は授業で清水正にこう質問した。「先生は、〈まっしろな虚無〉を抱えるピョートル(『悪霊』)をあそこまで突き動かすものはいったい何だと思いますか」
 この質問に対する清水正の答によって、私は松原寛の処女作よりはじまる日藝の大路に貫かれることになる。
「より大きな虚無を抱える人間ほど、神の聲を近くにきくことができるのだよ」


追記 「松原寛との運命的邂逅」における清水正の父との泥鰌釣りの文章、我孫子の描写を読んでない方は一度読まれるべし。あまりに批評の外からはみ出し、小説家その他の風景・人間描写をしのいでいるといわざるを得ない。

 

オカルト研究家の寺井広樹氏のインタビューを研究室で受ける。

近況報告

25日金曜日は山下聖美ゼミ学生四人の卒論面接審査。終わって午後四時過ぎ、『日野日出志 泣ける! 怪奇漫画集』(2018年5月9日 イカロス出版)の編著者でオカルト研究家の寺井広樹氏のインタビューを研究室で受ける。寺尾氏は日野日出志の関係者や友人にインタビューした映像作品を作製するとのこと。30分ほど日野日出志の代表作『蔵六の奇病』の本源的なテーマ、その永遠性について語る。この模様は「清水正チャンネル」の「日野日出志の魅力を語る」で発信してある。https://www.youtube.com/watch?v=jhG9NjO3_s8

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寺井広樹氏と記念撮影 2019-1-25

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大泉 淵 清水先生と父、大泉黒石の思い出

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大泉淵さんが日芸文芸学科に来訪。山下聖美研究室で撮影。2018年11月23日。

ドストエフスキー曼陀羅」特別号から紹介します。

 

清水先生と父、大泉黒石の思い出
大泉  淵

 

清水先生が今年度で、教授をご退官なされると伺いまし た。びっくりしました。
 
実に残念で、淋しいです。
 
先生に初めてお目にかかったのは、私の住んでいます鎌倉 にお出でになった時です。駅でお待ちしていましたら、芸術 家の雰囲気の素敵な先生がいらっしゃいました。
 
以来、林芙美子生誕百十周年を記念する催しに出席した り、図書館をご案内していただいたりと、お世話になりまし た。ゆったりとした部屋にいる学生の方々は、幸せいっぱ い、という感じを受けました。
 
日芸図書館では、何と私の父・大泉黒石についての展示も 開催してくださいました。ロシア人の祖父の写真や全集など も展示されていて、びっくりするとともに、清水先生のご配慮に感謝するばかりでした。
 
山下先生のお部屋で学生さんが入れてくださったお茶を飲 みながら、和気藹々と楽しい時間を過ごされていた清水先 生。そのようなイメージの中の先生しか、実は知らないの で、「ドストエフスキー論執筆五〇周年」という偉業をなさ れたことに驚異を感じるばかりです。
 
今、行きつ戻りつしながら、「清水正ドストエフスキー 論全集」第八巻を読ませていただいていますが、読みなが ら、実際の人間関係にも難しい事があり、愛情があるため に、無いために、やりきれないことがある、というようなこ とを考えています。
 
私は、父のことを思い出しました。父の友人がみえたりし ますと、その方に愛想良く接する母に対して、父は「色目をつかった」などと言い、そこから夫婦喧嘩が始まるのでし た。そういう時は、滉兄が交番に走って行きます。「おまわ りさん」は自転車でやって来て「先生、まあまあ」と笑いな がら父をなだめるのですが、「おまわりさん」が帰った後に は、「おまわりを呼びに行ったのは誰だ」と始まるのでした。 逃げ足の速い兄はとっくにいません。離婚に反対する子供達 はいませんでした。
 
母も清々した顔をしていました。
 
父は近くに部屋を借りて住んでいました。ある時、父の部 屋の掃除に行く途中、ちょっと寄る所があるので一緒にと言 われて行った所には、女性が一人で住んでいました。それま で女性との事件は全然無い父でしたが、いつの間にかその女 性と一緒に居る様になっていました。
 
それから半年位経って、父は時々、私達の自宅に戻ってく るようになりました。私にとっては、父ですからむげには出 来ませんし、その頃には父は全くおとなしくなって、母の方 が威張っているくらいでした。
 
父母の話は尽きませんが、清水先生の本は、父母につい て、男と女について、そして人間というものについて、しみ じみと思いにふける時間を私に与えてくださるのです。
(おおいずみ・えん   大泉黒石氏の四女)