清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載44


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載44

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

ワーニャとロジオン

――《神の体現者》である国民を巡って――

 

 ワーニャは言う「ぼくは信じている。わが国の民衆は神の民であり、彼らのうちには愛があり、キリストは彼らとともにあると。ぼくらの言葉ーーそれは、主よ来たれ! という復活の言葉だ」。この熱狂的な信仰の言葉が発せられた直後に「……ぼくらは信仰うすく、子供のように弱い、だから剣をとるのだ。力があるからではなく、恐怖と弱さのためだ」と続く。ワーニャの信仰は不断に揺らいで、今をキリストと共に歩むことができない。〈信仰〉は〈恐怖〉と〈弱さ〉を克服できず、〈愛〉の代わりに〈剣〉を握ってしまう。これは自己弁解、自己正当化であって、神と共に歩む者の言葉ではない。神に逆らい、神から逃亡しているにもかかわらず、神と共にある事を願う天の邪鬼の言葉である。自分の信仰のうすさを、恐怖と弱さで弁解し、しかもその地点にとどまる卑怯を自らの苦悩で精算しようする二重の卑怯にまみれている。

 ワーニャは自分たちとは違った〈清純な人びと〉がやってくる〈あす〉に期待をつなげている。「彼らは剣を必要としない。なぜなら、彼らは強いのだから。彼らがやってくるよりもまえに、ぼくらは死ぬだろう。子供たちのそのまた孫たちは、神を愛し、神のうちに生き、キリストを讃えるだろう。新しい世界が彼らにひらけ、ぼくらが見ることのできないものを、彼らはそこに見いだすだろう」――いったいワーニャは本気で〈新しい世界〉の到来を信じていたのだろうか。〈剣〉を持たずにはおれなかった弱い人間の後に、〈剣を必要としない〉で神を愛する事のできる人間が現れるのであろうか。これはひ弱い人間の頭脳が描いた現実離れした空想ではないのか。ワーニャがもしその新しい世界の到来を本気で望むのなら、今すぐに剣を捨てて彼自らが神を愛し、神のうちに生きるほかはない。 未来の強い人間に期待すること自体が間違っている。剣を捨てることができないのであるなら、ジョージの言う通り「そんなことはみな言葉にすぎぬ」のである。

 ワーニャは依然として〈言葉〉の世界に生きている。が、ジョージは言葉ではなく、行動に生きている。ドストエフスキーの地下男は毒念を込めて「バカばかりが行動できるのだ」と言った。まさにジョージは地下男の言う〈バカ〉であり、正真正銘の〈バカ〉である。このテロリストのバカはドストエフスキーの作品を読んだうえで〈行動家〉になっているだけに最強のバカと言える。ジョージは、地下男の饒舌など一発の銃弾で沈黙させてしまうことができるのである。

 

 ワーニャは言う「こう思うんだ、鎖は断ちきれない。ぼくには出口がない、逃げ道がないと。殺人にくわわっているのに福音を信じ、キリストに祈っている。ぼくは苦しい、苦しいのだ……」(51)

 ーーДа вот,слушай:цепь неразрывная.Нет мне выхода,нет исхода.Иду убивать,а сам в Слово верю,поклоняюсь Христу.Больно мне,больно…(30)

 

 ロジオンは苦しんでいる。まるで万人の罪を背負って十字架にかけられたイエスのように苦しんでいる。ロジオンはソーニャにひれ伏して言う「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない。人類のすべての苦悩の前にひざまずいたんだ」(中・275)「Я не тебе покленился,я всему страданию человеческому поклонился,」(ア・246)

 

  このロジオンの言葉をどう解したらいいのだろうか。ロジオンは人類の〈すべての苦悩〉の前にひざまずいているのだと言う。ロジオンはこのとき、自分が斧でたたき殺してしまった二人の女性のことをどう思っていたのであろう。

 かつてわたしはロジオンのこの言葉に深く共鳴したものだ。が、今のわたしは共鳴することはできない。ロジオンよ、人類のすべての苦悩の前にひざまずく前に、自分が殺した二人の女の〈苦悩〉の前にひれふすのが先だろう、と思う。なぜロジオンにはそれができないのだろうか。

 ロジオンは、今、自分の前にいる、一家の犠牲となって黄色い鑑札で暮らしをたてている、ひとりの貧しく虚弱な娘の苦悩の前にひざまずくことができないのか。否、ロジオンは確かにソーニャの前にひれ伏した。ならば、その事実を素直に認めるべきで、「ぼくはきみにひざまずいたんじゃない」などと小癪なセリフを吐くべきではないのだ。

 ロジオンは自分を〈卑劣漢〉(подлец)と見なしているが、その卑劣の実相を具体的にイメージすることきわめて少なかった犯罪者である。『おれは二人の女を殺しておきながら、人類のすべての苦悩の前にひざまずいているなどというセリフを口にしている。なんてこった、こんなくだらない、卑怯者がいるだろうか』ーーロジオンがきれいごとを口にする場合は、自分の卑劣を意識の奥底に隠し込んで、意識の表層に浮上させることはない。ロジオンはソーニャに冤罪事件を仕掛けたその卑劣を告発し弾劾する資格はない。しかし、ロジオンはレベジャートニコフの証言によって、ルージンの仕掛けが誰の目にも明らかになった時点で、ルージンを厳しく追いつめるのだ。ロジオンが、ルージンを激しく責めるそのとき、彼の意識に自らの〈犯罪〉が浮上することはない。

 ロジオンは他人の卑劣は堂々と非難できても、自らの〈犯罪〉を告発し断罪することはできない。ここにロジオンの二重の卑劣がある。ロジオンは自分の〈犯罪〉は正当化するが、ルージンの犯罪に対しては容赦なく断罪する青年なのである。

 ワーニャはその意味ではロジオンのもつ卑劣はない。ワーニャは「殺人にくわわっているのに福音を信じ、キリストに祈っている」その矛盾を自分にも他者の前にも容赦なく晒し、いたく苦しんでいる。ワーニャの言う「ぼくは苦しい、苦しいのだ…」(Больно мне,больно…)の〈苦しい〉は観念上の苦しみではなく生理的次元での痛みを伴った苦しみなのである。

 もう一度引こう。ワーニャは言う。

 

 「ぼくは信じている。わが国の民衆は神の民であり、彼らのうちには愛があり、キリストは彼らとともにあると」(50)「Верю:наш народ,народ Божий,в нем любовь,с ним Христос.」(29)

 

 シャートフはニコライ・スタヴローギン相手に次のように言う。

「ご存じですか、いまこの地上で、新しい神の名において世界を一新し、救うべき使命をもつ唯一の国民、生命と新しい言葉の鍵を与えられている唯一《神の体得者》である国民は誰であるのか……その国民がだれで、その名は何であるか、ご存じですか?」(上・387~388)「знаете ли вы,кто теперь на всей земле единственный народ-《богоносец》,грядущий обновить и спасти мир именем нового бога и кому единому даны ключи жизни и нового слова…Знаете ли выы,кто этот народ и как эму имя?」(ア196)

 

「《神の体得者》である唯一の国民ーーそれはロシア国民です」(上・396)「Единый народ-《богоносец》ーーэто русский народ,」(ア200)

 

 ワーニャがシャートフの思想(かつてニコライ・スタヴローギンが抱いていた思想)を受け継いだ人物であることは明白である。さらにワーニャはシャートフの揺らぎも受け継いでいる。シャートフの揺らぎが最も端的に出ている場面を見ておこう。次に引用するのはニコライ・スタヴローギンがシャートフに向かって「ぼくはただ、きみ自身が神を信じているのかどうか知りたいだけなんです」と迫った直後の二人のやりとりである。

 

  「ぼくはロシアを信じてます、その正教を信じてます……ぼくはキリストの肉体を信じてます……ぼくは新しい降臨がロシアで行われると信じてます……ぼくは信じてます……」シャートフは興奮に舌をもつらせた。

 「で、神は? 神は?」

 「ぼくは……ぼくは神を信ずることになるでしょう」

  スタヴローギンの顔では筋肉一本びくりともしなかった。シャートフは、自分の眼差しで相手を焼きつくそうとでもするように、燃えるような、挑むような目で相手を見つめた。(上・397)

  ーЯ верую в Россию,я верую в ее православие…Я верую в тело Христово…Я верую,что новое пришествие совершится в России…Я верую…ーзалепетал в исступлении Шатов.

  ーА в бога? В бога?

 ーЯ…я буду веровать в бога.

  Ни один мускул не двинулся в лице Ставрогина.Шатов пламенно,с вызовом смотрел на него,точно сжечь хотел его своим взглядом.(ア・200~201)

以上「藝文攷」22号連載6(2017年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載43


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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載43

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

ロジオンの〈苦しみ〉とワーニャの〈苦しみ〉

 

 問題はロジオンの〈苦しみ〉がどこから生じているのかである。〈人殺し〉(преступление)に〈罪〉(грех)の意識を感じないのに、なぜロジオンは苦しんでいるのか。ロジオンは革命家として〈殺人〉を容認しているのではない。もし彼が革命組織の一員として殺人行為をなしていたなら、その苦しみの質は違ったものであったろう。ロジオンの苦しみは、まず第一に彼の〈犯罪〉を堂々と公にできず、隠し通しておかなければならなかったことによる。自分をナポレオンに擬した〈踏み越え〉も、社会の側からすれば単なる犯罪にすぎない。彼の〈踏み越え〉は社会的な発展性へと結びつかない。老婆アリョーナ殺しやリザヴェータ殺しで、革命の機運が高まるわけもない。ロジオンの〈踏み越え〉は孤独で傲慢な〈唯一者〉気取りの軽薄な〈一人の若者〉が蒸し暑い真夏の夜に犯した殺人強盗にしか過ぎない。将来の見通しを欠いた殺人事件は、しかしロジオン一人にその責を問うことはできない。

 ロジオンはオイディプスと同様に、定められた運命から逃れられない。ただしオイディプスの場合、アポロンの神が予め彼に呪われた運命を告げるが、ロジオンの場合は彼に〈踏み越え〉を告げるものはいない。ロジオンの場合、踏み越えるかどうかは、彼自身の意志に委ねられていた。ロジオンに〈アポロンの神〉は存在しなかった。しかし、〈アポロンの神〉と名付けられた神ではない、なにか得体の知れない神秘的でデモーニッシュな力の作用が働いたことは確かであった。敢えて名付ければダイモーンがロジオンの〈踏み越え〉に或る絶対的な力を加えている。ロジオンは自分の意志ではどうすることもできない神秘的な力によって動かされている。

 オイディプスの場合もロジオンの場合も、彼らの意志を〈神〉(ダイモーン)が神秘的な力を働かせて支配しているような感じを抱かせる。彼らは強大な自己意識の持ち主でありながら、その意識を超えた力の作用を拒むことができなかった。〈神〉は傲慢な人間の意識や情念にすら激しい揺さぶりをかけて、容赦なく人格解体の危機に陥れる。ロジオンの場合は、ソーニャを媒介にして復活の曙光に輝く更正の途が用意されたが、オイディプスの場合は両目を潰すことで〈運命〉との戦いを断念していない。

 ロジオンの復活に多大な力を貸しているのは作者である。作者は、ロジオンが〈弁証〉(диалектика)の代わりに〈生活〉(жизнь)が到来したことを告げ、あたかもそれが絶対であるかのようにペンを置いた。が、わたしはロジオンの性格は絶え間のない分裂にこそあると思っている。〈弁証〉と〈生活〉の間を大きく揺れ続けるのがロジオンの逃れがたい宿命だったのではないかと思う。

  ワーニャは復活の曙光に輝くロジオンから出立していない。ワーニャは分裂のただ中で苦しむロジオンを継承している。ドストエフスキーの人物たちは〈弁証〉によってよりよきものを目指し達成することができるという楽観とは無縁である。ロジオンの〈弁証〉は〈不信と懐疑〉の渦潮に揉まれに揉まれて出口を見いだすことができない。ワーニャはヨーロッパが世界に向けて発した二つの偉大な言葉〈自由〉と〈社会主義〉をすでに信じてはいない。ワーニャは無制限の自由から出発して無制限の独裁に至るシガリョフ理論を知っている。今さら、〈自由〉や〈社会主義〉のために命をかけることはできない。にもかかわらず、ワーニャはテロリストであることから逃れることができない。ワーニャは不断に懐疑するテロリストであり、キリストの愛を渇望している。はたしてワーニャは、娼婦でありながら、キリストが〈復活〉(воскресение)であり〈命〉(жизнь)であることを信じていたソーニャと同等の信仰を得ていたのであろうか。

 ドストエフスキーはソーニャが抱え込んでいた苦しみを彼女自らの口から語らせることもなかったし、〈作者〉に代弁させることもなかった。ソーニャの苦しみは言葉によっては表現できない。言葉に出したらすべては滑稽なことに化してしまう。マルメラードフの告白は、名人落語家の噺にも昇華されるが、恥知らずの与太話ともなって聴衆の嘲笑を買うことになる。ソーニャの苦しみは、彼女がいつも両手を揉みしだいているような仕草から直接的に体感するほかはない。

 ワーニャの苦しみは、彼が発する言葉自体に体現されている。キリストの言葉に反しながら、キリストに従おうとする、その矛盾自体をワーニャは生きている。この矛盾の渦に巻き込まれてしえば、発狂でもするしかないが、ワーニャは神と愛の名のもとに革命が行われているのだという一本の藁にしがみつく。この一本の藁を信じることはもちろん〈弁証〉ではなく〈信仰〉である。

 ワーニャにおいて〈革命〉は〈信仰〉であり〈愛〉となっている。が、そのことをジョージ相手に口に出さずにはおれないところに、ワーニャの揺らぎが見える。ソーニャとの違いはここにある。ソーニャの信仰に揺らぎはない。ソーニャは神の名において、愛の名において自分が娼婦に身を落としたことを正当化したことはない。ソーニャは自分が苦しんでいることさえ口にしない。ソーニャが抱えた苦しみはロジオンの苦しみを大きく包み込む力を持っている。ソーニャの苦しみは信仰によって支えられている。

 ロジオンはポルフィーリイ予審判事の前で、驚くほどはっきりと神を信じ、ラザロの復活も文字通り信じていると断言しているが、それは観念的な次元での、口先上の〈信仰〉であって、ソーニャの信仰とは全く性格を異にしている。ロジオンは〈神〉や〈ラザロの復活〉を口にするときにも〈弁証〉の域にとどまっていた。ワーニャが口にする〈神〉〈愛〉もまた〈弁証〉の域を脱していない。

以上「藝文攷」22号連載6(2017年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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(連載42

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

ワーニャとソーニャ

――マルメラードフの告白に関連して―

 

 『罪と罰』のカチェリーナ・イワーノヴナや『カラマーゾフの兄弟』のイワン・カラマーゾフは、この地上世界のどこに〈真理・正義・公平〉(справедливость)が体現されているのかと、烈しく神に抗議する。二人に限らず、ドストエフスキーの人神論者たちは例外なく地上世界の不条理を前面に押し出すことで、神を告発する。

 ところで、彼らの言う不条理は、自然の摂理の内に包摂されれば条理以外のなにものでもない。〈真理〉とはすべてがあるがままにある状態の謂いである。人間を特別視する視点から地上世界を見たときに〈不条理〉が発見されるのであって、自然をあるがままの自然と見れば、すべては全一的に完璧である。不平不満を漏らす者、神に抗議し反逆する者を含め、世界は微塵の矛盾もなく完全である。この完全を真理というのであって、おそらくワーニャが求めている〈真理〉はカチェリーナやイワンの域を一歩も出ていない。人間もまた自然の一部であると見れば、その自然を超えた真理はない。

 神や神の子イエスを自然を超越したものと見なし、それを信じているのであれば、真理は信仰を通してしか見いだすことはできない。ワーニャがキリストを信じているのであれば、キリストの言葉に全身全霊をもって飛び込むしかない。ワーニャはキリストを信じるテロリストという矛盾に直面し苦しんでいる。この矛盾を自ら許容して、愛によって人を殺すテロリストもキリスト者なのだ、と言うのであれば、それはそれで解決済みとなるはずなのに、ワーニャは限りなく天の邪鬼ぶりを発揮して、解決済みの案件に他人を巻き込んでグダを巻いている。

 この点に限定すれば、ワーニャは歯痛に苦しみ続け、その痛みに快楽さえ覚えるようになった地下男とそっくりである。地下男が〈歯痛〉を手放さなかったように、ワーニャもまたキリストかテロリストかという、いつまでたっても決着のつかない二者択一の灰色のカードをどんなことがあっても手放さない。

 「すべて真理に属する者は我が声を聞く」。真理はキリストに属する。キリストの言葉は父なる神から発しており、この言葉を聞く者は真理に属する者とされる。「ラザロの復活」を朗読するソーニャは、マルタの言葉に託して自らの信仰を告白している。

 

 「イエスはマルタに言われた、「あなたの兄弟はよみがえるであろうも」。マルタは言った、「終わりの日の復活の時によみがえることは、知っています」。イエスは彼女に言われた、「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死すとも生き返る。また、生きて私を信じる者は、永遠に死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」。マルタはイエスに言った」

 (ここでソーニャは苦しげに息をつき、まるで自分が公衆の面前で懺悔してでもいるように、一語一語を区切って、力をこめて読んだ)

 「「主よ、そのとおりです。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」」

  彼女はそこで言葉を区切って、ちらと彼のほうに目をあげかけたが、すぐと自分をおさえて、先を読みつづけた。ラスコーリニコフはじっとすわって、テーブルに肘をつき、わきのほうを見ながら聞いていて、ふり向こうともしなかった。(中・286)

 《Иисус говорит ей:воскреснет брат твой.Марфа сказала ему:знаю,что воскреснет в воскресение,в последний день.Иисус сказал ей:Я есмь воскресение и жизнь;верующий в меня,если и умрет,оживет.И всякий живущий и верующий в меня не умрет вовек.Веришь ли сему? Она говорит ему:

  (и как бы с болью переведя дух,Соня раздельно и с силою прочла,точно сама во всеуслышание исповедовала:)

   Так,господи! Я верую,что ты Христос,сын божий,грядущий в мир》

  Она было остановилась,быстро подняла было на него глаза,но поскорей пересилила себя и стала читать далее.Раскольников сидел и слушал неподвижно,не оборачиваясь,облокотясь на стол и смотря в сторону.(ア・250)

 

 ソーニャは一人の淫売婦として肉体を金に替えている〈罪人〉であるが、その〈罪〉に苦しみながらキリストを求める〈偉大なる罪人〉(великая грешница)である。ソーニヤはキリストの言葉をそのままに受け入れるキリスト者であり、〈真理に属する者〉である。ロジオン・ロマーノヴィチはポルフィーリイ予審判事に面と向かって神を信じ、文字通りラザロの復活も信じていると断言しているが、ソーニヤに「ラザロの復活」の場面の朗読を懇願した時には神を信じない者として振舞っている。ロジオンは深く分裂し、未だ一義的に統一された〈真理に属する者〉となってはいない。ロジオンはエピローグにおいて、ある意味、強制的に復活の曙光に輝かせられてしまった青年である。はたしてロジオンの耳に神の〈声〉は聞こえたのであろうか。

 ジョージはさりげなく言う「ワーニャ、キリストは殺すなかれと言っている」と。ジョージは明らかにキリストの〈真理〉からはずれていることをはっきりと認識している。ジョージは、たとえ真理がキリストと共にあるとしても、テロリストてありたいと願っている青年である。ジョージはキリストの真理に反してでも、テロリストの途を全うする覚悟のうちに生きている。要するにジョージにはブレがない。対してワーニャはキリストとテロリストの間にあって不断に揺らいでいる。〈殺すなかれ〉というキリストの言葉をそのままに聞けば、彼は即刻テロリストであることをやめなければならない。が、彼はテロリストであることを放擲することができない。

 「殺すなかれ」というキリストの言葉に反する行為をしながら、キリストと共にどこまでもありたいと願うワーニャは最後に言う「殺人にくわわっているのに福音を信じ、キリストに祈っている。ぼくは苦しい、苦しいのだ……」と。ワーニャの胸の底から絞り出すような声はマルメラードフの声であり、カチェリーナ・イヴァーノヴナの声である。ソーニャをイワン閣下に売り飛ばし、そのことで再び職を得たマルメラードフは、しかし一ヶ月が限度だった。彼は苦しんでいる。娘を犠牲にした悲しみと苦しみに耐えきれず、俸給の残金を盗み出して酒におぼれる。素寒貧になってソーニャからなけなしの金三十カペイカをもらって、その金で酒を飲んでいる。

 マルメラードフは快楽を求めて酒を飲んでいるのではない。彼は酒瓶の底に悲しみと苦しみを見いだしているのだ。マルメラードフは語る「だから、私が酒を飲むのは、この酒のなかに苦しみを、共感を見出そうためなんです……私はね、つねの倍も苦しみたいからこそ、飲むんですよ」(上・37)「Для того и пью,что в питии сем сострадания и чувства ищу.Не веселья,а единой скорби ищу…Пью,ибо сугубо страдать хочу!」(ア・15)「おい、亭主、きさまはこのウオツカの小瓶がおれに楽しみを与えてくれたとでも思っているのか? おれはな、この瓶の底に悲しみを、悲しみを捜したんだ。悲しみと涙を捜して、それを味わい、見出すことができたんだ」(上・52~53)「Думаешь ли ты,продавец,что этот полуштоф твой мне в сласть пошел? Скорби,скорбь искал я на дне его,скорби и слез,и вкусил,и обрел;」(ア・21)

  マルメラードフの告白は結果として酒場に居合わせた者たち全員に聞かれているが、彼が告白の相手に選んだのは、顔に〈ある種の悲しみ〉を刻んだロジオンにほかならない。内に深い悲嘆を抱えた者は、相手の悲しみに敏感である。マルメラードフが告白でロジオンにしっかりと伝えたのは、一家の犠牲になって娼婦に身を堕したソーニャの存在である。

 ソーニャという女性は、作品の中でほとんど口を聞いていない。ソーニヤの〈言葉〉はマルメラードフの告白話の中で再現される。継母のカチェリーナに口汚く売春を強要された場面でソーニヤは「じゃ、カチェリーナ・イワーノヴナ、ほんとにわたし、あんなことしなくちゃいけないの?」(《Что ж,Катерина Ивановна,неужели же мне на такое делло пойти?》ア・17)と言うだけで、いっさい口答えしない。

 この静かな、運命に従順なソーニャは処女を銀貨三十ルーブリに替えるという〈踏み越え〉の後、黄色い鑑札を受けて娼婦になる。この娼婦になった娘ソーニャに酒代をせびりに行ったのがマルメラードフである。この時もソーニャは一言も語らない。なぜだ、なぜソーニャは黙ってなけなしの金三十カペイカをマルメラードフに手渡すのか。ソーニャはこのどうしようもない酔漢の悲しみと苦しみを誰よりもわかっている。マルメラードフは実の娘をペテルブルクで誰一人知らない者がいない淫蕩なヒヒ親爺イワン閣下に売り飛ばしたことに苦しんでいる。その苦しみをソーニヤはわかっている。だから黙ってなけなしの金を与えるのだ。

 『罪と罰』を読むとき、書かれたテキストの表層をなぞっているだけでは、ぜったに見えてこない光景がある。ソーニャはなけなしの金を渡すとき、一言も発していない。発していないが、ソーニャはこの飲んだくれの父親を〈卑劣漢〉(подлец)とも思っていないし、ましてや〈豚〉(сбинья)とも思っていない。このことがわからないと、マルメラードフがロジオンに向かって「それはそうと、学生さん、あなたにはできますかな……いや、もっと単刀直入に言わせてもらえば、できますかなじゃなくて、勇気をおもちですかなーーいまこの場で、私の顔を見ながら、おまえは豚じゃない、と断言なさる勇気を?」(上・34~35)「молодой человек:не можете ли вы…Но нет,изъяснить сильнее и изобразительнее:не можете ли вы,а осмелитесь ли вы,взирая в сей час на меня,сказать утвердительно,что я не свинья?」(ア・14)のセリフに隠された意味がまったくわからないことになる。

 マルメラードフは誰が見てもろくでなしである。キリスト教圏において〈豚〉(свинья)などと罵られたら最大の侮辱である。〈卑劣漢〉(подлец)にはまだ観念的な意味あいも含まれているが、〈豚〉(свинья)となったら、もう救いようがない、生理的次元での醜悪な汚らわしさが染み着いている。マルメラードフにはまさに〈豚〉のような、生理的にがまんがなならない悪臭が漂っている。この誰の目にも、鼻にも〈豚〉としか思えない男が、なぜここで、あえてロジオンに〈おまえは豚じゃない〉と断言する勇気があるかと訊いているかが問題である。

 ここで思い出しておかなければならないのは、マルメラードフがなぜロジオンに話しかけたかである。マルメラードフはロジオンを一目見て、彼のうちに癒しがたいある種の悲しさが漂っているのを看破する。ロジオンは〈ものに感ずる心〉を持った教育のある若者としてマルメラードフに受け入れられている。マルメラードフは一人の〈ろくでなし〉としてロジオンに対しているのではない。マルメラードフの言葉はロジオンの〈心〉に向けて発せられている。

 はたしてロジオンはマルメラードフの言葉をどのように受け止めたのであろうか。この時、ロジオンはなにも答えていない。「Молодой человек не отвечал ни слова.」(ア・14)。従ってロジオンがマルメラードフを豚と思っていたのか、それとも豚ではないと思っていたのかについて知ることはできない。推測するに、ロジオンはマルメラードフに向かって「あなたは豚ではない」と断言する気持ちはなかったであろう。ロジオンは酒場の主人や使用人、その場に居合わせた者たちと同様、マルメラードフを内心〈豚〉と思っていたに違いない。マルメラードフを〈豚でない〉と確信していたのはソーニャだけである。

 作中のどこにも、ソーニャがマルメラードフに向かって「お父さんは豚なんかじゃない」と断言している場面はない。作者もそんなやぼな書き方はしない。ソーニヤは黙って、なけなしの金三十カペイカをマルメラードフに手渡す娘である。ソーニャは実の娘を閣下に売り飛ばした父親の悲しさを誰よりも分かっている。ソーニャは、マルメラードフが世界で一番苦しんでいるぐらいに思っている。マルメラードフもそのことを知っている。世界中のすべての人間が彼を〈豚〉と罵っても、ただ一人、ソーニャだけはそういった世界中の人々に向かって『あなたは豚なんかじゃない』と断言する勇気を持った人間なのである。マルメラードフがロジオンに理解してもらいたいのはこのことである。

 はたしてマルメラードフの告白話を聞いて、ソーニヤと同じ次元にたてた者が何人いただろうか。読者の中にすら、ソーニヤと同じ境地にたてる者は、いたとしてもごくわずかであったろう。たいていの読者は酒場の主人と同じような立場でマルメラードフの告白話をおもしろおかしく聞いていたにちがいない。

  マルメラードフは自らを〈豚〉で〈獣の貌〉を宿した者で〈畜生〉と言い切る。その場にいた者の誰ひとりとして異議をさしはさむ者はいない。ロジオンもただマルメラードフの話を聞いているだけである。

 マルメラードフの語りは落語の名人、たとえば古今亭志ん生に演じてもらったら実におもしろいものになったであろう。ある種の人間の〈どうしようもなさ〉を演じさせたら志ん生の右にでる者はいないだろう。

 マルメラードフは自分を〈生まれながらの畜生〉(прирожденный скот)と言う。このなにもかも分かっている〈畜生〉(скот)に更生を求めても詮方ない。この〈畜生〉は酒瓶の底に苦しみと悲しみを求めてのたうち回っている。彼は酒場の連中からはろくでなしの〈ひょうきん者〉と見られているが、自分自身は誰よりも神のそばにいる者、神に同情され、救われる存在と見ている。

 マルメラードフにソーニャがいる限り、それは確信である。彼はソーニャを通して神を見ている。ソーニャの悲しみと苦しさはマルメラードフのそれと通底している。淫売婦となった娘の悲しみと苦しみを味わうためには、マルメラードフはその当の娘からなけなし金をもらってまで酒を飲み続けなければならないのだ。

 この〈どうしようもなさ〉の連鎖にロジオンもまたひきずりこまれていく。母親の期待に応えて現世的な野望を実現する途は閉ざされている。ロジオンはルージン並の立身出世に満足することはない。彼はいわば現実世界においての王を望んでいる。それが不可能であるなら自分の内的世界で唯一者としての孤高に生きる途を選ぶであろう。が、ロジオンは結果としていずれの途をも選ばず、人殺し(犯罪者)の途へと踏み込んでしまった。ソーニャが銀貨三十ルーブリで身を売った行為と、アリョーナの頭を斧で叩き割った行為は、ロジオンにとっては同じ〈踏み越え〉(преступление)としてとらえられている。違いは、ソーニャに罪の意識があり、ロジオンに罪の意識がないことである。

以上「藝文攷」22号連載6(2017年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載41


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載41

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

〈真理〉とは何か

――キリスト教の神と自然を巡って――

 

 「ハインリッヒに聞いてくれ、ワーニャ」

 「ハインリッヒ? ハインリッヒは社会主義を信じ、将来みんなが自由になり満腹するようになることを知っている。だが、こんなことはみなマルタの役目だ。マリヤはどうすればいいんだ? もちろんみ、自由のために生命を捧げることもできる。だが自由の代償はなにか? 涙のためだって投げ出すこともできる。ぼくも神に、奴隷なく、飢える者のいないように祈る。だが、これがすべてじゃないんだ。ジョージ。ぼくらは世界が虚偽によってうち立てられているのを知っている。真理はどこにあるのか? 「真理とはなにか? ときみは言うんだね?」(48~49)

 

 「将来みんなが自由になり満腹するようになる」ような〈社会主義〉を信じている二十二歳の元大学生ハインリッヒとどこまで議論することができるだろうか。ロジオンですらハインリッヒと議論する必要性を認めなかったに違いない。ロジオンはすべての人間が〈自由と満腹〉を享受できる未来社会を構想したことがあっただろうか。彼は母プリヘーリヤと妹ドゥーニャの幸福を願うことはあったにしろ、全人類の幸福に関して壮大な構想を抱くような青年ではなかった。〈自由〉とか〈満腹〉とかいった言葉の範疇に全人類をそのまま押し込むような無神経な人間(社会主義者)が未来の社会制度を構想すること自体が滑稽である。〈幸福〉のかたちは人間の数だけ存在する。極端に言えばAの〈幸福〉がBの〈不幸〉となる。

 〈自由〉も同じである。Aの〈自由〉がBを殺すことにあった場合、BがAに殺されることに幸福を感じない限りは、〈自由〉は二人にとってすばらしいことにはならない。人間は社会主義者が考えるよりはるかに複雑で、厄介な存在なのだ。人間には生きようという本能があり、同時に死を欲する欲望がある。人間社会には愛や同情ばかりではなく、嫉妬、羨望、憎悪、呪詛もまた抜きがたく混在している。だからこそドラマが生ずる。悲憤と苦悩があればこそ文学や芸術が生まれる。愛と至福に満たされただけの世界は決して構築されない。本来、現実に存在しないユートピアを構築しようと行動すれば、とんでもない結果を招くことになる。社会主義の理想は現実の世界において実現しない。ジョージは『悪霊』のシガリョフ理論を知った上でのテロリストである。テロリスト・ジョージに幸福な未来社会のビジョンはない。ジョージはキリストになってもよかったのだが、テロリストになった、ただそれだけのことである。

以上「藝文攷」22号連載6(2017年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載40


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(連載40

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

ワーニャの懐疑と苦悶(キリストかテロリストか)

――〈ポリフォニック的思考法〉と〈意識空間内分裂者〉の観点から―

 

 理不尽な運命に直面して憎悪と呪詛の代わりに愛をもって対応できるものが存在するのであろうか。憎悪と呪詛をも超える愛は可能なのであろうか。

 

  彼は砂糖のひとかけらを噛りながら、ゆっくり茶をのんで、つづけた。

 「怒らないでくれ。そして、笑わないでくれ。ぼくはこう考えるんだ。きみも知ってることさ。ぼくらは心貧しき者さ。ぼくらはなにによって生きているのだろうか? ただ憎悪だけで生きているのではないか。ぼくらは人を愛するということができない。絞め殺し、斬り殺し、焼きうちする。ぼくらもまた絞め殺され、斬り殺され、焼きすてられるが。これは、なにものの名においておこなわれるのだろうか。きみ、言ってくれ、言ってくれたまえ」

  わたしは肩をすくめる。(48)

 

 生きてあることの謎に向けて執拗に問い続けずにはおれない者と、質問に肩をすくめる者がいる。どちらが生きてあることの謎に直面しているのかは不問に付しておくことにしよう。ワーニャは答えを期待している。『罪と罰』のカチェリーナはこの地上世界に〈真理・公平・正義〉が体現されていないことに自らの狂気をもって抗議した。彼女は神に悲憤をぶつけずにはおれない、そういったタイプの信仰者で、これはドストエフスキーの人神論者に共通した〈信仰〉の姿である。ワーニャもこういったドストエフスキーの人神論者の血を継承している。

 ワーニャは不断に問い続けずには精神の安定を得ることができない。否、彼は不断に精神分裂の渦の中にいる。彼は渦のただ中にいることにある種の快感を覚えていると言ってもいい。彼はぬるま湯の湯殿から身を起こせない者に似た懐疑者で、すでにこの出口のない懐疑自体を愛し始めている。こういった中途半端にとどまる者を信仰者とは言えないし、テロリストとも言えないであろう。ワーニャが出口を見い出すとすれば、キリストの名を借りたテロリストになることである。が、はたして彼は神の名において殺人を正当化することで傷ついた魂を癒すことができるのであろうか。

 「ぼくはキリストを信じる、信じている。ところが、ぼくは彼とともにいないのだ」このワーニャの言葉は、ドストエフスキーがデカブリストの妻フォン・ヴィージナ宛の手紙に書いた言葉を想起させる。ドストエフスキーは「たとえキリストが真理に反していても、私はキリストと共にありたい」と書いているが、同時に「私は不信と懐疑の時代の子だ」とも書かずにはおれない。ドストエフスキーの魂は深く激しく揺らいでいる。その大いなるディオニュソス的揺らぎの渦の深みから彼の作品は生み出された。ドストエフスキーの表層をなぞって充足する者には無縁なことだが、ドストエフスキーの創造する渦潮に身を投ずることはきわめて危険なことなのである。

 バフチンはドストエフスキーのポリフォニックな作品を理解するためには、読者がポリフォニック的思考法を身につける必要があると言ったが、この〈ポリフォニック的思考法〉の危険をバフチンはどこまで認識していただろうか。フョードルはイワンとアリョーシャに向かって「神は存在するか」と問う。イワンは神は存在しないと断言し、アリョーシャは神は存在すると答える。フョードルはイワンに軍配をあげている。ところで、〈ポリフォニック的思考法〉を身につけた者は、唯一絶対の《我》を崩壊した者であるから、イワンにもアリョーシャにも全一的に与することはできない。〈ポリフォニック的思考法〉を身につけた者の意識空間にはイワンに同意する〈我〉もアリョーシャに同意する〈我〉も存在するし、イワンに軍配をあげるフョードルの〈我〉も存在する。そしてそれらの〈我〉は等価で、お互いの思想を曲げることなく主張し続けることになる。

 〈意識空間内分裂者〉は精神病者ではないから、社会生活に支障をきたすことはない。映画や演劇における〈監督〉〈構成演出家〉の〈我〉が、役者としての複数の〈我〉を統治する能力を奪われない限りは、現実の場において、有効な〈我〉を登場させ、しかるべき妥当な言動を演出することが可能である。〈ポリフォニック的思考法〉を身につけた者は、従って生きる現場においてはいつも〈かのように〉の意識を抱え込まざるを得ない。つまり、あたかも神を信じている〈かのように〉、あたかも神を信じていない〈かのように〉に振る舞わざるを得ない。そのことに空しさを感じるか演技的喜びを感じるかは、ケースバイケースである。また〈かのように〉を意識せずに、一つの〈我〉を生きることさえ可能である。〈意識空間内分裂者〉は意識空間内のそれぞれの〈我〉を等価と見なしているから、精神科医のR・D・レインの症例ディヴィドのように〈本物の自己〉と〈にせ自己〉の分裂に苛まれることはない。

 ワーニャは言わば〈キリスト〉か〈テロリスト〉の二者択一の前で分裂し苦しんでいる。愛の実現のためにキリストもテロリストになるという観点にたてば、ワーニャの分裂はとりあえず止揚されたことになるが、彼はその観点に立ち切ることができないで苦しんでいる。ワーニャはテロリストであるにもかかわらず、彼の魂は依然として〈キリスト〉と〈テロリスト〉の狭間に宙吊りされたままなのである。

 〈意識空間内分裂者〉の〈意識空間〉では無数の〈我〉に分裂し、〈反省的自己〉(監督者としての〈我〉)がそれらを統治統括している。現実世界に生きる〈意識空間内分裂者〉は、身体を伴った存在であるから、その身体的一義性を脱却することはできない。この一義的身体存在は嫉妬、憎悪、憐憫、喜悦、愛情といった諸感情を備えているから、〈意識空間内分裂者〉とは言え、その〈意識〉を凌駕する感情に支配される場合もある。感情の嵐が〈意識空間内分裂者〉を襲撃する場合もあるということだ。殺人後も〈思弁〉(диалектика)に支配されていたロジオンに神の風(ルーアッハ)が襲撃したようにである。

 問題は、この〈神の風〉の襲撃が、ロジオンを二度と再び〈思弁〉へと引き戻すことが絶対になかったかどうかである。感情の嵐も凄いが、思弁の力もまた侮ることはできない。わたしは何度でも言うが、突然、神の風に襲撃され、愛によって復活の曙光に輝いたと作者によって保証されたロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフは、かつて商家の女将から恵まれた二十カペイカ銀貨を放り投げた、そのネワ川に潜って、その銀貨を拾い上げてこなければならない。ロジオンの〈復活〉は作者によって導かれている。否、〈復活〉ばかりではない。〈殺人〉もまた作者の意図によってなされた。〈殺人〉から〈復活〉までが、作者が巧みに仕組んだ〈踏み越え〉(преступление)である。

 

 地に足のついた、日常的なさりげない信仰の姿というものがあろう。商家の女将が「キリストさまのお恵みだよ」と言って、ロジオンの手に二十カペイカ銀貨を握らせる、そういった自然な信仰の姿に牽かれる。ロジオンはニコラエフスキー橋の上に立ちどまって銀貨を投げ捨てたが、そこから二十歩ばかり離れた地点に小さな礼拝所があったことを作者は記していた。わたしはそういった礼拝所でさりげなくお祈りしているようなひとたちの信仰こそがほんものだと思う。人殺しという〈踏み越え〉を通過しなければ〈復活〉という〈踏み越え〉に至りつけないロジオンの〈信仰〉などよりはるかに強いものを感じる。

 ワーニャがキリストを信じているなら、無条件にキリストに従えぱいい。従えないのに〈信じている〉などと口に出してはいけない。ワーニャが「真に愛するなら、そのときは殺人も許される」と本気で考えているのなら、その信念に従えばいい。いったいこの男は何を迷っているのだろうか。わたしはジョージとともに肩をすくめたい。が、もちろん、ワーニャの執拗な問かけも解決の出口を見いだすことはできないが、肩をすくめてみたところで何の解決にもならない。

以上「藝文攷」22号連載6(2017年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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清水正「ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む ──ドストエフスキー文学との関連において──」連載39


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左の『ドストエフスキー体験』はわたしが二十歳の時に刊行した処女本である。表紙絵はわたしが描いた。あれからあっという間に57年が経った。今もドストエフスキー論を書いている。ドストエフスキー文学の偉大さぐらいは理解しなければならない。世界各国の指導者たちのいったい何人がドストエフスキー文学に触れているのだろうか。

 

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ドストエフスキーをめぐる対談 4

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日大芸術学部大学院の紀要「藝文攷」に連載したものを再録連載する。

 

(連載39

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

ジョージとニコライ・スタヴローギン、そしてピョートル

 

 ワーニャはジョージに向かって「きみはすべての人の目を手綱でひっぱたいてる……ああ、きみは気の毒な人だ」と言う。ワーニャの言うジョージにニコライ・スタヴローギンが重なる。『悪霊』においてニコライはピョートルやキリーロフやシャートフを手綱でひっぱたいている、少なくともそんなだいそれた役割を背負わされていた。わたしは作者が設定したニコライ像よりははるかに卑小な存在としてニコライを見ている。ピョートルがニコライの猿を演じて、ニコライを〈イワン皇子〉と持ち上げたりするものだから、ニコライのイメージは巨大化するが、わたしはそんなものは単なる虚像だと思っている。

 ニコライは劇画的ヒーローの如く大げさに巨大化されるが、その内実は太母ワルワーラの呪縛から解放されることなく破綻した青年に過ぎない。ニコライの決闘や淫蕩など数々のスキャンダラスな事件は、強大な母親から解放されるためのやけのやんぱち的葛藤の結果にほかならず、結局、彼は母に敗北した息子だったのである。

 よくよく考えて見ればいい。ニコライにひとの魂を震撼させる偉大な思想や信仰があったわけではない。十一歳の少女を凌辱して自殺に追い込んだり、自ら信仰していないロシアの神をシャートフに植え付けたり、人神思想をキリーロフに与えたとしても、そんなことは別に何の価値もない。

 ニコライがしたことと言えば、要するにろくでもないことばかりで、そこには人間の魂に訴えてくる何ものもない。これは『罪と罰』のロジオンにも言えることだ。ロジオンはろくでもない青年だ。彼は二人の女を殺した。そのくせそのことを秘密にしたまま、ルージンがソーニャに仕掛けた冤罪事件をきつく非難したり、商家の女将から恵んでもらった二十カペイカ銀貨をネワ川に放り投げてしまったりする。このどうしようもないろくでなしが、自分を非凡人のナポレオンと思い間違えたり、キリストの如く人類の全苦悩を背負ったかのような言葉を口にしたりする。犯罪を犯して罪を感じない青年に復活の曙光を与える作者よ、あなたは殺された二人の女のことをどう考えていたのか。

 ニコライ・スタヴローギンは作者によってずいぶんと厚着されてしまったスキャンダラスな男であったが、ジョージには薄着も厚着もない。ジョージのようなテロリストがいてもいい。ドストエフスキーの作品を熟読したテロリストというのはけっこう魅力的な存在である。

 ワーニャは「きみはすべての人の目を手綱でひっぱたいてる」と言うが、これはジョージに対する買いかぶりだろう。ピョートルはニコライ・スタヴローギンを表向き、すなわち読者をも欺くほどに持ち上げているが、その実、ニコライを殺すことも視野において行動している。すべての秘密を知っているニコライを生かしておくことはできない。二重スパイのピョートルの虚無のなかに、ニコライのお坊ちゃま風虚無などすっぽりおさまってしまう。ピョートルの赤く長い悪魔の舌はニコライの告白文を舐め溶かす力を備えている。

 ピョートルをみくびってはならない。作者ドストエフスキーの内に抱え込まれていたピョートルは、わたしのうちで限りなく解放され、描かれた『悪霊』という作品を一挙に反転すれば、今度はピョートルこそがキリストの衣装を纏って登場することになる。太母ワルワーラに太刀打ちできなかった負のキリスト・ニコライはあくまでも描かれた『悪霊』の表舞台の主役の域にとどまっている。

 ワーニャの言う「きみはすべての人の目を手綱でひっぱたいてる」の〈きみ〉をニコライではなくピョートルに重ねると、はるかに話は面白くなる。『悪霊』においてはピョートルこそが、すべての人物の手綱を握っていた。作中作者アントン君(国家から派遣されたスパイ)はピョートル(二重スパイ)が入手したすべての情報を得て『悪霊』(スクヴァレーシニキにおける革命顛末記)を書いたのである。

 ワーニャの語る馭者チーホンはあらゆるものを呪い、すべてを憎んでいる。呪詛と憎悪だけで生きるということは当人にとってすら地獄であろう。チーホンは〈ひよわな駄馬〉に対する憐憫の情が微塵もない。さらに恐ろしいことは、仲間の馭者連中がチーホンの不条理な暴力を笑って容認していることだ。『罪と罰』のミコールカの場合もそうだったが、周囲の者が本気で彼らの〈悪ふざけ〉を阻止するどころか、笑っていることだ。ワーニャは伝える「馭者連中わいわい出てきて、笑っている。チーホンめはしゃいでるだ、と連中は喜んでる」。チーホンは〈はしゃいでる〉のだ。不条理な暴力の犠牲となっている〈ひよわな駄馬〉は、チーホンのはしゃぎの一素材でしかないのだ。

 痩せ馬殺しの夢の中では七歳のロジオンが〈不条理〉に立ち向かっていくが、チーホンの〈はしゃぎ〉の場面では馭者連中はみんなして喜んでいるし、ワーニャは「チーホンどうして動物を打つんだ?」と疑問を投げかけるにとどまっている。ここでのワーニャは七歳のロジオン以下にとどまっている。ワーニャは疑問を投げかけるだけの傍観者である。ワーニャはジョージを〈気の毒な人〉だと言う。が、ワーニャは〈気の毒な人〉ではないのか。ワーニャはチーホンの理不尽な暴力を止めることはできない。ワーニャは無力だ。チーホンの暴力に理不尽を感じながら、その行為を、馭者たちの喜びを押さえ込むことができないのだ。

 理不尽な暴力に怒りを覚える者があり、喜びを感じる者がある。さらに恐ろしいのは、暴力に怒りを覚えた者ですら、その心の内に喜びを感じてしまうということだ。暴力を振るう者のうちには憎悪と呪いが込められているが、その行為自体に伴う快楽がある。かつて金持ちだったチーホンは火事で身上をつぶされた。誰か特定の人に金を盗まれたわけではない。もしそうなら、盗人を呪詛し、憎悪すればいい。が、〈火事〉となると特定の憎むべき対象がないので〈あらゆるもの〉〈すべて〉を呪い憎むしかなく、結局は最も弱い対象(ひよわな駄馬)に鬱憤を晴らすことになる。

 この犠牲になっている〈ひよわな駄馬〉を人間の顔に変容させれば〈色の黒い、縮れ毛の、百姓〉であるチーホンの顔となる。〈大きな拳固〉と〈ひよわな駄馬〉は不条理な運命を司るものとその犠牲となったチーホンの隠喩である。運命に翻弄され不幸のどん底に陥れられても、眼に見えない〈運命〉をひっぱたくわけにはいかない。それで最も身近に存在する弱いものに鬱憤をぶつけることになる。その〈ひよわな駄馬〉が理不尽な運命に翻弄された〈自分自身〉であることを認識できないままにである。

 このように見ていけば、ワーニャの語るチーホンには、『ヨブ記』のヨブが、『オイディプス王』のオイディプスが歴史の彼方から浮上してくることになる。〈火事で身上をつぶされちまった〉チーホンは、全財産を奪われたヨブを、〈手綱をにぎって馬の目をひっぱたく〉チーホンは、呪われた運命を知って留金で両眼をつぶしたオイディプスを想起させずにはおかない。

 『ヨブ記』において神は悪魔と結託してヨブを容赦なく試みる。アポロンの神はオイディプスに父殺しと母と臥所を共にするという運命を授ける。神はひとを試み、罰するものであって、安らぎを与えるものではない。予め逆らわざるを得ないを運命を定めておいて、試み、罰する神にひとはどのように対処したらいいのか。すべてが神の思し召しであるなら、運命に逆らうことも運命としか言いようがない。

 

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(連載38

ロープシンの『蒼ざめた馬』を読む

──ドストエフスキー文学との関連において──

清水正

 

チーホン僧正とゾシマ長老の秘密

 『悪霊』のチーホンにはある種の邪悪なるものを感じる。この邪悪さは高僧の衣装に覆われて看破されにくいが、鼻のきく者をごまかすことはできない。動物にとって臭覚は最も発達した感覚装置である。小説、特にドストエフスキーの小説を読む上で、この動物的な臭覚は必須条件である。

 チーホン僧正の邪悪さはゾシマ長老にも受け継がれている。ゾシマが死んですぐに死臭を発していることの象徴的な意味は大きい。ゾシマ長老の秘密を的確に嗅ぎつけているのはフョードル・カラマーゾフである。

 わたしはカラマーゾフの〈兄弟〉は最初の妻アデライーダとの間に誕生した長男ドミートリイ、二度目の妻ソフィヤとの間に誕生した次男イワン、三男アリョーシャ、それにスネギリョフ退役二等大尉スネギリョフの妻との間に誕生したイリューシャ、この四人と見ている。

 乞食女リザヴェータがフョードルの屋敷内の湯殿で産み落としたスメルジャコフは、フョードルの子供と噂されているが、この説をわたしは採らない。『カラマーゾフの兄弟』を初めて読んだ二十歳の昔から、わたしはスメルジャコフにカラマーゾフの血が流れているようには思えない。これはわたしの直観であり臭覚に基づく判断であるから、他人からどう言われようと微動だにすることはない。

 スメルジャコフはゾシマ長老がリザヴェータと関係した結果、この世に誕生してきた男である。死んですぐに死臭を発したゾシマ長老と臭い女リザヴェータと臭男(くさお)と名付けられたスメルジャコフは文字通り〈臭い仲〉であった。精錬潔白な高僧ゾシマがご婦人方や甘いお菓子に目がなかったことを忘れてはいけない。ゾシマ長老は〈抜けっこ〉を通っていつでもご婦人方専用の控えの小部屋に行き来できたということ、これはかなり胡散臭いことである。

 ゾシマ長老に師事したいというアリョーシャに向かって、フョードルは酒を飲みながら〈坊さん女郎〉の話をする。フョードルは単に居酒屋経営で金儲けしていたのではない。彼の経営する居酒屋は女郎屋ともつながっていたと見た方が現実的である。フョードルは人間内部の闇の領域、裏社会にも精通した怪物的道化であり、この男の内部世界に踏み込んでいかないと『カラマーゾフの兄弟』の深層舞台をのぞき込むことはできない。

 『蒼ざめた馬』の馭者チーホンには、チーホン僧正の深く秘められた邪悪さはない。彼は『罪と罰』のミコールカと同様の男で、馬に対する乱暴な振る舞いそのものに彼らの粗暴さと呪詛がそのまま現れている。換言すれば、彼らには精神の奥行きがない。

 チーホン僧正やゾシマ長老には、計り知れない精神の深奥に邪悪、呪詛の虫が蠢いて、愛や信仰に食らいついている光景が視え隠れする。彼らは深い闇を抱えている。ニコライ・スタヴローギンはそれを知っているからこそ、告白を読ませる相手にチーホン僧正を選んだのだし、アリョーシャはゾシマ長老に師事したのだ。アリョーシャは未だ悪魔の子供を宿した童貞君に過ぎないが、この青年をニコライ・スタヴローギン以上の〈罪人〉と見なす視点が作者ドストエフスキーにあったればこそ、『カラマーゾフの兄弟』の主人公に設定したのである。

 フョードルが透視していたゾシマ長老の秘密がアリョーシャの眼に明らかになるとき、この作品は第二部の深みへと踏み込んでいく。死んで楽屋裏へと引き上げて来た四人の男たち、ゾシマ長老、スメルジャコフ、フョードル、イリューシャがどのような会話を交わしているのか。わたしの想像力はそちらの方へと傾く。ゾシマ長老(父)とスメルジャコフ(息子)、フョードル(父)とイリューシャ(息子)が親子として顔を合わせた時、どのようなリアクションが生ずるのか。

以上「藝文攷」22号連載6(2017年2月15日発行 日本大学大学院芸術学研究科文芸学専攻)所収

 

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