『清水正・ドストエフスキー論全集』第4巻「手塚治虫版『罪と罰』を読む」紹介

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清水正ドストエフスキー論全集」第4巻

 

清水正ドストエフスキー論全集』第4巻「手塚治虫版『罪と罰』を読む」

著者 清水正 発行所 D文学研究会 発行日 2009年4月10日(初版)
定価 3500円+税  判型 A5判(上製本)ページ数 全415ページ

目次
手塚治虫は天才なのか!?
・なぜ『罪と罰』を子ども向けに漫画化する必要があるのか!?
・なぜ英語表記「CRIME AND PUNISHMENT 」なのか!?
手塚治虫が読んだ『罪と罰』のテキストと月報
手塚治虫が描いたドストエフスキー肖像画
・ロシア語表記にタイトル

・鳥の眼で描かれたペテルブルク

・猫の眼でとらえられたペテルブルク

・『罪と罰』の主人公

・ラスコルニコフの帽子と服装

・老婆宅までの道程

・漫画の描き方

 ──〈省略〉〈誇張〉〈変形〉──

・原作と漫画の老婆アリョーナ

・主人公の部屋

・主人公の理論

・斧──犯行の道具

・手が四本指の主人公たち

・老婆宅に到る会談と踊り場

・二人のペンキ職人

・斧を持った〈少年〉ラルコルニコフ

・老婆宅を訪れる原作ラスコーリニコフ

・ペンキ職人の仕事場

・原作ラスコーリニコフの犯行現場

・省略されたラスコーリニコフの二つの犯行

・犯行後のラスコルニコフの逃亡

・冤罪で逮捕されるニコライ

・原作ラスコーリニコフの犯行後の逃亡

手塚治虫の〈省略〉の横暴

・原作『罪と罰』における時計時間

 ──ドストエフスキー文学の本質からはずれた手塚治虫の原作解体と再構築──

・国家権力と一庶民

・原作におけるミコライ逮捕劇

・酔漢マルメラードフの登場

ポルフィーリイ判事の登場 

 ──〈犯罪に関する論文〉をめぐって──

・原作ラスコーリニコフの〈信仰告白

・屋根裏部屋に戻ったラスコルニコフ

・母親の手紙

 ──原作と漫画の決定的な違い──

・犯行の翌日

 ──漫画と原作の相違点──

・突然の訪問者

・原作に秘められた男と女の性的関係

・ラルコルニコフとポルフィーリイの対決場面

手塚治虫が〈省略〉した信仰の問題

 ──原作ラスコーリニコフポルフィーリイの対決──

・原作ラズミーヒンの鋭い指摘

ラスコーリニコフの〈無罪〉を信ずるラズミーヒン/147
・漫画版〈手紙〉の改ざん/151

ラスコーリニコフとザメートフの対決/157

 ──原作と漫画を照合しながら──

・「人間は卑劣な存在だ!」/177

 ──しかし、もしそうでないとすれば──

・ラスコルニコフとマルメラードフの出会い/181

・やせ馬殺しとマルメラードフの死/183

・原作ラスコーリニコフの見た恐ろしい夢/191

マルメラードフの臨終/201

 ──マルメラードフ一家が抱え込んでいた闇──

・原作カチェリーナの肖像/204

・ソーニャの〈踏み越え〉に隠されたドラマ/207

・ソーニャ登場の場面/214

・『罪と罰』最大のテーマ/224

 ──〈復活〉という〈踏み越え〉──

・漫画ラスコルニコフとルージンの出会い/228

 ──打算で成立した婚約と、その破綻のドラマ──

・母プリヘーリヤと息子ロージャ/231

 ──母を殺した息子は内なる〈ルージン〉を憎悪する──

・ルージンの悪イメージの源泉/235

 ──プリヘーリヤの手紙の特質性──

・神を信ずるテロリスト/241

・原作ラスコーリニコフとルージンの出会い/243

・ルージンという存在/249

 ──〈損得勘定〉と〈魂〉──

ラスコーリニコフとルージンの対話/252

・ルージンの肖像/256

・原作に見るルージンとラスコーリニコフの決裂場面/262

・三年ぶりの再会/265

 ──母と息子の間に潜む深淵──

・ルージンからの手紙/274

・想像力の欠如/280

・リザヴェータ殺しの神秘/283

・ソーニャの登場/285

・ルージンとの対決/292

・ルージンの卑劣/299

・ハチャメチャな通夜の場面/301

 ──グロテスクなカーニバル空間──

・ルージンの仕掛けた冤罪事件/309

バフチンのカーニバル理論をめぐって/320

・カチェリーナの特異な性格/326

・『罪と罰』の読み直し/330

・カチェリーナとリップヴェフゼリ夫人の激しい口喧嘩/336

 ──手塚治虫ニヒリズム──

・スキャンダラスな冤罪事件をめぐって/343

 ──卑劣漢はルージンだけなのか──

・『罪と罰』の少女漫画的な設定/347

 ──ドストエフスキー文学における大いなる母性の欠如──

・スヴィドリガイロフを省略した手塚治虫/350

・手塚版法事後のラスコルニコフとソーニャ/351

・手塚漫画における〈省略〉の功罪/355

・手塚版ラスコルニコフとポルフィーリイの対決場面/368

ポルフィーリイとの闘いを終えたラスコルニコフの孤独/371

・下水道の〈闇〉の中から出現するスビドリガイロフ/372

 ──〈革命家〉と自分を天才と錯覚した〈凡人〉の闘い──

・愚弄された進歩思想家レベジャートニコフと恰好いい革命家スビドリガイロフ/377

・〈同志〉から〈敵対者〉へ/378

・決定的決裂/384

オイディプス的野望(父殺し)の挫折/386

・虚構の舞台──復活への道/388

 ──ソーニャによって傷を癒されるラスコルニコフ──

・殺人の告白/393

 ──〈革命の嵐〉を背景にして──

・悪魔に憑かれた者と神を信仰する者/396

・革命前夜のペテルブルク/398

・〈階段〉を降りて〈広場〉へ/401

・カーニバル空間としての広場/404

 ──相対化された〈革命〉と〈神〉──

・原作ラスコーリニコフの大地への接吻/406

・〈革命家〉と〈民衆〉の乖離/408

・原作ラスコーリニコフの永遠の伴侶ソーニャ/410

・瓦礫と化したペテルブルクを去り行くラスコルニコフ/411

 ──手塚治虫の虚無──

・あとがき/414


・「雑誌「るうじん」のこと」近藤承神子
・「清水宴会」校條剛
・「続・「あちら側」のドストエフスキー論」此経啓助
・「伝説は終わらない」下原敏彦
・「清水先生は熱い」五十嵐綾野
・「山脈への覚悟」浅沼璞

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「清水正・ドストエフスキー論全集」第3巻紹介

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清水正ドストエフスキー論全集」第3巻

A5判上製535頁 定価3500円+税 2008年9月20日 D文学研究会発行 星雲社発売 

目次
第1部
第一章 精神の空白性
第二章 精神の跛行十牛図
第三章 初期作品と十牛図
第四章 百竿頭からの最初の投身
第五章犯行後の軌跡
第六章運命的な邂逅
第七章マルメラードフの告白と聴衆
第八章踏み越えとラスコーリニコフの思想
第九章赦罪者ソーニャとラスコーリニコフの出会い
第十章ラザロの復活
第十一章犯行の告白とソーニャの指示
第十二章主人公はひとりの青年
第十三章スヴィドリガイロフの肖像
・・全二十九章

第Ⅱ部
ルージンをめぐって
ラズミーヒン論
罪と罰』の女性をめぐって
秘数術的「数」の象徴と円環する時間
踏み越えの時と場所
スヴィドリガイロフの子供
図表・『罪と罰』の十三日間
ラスコーリニコフの食事と金銭出納表


脇役もまた人間である(横尾和博
私の師匠(山下聖美)
「あちら側」のドストエフスキー論(此経啓助)
越境する清水正、あるいは普遍的なる清水正牛田あや美
ドストエフスキー的なるものの現象学山崎行太郎
ドストエフスキー罪と罰」の世界』全集版刊行に寄せて(清水正

 

 ・『清水正ドストエフスキー論全集 3 ドストエフスキー罪と罰』の世界』
罪と罰』に登場する全ての作中人物達に照明を当てることで作品テキストを解読し、特に「ラスコーリニコフ」、「ソフィア」、「スヴィドリガイロフ」の三人の「踏み越え」を鋭く洞察する。『罪と罰』に登場する「小道具」、「動物」、「数字」には作者によって象徴的な意味が付与されている。精緻な分析と斬新な発想によって『罪と罰』の作品世界を「可視化」する本書は、謎解きを超えた「『罪と罰』論の決定版」であると同時に、著者の「解体と再構築」理論の「神髄」でもある。『罪と罰』の「全貌」と「真相」が明らかになる。『罪と罰』は、二十世紀の百年を超えて、「二十一世紀を代表する現代文学」に他ならない。

«Масаси Симидзу - полное собрание работ о Достоевском. Том 3 - Мир «Преступления и наказания» Достоевского.
Автор расшифровывает текст через героев повествования «Преступления и наказания». Особенное внимание он уделяет “переступлению” трех героев - Раскольникова, Софьи и Свидригайлова. Достоевский вдыхает особую жизнь в реквизиты, животных, цифры, которые появляются в “Преступлении и наказании”. Эта книга, «визуализирующая» мир «Преступления и наказания» посредством продуманного анализа и инновационных идей, является чем-то большим, чем просто разгадыванием загадок “Преступления и наказания”. В ней отражена вся суть теории “разделения и воссоздания” автора. Через эту книгу станет видна полная картина и истинность “Преступления и наказания”. Прочитав эту книгу становится понятно, что “Преступление и наказание” даже через сотню лет остается произведением современности.

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「雑誌研究」の課題

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清水正の文芸時評 李良枝(イヤンジ)の「由熙(ユヒ)」

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第9回
李良枝(イヤンジ)の「由熙(ユヒ)」
清水 正


韓国(語)と日本(語)を超えて〈ことば〉の本源へ迫っていた
  今回は約束通り、第百回芥川賞受賞者で三十七歳で夭折した李良枝(イヤンジ)の「由熙(ユヒ)」(「群像」一九八八年十一月号)をとりあげる。主人公の由熙は在日韓国人、ソウルのS大学に留学して言語学を専攻している。由熙は日本でウリマル(母国語)を独習しただけであり、韓国語を流暢に話すことはできない。由熙は韓国人の生活に慣れようと下宿を転々と変える。由熙は同じ血の、同じ民族の、自分のありかを求め、韓国人になろうとあがく。が同時に由熙は、現在の韓国人にどうしようもない違和感を覚えていらつく。由熙はその違和感を韓国語をさらに勉強することによって乗り越えようとはせず、それとは逆に日本語の方に戻ろうとした。この小説の語り手である〈私〉は、こんな由熙を「日本語を書くことで自分を晒し、自分を安心させ、慰めもし、そして何よりも、自分の思いや昂ぶりを日本語で考えようとしていたのだった」と分析している。
 由熙は現代の横書きのハングルを母国語と認めることができない。由熙は〈私〉に向かって言う「学校でも、町でも、みんなが話している韓国語が、私には催涙弾と同じように聞こえてならない。からくて、苦くて、昂ぶっていて、聞いているだけで息苦しい」と。由熙はウリナラ(母国)と書くことができない。にもかかわらず試験に通るために、「誰かに媚びているような感じを覚えながら」韓国語でウリナラと書いてしまう。由熙はハングル文字の創始者世宗大王を信じ、尊敬している。しかし「この今の、この韓国で使われているハングル」には嫌悪感を抱いている。由熙は韓国人になろうとして〈母国〉にやっ
てきたのに、韓国を〈母国〉と思うことができない。由熙はジレンマに陥り、結局、大学を中退して日本に帰ってしまう。
 由熙が帰ってしまった後、〈私〉は叔母(由熙をわが子のように可愛がっていた下宿先の女性)に由熙の思い出を語る「笛は一番素朴で、正直な楽器だと思うって、由熙は言った。口を閉ざすからだって、口を閉ざすから声が音として現われる、とも言っていたわ。こういう音を持って、こういう音に現われた声を、言葉にしてきたのがウリキョレ(我が民族)だと、ウリマルの響きはこの音の響きなんだと、由熙は言ったわ」と。
 さらに〈私〉は由熙と一緒にソウルの岩山に行ったとき、彼女の口から出た〈ことばの杖〉を想い出す「・・ことばの杖を、目醒めた瞬間に掴めるかどうか、試されているような気がする。・・○なのか、それとも、あ、なのか。○であれば、ア・ヤ・オ・ヨ、と続いていく杖を掴むの。でも、あ、であれば、あ、い、う、え、お、と続いていく杖。けれども、○、なのか、あ、なのか、すっきりとわかった日がない。ずっとそう。ますますわからなくなっていく。杖が、掴めない」。在日韓国人である由熙は韓国に来て、〈韓国語〉と〈日本語〉のどちらを〈ことばの杖〉にするのかわからなくなってしまった。〈私〉もまた由熙の苦悩が分かるにつれ、〈ことばの杖〉が掴めなくなる。
 在日韓国人の由熙が韓国語の〈○〉か、日本語の〈あ〉かでジレンマに陥るのは分かる。しかし韓国人の〈私〉までもが、〈○〉に続く音が出てこない。〈音〉を捜し、〈音〉を〈声〉にしようとしている喉が、うごめく針の束に突つかれて燃え上がってしまう。〈私〉は由熙が苦しんでいたように、とつぜん〈ことばの杖〉を奪われてしまう。ことばの秘密に迫ろうとする者は、ことばを狂わせられてしまう。
 深い淵の上にかけられた薄い板の上を軽やかに渡っていた者たちは知っていたのだ、立ち止まると自分の重みでたちまちのうちに板が割れ、谷底に落ちてしまうということを。確かヴァレリーは『テスト氏』のなかで〈思考の空間を軽々と渡っている者たち〉に関してこのようなことを記していたはずだ。由熙が〈ことばの杖〉を掴めないのは、彼女が在日韓国人であったからというよりも、彼女が自らの存在根拠をどこまでも追い求め、自分が自分であることの究極のアイディンティティを得ようとしたことにある。韓国語であれ日本語であれ、ことばの秘密に肉薄しようと思う者は、かならずことばの側からの手痛いしっぺ返しを受けることになる。
 日本人でもない、韓国人でもない、由熙は日本語を話す在日韓国人として成長してきた。由熙は韓国語をひとりで学び、韓国のS大学国文科に留学し、言語学を専攻した。しかし、韓国語の学習に必死で取り組むことはなかった。由熙はハングルに嫌悪すら覚え、迷えば迷うほど日本語の方へと帰っていった。が、由熙は韓国語を〈母語〉と言えなかったように、日本語をも素直に〈母語〉として受け入れることはできなかった。由熙は日本語と韓国語の〈深い淵〉にかけられた薄い板の上に立ち止まってしまったと言えようか。
 〈私〉も〈由熙〉も、おそらく作者李良枝の分身的存在であったろう。李良枝は日本語で小説を書いている。にもかかわらず李良枝が、たとえば梁石日が『終りなき始まり』(朝日新聞社)で描いた淳花(李良枝がモデル)のように、母国韓国に自らのアイディンティティを求めていたとするなら、彼女の〈韓国〉と〈日本〉への分裂は由熙以上のものであったと言えよう。
 いずれにせよ『由熙』において李良枝は、〈ことばの杖〉を掴めないという、韓国(語)、日本(語)の分裂を超えて〈ことば〉の本源へと迫っていったことに間違いはない。その意味でこの小説は時代を超えて問題作であり続ける。
(「図書新聞」2002年10月5日)

 

清水正の文芸時評 日野啓三の『落葉 神の小さな庭で』

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第8回

日野啓三の『落葉 神の小さな庭で』
清水 正


懐疑の果てに〈神の庭〉と和解した小説家
   日野啓三が亡くなった。日野氏とは生前一度もお会いしたことがなかったが、氏のドストエフスキー論などは読んでいた。私はかつて「ドストエフスキー狂想曲」(一九七五~一九七九年)という雑誌を主宰していた。・号を氏に送ったところお礼の葉書(一九七七年十月一日)が届いた。そこに「貴兄が『弱い心』を論じた作品の末尾の、夕景色についての指摘、不思議な戦慄を覚えました」とある。主人公のワーシャはとつぜん訪れた婚約という幸福に堪えきれず発狂してしまう。友人のアルカージイはワーシャの発狂の謎を抱え込んだままネヴァ河の夕景色を凝視する。私は書いた「論理や言葉では手のとどかぬ世界をアルカージイはただ見詰めるだけである。そこには社会に対する抗議も批難も全く入り込む余地はない。眼の前に開示された世界はまるごと夢幻的な様相を呈しており、そこでは一人の人間の発狂という痛ましいドラマばかりではなく、金殿玉楼から掘立て小屋にいたる全世界が〈青黒い空に煙となって雲散霧消〉してしまうのである。この透明で静謐な風景描写を読むとき、我々は人間存在の不可思議さを超えて、世界そのもの、存在そのものの神秘をこそかいま見せられる。そのとき、人はまぎれもなくアルカージイと同様な〈奇怪な想念〉にうたれるのである」と。
 日野啓三の最後の本となった短編集『落葉 神の小さな庭で』(二00二年五月、集英社)のあとがきに「本当に大切なのは、この私ではなくて世界の方なのだ」「私たちは男も女も人間も動物も、実は同じ神の庭で生かされているのだ。必ずしもキリスト教の神ではなくても」とある。また「もともと〈現実〉か〈錯乱〉かという区別が本質的なのではなく、たとえば薄青く震える秋の光とともにおのずから姿を現わす〈現実的な幻想〉ないし〈幻想的な現実〉のイメージこそが、実在の真相なのであろう。〈幻想的でしかない幻想〉も〈現実的でしかない現実〉も浅薄な思い込みに過ぎないのではないか」(「薄青く震える秋の光の中で」)とも書いている。ドストエフスキーはストラーホフ宛の手紙(一八六九年二月二十六日)に「大多数の人がほとんど幻想的なもの、例外的なものと見なしているものが、私にとっては時として現実の真の本質をなすのです」と記している。日野敬三はドストエフスキーのこの独自なリアリズム観を引き継ぎ、初期短編『弱い心』に描かれたペテルブルクの夕景色の神秘と謎を凝視し続けてきた小説家である。
 ちっぽけな人間の悲しさや苦しさに寄り添う優しい眼差しを獲得した日野の作品は深く静かに読者の魂を震わす。風の多様な哭く声を聞き、病院の窓の外に怪しい異形のものの幻覚を目にし、世界の真相が恐るべきものであるなら認識者自身が多少とも怪物的にならねばならないと考え、落葉小高木(えごのき)の葉並が抱えこんでいる闇にブラックホールの入口を思わせる神秘の気配を感じ、「そう、この世界のすぐ上、すぐ奥、すぐの深みには古来、聖霊が統べる領域があって、われわれの魂が純粋に張りつめ、視線が力を秘めていれば、聖霊の力をじかに感じとることができるはずなのだ」と書く日野は、確かにドストエフスキー文学の或る側面を20世紀の日本で受け継ぎ花開かせた作家であり、懐疑の果てに世界(神の庭)と和解した作家とも見える。
 一年間の時評で、私が取り上げた作品は第一回黒井千次「隣家」、松浦寿輝「虻」、第二回稲葉真弓「どんぶらこ」、岩阪恵子「掘るひと」、南木佳士「底石を探す」、第三回南木佳士「山中静夫氏の尊厳死」「阿弥陀堂だより」「神かくし」「濃霧」、佐藤洋二郎「蟻の生活」、和田ゆりえ「ダフネー」、緒方圭子「ヴァージン・ロード」、第四回南木佳士ダイヤモンドダスト』、佐藤洋二郎「箱根心中」、湯本香樹実「西日の町」、早坂類ルピナス」、第五回早坂類ルピナス」、第六回上田榮子「海鳥のコロニー」、第七回車谷長吉「贋世捨人」、岩阪恵子「雨通夜」、第八回つげ義春ほんやら洞のべんさん」、井村恭一「睡眠プール」、松野大介「非常階段」原田宗典「劇場の神様」、第九回梁石日『終りなき始まり』、第十回李良枝「由熙」、第十一回玄月「おしゃべりな犬」である。
 私がまず関心を抱いたのは、佐藤洋二郎、南木佳士、岩阪恵子、稲葉真弓など、日常に材を採りながら、人間が生きてあるその姿に潜む怪異さや深淵をかいま見せる作品を書き継いでいる昭和二十年代生まれの作家たちである(私は彼らを〈日常深淵派の作家〉と名付けた)。「ルピナス」の早坂類には或る何ものかに書かされているという痛ましいほど鋭利な天才性を感じ、「ダフネー」、「鏡の森」(「文學界」12月号)の和田ゆりえには作品世界全体に濃密な汎神論的エロスを醸しだす類稀な才能を感じた。将来が楽しみな作家であり、両氏の作品に対してはいずれ本格的な批評を書かねばなるまいという気持ちにさせられた。在日の作家たち、特に玄月の作品にはこれから何が出てくるかわからない豊穣の混沌を感じる。ドストエフスキーを読みつづけている者にとって、玄月は魅力的な作家の一人であり、さらなる実験、冒険に果敢に挑戦してもらいたいと思う。
 第一回目の時評で黒井千次の短編「隣家」をとりあげたが、この最終回では岡松和夫の「チョコレート・パン」(「群像」十二月号)をとりあげたい。主人公の軽部は大学院に籍を置く女子高校の教師。教え子のひとり真知子の母は心を病んでいる。家庭訪問した軽部は真知子の母と、食事を拒み続けて病院で死んだ自分の母親とがオーバーラップする。
 ある日軽部は、道に迷ったあげく交番に入る真知子の母を目撃する。彼女は警官に事情を説明する軽部の顔をじっと見つめ「チョコレート・パン」と呟く・・。この短編を読んで私はホッとした。日本の小説の良さは短編にあると思い続けてきたが、この作品はそれをさりげなく証明している。作家が静かに構えているその姿勢に、相手を打ち込む殺気はなく、相手に打ち込まれる微塵の隙もない。かと言って不同の姿勢を保持しているのでもない。剣を握る両掌のうちにピクッと動くかすかな気配はある。作品の窓枠は小さいが、覗き込むと意外に奥が深い。その奥が果てしなく深く、脅えを感ずるというのではない。奥が深淵の闇ではなく、水彩画の淡さをもって深いのである。また、泣きわめいたり、狂気を誘う悲しさではなく、胸懐に深くしっかりと抱きしめられた悲しみが静かに伝わってくる。母の狂を受け止める、その思いのうちに込められた悲しみが〈時〉の層を幾重にも重ねているだけに、それは読者の胸にしみる。題名のさりげなさもよい。時評の最終回にこのような傑作短編に出会えたことに感謝している。
(「図書新聞」2002年12月7日)

 

清水正の文芸時評 上田榮子の「海鳥のコロニー」

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第7回

上田榮子の「海鳥のコロニー」
清水 正


魂のミットに剛速球を投げ込んだ小説
〈純文学〉雑誌に発表されている大半の小説を読んで感じるのは、読者の魂にまで届く剛速球を投げられる投手がきわめて稀ということだ。たいていの球がキャッチャーのミットまで届かぬやわな球ばかりだ。これじゃ、球を打とうにも打てない。バッターボックスに立っているのがアホらしく感じるほどだ。が、それだけにミットに届く球が投げられたときの感動は大きい。
 わたしは自分の眼で小説を読んでいるから、それが巻頭に置かれようと、小さな活字で組んであろうと、そういったことはいっさい考慮しない。大家だろうが新人だろうがまったく関係ない。わたしが佐藤洋二郎や南木佳士を日常深淵派の作家として高く評価するのは、彼らが人間の生きてあるその姿を厳しく直視し、そこから言語表現を模索し格闘しているからに他ならない。どんなに技術を磨き、文章がうまくなっても、その作品に魂がこもっていなければ読者を感動させることはできない。今回、わたしの魂のミットに球を投げ込んだ作家は上田榮子、その作品は「海鳥のコロニー」(「文學界」六月)である。
 語り手は外資系大手広告代理店を定年退職したばかりの鍵谷協子、五十八歳、独身。協子は上司の男と同棲した経験はあるが結婚はしなかった。いつの間にかペンギン体型になってしまった協子は「羽が痕跡器官になってよちよち歩きの飛べないペンギン、波打ち際には泡が立ち、果てしもなく海が広がっている。そう、ペンギンは絶滅危惧動物のレッドリストに入っている。若い女性たちは伸びやかにしたたかにやっているのに、生殖にも子育てにも励まず子宮を痕跡器官にしてしまったわたしのようなひと昔前の独身女は、レッドリスク入りなのだろうか」と思う。協子は〈独り者の後始末を引き受ける女性の互助団体〉を創ろうと、友人の丹羽容子に相談する。容子は協子より五歳下のフランス料理の研究家で、息子(潤)が一人いる未婚の母である。相談の結果、会長には著名人の三枝女史を担ぎだすことにする。協子は会の名前を「飛ぶペンギンの会」はどうかと思うが、結局、女史の提案したドイツ語の「ゲヴォーント」に決まる。これはゲーテの詩「ゲヴォーント・ゲタァーン」(女史の説明によれば「慣れ親しんできたことを新しい気持ちでやり直して行こう!」という意味)から採ったもので、〈新生〉という意味合いで使うことになる。彼女たちがわざわざドイツ語から採ったのは、容子の「会の名前はあまり露骨でない方がいい」、女史の「あからさまでない方がいい」という考えに基づいている。会の内容は「葬送に関する一切の相談と代行、遺したいこと一切の相談、法律相談の手伝い、いざという時の金銭管理、法的相続人への伝言、新しい仲間づくりのための行事、勉強会、シンポジウム」等である。第一回目の出席者は二十一名。協子は出席者の不安を隠した表情を見ているうちに、彼女たちの姿がコロニーに取り残された〈換羽期に空腹に耐えているペンギン〉のように見えてくる。協子は「こんな会に参加するのは行き詰まった自分を抱え、独りの時間に耐えている人たちに違いない。おしゃれで社会性も備えた女性、こんな人たちこそが自立の果ての行きつく場、自分の落ち着き場所を学びたがっているのだ」と思い、自分の想いは外れていなかったと確信する。
 しばらくして容子が入院、胃の手術をする。協子は担当医から容子が末期の癌であること、余命は三、四ヵ月、よくて半年と告げられる。女史は「余命告知は、せめて半年か一年の人よ。それくらい間がないと告知の意味はない」と言い、協子もまた「死は頭で知るよりも自らの身体が緩やかに教えて暮れる方がいい」と考え、容子には末期癌を告げず、抗ガン剤もホスピスも拒んで在宅治療を選ぶ。容子は息子の潤に父親のことについては何も話していない。潤は容子と喧嘩して家を出てしまったが、容子はその事情を誰にも話さない。協子も女史も、友人とは言え、容子の内部に踏み込むことはしない。彼女たちは「飲み喰いをし、喋りあって多くの時間を過ごし、あけすけに冗談を言いあってはいるが本心を言うことはない」そういった関係を保持してきた。なぜなら「本心を言えば、お互い困惑してしまうばかりか、関係も壊してしまうのをよく知っている」からである。
 協子は潤の所在を知っているかも知れないと、喫茶店のマスターのギッちゃんに電話する。協子は、潤は同棲していた女と別れ、アメリカ旅行に発ったまま連絡はないことを知る。ある日、協子は退院してきた容子を訪ねるとそこに衣類の山がある。拾い上げて見ると、「むちゃくちゃな鋏の跡があるものや引き裂かれたもの」がある。協子は陽気に「ああ、勿体ない」と言いながら、「彼女は自分の過去を切り刻みたいのだ」と思う。この場面は背筋がゾッとするほど戦慄的だ。身近な人、愛する人の余命告知を受けた者なら、この場面に言葉を失うだろう。〈自立の果ての行きつく場〉・・一人息子の潤から何の音沙汰もない容子はその孤独に耐えている。協子もまた自分の人生を振り返り、「怠けはしなかったけれど、いま残っているものはなにもない」現実に耐えている。
 再入院した容子。容子を車椅子にのせて散歩。陽を浴びた顔を眩しげにして、容子は協子を見上げる。「飛べ、ペンギンよ」容子は手を差し出す。「飛ぼう、飛ぼう。元気を出そう」協子は容子の肩掛けを直し、芝生の囲みを回る。「小首を傾げ両手を膝に置いた容子さんの姿勢に、氷山の一角に立ち尽くしていたペンギンが一気に飛ぶ清々とした情景が重なった。涙が溢れてきて辺りが霞んでしまう」。再入院から四週目に入ろうとした日、容子は息を引き取る。
 「死はいつでも不意打ちをかけてくる」・・親友を失った協子の苦い思いだ。この小説は協子、容子、三枝女史、三人それぞれの〈孤独〉を大袈裟ではなく、静かにしみ入るように描き出している。死は死で完結するのではなく、再生(新生)を孕んでいる。その大きなテーマを〈あからさま〉でなく、分かる者にだけ分かるように、抑制された筆致で描いている。潤を最後まで登場させなかったのもいい。ひとは自分にしか分からない秘密を抱いて死んでいく。友人といえども、その秘密に踏み込むことは許されないのだ。そういった距離感覚をしっかりと保った自立した大人の女たちのドラマである。わたしは読みながら、自分の体験を重ね合わせ、涙の流れるままにまかせた。ひとはみな〈孤独〉で、〈死〉に対して無力であるが、そんな孤独な人間が死んでいく、その傍らにそっと寄り添うことはできる。「ゲヴォートの会」は確かに〈独り者の後始末を引き受ける女性の互助団体〉(ペンキンの会)を超えた。容子を密かに愛していたギッちゃんも、一人息子の潤もまた、この会に参加できるのだ。作者は自立した女たちの行き着く場をしっかりと見据えることで、女や男といった性別を超えた人間の孤独と死を微塵の感傷もまじえず描き出した。生を見つめることは死をみつめることであり、愛する者の死に立ち会うことは〈新生〉を切に願うことである。
(「図書新聞」2002年6月8日)

清水正の文芸時評 井村恭一の「睡眠プール」

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第6回

井村恭一の「睡眠プール」
清水 正


今やすべての人間が睡眠中
 読んですぐに批評したくなる作品と、味わっていたいだけの作品がある。後者の一つにつげ義春の「ほんやら洞のべんさん」があった。「ねじ式」や「ゲンセンカン主人」などはどんなにしつこく解読しても許されるが、「峠の犬」や「紅い花」などはそっと味わって読んだ方がいいと長いこと思っていた。そんなわたしがつげ義春のマンガ批評の本を四冊も出してしまった。それだけでも足りず、今秋刊行のマンガ論集に何編かのつげ論も収録する予定である。その中に「ほんやら洞のべんさん」論もある。実はこの作品に関しては、何度か批評を試みたのだが、そのつど断念した。読む行為が〈批評〉を退けてしまうのだ。今回、一コマ絵ごとに解読をすすめたことで、このマンガに隠されていた重要なことを発見した。読んで味わっていればいいと思うその作品が、実は批評を深く要請しているということもある。
 町はずれにある鄙びた商人宿の主人であるべんさんは、半年近くも客が来ず、やけになって酒を呑んでいる。べんさんは客が訪れたその日、一度も目を開けない。読者が見るのは、両目を瞑ったまま客と話し、酒を呑みつづけるべんさんである。「酒を飲め、こう悲しみの多い人生は/眠るか酔うかして過ごしたがよかろう」と歌ったのはペルシヤの詩人オマル・ハイヤームであるが、まさにべんさんはその通りに生きている。このマンガの最終コマで「お前さまはべらべらとよくしゃべるね」と言ったきり、背を向けて寝てしまったべんさんが翌日立ち上がってくる保証はどこにもない。東北越後の鳥追い祭の日に展開された叙情性溢れるマンガ世界が実は主人公の再生不可能な絶望を深く抱え込んでいる。つげ義春はコマ絵の細部にこだわり、分かる者だけに分かるように、この作品を解く重要な鍵をさりげなく描いている。
 井村恭一の「睡眠プール」(「文學界」8月号)は二回読んだが、はっきりとした像を結ばない。テーマは題名に端的に表れているように〈睡眠〉(母胎回帰)であるが、このテーマに付随する〈父殺し〉を曖昧にするために敢えて肝心の場面をぼかしたのかも知れない。養殖のトッカリ(体長二十センチ、高温の水域に生息。弱った豚や犬を食べることもあるので「温水の貪食者」とも呼ばれる)に〈父〉を食べさせる儀式、そのトッカリを〈眠り協会〉の連中が食べるシーンなど、鮮明に描かれているにもかかわらず、今一つはっきりとしたイメージに凝集されないのはどうしたことか。本文中に「父も母も、温室のトッカリもはっきりとした像をもっていなかった。眠り協会もそうだった。記憶のなかで、わたしはひどい近眼状態だった」という記述がある。そう、この小説は〈近眼状態〉の〈わたし〉が小説を書いている、そのために作品の光景に靄がかかってしまうのだ。ただ一つはっきりしているのは「弱い、歯ごたえのない宗教」である〈眠り協会〉のメンバーたちが、老若男女を問わず「なにもかも捨ててさっぱりと消え去りたい」「眠ったまま、きれいさっぱりと消え去りたい」と願っていること、この願いが〈眠り協会〉会員のみならず大半の現代人の願いでもあるということである。ほんやら洞のべんさんの眠りは、今再びの覚醒など望んではいない。しかし、この心的状態を〈ニヒリズム〉や〈絶望〉という言葉に置き換えることもできない。作者に言わせれば、今やすべての人間が意識するしないにかかわらず、実は〈睡眠プール〉につかっているということになろうか。
 同じく文學界に発表された松野大介「非常階段」は読む者の胸にせつなくも涼風を吹き込んでくる。〈私〉こと高原は、上司である宮下の口利きで化粧品会社に勤めている。若き日の高原はサラリーマンになることを鼻で笑い飛ばし、音楽活動に集中するために大学を中退する。が、バンドブームは瞬く間に消滅、高原はゲームセンター、牛丼屋などでアルバイト、三十を過ぎて粗大ゴミ処理工場に、その後居酒屋で働いている時に宮下と再会する。現在の上司宮下は大学時代の友人で、高原の恋人であった恭子と結婚する。高原は宮下を校舎の屋上に呼び出し血が大量に流れるまで殴り続けた。高原はそんなこともあり、宮下は自分を部下にして復讐しているのではないかと疑っている。宮下は浮気がばれて、恭子とは別居状態にある。彼は中学生の娘里美が自分をどう思っているのか、その様子をさぐらせるため高原を恭子のアパートに行かせる。高原は恭子に里美のホームページ作りを指導する仕事を頼まれ、週に一回、里美と会うことになる。三十七歳の高原は、やがて〈非常階段〉という非難場所で一人、高速道路に向かってサックスの練習をする里美に特別な感情を抱くようになる。彼は里美の無防備な後ろ姿に、なぜか十代の頃の自分が蘇るような気がし「私は少女を擦り抜けて吹き込む風の中に埋もれたくなった」と記す。彼はいつの間にか、夕暮れ迫る非常階段でサックスを吹く里美を思い浮かべて心の安らぎを感じるようになる。若い頃の夢に挫折し、最も軽蔑していたサラリーマンとなった中年男が、中学生の里美に寄せる初恋のようなうぶな感情は読む者に苦く切ない風を送ってくる。この小説は〈青春の終焉〉を自らに刻印しなければならなかった者が、夢を追う〈青春〉の直中にある者の〈純粋〉に魅了されていく、その心の微妙な抑制された甘苦い感情を見事に描き出した傑作である。作品の中で吐露されなかった里美の透明感溢れる悲しい抑制された内面の声も、読者の胸にせつなく響いてくる。里美という多感な女の子は、浮気して別居中の〈あの人〉(父親)や、非常階段で接吻した高原の〈悲しみ〉を受入れ、知らんぷりできるほどに〈成熟〉している。里美は言わば精一杯背伸びした菩薩(母性)であり、この菩薩によって厳しい現実世界を生きる宮下も高原も救われたと言えようか。
 一気に読ませたのは原田宗典の「劇場の神様」(「新潮」8月号)である。盗癖のある須賀一郎は二十一歳、「近藤幸夫ショー」の舞台に出演している。大部屋で最年長の役者角南源八は礼儀やしきたりに煩いので皆から嫌われている。部屋頭の城之内オサムは座長の近藤からもらった贋のローレックスをそれとも知らずに仲間に自慢している。一郎は劇場の神棚に毎日「どうか盗みませんように」と祈願していたが、「ようやっと初日が出そう」なある日、城之内のローレックスを盗み、それを角南のせいにしようと謀る。作者は「公演中最高の舞台」が繰り広げられる場面を息もつかせぬ達者な筆捌きで描きだしている。初日が出た日の役者たちの喜び、その感動がリアルタイムでひしひしと伝わってくる。それだけでも十分に読み応えがあるが、そこに一郎の〈盗み〉を絡ませることで、作品世界に緊迫感を漲らせることに成功している。〈盗み〉を目撃していた角南は、芝居が終わった後、一郎に「おふくろは何度でも許すけどな、仏の顔も三度まで。劇場の神様の顔は一度きりだ。よく覚えとけ」と言い残して去っていく。この小説そのものが、〈劇場の神様〉が降りてきたような密度の濃い、テンポのある〈芝居〉になっていた。最後の場面ではホロリとさせられた。読みごたえのある、読後さわやかな気分になる、エンターテインメントとしてもすばらしい作品であった。
(「図書新聞」2002年8月10日)