アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載11)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載11

シカが横切る最後のシーン

───クリスマスの日に───


 TOMは小屋にたどり着くと、家の窓から外の世界を覗き見る。ドラマはここで幕を下ろしてもいい。が、幕は降りない。アニメは、灯りのついた小屋の前をシカが通り過ぎていくシーンで終えている。

 このシカを〈トナカイ〉と見なせば、一挙にこの最後のシーンは象徴的な意味を担うことになる。〈トナカイ〉はサンタクロースを乗せた橇を引いている。アニメには窓の前を通過する〈トナカイ〉の頭部しか描かれていないが、少し想像力を働かせれば、橇に乗ったサンタクロースの姿が浮かび出てくるだろう。

 今まで、アニメ『TOM THUMB』の世界では動植物の〈殺すか殺されるか〉の凄まじい闘争の場面が繰り返し描かれていた。TOMはアニメの主人公にふさわしく、何度死んでも蘇ってくるが、世界を凝視し続ける〈一つ目〉は冷徹に闘争の絶えない現実の諸相を捕らえていた。芋虫は鶏に捕食され、蝉は蜘蛛に捕食され、鶏は人間に調理され、人間同士は性懲りもなく戦争で命を奪い合っている。


 TOMがトロッコに乗って森に向かう途中、教会堂の墓地の前を通るシーンがある。墓場から蘇った骸骨は銃をかまえて銃弾を発している。人間は一度死んで蘇ってすら戦いをやめないのである。人道や民主主義や世界平和を素朴に願っている者たちにとっては認め難い人間認識の発露である。見ようによってはキリスト教の教義の根本であるキリストの再臨や最後の審判そのものを徹底的にパロディ化しているとも言えよう。


 二十一世紀の黙示録者は、宗教的な次元におけるいっさいの希望を断念しているかのようだ。しかし、この黙示録者が最後のシーンにおいて〈トナカイ〉を登場させていることは改めて注目しなければならない。振り返れば、TOMの親指と人差し指につかまれ、TOMの箱庭(世界)に最初に置かれたのは〈トナカイ〉であった。〈トナカイ〉は蟷螂の残骸(外套)に花開いた〈水仙〉と同様、世界壊滅後の再生を予告するものとして設定されていたと言えよう。

 が、この〈トナカイ〉はそもそもオモチャであり、藁で作られたような人工物であったことを忘れないならば、現代における〈再生〉〈希望〉は途方もなく絶望の淵に佇んだままとも言えよう。

 今日は二〇二十三年十二月二十五日クリスマスの日である。クリスマスは言うまでもなくキリストの降誕を祝う日である。「神は死んだ」と宣告したニーチェが死んで百年以上たった今日においても、世界は依然として〈神〉を信じる者たち同士で殺し合いをしている。もし、本当にキリストが再臨したとして、この殺し合いを止めることなど可能なのであろうか。

 鐘が鳴り響く教会堂の内部は死に神コウモリの巣窟になっていた。第八番目の神TOMは〈呪術師=蟷螂〉に捕らえられ、空中に吊り下げられていた。アニメ全般にわたって教会堂が祈りと救いの神聖な場として描かれてはいなかった。まずは絶望と諦念の椅子にじっくりと腰を据えて世界をとらえ返さなければなるまい。

 本編でチッブリン映画(『モダン・タイムス』『ゴールド・ラッシュ』)を連想させるシーンについて少しばかり触れたが、ここでは『独裁者』における独裁者ヒンケルと間違われた床屋(チャップリン)の演説に耳を傾けたい。

 「私は皇帝になんかなりたくない。それは私の仕事ではありません。私は、誰のことをも支配したり征服したりなんかしたくないのです。できるならすべての人を助けたい。ユダヤ人でも、それ以外の宗教の人でも。黒人でも白人でも。私たちは、みんな、お互いに助け合いたいと思っています。人間とは、そういうものなんだ。私たちは、他人の幸福と隣り合わせに生きたいのだ。他人の不幸と隣り合わせにではなく。私たちはお互いに憎んだり、さげすんだりしたいとは思っていない。この世界には、すべての人の場所があるのだ。この大地は豊かで、すべての人の場所があるのだ。この大地は豊かで、すべての人を養うことができる。人生とは自由で美しくあってほしいものなのに、私たちは、そうした生き方を失くしてしまった。」(引用は宇田川幸洋に拠る)

 映画の中で聴衆は熱狂的に拍手する。が、今、この演説を聴いてどれほどの人間が感動し拍手を送るのだろうか。『独裁者』は第二次大戦中の一九四〇年に制作された。それから今日に至るまで床屋の感動的な演説も空しく、第一次中東戦争(一九四八年~一九四九年)、ベトナム戦争(一九五五年~一九七五年)、第二次中東戦争(一九五六年)、第三時中東戦争(一九六七年)、第四次中東戦争(一九七三年)、イラン・イラク戦争(一九八〇~一九八八年)、イラク戦争(二〇〇三年~二〇一一年)……と人類は性懲りもなく戦争を続けている。独裁者ヒンケルと平和主義者の床屋の二役を演じたチャップリンは、おそらく人間の度し難さを知っていたに違いない。床屋の演説に熱狂的な拍手を送る人間たちが、同じく独裁者ヒンケルの演説にも熱狂的な拍手を送るのだ。精神の自由を願い、争いを憎む人間が、それにもかかわらず戦争を支持したりするのだ。キリストの「殺すなかれ」が守られたためしはないのだ。ウクライナ・ロシア戦争とハマスイスラエル戦争がその厳然たる証である。

 床屋の演説は最後に愛するハンナに向けて発せられる。

 「ハンナ、聞こえてるかい? 君が今どこにいようと、顔を上げなさい! 見上げるんだよ、ハンナ! 雲が晴れて行くよ! 太陽が顔を出し始めた! 私たちは暗闇から抜け出て、光に辿り着こうとしている! 私たちは新しい世界に入ろうとしているのだ。人々が、貪欲や憎しみや獣性をのり超えて、もっとやさしくなれる世界に。見上げなさい、ハンナ! 人間の魂には翼が与えられていたが、ついに、それが飛び立ち始めているのだ。人間の魂は、虹に向かって飛んでいる。希望の光に向かって、未来に向かって、あなたのものであり、私のものであり、そして私たちみんなのものである。栄光に輝く未来に向かって飛んでいるのだ。見上げなさい、ハンナ! 見上げなさい!」

 

 見上げたその両目に希望の〈虹〉は映るだろう。が、わたしたちはすでに知り尽くしている。〈栄光に輝く未来〉が幻想でしかないことを。希望の太陽は確かに昇るだろう。しかしその太陽も沈み、再び世界は暗闇に覆われるのだ。これが厳然たる自然の摂理である。自由と平等という対立概念を臆面もなく前面に押し出し、人類に善と正義を約束した革命家も床屋以上の美辞麗句を口に出し続けた。

 わたしたちは今、どういう顔をして空を見上げたらいいのだろうか。目的が正しければあらゆる手段が許されているという革命家の論理によって、独裁者スターリンポル・ポトが誕生した。美しい言葉(〈希望の光〉〈栄光に輝く未来〉)には要注意なのだ。

 革命の根源的問題に関しては「ドストエフスキーの『悪霊』は必読書である。少なくとも『悪霊』を読んだ後に、ここで〈希望の光〉に満ち溢れていると言われた大空を見上げるべきであろう。大空には希望の光を体現する天使も舞っているが、同時に悪魔もその翼を思い切り広げて宙を舞っているのである。鐘が絶え間なく鳴り続ける教会堂の中から、無数の蝙蝠が飛び立ってくるシーンを忘れてはならないのである。

 アニメ『TOM THUMB』の作者は安易な一義的な〈希望の光〉を提示してはいない。わたしは再び、三度、灯りのついた小屋の前を〈シカ〉が通過していく最終シーンの前に佇むほかはない。