アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載9)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載9

 


カメラはこの感電した蟷螂の顔に近づき、我が家を目指してトロッコの鉄路を必死に逃げるTOMの後ろ姿を映し出す。TOMは村の橋を渡りきる、とつぜん油田が爆発し黒煙が立ち上がる(世界壊滅の暗示)。画面は真っ暗になり、次いでアザミの花にとまっている蟷螂が映し出される。この蟷螂は背後からとつぜん鶏によって捕食される。蟷螂を呑み込んだ鶏の右目がアップで映し出され、その一つ目は観る者(視聴者)を凝っと見つめる。一回瞬きすると、鶏の目はひとの目に変わり、その目が瞬きすると、TOMの左目に当てた赤い透明石を取り外す場面へと変わる。

 

 


 帽子をかぶり、左目ひとつのTOMの顔がアップの直後、画面は一転して空から落下する黒い外套が映し出され、地上へゆるやかに落下する。この外套は蟷螂が身につけていたもので、感電死した蟷螂の亡骸である。その落下する亡骸の上空を一機の飛行機が画面右下から画面左上へと飛去っていく。目眩くような画面変換のうちに、蟷螂の死は何度も繰り返され、それを見つめ確認する〈一つ目〉(鶏の右目、人間の一つ目、赤い透明石、TOMの左目)が強調され、飛行機はそれらすべてを俯瞰的に眺める視点を獲得している。


 このアニメにおいては世界を見る視点は複合的であるが、その複合的視点を〈一つ目〉が絶対視点として支配している。TOMは一人物としてアニメ世界を冒険する子供であるが、絶対視点としての〈一つ目〉(緑と赤に色を変える透明石)を獲得している創造主なのである。


 画面には、残雪の地に落下した外套が見える。背後からTOMが顔を出し、左手を延ばして外套のボタンを一つもぎ取る。やがて外套に一本の水仙が芽を出し、白い花をつける。外套はたちまち水仙の花々に囲まれる。水仙は復活を象徴する花である。はたして感電死し、鶏に捕食された蟷螂(昆虫=巡礼者=祈祷師=晩餐の主宰者=魔術師=世界の破壊者)の再生はあるのか。


 暗転の後、小屋に戻ってくる木こりたちの姿が映し出される。TOMは最後に小屋に入る。小屋全体の背後に幕が下り、ドラマは〈とりあえずの終わり〉を告げる。次に、灯りのついた小屋の窓(四つに区切られている)の左片隅から一つ目のTOMが顔を出し、外の世界を覗き見る。


 この場面は観ている者をギクッとさせる。TOMは今、彼が創造した世界、その創世と終末(そして再生の予告)を観続けた視聴者一人一人に向かって、巨大な問い、人間である限りだれも逃れることのできない問いを突きつけているのである。

 人間とは何か、自然とは何か、神の存在とは、いかに生きるべきか、ドストエフスキーが全生涯を通して探求し続けた永遠の問いを、窓から外を見つめるTOMの左目が問うているのである。そして最後に、画面左から右に向かって作り物のシカが通り過ぎていく。直後、小屋の扉は閉じられ、その扉に「THE END」が刻印される。

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載8)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載8


 目的を果たした〈蟷螂〉は巨大な影法師に変身して風の如く空中を飛翔するが、その飛翔は逃亡のようにも見える。この〈不気味な風〉に追われるようにしてTOMもまた必死になって森の闇の中を駆け続ける。いったいTOMは何から逃亡しているのか。TOMを追う得体の知れない巨大なもの、それはあらゆるものを冷酷に何の感情もなく呑み込むもの、つまり〈死〉そのものが具象化された幻影体にさえ見える。最初、その正体は視聴者に隠されているが、やがてそれは風となった幻影体であることが分かってくる。



幻影体はいつの間にか空中から森の中に入り込み、必死に逃げるTOMを背後から襲う。その時の幻影体の、マントをたなびかせたからだ全体には、世界(TOMの箱庭=TOMが創造した世界)の地図が浮き彫りになっている。この恐るべき幻影体は自らが全世界を体現するものとして、巨大な鶏の嘴となってTOMを襲うのである。はたしてTOMの運命は。

 

 〈死〉という怪物は、聖なるキリストをも呑み込んでしまうのだ。ドストエフスキーは『白痴』のイポリート少年の口を通して、十字架から降ろされた〈死せるキリスト〉をさえ呑み込んでしまう〈死〉の恐ろしさを語った。詳細はイポリートの「わが必要欠くべからざる弁明」を読んでもらうしかないが、ここでイポリートはあらゆるものを例外なく呑み込んでしまう〈死〉を、実に巨大な情け容赦もない〈もの言わぬ獣〉、限りなく偉大で尊い存在(キリスト)をも無意味にひっつかみ、粉々に粉砕し、無感情のままにその口中に呑み込んでしまう最新式の〈巨大な機械〉に喩えている。

 イエスは〈ラザロの復活〉という奇跡を起こす前にマルタに向かって「われは甦りなり、命なり、われを信ずるものは、死すとも生くべし。すべて生きてわれを信ずるものは、永遠に死することなし」(Я есмь воскресение и жизнь:верующий в меня,если и умрёт,оживёт.И всякий живущий и верущий в меня не умрёт вовек.)と言っている。ここに引用したのは『罪と罰』(米川正夫訳)からだが、死んで四日もたったラザロを蘇生させた「ヨハネ福音書」のイエスはまさに父なる神に遣われし神の子キリストとして現れている。イエスは〈甦り〉(воскресение)であり〈命〉(жизнь)であるから、彼を信じる者は永遠の命を得ることになる。つまりイエスを信じる者は〈死〉を恐れることはない。信じると同時に彼は死を超越した境位に生きることになる。

 この文脈でTOMを考えると、彼は〈第八の神〉でありながら〈死〉を恐れて必死に逃げ惑っていたことになる。アニメ『TOM THUMB』における人物たちは多義性を孕んだ存在として登場している。TOMはこのアニメにおいて創造神であると同時に、〈斧〉を抱えた木こりたちの後について行った一人の子供でもあるのだ。この二義性を二義性のままにアニメ世界で生きているところにTOMの面白さがある。


 世界地図を図柄にした幻影体は森の中から再び空中へと飛翔し、帰還の途を急ぐが、途中、闇の中に浮かぶ教会堂の扉から無数のコウモリが飛び立つ場面が挿入されている。教会堂の闇の内部には回転する円形の柱に手足を打ち付けられた骸骨や鋭い鋸刃などが浮かびあがる。教会堂はすでに死神の支配下に落ちており、コウモリの飛び立つシーンは、幻影体が〈コウモリ=死神〉でもあったことを強烈に印象づける。

 


 幻影体は電信柱の上を跨ぎ越えながら怪しく跳び続ける。突如、画面に鶏の顔が出現、嘴を大きく開けて雄叫びをあげると、次にそのまん丸の右目が大きくアップされる(鶏と蟷螂は対峙する関係にもあるが、同一的存在でもある)。再び画面には幻影体が現れ、遂に四本の電線に手足をとられ感電死する。両手両足を大きく開いて感電する幻影体のからだはレントゲン撮影されたかのように蟷螂の骨格を白くさらけ出す。すでに何回となく、蟷螂の様々に変容した姿はその正体を暴かれていたとは言え、この電気による磔の場面は圧巻である。因みに、幻影体が電信柱に足を掛けたときの〈電信柱〉の頭頂部(三角形)は〈蟷螂〉の頭そのものに見える。

 

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載7)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載7

 さて再びここで、館を飛び出し、空中へと飛び出した男の後を追うことにしよう。ここで人物の動きは画面右から左へと変換している。女の館で目的(祈祷式・晩餐・破壊)を達した〈蟷螂〉はここで帰還の途を〈風〉となって急いでいるように見える。


 大気と同化したかの如き、時空を飛翔する〈幻影体=蟷螂〉はまさにその霊的な存在を彷彿とさせる。印象としては、この飛翔する存在に何か邪悪なもの、悪魔的なものを感じる。そもそも〈霊的なもの〉には神聖と邪悪なるものが共存している。わたしなどは「創世記」に登場する全知全能の神にもこの両極的なものが存在していると思わざるを得ない。「創世記」の神は自らが創造した人間を試み、裁き、罰する神である。真にこの絶対神が全能であるなら、とうぜんエヴァとアダムがサタンの誘惑に堕ちることは予め知っていたであろう。すべてを知っていながら試さずにはおれないこの神には、猜疑心の深い独裁者の相貌が色濃く反映されている。

 アニメに登場して、様々に変容する〈蟷螂〉は〈昆虫〉〈巡礼者〉〈祈祷者〉〈晩餐の主宰者〉そして〈蟷螂〉に戻り、さらに〈空中を飛翔する幻影体〉となって帰還の途を急いでいる。途中、〈こちらの世界〉と〈あちらの世界〉を繋いでいる高架橋を渡り終えた瞬間、この橋は崩落する。この時、風のごとき幻影体と化した〈蟷螂〉は〈巡礼者〉〈祈祷者〉というよりは〈世界の破壊者〉としての貌を際だたせている。


 さてここでもう一度、このアニメにおける数字の象徴性について触れておこう。キリスト教において〈六〉は悪魔を、〈七〉は神を意味する。〈六〉は〈斧〉を担いだ男に従う〈六人〉の人夫(木こり)、森の世界で画面左と右に屹立する各〈六本〉の大木などがすぐ想起される。〈蟷螂〉が主宰する祈祷の場面においてはテーブルの左右に各三人ずつ計〈六人〉の女たちが座っている。ところでこのテーブルの奥に腰掛けている子供をどのように数えるかである。信者の仲間に加えれば〈七人目〉となるが、主宰者〈蟷螂〉を神的な位置〈七〉に座っている者と見れば〈八人目〉となる。

 今回注目したいのは〈八〉である。高橋保行は『ギリシャ正教』(一九八〇年七月 講談社学術文庫)において「八という数字は、永遠、来世、天国、神の国という意味を持っている。これは、天地創造をあらわす数で、この世が完璧で善であることを示す七に、唯一の神をあらわす一を加えたときにできる。/キリスト教は、キリストをこの八の化身とする。唯一の神が、天より降り人となったことは、一が七に到来したといいかえられる。一と七を合わせると八になり、人となった神キリストは、この八の具現化されたものである」と書いている。

 まず主宰者〈蟷螂〉を〈七〉と見ると、信者たちもまた総計〈七人〉となる。ところでこの祈祷式にはもう一人の人物、TOMがテーブルの下に潜んでいた。TOMは女の一人から内緒で肉の固まりをお裾分けされている。つまりTOMは木こり集団においても〈八番目〉を確保していたが、ここでもまたしっかりと〈八番目〉の役割を背負っていたことになる。TOMはこのアニメにおいて霊的存在である〈蟷螂〉と同等、およびその力を超えて絶対的な神の位置を与えられていたことになる。

 しかし数字は数え方によって異なる。主宰者の〈蟷螂〉は信者〈七人〉を前にした〈八番目〉の存在と見ることもできる。そうなるとこの〈蟷螂〉は祈祷式の主宰者キリストでもあり、〈八番目〉の神でもあるということになる。見方によって様々な貌を現すが、いずれにしても〈蟷螂〉が神的存在を兼ねた悪魔的存在として多義的様態を顕しているとは言える。TOMは外見はみすぼらしい身なり(古い帽子、継ぎのあたった服、ボロ靴)をしているが、要するに様々な玩具に命を吹き込み、世界を創造した〈第八の神〉には違いない。しかしこの創造主TOMもまたアニメ世界の一人物として、殺し殺される自然の摂理を生きている。

 TOMの顔を見ていると水木しげるの〈ゲゲゲの鬼太郎〉を思い出す。TOMは斜に被った帽子の下から左目を出している。TOMの前歯は〈二本〉で、この歯は木こりの担いでいる〈斧〉に匹敵する〈殺しの道具〉である。古ぼけた〈帽子〉(皇帝の被る王冠の暗喩)、〈一つ目〉(万物の事象を見通す神の目の暗喩)など異形な顔立ちそのものが、TOMが日常を逸脱した怪異なる神的存在であることをそれとなく示している。

 鬼太郎は帽子は被っていないが、右目は誕生直後に事故で失明しておりそれは髪で隠れている。父親の〈目玉おやじ〉は死んだ後に〈左目玉〉として生き返り、息子鬼太郎の良きアドバイザー、保護者としての役目を全うしている。鬼太郎も最初は〈二本歯〉であったが、多くの読者を獲得するに従って怪異な貌を消していった。〈目玉おやじ〉は移動の際、鬼太郎の肩や頭に乗って、鬼太郎の失った左目の役目をはたしている。片やTOMの帽子にはアザミの花玉のようなものがついており、それは何か神通力を備えた〈一つ目〉のような役割を持っていたように思える。因みに、TOMが水の中から掬いだした透明石もまた世界を映し出す神秘的な〈目玉〉のようでもあり、この石はTOMの左目に、また後にはウサギの左目にあてがわれたりする。

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載6)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載6


 画面は真っ暗になる。無限の深さを思わせる闇の彼方から一つの光る球形のものが回転しながら近づいてくる。画面一杯に映し出されたものは無数の小枝が絡み合ってできている。それは鳥の巣のようにもみえるが、特定できない何か神秘的なものを感じさせる。拍動的に回転しているこの球体は画面一杯にアップされ、その直後に女の館にいた六人の女たちが手をつないで囲み、六芒星の形になって反時計周りに回転し始める。


 三回ほど回転すると今度は時計回りに回転する。六角の場所には女三人とそのあいだにシカ、クマ、オオトカゲが置かれている。三回ほど回転するうちに蟷螂の顔が大きく画面一杯に映し出される。彼らはお互いに手を繋いで回転し、あたかも親和的な関係を取り結んでいるように見える。が、次の瞬間、闇の中に女たちの館が出現し、明るく開かれた入り口が、まるでギロチンのような戸によって遮断される。


 画面は再び真っ暗に変わり、空から様々なかたちの帽子が〈六つ〉舞い降りる。画面変換、その〈六つ〉の帽子は一つ一つ食卓の皿の上に置かれている。次の瞬間、画面一杯に崩れかけた醜い老人の顔がアップされ、口が大きく開かれるとその広大な闇の中に女の館の内部を構成していたものたちが次々に現れては消えていく。電灯、額に入った写真、絵本、マリ、〈2〉を刻まれた積み木、手紙、椅子、ネックレス……そして最後に館から帽子を被った老人の化身らしい大きな影が画面左へと飛び出して行く。

 

 

 この場面は圧巻である。神秘的な謎をたっぷり抱え込んだ場面であり、様々な解読を許容する場面でもある。

 

 〈六つ〉の帽子が食卓の皿に置かれた場面を見たとき、わたしはすぐにチャップリンの『ゴールド・ラッシュ』の一場面(腹をすかしたチャップリンが自分が履いていた革靴を煮込んで柔らかくして食する場面)を想起した。人間は飢えると何でも食べる。そこでは人間ですら補食の対象となる。また皿にのせられた〈帽子〉を絶対的な権威の象徴と見れば、〈蟷螂〉はここで自分以外の絶対的なるものを食して滅ぼし、自らの絶対性の獲得保持を狙ったとも解釈できる。

 〈六〉を重要視すればその〈悪魔性〉が際だつことになる。〈祈祷師=晩餐の主宰者=蟷螂〉は信徒〈六人〉(最初、テーブルに着いていたのは女六人で、後から子供のような女が主宰者の向こう正面に座る。この七番目の女はウサギに変容したり、謎の多い存在である)を前にした第〈七〉番目の神的存在であると同時に、帽子の〈六〉に象徴される〈悪魔〉の貌も隠し持っている。さらに〈六芒星〉の如き得体の知れない球体の神秘的な動きを見れば、祈祷師〈蟷螂〉が世界破壊を企む悪魔的存在であったとも言えよう。〈蟷螂〉の所持していた〈2〉は世界の調和と平和を実現する数字ではなく、そうと見せて実は世界を呑み込み破壊する力を意味していたことになる。〈蟷螂〉は木こり、森に住む動物、館の女たちすべてを希望のない闇の世界へと呑み込んでいる。〈蟷螂〉は六芒星の中心に位置する邪悪なる魔術師であったということ、この悪魔的存在に関してはさらに考察を進めなければならないだろう。

 数秘術的減算による数字をもとにテキストを解読しようとすると、その多義性の余り、こじつけの感を否めないこともある。しかし、テキストが豊饒な世界を構築している場合は、作者自身すら意図していなかった神秘的光景が現出する場合もある。『罪と罰』のロジオンなどはその名前からして多義的象徴性を備えている。フルネーム「ロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフ」(Родион Романович Раскольников)のイニシャル〈РРР〉を下から上にそのままひっくり返せば〈666〉(悪魔)となるが、この〈666〉を数秘術的減算すると〈九〉(神)となる。また〈РРР〉を右から左にひっくり返せば〈999〉となり、これを数秘術的減算すれば〈九〉となる。ロジオンが〈神と悪魔〉の戦場を生きていた分裂者であったことは言うまでもない。アニメの〈蟷螂〉も〈昆虫〉〈巡礼者〉〈祈祷師〉〈最後の晩餐の主宰者〉〈悪魔〉〈風〉として〈六〉〈七〉〈八〉〈九〉といった様々な貌を隠し持っていた。

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載5)

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アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載5

女たちの館――祈祷式・晩餐式――


 さて人間に変容した〈蟷螂=巡礼者〉は森を抜けると一軒の家にたどり着く。彼の立ち姿は明らかに男性であり、その開かれた両足は容易に蟷螂の前肢を連想させる。

 

 この館は森の奥にあるかのように設定されている。実は男が訪問する前に、TOMが一足先に館を訪れ女たちと親交を結んでいる。女たちの館の扉が開かれると、画面右に深鍋で鶏のスープを作っている女、画面左に浴槽に水を入れている女、中央にテーブルの上に置かれた絵本をめくっている女が現れる。テーブルの下には〈2〉を刻印した積み木、玩具の大砲や騎士たちが置かれており、TOMと女の一人が積み木遊びをしている。

 


 やがて、テーブルの上には純白の布が敷かれ、テーブルの両側に三人ずつ、計六人の女たちが座る(少し遅れて小さめの女が正面奥の席に座る)。画面手前、上座に〈蟷螂=祈祷者〉が座る。この人物、座るといきなり帽子を取る。はじめは女性らしい立ち姿、歩き姿であった人物の頭は禿げており、明らかに〈男〉であることを顕している。この男、口から呪文のような言葉を吐き出し、この言葉はテープ化してテーブルについていた七人に、そしてテーブルの下に身を隠していたTOMにまでまとわりついていく。まさにここで〈蟷螂〉は森を通過する〈巡礼者〉から〈祈祷者〉へと変容している。

 この祈祷が具体的に何を意味しているのかは不明だが、最初にこの場面を見たとき、すぐに想起されたのはキリストによる最後の晩餐の光景であった。アニメで晩餐(祈祷会)を主催しているのは〈蟷螂〉であり、アニメでは晩餐終了後に禿頭の男が突然、蟷螂の姿に立ち戻ることで種明かしがされている。やがてこの〈蟷螂〉も姿を消し、そこには抜け殻となった外套だけが映し出される。いったい〈蟷螂〉はどこへと姿を消したのか。


 謎だらけの晩餐会であるが、強烈な印象を受けるのは、主宰者の男の口から出てくるテープ状のものである。これは先が二つに割れており、まるで蛇の舌のようにクネクネと不気味な動きをしている。ひとを安穏と至福の世界へと誘う祈祷というよりは、なにか邪悪な呪文のようにも聞こえる。この呪文は聴くものを呪縛するような悪魔的粘着的な力を持っているようだ。が、その異常に長く延びた反時計回りのくねった舌もようやく男の口に納まると、テーブルには料理が運ばれ、なにごともなかったかのように晩餐会がはじまる。


 祈祷会が催される前、女の一人が鍋で鶏を煮込んでいた。つまり調理には動物の〈殺し〉が必要とされている。テーブルに腰掛けて絵本を見ていた女は片足でマリを弄んでいた(わたしはこの場面にチャップリンの『独裁者』の一場面、独裁者ヒンケルを演じるチャップリンが地球を象徴する風船をお尻や足で自在に宙に蹴りあげて遊んでいる場面を想起した)。画面右の女が鏡台の引き出しを開けるとその奥に潜んでいた鼠が逃げだし、テーブルの下に潜り込むとさっさと地下の住処へと逃げ去る。鼠を追ってきた女は、玩具の騎士二人を両手で掴んで戦わせ、負けた騎士を地下に投げ捨てる。

   


カメラは落下する騎士を追っていく。館の地下には鼠たちの住処があり、そこでは鼠たちもまた人間と同様の喜怒哀楽の生活を営んでいる。紐でつり下げられた揺り籠をやさしく揺らしている母鼠、端の小部屋で酒を飲んで仰向けに寝そべっている鼠、洗濯物が干されている場面などには、作者の小動物に向けられた愛を感じた。館のた女たちには鼠に対する微塵の同情もないが、制作者にはたっぷりと憐憫の情が籠もっている。女の館の画面右で鶏が調理されている時、画面右では湯船に浸かっている女の目の前にオモチャのアヒルが浮かんでいる。殺し殺される生きものたちの闘争の現場から、死を免れているのはこのオモチャのアヒルだけである。

 皿に盛られた肉料理はたちまち骨と化す。晩餐後、地下の住処から一匹の鼠が出てきて主宰者〈蟷螂〉の左耳に何事かを囁く。〈蟷螂〉はメガネをかけてテーブルの下を覗き、TOMを発見すると有無も言わさずいきなり掴みだしてしまう。テーブルの下に居座るTOMは鼠たちの生活に支障をきたしていたらしい。この場面だけを見ると〈蟷螂〉はこの館で最も弱い者の願い事をかなえてやる慈悲深い祈祷者にも見えるのだが。

 

 たとえ〈蟷螂〉の祈祷が神聖にして愛と赦しに溢れていたとしても、人間は動物を殺して食することで命をながらえる。先に芋虫を瞬時に補食した鶏が、ここでは人間によって殺され調理され肉の塊となって食されている。鶏を丸ごと深鍋に入れて煮込む女に一片の同情もない。肉食文化の風土に育った者たちは飼育した動物を屠殺して調理することに格別の抵抗を覚えないかも知れない。が、農耕文化と仏教の教えに馴染んだ者には、この残酷な調理と旺盛な食事の場面には何か生々しくおぞましいものを感じる。煮込まれた鶏の〈爪〉や〈頭〉や〈目玉〉が皿にのせられているが、女たちは表情ひとつ変えずにむさぼり食っている。女の一人が〈蟷螂〉に内緒でテーブル下のTOMにも骨付き肉を与える。TOMはまるで餓鬼のように肉にかぶりつく。この晩餐会に出席している九人は例外なく殺した動物の肉を堪能しているのである。

 


    TOMがつまみ出され、鼠が地下の住処に戻った後、画面は教会堂の鐘が鳴り響く場面に変わる。続いて老人の顔がアップされ、その顔の表面を何か黒い影が左右に揺れる鐘の動きに合わせて不気味に揺れている。老人のかけているメガネの二つのレンズには、天井から宙吊りにされたTOMの揺らぐ姿が映っている。鐘、黒い影、宙吊りされたTOM――と映像は老人の顔の上で重なり変容するが、そのあいだ教会堂の鐘の音は絶え間なく鳴り響いている。

 画面は一挙に、晩餐会の光景へと変換する。テーブルの中央には把っ手付きの鍋が置かれ、左右に三人ずつ、正面に一人、計七人の女たちが席についている。皿には鶏の頭や骨付き肉が置かれている。

 天井から吊された笠をかぶった電灯が縦(画面上下)に大きく揺れると、出席者の顔ぶれや鍋が替わっている。第二回目の揺れ(画面下から上)の時には鍋の蓋がずれて隙間から鶏の脚(三本の爪)が突き出している。正面の席には小さな女に代わって耳の長いウサギが座っている。揺り戻しの時(画面上から下)、鍋は四個の卵が入っている鳥の巣に変わり、老人はすっかり蟷螂の姿になっている。第三回目の揺れの時には巣の中の卵の一つが割れている。雛の姿はなく孵ったのかどうかは不明である。画面右奥にシカが、正面にバケツをかぶったウサキが座っている。揺り戻しの時には四つの卵すべてが割れており、画面左の席には舌を延ばし牙を剥き出しにした縫いぐるみのクマが座っている。画面下にいた蟷螂の姿はなく、外套だけが抜け殻のように置かれている。

 

 

 


 続いてカメラは皿の上にのった骨付き肉(ナイフとフォークの間)、鶏の脚、雛鳥の肉、クロースの上に直に置かれた鶏の目玉などを映し出す。これらは姿を消した蟷螂老人の目の前にあったものだ。

 次に画面はテーブルクロースが掛け布団代わりになって眠りについた木こりや女たちを覆い、晩餐会の場所は女たちの館の一室から大木に囲まれた森へと移行し、それはさらに雪の積もった道となって奥へと続き、その雪道にはなにものかの足跡が残されている。カメラは、暗く深い、果てしのない森の奥へ奥へと突き進む、その姿なきなにものか(おそらく蟷螂であろう)の後を執拗に追いかける。



アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載4)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載4

 当初、書割のような〈森〉には人間たちばかりではなく〈シカ〉〈ウサギ〉〈クマ〉(〈森〉の守護神のような怪物で、〈森〉の中に踏み入って来る者たちを穴蔵から凝っと見つめていた。現に存在する動物の姿(クマやオオカミ)を象った怪物かも知れないし、伝説的な獣かもしれないが、詳らかにしないのでここでは単にクマとしておく。いずれにしてもこの怪物は〈森=神殿=九)の中に踏み込んできた〈木こり〉やTOMや〈巡礼者=祈祷師=斧虫=蟷螂〉の姿を終始監視し続けていた)それにハサミやメス(外科用の小刀)やネジなどで合成された〈ハサミ鳥〉なども生息していた。
 〈シカ〉〈クマ〉は縫いぐるみ、〈ハサミ鳥〉は人工的な金属器具で作られているが、このアニメの世界の中では命を吹き込まれて生物と同様の敏捷な動きをしている。大木には〈キツツキ〉の巣がかけられ、その中には〈二つ〉の卵が産み落とされている。

数字〈2〉は対立する二者を結び付け、調和と平和をもたらす数字であるが、このアニメにおいては〈死〉や〈破壊〉を意味する場面が多い。切り倒された大木や電気作業員や電信柱などが次々に巣に〈二つ〉の卵のあるこの〈森〉の神殿に倒れこんでくる。木こりたちは大木を伐採したり、〈二人〉一組になって鋸で輪切りにしたり、大木〈二本〉を十字に重ねて切ったりしている。十字に重ねらせれた大木二本は十字架を連想させる。

 


 この〈森〉の中には電信柱が倒れてきたり、電気作業員が落ちてきたり、伐採された大木がきちんと並べられたりする。〈森〉(神殿)を壊滅する圧倒的な力は木こりの親方が担いでいる〈斧〉と〈巡礼者=斧虫=蟷螂〉が木の幹に打ち付けていくカード〈2〉によって明確に暗示されている。木株に打ち刺された〈斧〉、その傍らを〈斧虫=蟷螂〉が通り過ぎていく場面は戦慄的である。


 作者は書割的〈森〉の中を木こりたちをはじめ、それに続くものたち(シカ、ウサギ、クマ、オオトカゲなど)を画面左から右、右から左へと繰り返し移動させている。この人物たちの規則正しい移動は画面下から上への移動によって表現され、このアポロン的に図式化された〈森〉に果てしのない奥深さを与えている。
 やがてこの静謐な〈森〉において登場人物たちの殺すか殺されるかの壮絶なバトルが執拗に繰り返されることになる。〈森〉はこの時点で〈神殿〉としての聖性を容赦なく侮辱され愚弄されていたと見ることもできる。この自然の〈森〉、〈神殿〉としての聖性を護持していた筈の〈森〉は木こりたちが持ち運んだ〈斧〉と〈祈祷師=蟷螂〉の所持していた〈2〉(死と殺しのカード)によってディオニュソス的な闘争空間と化すのである。

 


 逃げるTOM、逃げまどう木こりたち、追いかけるシカ、クマ、ハサミ鳥、彼らの壮絶なバトルは果てしなく続くかのようだ。木こりたちはシカの角に振り回され、クマの大きな口に呑み込まれる。ハサミ鳥の各部分は鋭い凶器となってTOMの全身に突き刺さる。が、この森の中にあって死者は例外なく蘇る。TOMが放り投げた〈斧〉はクマの腹を断ち割り、呑み込まれた木こりたちが次々に出てくる。やがてこの壮絶なバトルは、すべての登場人物が団子状に丸められてしまうことで決着する。が、このアニメにおいて一つの破滅は新たな創世を用意している。

 

 〈森〉が〈神殿〉でもあったこと、及び壮絶なバトルの場でもあったことを確認した上で、〈蟷螂〉の巡礼の旅を追うことにしよう。


 一見スマートな女性のごとき様相でこの森(世界)を通過する者は、人物に変容した〈蟷螂〉で、かれはまるで外科医が所持するような様々な器具を整然と納めた鞄を右手にぶら下げている。この鞄には世界を拡大して隅々まで透視できるかのような虫メガネや、〈2〉のカードが納められている。〈2〉は先に指摘したように〈殺し〉や〈死〉を意味している。この〈巡礼者〉でもあり〈祈祷者〉でもある〈蟷螂〉はあたかも死を支配する霊的存在者としての不気味な貌を醸し出している。


 ここで人物たちの歩く方向性について指摘しておこう。人物たちは八割がた画面左から右へと移動している。これは小屋から出て〈斧〉を肩に担いだ男とその配下の六人、およびその後に従うTOM、そして鞄をさげた人物に変容した〈蟷螂〉などが、最初から画面右に象徴される目的地に向かっていたことを示している。厳密に言えば、彼らは右から左、左から右へと繰り返し往復することで森の奥地へと突き進んでいる。
 〈斧〉を担いだ男たちの目的は森の大木を切り倒すことにある。切り倒された大木は製材所で整えられ、その一部は電信柱として使用される。つまり木こりたちは森(自然)を破壊して文明発展のために尽くす役割を果たしている。しかし、電信柱が折れ、作業員諸共に森の中に投げ落とされる場面が描かれている。〈斧〉によって切り倒された大木は文明発達の役に立ってはいるが、同時に取り返しのつかない事故による自然の側からの復讐もある。作者は一義的な、人間に都合のいいだけの発展などないことを冷徹に見据えている。
 森に向かう途中、TOMは製材所の中に立ち入り、歯車に足をかけたりして遊んでいるが、機械に巻き込まれそうになる。この場面はチャップリンの『モダン・タイムス』の一場面を想起させるが、要するに機械文明に対する一種の警告がさりげなく示された場面と言えよう。

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載3)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載3

書割的な〈森〉の象徴性


 木こりたちが踏み込んだ森は画面右に屹立した〈六本〉の大木、画面左に同じく屹立した〈六本〉の大木、その間の空間は〈六つ〉の固まりによって描かれている。まるで舞台の書割のように単純化された〈森〉であるが、この〈森〉は世界・宇宙の縮図と言ってもいい。数字の象徴性で見れば〈六〉×〈三〉=〈十八〉で数秘的減算すると〈九〉となる。

 〈九〉でわたしがすぐに想起するのは『罪と罰』のヒロイン、ソーニャの部屋の番号である。この部屋で売春婦ソーニャは客を取っていたとも考えられるが作者ドストエフスキーは明確に書いていない。分かっているのは、ソーニャはここでロジオンに頼まれて〈ラザロの復活〉の場面を朗読していることである。

 注目すべきは、朗読中にソーニャの部屋に二千年の時空を超えてキリストがその姿を顕していることである(尤も、このことは独自のテキスト解読法を駆使しなければ発見できない。ふつうの読者にはこの時、ソーニャの部屋にはソーニャとロジオンの二人しか見えない)。ソーニャは顕れたキリスト(видение=実体感のある幻)に向かって自らの信仰をマルタの発した言葉「主よ、しかり! われなんじは世に臨るべきキリスト、神の子なりと信ず」(Так,господи! Я верую,что ты Христос,сын божий,грядущий в мир)に重ねて自らの信仰を告白している(詳細はわたしの『罪と罰』論をお読みください)。

 久保有政著『ゲマトリア数秘術』(二〇〇三年 学習研究社)を読むと、ギリシャ語、ヘブル語のゲマトリア数秘術的減算して〈九〉になるものは意外と多いが、ここでは〈森〉の象徴的意味に関連する代表的なものだけをあげておこう。

 

「箱船」(容積=長さ×幅×高さ=300×50×30=450000キュビト=9)

「主なる神」(ギリシャ語で1224=9)

聖霊」(ギリシア語で1080=9)

「幕屋」(ヘブル語で36=9)

「祭壇」(ギリシア語で1728=9)

「神殿」(ギリシア語で864=9)

「天の御国」(ギリシア語で2880=9)

「神の秘密」(ギリシア語で999=9)

聖霊」(ギリシア語で1080=9)

 

 書割のように単純化された〈森〉は自然の象徴であると同時に、それが〈祭壇〉や〈神殿〉の意味も担っていたとすれば、とうぜんこの場所は神聖にして冒すべからざる聖所となる。画面の表層だけを読めば、七人の木こりとTOM(計八人)は木を伐採するために仕事場としての森に入ってきたに過ぎないが、このアニメの映像に込められた多義的象徴性や宗教的・黙示的意味に踏み込んでいくと〈森〉はとつぜんその様相を変えることになる。〈斧〉は大木を切り倒すためだけの道具ではなく、〈祭壇〉〈神殿〉を破壊する恐るべき道具となり、死や殺しを意味するカード〈2〉もまたその次元においてとらえ返さなければならないことになる(因みに、〈九〉を〈箱船〉と見れば、森に踏み込んだ〈八人〉(木こり七人+TOM)と、〈箱船〉に乗り込んだノア、ノアの妻、ノアの息子三人、彼らの妻三人の計〈八人〉との関係も面白い。なにしろこのアニメの一大テーマは世界の創世と終末と、その再生なのであるから)。


 木こりの〈斧〉によって自然は破壊され、文明化が押し進められるが、同時にこの〈斧〉は冒すべからざる〈神殿〉をも破壊していたとなれば、ここですでに〈斧〉の両犠牲が浮き彫りになる。ロジオンの〈斧〉は二人の女を殺害するためにだけ振り上げられたのではない。この〈斧〉は当時冒すべからざる絶対専制君主であった〈皇帝〉の頭上に打ち下ろすために用意されたのである(この恐るべき企みを作者ドストエフスキーは主人公のロジオンにも、そして読者にも巧妙に隠した。その企みが暴かれるまでに百年の時が費やされることになった)。