アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載2)

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アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

清水正

連載2

 アニメ『TOM THUMB』には様々な謎が仕込まれており、画面は目眩くような多義的象徴性を孕んでいる。登場する動物・昆虫は弱肉強食の世界に投げ出されており、植物の葉を這う芋虫は鶏に食され、蝉は蜘蛛の巣にかかって命を奪われ、小さな魚は大きな魚に呑み込まれ、その魚は人間によって釣り上げられる。

 


 釣り人の頭上には高く構築された木橋を通過するトロッコが描かれ、積まれた丸太の一本がトロッコからずり落ちて舟を直撃、釣り人は水(川か湖かは不明)に投げ出されるが、かろうじて一命をとりとめる。ここでは食物連鎖の生き死の問題を超えて、事故や事件による生き死の問題が顕現化している。所詮、この世に誕生した動植物は例外なく〈死〉に呑み込まれてしまう運命にある。が、同時に〈死〉は新たなる〈生〉を孕んでおり、このアニメにおいても〈死〉と〈再生〉は大きなテーマとなっている。


 芋虫を食した鶏は、直後、蟷螂と対決的な体勢を取っているが、ここではその決着した場面は描かれていない(後に終幕近く、鶏があっけなく蟷螂を補食する場面が描かれるが、このアニメで蟷螂に賦与された霊的メタファーは重要であり、最初の場面では二者の対決結果は保留されている。蟷螂の敵に立ち向かうその姿が〈祈り〉の姿に似ていることにも注意すべきだろう)。自然の摂理に従えば、昆虫の蟷螂が鶏の攻撃を逃れることはできず、ここで補食されているのは確実と思われるが、その場面を敢えて描かなかったところに、〈鶏〉と〈蟷螂〉に賦与された特別な象徴的意味が込められていると見ることができる。


 まず〈鶏〉だが、これは農婦の飼っているニワトリと見ることもできる。登場する小動物の食物連鎖の頂点に立っているが、しかしこの鳥も人間によってその生死を支配されている。アニメでは女たちの館で、鶏がまるごとスープの材料になっている。

 さて、〈蟷螂〉であるが、この昆虫はアニメ『TOM THUMB』においては食物連鎖の枠外に存在しているようにも思える。〈蟷螂〉のロシア語〈богомол〉には〈巡礼者〉〈祈祷者〉という意味もある。〈богомол〉には〈бог〉(神)が入っており、〈蟷螂〉が綴りの次元で神的な存在であることが暗示されている。また日本ではその姿から〈拝み虫〉とか〈斧虫〉と呼ばれ、ギリシャ語の学名マンティスには〈占い師、予言者、預言者〉という意味もある。英語でpraying mantisは「祈るカマキリ」、preying mantisで「補食するカマキリ」となる。また〈蟷螂〉は共食いする昆虫、特に雌は交尾時にからだの小さい雄を喰い殺す昆虫としても知られている。以上、〈蟷螂〉は実に神秘的・怪異的で、多義的なイメージがつきまとっている昆虫である。

 

 アニメの最初の方の場面で、TOMが水の中からすくい上げる小さな石が出てくる。これはエメラルドのような透明感のある鉱石で、何か神秘的な感じを覚える(批評では〈透明石〉と名付けておく)。TOMはこの〈透明石〉を左の目にあてがい世界を覗き見る。TOMの観る外的世界は、この〈透明石〉の表面に映し出される。この時、TOMの観る世界と視聴者の観る世界は一致することになる。映し出されたのはアザミの花にとまっている〈蟷螂〉で、まるで踊っているようにも見える(因みに、この〈透明石〉は緑色と赤色の二種あるが、緑は〈蟷螂の目〉、赤は〈鶏の目〉のメタファであり、ウサギは緑色の透明石を左目にあてがっているが、TOMはこの赤・緑二種の透明石を左目にあてがうことのできる存在であった)。


 なぜ〈透明石〉に映し出された最初のものが〈蟷螂〉なのか、作者はさりげなくこの作品における〈蟷螂〉の重要性を示唆している。〈蟷螂〉は世界に存在する無数の生物種の中の一種でしかないが、この作品の中では世界を冷徹に見透かす霊的な存在としても登場している。

 やがてこの〈蟷螂〉はある人物に変容し、森の中を通過(巡礼)して女たちの住む館へとたどり着き、そこで新たな場面(祈祷と晩餐)を展開することになるが、ここではまず、木こり(+TOM)八人が足を踏み入れた〈森〉そのものを見ておくことにしよう。

 

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載1)

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

 

清水正

 

連載1

 このアニメ作品を初めて観たときの感想を書き留めておこう。わたしはドストエフスキーを半世紀以上読み続け、宮沢賢治の童話は四十歳から五十歳までの十年間毎日のように批評し続けた。つげ義春のマンガ作品に関しても何冊かの批評本を上梓している。こういった批評体験のある者がこのアニメを観た時、どのような反応を示すのか。まずドストエフスキー的な神の問題があり、宮沢賢治的な仏教の問題があり、つげ義春的な一種独特の幻想の問題がある。作者のニコライとイワンが宮沢賢治つげ義春の作品を読んでいるかについては不明だが、ドストエフスキーの作品、特に『罪と罰』は間違いなく読んでいるだろう。わたしはある場面ではドストエフスキーの『罪と罰』を、ある場面では宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』、そしてある場面ではつげ義春の『ねじ式』などを思い浮かべながらこのアニメ作品を鑑賞することになった。要するにアニメ『TOM THUMB』はわたしの好み、嗜好に合った作品であった。

 まず思ったのは、この作品は大胆にも世界の創世と終末(そして再生)を映像化したものであるという意味で「二十一世紀の黙示録」であるということであった。主人公TOMは帽子を斜にかぶった少年で、きわめてありふれたどこにでもいる少年として登場してくるが、『罪と罰』の読者にすれば、この少年がロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのイメージを賦与された存在であることはすぐに分かる。

 ロジオンは非凡人思想にかぶれた青年で、「おれにアレができるだろうか?」(Разве я способен на ето?)と考えている。ロジオンは自分が〈非凡人〉ナポレオンと同様の〈踏み越え〉(преступление)が可能な能力を備えているかどうかを試すために〈二人〉の女を殺してしまった。一人は高利貸しの老婆アリョーナでこの第一の殺人はロジオンが予め計画した〈踏み越え〉(犯罪)の中に入っていた。しかし第二の殺人はまさに作者ドストエフスキーが計画していた〈踏み越え〉で、この延長線上に〈皇帝殺し〉が含まれていた。ドストエフスキーがロジオンの最終的な〈踏み越え〉として考えていたのは〈復活〉で、これはエピローグにおいて実現することになる。

 ロジオンは分裂した意識の持ち主で、彼の内部世界には神と悪魔が共存している。『罪と罰』という作品世界の中ではロジオンは作者の協力もあって復活の曙光に輝くことができた、つまりロジオンは〈弁証法〉(диалектика)の代わりに〈命〉(жизнь)を獲得した存在になることができたが、わたしはロジオンは〈弁証法〉と〈命〉の間を永久に揺れ続けている存在ととらえている。

 さて、TOMであるが彼は設定上、ロジオンの非凡人どころか全能の創造主としての性格を賦与されている。このアニメにおいて『罪と罰』との共通性を見いだすとすれば、まず〈斧〉(топор)を指摘することができる。アニメの中で〈斧〉は、小屋の中から出てきた男(木こりの親方)が〈斧〉を肩に担いで歩き出す場面において初めて現れる。この親方の後に六人の男たちが続くが、彼らはこの時には〈斧〉を所持していない。

 〈斧〉が何か大きな力の象徴として提示されているのは、〈斧〉を背負った親方が彼に従う六人の男たちより大きく描かれていることでも分かる。 キリスト教の文脈に照らせば、六人を従えた先頭の男は〈キリスト〉的存在であり、従う男たち六人は彼の弟子逹であると同時に〈六〉という〈悪魔〉的要素も刻印されている。先頭を歩く親方を第〈七〉番目の存在とみれば、彼は〈七〉という聖性を備えた存在ということになる。このアニメにおいて動植物や事物は何らかのメタファーを隠し持っているが、文字や数字もまた象徴的意味を賦与されている。ここでは特に〈斧〉との関連で数字〈二〉(アニメでは〈2〉)に注目したい。

  ロジオンは老婆殺害の計画においてどういうわけか〈斧〉に執拗にこだわった。最初、ロジオンは女中ナターシャの料理用の〈斧〉を入手するつもりでいた。しかし、ふだんは買い物などで外出しているはずのナターシャは台所で仕事をしており、ここでロジオンは〈斧〉の入手をあきらめた。ところが中庭に出てみると、庭番小屋の中に光るものを見つける。近づいてみると庭番は留守で、光るものは薪割り用の〈斧〉であった。この時のロジオンと庭番小屋の距離が〈二歩〉、ロジオンは階段を〈二段〉ほど降りて、〈二本〉の薪の間にあった〈斧〉を盗み出す。この場面だけでも〈二〉は三回ほど出てくる。ドストエフスキーが意図的に〈二〉を使用していることは明白である。

 ギリシャ語の〈人殺し〉(ανθρωποκτονοζ)のゲマトリアは13の倍数1820となり、これを数秘術的減算すると〈二〉になる。ロジオンは屋根裏部屋から〈十三段〉の階段を降り、数字〈二〉の運命的で悪魔的な歯車に巻き込まれるようにして〈斧〉を入手し、この〈斧〉で〈二人〉の女を殺すことになる。アニメにおいて〈二〉は得体の知れない奇妙な人物のバッグから〈2〉のカードが出され、このカードは森の中の大木の幹に釘で打ちこまれたり、女たちが日常的な生活をしている場(テーブルに下)にさりげなく置かれたりしている。〈二〉は〈斧〉によって叩き切られる大木、一見安穏な平凡な家庭において鍋で煮込まれる鶏、テーブルの下を這い回る鼠の殺害など、つまり〈殺し=死〉そのものを意味している。『罪と罰』で〈斧〉は人間を殺す道具として使用されたが、アニメでは自然を象徴する大木の切断の道具に使用されるばかりでなく、近未来における小動物の〈殺し〉にも使用されることになる。殺す手段は〈斧〉に限らないが、カード〈2〉は不気味に暗示的にそれが置かれた場所での〈殺し〉を確実に指示している。


 TOMは古新聞の包みの中から様々な〈模型〉(世界を構成する諸物)をばらまく。TOMは小さな玩具のような諸物(それらは自然及び文明社会のどこにでも見られる物や生物)を〈親指〉(THUMB)でかき混ぜる。TOMはこのアニメ世界では創造主として設定されているから、彼の〈THUMB〉(親指およびペニス)は旧約聖書の〈神の息〉(дыхание жизни)と同じ力を備えている。全知全能の神の〈息〉が粘土を人間に変えたように、TOMの〈THUMB〉は人工的な玩具を生きた事物へと変えることができるのである。玩具が入っていた古新聞の印刷された〈活字〉に注意すれば、創造主TOMは言葉ではなく、人工的な模型玩具によって世界創造を果たしたことになる。

 TOMの〈THUMB〉は箱庭のような世界に玩具を配置するが、注目すべきは世界の中央に教会を据えたことである。が、このアニメにおいては教会(キリスト教の神)が絶対者として扱われていないことにも注意しなければならない。TOMの〈THUMB〉が最初に箱庭に据え置いたのは〈トナカイ〉である。この〈トナカイ〉がキリスト教的な神の範疇に収まり切らない自然の象徴であるなら、ニコライ&イワンのアニメ世界は〈神〉と〈自然〉をも包み込む独自の世界を創出しているとも言える。

 アニメ『TOM THUMB』は最初からキリスト教が移植される前のロシア的自然(豊饒な母なる大地)、原初的アニミズムの世界を全面に押し出している。ここに創出された異界の虚構空間は、それを観る者に癒しの感覚をもたらす。広大なロシア的大地を彷彿とさせる働く農婦の豊満な後ろ姿は、全人類を包み込んでくれるような大いなる母性を感じさせる。農婦は一貫して後ろ姿で描かれ、振り返ることはない。とうぜん視聴者は彼女の顔も見ることはできない。つまり、この農婦は個性を備えた一女性ではなく、豊饒な大地そのものとして現れている。


 カメラは引いて、農婦を背後に繁茂する植物と、その葉を食む芋虫や、蝸牛などの小動物を映し出す。画面に色は着いていないが、わたしの目にこれらの光景はフランスの画家アンリ・ルソーの描く植物群の〈緑〉と重なった。植物の葉も、その上を這い回る芋虫も、実に生き生きとその生命力を発揮している。キリスト教信徒の芸術家のまなざしは多くの場合、人間に向けられており、自然に生きる動植物は脇に置かれがちである。植物や動物や昆虫、ましてや微生物が人間と同等の価値を置かれて見られることはない。「創世記」には禁断の木の実や悪魔の役割を背負った蛇が登場するが、主役はあくまでも全能の神と被造物の人間である。ところがアニメ『TOM THUMB』においては、植物の葉や芋虫や蝸牛やその他の小動物もまた人間である農婦と同等の存在価値を賦与されて登場している。


 世界には人間だけが存在しているのではない。そこには芋虫が、蝸牛が、蝉が、蜘蛛が、蟷螂が、鶏が、その他無数の生物がかけがえのない一つきりの命を生きている。そしてこれら無数の動植物が織りなす自然世界では、生きるために殺す殺されるというドラマが日常的に繰り返されている。アニメでは葉の上を元気よく這い回る芋虫は羽化する可能性を拒まれて、一瞬のうちに鶏の嘴に捕らえられてしまう。補食は気の毒、残酷とかいう言葉が入り込む余地のない自然の摂理である。カメラは冷徹に自然の出来事、変更不能な自然の摂理を映し出している。そしての光景を無表情で凝視しているのが少年TOMであり、彼は創造主としての役割を背負いながらも、自らが創りあげた世界のなかで一人の登場人物を演じているのである。

 

 

猫蔵の「生贄論」連載15(最終回)

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載15 最終回)

猫蔵

共同幻想の中で生き続ける】
 家族を持っていたイーザリーは、テレビという公的なもののインタビューに対し、愛国者であることを強調せざるを得なかったと僕は感じます。そして人知れず、心の中の乙女たちに対して痛みを感じていたのなら。
 長崎の"隠れキリシタン"たちの家には、踏み絵を踏んでしまった後に、人知れず自らを鞭打ち、懺悔するための鞭(オテンペンシャ。46本の鞭を一つに束ねたもの)が伝わっているそうです。イーザリーもまた、その鞭を振るう様に、心の中に住む少女たちに、後で心の痛みを覚えながら謝っていたのかも知れない。そして、少女たちはその度に彼を受け入れ、赦していたのだとしたら。
 芸能の原点は、正に"見世物"となることです。
 生きるために、本来なら"見せたくないもの"を人目に晒し続ける"生贄"となること。ヨブ的人間•イーザリーは、ヒロシマに捧げられた"生贄"としての生を全うすることはできませんでした。しかし、一度自らを「ユダ」にまで例えた男が、晩年「私は後悔していない」という、あの言葉を発さなければ生きていけなかった悲しみがあったと僕は感じます。確かに、イーザリーは嘘をつきました。しかし、彼が「苦悩するパイロット」という共同幻想を世論と共に作り上げたことにより、心救われた人たちもいたはずです。人間が、巨大な機構の中の一歯車に過ぎなくなりつつある時代。原爆投下に加担しながらも、それを人間的良心の地平で苦しみ得る人間がいるのだという可能性を、例えば、原爆乙女や広島の人々の心に灯火として灯しました。現に、イーザリーという人物に僕自身が関心を惹かれた様に、彼が寄り添った共同幻想は、これからも誰かの心から心へと波及し続け、生き続けるでしょう。僕はそれを、虚構だからと一概に否定したくないのです。なぜなら彼は、そのずるい打算と同時に、アメリカ人の中にも、ヒロシマの少女たちに対して痛みを共有している人間もいるのだということを知り、一時でも安らぎを得てほしいという一片の祈りもまた、確かに持っていたと感じるからです。だからこそ、偽りの自己を演じた。それは、野心溢れるもう一人の彼の目からすれば、屈辱に塗れた道化の姿に等しかったでしょう。だからこそ、彼は最期まで揺れ動いていた。そこに、目に見える形でのハッピーエンドはありません。イーザリーの人生から、僕らが学び得るものがあるとすれば。クロード・イーザリーがつき、寄り添った嘘は、人々が需要し、欲した共同幻想だったということです。彼は、他ならぬ嘘をつくことによって、誰か他者の心を癒し得た。
 その事実は、今なおイーザリーを「原爆投下に加担しながらも、良心の呵責により破滅へと至った原爆パイロット」として書くウェブ記事が散見されることが示す様に、変わってはいないのです。

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。

猫蔵の「生贄論」連載14

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載14)

猫蔵

【赦し】
 さて、いよいよ最後に第四のターニングポイントに入ります。第四のキーワードは【赦し】です。先に見た第三の【転機】をいかに受け止め、他者を赦し、そして最終的に自らを赦し、誰かと分かち合う希望を再び見出すに至ったのでしょう?
 ヨブ記の場合であれば。怒れる神に対し、ヨブは「あるがままを受け入れること」を選択したように見えます。
 それまでのイーザリーにとって、日本の人々は「今なお自分を恨んでいる」存在に他ならなかったに違いありません。星条旗の英雄になるための欠くべからざる犠牲であり、自らが踏みしだいた者たちでした。『よだかの星』でよだかが自覚のないうちに飲み込んできた、数限りない羽虫や甲虫に過ぎなかった様に思えます。その状況が、他ならぬ自分自身が物言わぬ神の前で棒立ちになり、慟哭した瞬間、思いがけず変容を迎えます。苦しんでいたのは、「自分一人ではなかった」という気づきの獲得です。孤立した彼の目に留まったもの。それは、(史実としては間接的な意味ですが)イーザリーの手によって傷を負った少女たちでした。
 それまで決して交わることのなかった戦争の加害者と被害者が、ここにおいて数奇な邂逅を果たします。
  ヨブやイーザリーは当初、沈黙する神や他者に向け、「誰か、私の声に応えてくれる"誰か"はいないのか?」という、焦燥に満ちた"問い"を発していました。それが、「ここに"僕"がいるよ」という"返答"を、自分以外の他者へと向けて発する存在へと、大きな役割の転換を果たします。これは、一人の人間の個人史においては、人類史における天動説から地動説への転換に匹敵する出来事だと捉えます。
 『よだかの星』において、これまで"無数の命"を奪って生きてきたよだかは、自分を迫害する強者の「鷹」によって窮地に追いやられます。そして、思いがけず一匹の甲虫を生きたまま呑み込むことによって、自らの原罪を自覚します。そしてその命に想いを馳せ、燃え盛る炎となって「空の向こう」へと飛び去っていきます。
 「ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。」
 「僕はもう虫をたべないで餓うえて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。」「いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向うに行ってしまおう。」という、よだかの独白。これは、「宗教の本質をあえて一言で表すのならば、それは"自己犠牲"である」という根源的な事実を示しています。"自己犠牲"という言葉が、現在においては、かなりネガティブなニュアンスをもって語られることを承知しながらも、僕は敢えてこの言葉の本質を見定めたく思います。
 よだかの様に、自らが"生贄"となって、人知れず他者のために祈りを捧げ、死んでいくということ。それは、利害関係を抜きにして、見果てぬ他者に、自らを"委ねる"ということに他なりません。「他人に見捨てられた」自分が、同じ様な仕打ちを他者になすのではなく、「せめて自分だけは、孤独な他者の"問いかけ"に応え得る存在でいよう」とすること。これは、キリストの"十字架の実践"に通底するものがあります。
 果たして僕らは、自らの不幸の渦中で、いかに他者に優しくできるのでしょうか?それは、他者不信を乗り越えて、いかに他者を赦せるか?という問いです。他者を赦し、自分を"委ねる"ということは、他ならぬ自分自身を赦すことへと繋がります。
 "委ねる"は、"祈る"と言い換えられます。イエスの様に「他者のために自らの命を投げ出さなければいけない」ということでは決してありません。アメリカ軍と父なる神に"裏切られた"イーザリーが、自暴自棄の内に破滅せず、少女たちのために"祈り"を捧げた瞬間が訪れたとしたら。たとえそれがほんの一時であれ、その瞬間こそが、彼自身が自らを「特別な存在」として誇り得ることのできた瞬間だったのではないでしょうか。
 弱き者に寄り添い、その同伴者になるということ。それはつまり、キリストの実践であり、言うなれば「市井のキリスト」になるということです。
 僕自身の原体験に置き換えてみると。僕に向けられていた祖母からの愛情を、確かに僕は疑っていました。あくまでも「僕が祖母の孫である」という条件付きで、僕は祖母の愛情を受け止めていました。だから僕は、本当の意味において、他者に心を開き、歩み寄ったことがなかったのかも知れません。それが、思い当たる限りの僕の「原罪」に当たるものと言えそうです。
 自らの内部に巣食う、虚な目。その目に、イーザリーもまた絡め取られていた様な気がしてなりません。こんな自分でも、もう一度誰かを信じることが赦されるのだろうか?という問い。
 先に僕は、日本の見世物小屋について述べました。日本の見世物小屋は、他者の命を食むことによって生かされてきた自らの罪を自覚し、共有し得る機能を帯びた文化装置だと論じました。蛇女という芸能者もまた、自らが依代となり、他者の罪を背負う存在であると言えます。なぜなら、彼女たちの蛇殺しは、「食糧」としての意味ではなく、「殺めるために殺める」行為だからです。殺生を禁じた「放生夜」における存在の矛盾を解く鍵がここにあります。彼女たちは蛇(これは、僕たちが生きるために殺めざるを得ない、あらゆる生き物たちの隠喩でしょう)を手にかけることによって、自らの身に"見えざる罪"を背負い込んでいるのです。蛇殺しは、文字通り"見世物"であると同時に、僕らの原罪を可視化する儀式なのです。
 その意味において、大衆の面前で"蛇喰い"という殺生の罪を犯す蛇女は、穢れという刻印を刻まれた"罪人"です。同時に、人々の罪を一身に背負った"依代"に他なりません。彼女は衆目の奇異の目に晒され、その身に背負った僕らの原罪を、"芸"に昇華します。蛇を殺す蛇女は、殺される蛇のメタファーです。他者救済のために身を引き裂かれ、人々の奇異の目に晒される、生贄の蛇。この姿は、洋の東西は異なりますが、ある種イエスの姿を彷彿とさせます。放生夜における見世物小屋もまた、他者との"断絶"にはなく、緩やかな繋がりの中に生きています。
 改めて、クロード•イーザリーについて。彼の人生における、前進の"足枷"となっていたもの。それは、その明晰過ぎる"個我"でした。彼は、自分の見たもの以外は決して信じようとしない、リアリストでした。軍の規律を無視して皇居を襲撃した様に、イーザリーには、自分以外の他者を信頼して、自らのプランを委ねることが困難な一面がありました。既にその他者不信に、やがて訪れる「他者との断絶」の萌芽はあったと言えます。
 ユングの説を発展して解釈すれば。僕には彼が、神の子としての使命にいまだ"目覚めざる状態"で受肉した、イエス・キリストとして映ります。弟子のユダに触発されたイエスは、かつて父なる神がヨブに触発されたごとく、ユダの不完全性に、自らにはない人間らしさと自律性を見出します。そしてイエスの遺伝子は、より人間に近付くために、時を超えてイーザリーとして受肉したのだとしたら。
 「全ての人間は神の言葉である。」という古諺があります。ならばイーザリーの中にも間違いなく、イエスの萌芽は秘め隠されているはずです。生前、救世主としての確信に満ちていたイエス。しかし、全ての価値観が相対化され、神への信仰すらもかつての様な絶対的を失った現代において。自らが「特別である」と確信を得て言うには、この世界は余りにも複雑化しています。
 他者のために傷つき、その姿を晒すことを選んだ瞬間。それは、この悲劇的な物語の中で唯一、主人公イーザリーが復活の曙光に輝いた瞬間だったのではないでしょうか?他者不信の荒野における、自分を赦してくれる他者との、思いがけない出会い。それは、自らを赦す、内なる神の獲得でもあります。
 ある時期のイーザリーが「僕は燃え盛るヒロシマの子供の夢を見た」という言葉を口にしたという言説は、あるいは世論の創作であって、事実ではないかも知れません。しかし、これを立証するのはあまりに困難であることを承知の上で言うならば。イーザリーのこの言葉は、彼の優しさから出た嘘だったと捉えたい。晩年、狼少年の様に扱われたイーザリーの言葉に、一片の"真実"が含まれているのであれば。そこに耳を傾けることが、文学の役割であると僕は感じます。
 苦しんでいるのは自分一人ではなかったことを、イーザリーは発見しました。ふと横を見ると、顔や手足に傷を負った広島の少女たちもまた、他者不信の灰の中で喘いでいました。その彼女たちからの、思いがけない"赦し"。イーザリーは彼女たちに赦されたことによって、彼の中の他者観が変容を迎えます。他者は、彼を脅かす存在ではなかったのです。その実感が、大いなる"他者"に、自らを委ねることを可能にします。それまで彼にとっての他者は、その動向を常に"凝視"しなければならない存在に他なりませんでした。信頼に足る対象であった軍が彼に沈黙し続けける存在に成り果てた末、イーザリーは、乙女たちに応答します。それこそが、先に述べた「僕は燃え盛るヒロシマの子供の夢を見た」という、限りなく虚構に近いとされる、彼の言葉に象徴されているのではないでしょうか。真実ではないその言葉を、彼は象徴の上で口にした。あるいは、その言葉に寄り添った瞬間があった。
 その心理の根底には、「原爆投下に携わった自分が、罪悪のために苦悩した」とすることによって、傷ついた者たちにとっての救いになり得るという考えが、僅かでもあったと感じます。それは、「原爆パイロット」であり、後に自身も被曝を体験した彼にしか果たせない役割だったに違いありません。
 虚栄のために誇大な嘘をついたとして、歴史に黙殺されたイーザリー。彼を全否定するのではなく、もしも彼に赦しが得られるとしたら。
 「自分が見たもの」しか信じなかった、肥大化した自意識をイーザリーは持っていました。その彼の、見果てぬ他者のための自己犠牲と、そのために傷付く選択。その選択の瞬間こそが、虚無の無限の劫火に焼かれ続ける(罪を実感できない事実を含め)イーザリーが、自分自身を赦せた瞬間だったと僕は考えます。「瞬間だった」とは、彼のこの心性は、必ずしも持続するものではなかったことを指します。
  あるいは彼は、本当の意味において、罪の自覚を持ちきれていない自分を、直視せざるを得なかったのかも知れません。
 「あの時、妻のお腹の中で、なぜ私の子供は死ななければなかったんだ?」という内省を、生前イーザリーは何度繰り返したことでしょう?そしておそらく、ある何者かが彼の心の中で「それはね、水爆の放射能の影響だよ」と答えたに違いありません。「何だって?そんなものに私の子供は殺されたのか?」とイーザリーは問います。すると、また誰かの声が「ああ、そうさ。君が"ヒロシマ"に落とした原爆の様にね」と答えます。そして「イーザリー、君は前に言ったよね?罪なき一般人なんていない。罪深きジャップは罰せられるべきだ、って」。この声に対しイーザリーは「なんだと?私の子供は悪人だったから死んだとでも言うのか?」と、行き場のない憤りを覚えたに違いありません。すると声は「見よ。罪なき者のうち、いまだかつて罰せられた者がいたか?」という、神を弁護する無数の"他者"たちの声として、イーザリーの耳に幾度もこだましたに違いありません。
 原爆乙女たちの手紙を貰った後も、この内なる他者の声を、究極的にはイーザリーは打ち消すことができませんでした。死ぬ直前まで、彼は揺らぎ続けていた。そこに、決して晴れることのない彼の苦しみがあります。苦しみがあるということは、裏を返せば、彼が以前の彼自身と比べて、その心に'他者"の灯火を宿した証と言えます。
 ユングの説を引き受けるなら。父なる神がヨブを下敷きにイエスとして受肉したのと同様、イエスもまた、ユダを下敷きに、イーザリーとして受肉したのです。自省することが、全能者である神にはない、人間に与えられた聖性であるとすれば。イエスはまだ、人間化が不十分であったとユングは指摘します。確かに、イエスには原罪がなく、彼はメシアとしての使命に揺るぎない自覚を持って産まれてきました。
 父なる神は完全性を志向すると同時に、人間の不完全性をも志向し、より精緻な人間化を目指しているのであれば。イーザリーは、人生における確信を得られず、ユダの姿を彷彿とさせる揺らぎと迷いを見せます。
 あるいは、恐ろしいことを書くことが許されるのであれば。イーザリーの中では最期まで、当初の英雄願望は消えていなかったのではないでしょうか?
 イーザリーとアンデルスの往復文書を書籍化したものの邦題が『ヒロシマ わが罪と罰』なのも示唆的です。ドストエフスキー同名の小説において、主人公のラスコーリニコフは、「一つの瑣末な罪は、百の善行によって償われる」「選ばれた非凡人は、その良心に照らし合わせて、社会的道徳を踏み越える権利を持つ」という思想の下、一人の高利貸しの老婆を「シラミの様な存在」として、斧で殺害します。老婆の溜めていたその"悪いお金"を、彼自身の善意と照らし合わせ、より正しい目的のために使おうとしたのです。しかしラスコーリニコフは、老婆殺害を目撃してしまった老婆の妹すらも、隠蔽のために惨殺してしまう。(例えば、この目撃者が、彼自身の母や妹だったとしたと置き換えると、彼の思想の特異性がより際立ちます。)そして物語の最後、ラスコーリニコフは、家族のために娼婦としての生活を送るヒロイン•ソーニャの献身に心打たれ、自首へと至ります。しかし、その結末においてなお、ラスコーリニコフが当初の「思想」を捨て得たか否かは明らかにされぬまま、物語は幕引きを迎えます。
 イーザリーはまさに、このラスコーリニコフの様に、最後まで二つの価値観の狭間で揺れ動いていたとすれば。ヒロシマの少女たちの"ナイト"として殉じたいという想いと共に、全くもって、顔や身体を引き裂かれたあの少女たちが、その"下手人"であるこの俺を「赦すはずはない」という想い。("自分は本当の実行者ではない"という自己弁護の退路は、果たして彼にとってどれほどの慰めになったことでしょう?)
 ヒロシマからの手紙を受け取りつつも、そこに書かれた言葉に、裸の身を委ねきれないもう一人のイーザリーがいます。耳の奥から聞こえてくる「あんな奴らは殺してしまえ」という声。少女の白い顔や肌を、真っ赤な炎が舌を出してチロチロ炙ってゆく光景を、ワインを味わう様に堪能する。そんな自分に苛立ちながらも、抗えない自分。あるいはそれは、戦争という非常時の中で、軍人であったイーザリーが、どこかで実際に体験したものだったのかも知れません。
 この現代に生きる僕自身も、全くの例外ではありません。体裁のよいハッピーエンドの主人公に収まらない、イーザリーという人間(もしくは怪物)に、心を揺さぶられる僕がいます。もっと言えば、共鳴すら感じています。イーザリーの胸の皮を剥ぎ、彼の心の内側まで覗き見たいと思う僕は、あるいは、彼の中に、自分の一部分を見いだそうとしているのでしょう。
 「イーザリーほど、よく食べ、よく眠る男はいなかった」という、妻や親類の証言があります。これは、「広島でのミッション以降、不眠症に悩まされ、夜中に叫び声を上げて目を覚ます」と言われた、"悲劇"のイーザリー像を完膚なきまでに覆えす証言です。
 しかし、だからこそ僕らは目を凝らさないといけません。彼が何か、特別な人間なのではなく、あるいは僕自身も、彼と同じ状況下に置かれたとしら。彼と同く"ヒロシマミッション"をこなし、それにも関わらず、家に帰れば皆と同じ様に一市民としてよく食べ、よく笑い、よく騒ぎ、よく眠ったのかも知れない。そこに、イーザリーの冷血性や僕らとの差異があるとは思えないのです。
 反面、ヒロシマからの手紙を貰った時、あるいは「何万分の一でも、彼女たちと痛みを共有したい」という気持ちが生じたことも、決して嘘ではないと思えるのです。「顔や肌を引き裂かれた乙女たちの痛みを、自分が少しでも引き受けてやりたい」という気持ち。
 そんな彼が晩年、テレビ局のインタビューに対し、「原爆投下は果たすべき私の役割だった」と言葉少なに語った矛盾。彼は死の瞬間まで、銀貨30枚で恩師を売った"ユダ"としての自分、戦争の英雄を夢見た自分を、決して忘れていなかったのです。心の奥底では、イーザリーの英雄願望は決して消えてはいません。
 果たして、どれほど改心しても、決して赦されない罪はあるのでしょうか?もしあるとしたら、人間には破滅しか残されていないのでしょうか?例えば、誰かを傷つけるために傷つけるという行為。
 では、もしないとしたら?一度改心したら、その後に再び残忍な気持ちが目覚めたとしても、罪は帳消しになるのでしょうか?
 善と悪というものが人間にとって不可分であるとすれば。改めて、イーザリーの物語のどこに、僕らは救いを見出せるのでしょう?
 イーザリーは、ヒロシマの少女たちに、本当の意味で罪の意識を持ち得ない自分に対する不信を投影し続けたのかも知れません。裏を返せばそこに、彼の善性の欠片を見出す僕がいます。希代の狼少年という烙印を押されたイーザリー。それでももし、彼の人生の足跡が伝えたかったものがあるとして、そこから何か掴み得るものがあるとするならば。
 もしも、1964年の転機、イーザリーの"嘘"が暴かれるあの出来事さえなかったら。彼は、反核の旗頭として邁進し、生きる途に殉じたでしょうか?それは分かりません。あるいは、彼の内なる"声"、あの「焼いてしまえ」という声が、どこかで彼の歩みを阻み、引き返さざるを得ない状況へと追いやったかも知れない。いずれにせよ、その道も永久に閉ざされてしまった。彼に残されたのは、いわば"狼少年"という汚名だけでした。当時、自らの正当性を主張する場もなく、ペテン師扱いされた彼は、もはや息を潜めて、アメリカの片隅で生きる以外、選択の余地はなかったのかも知れません。
 そんな精神的に孤立した彼の心の中で、"ヒロシマの乙女"たちは、一体どの様な位置を占めていたのでしょうか。ヨブが神を、対立する存在ではなく、内なる同伴者として内在化した様に、イーザリーにとって、ヒロシマの少女たちは、心の同伴者たり得たのでしょうか。あるいは、彼女たちの入る余地はもはやなかったのでしょうか。仮に、彼女たちの居場所はもうなかったとして、代わりに彼の心の内に寄り添っていた内的"他者"とは誰足り得たのか?再びアメリカ軍であったのか。
 逆に、もし彼女たちが、まだイーザリーの心の中に住んでいたとしたら。晩年の彼が口にした(筆記ではありますが)「国のため、防衛のために、私は同じ状況に置かれたとしても」「またヒロシマミッションを遂行するだろう」という言葉。この言葉を、彼自身は内的対話を通じて、心の中の少女たちに一体どう伝えたのでしょう?そこを明確にしない限り、彼は、他ならぬ自分自身を赦し得なかったはずです。

清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。

猫蔵の「生贄論」連載13

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

清水正の著作、D文学研究会発行の著作に関する問い合わせは下記のメール shimizumasashi20@gmail.com にお送りください

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載13)

猫蔵

【転機】
 三つ目のターニングポイントに入ります。三つ目は、運命の【転機】です。原典たる『ヨブ記』に当てはめるならば。打ちひしがれるヨブの前に、なんと"父なる神"が降臨し、事態を好転へと導くきっかけとなる出来事が起こる場面です。イーザリーにとってその転機となった象徴的出来事は、「日本からの手紙」であったと捉えます。1959年の夏、彼に手紙をしたためた日本人の中に「原爆乙女」と呼ばれる少女達がいました。原爆乙女とは、被曝による影響で顔や腕に深刻なケロイドを負った、25人の若い女性たちのグループのことを指します。
 手紙の一部を引用します。
「最近、私たちは、あなたが広島のあのできごとのために罪の苦しみに悩まされ、その結果、治療のために病院に入られてしまったということを知りました。私たちが、いまこのお手紙をさしあげるのは、あなたに深い同情の気持ちをお伝えするとともに、私たちがあなたに対して敵意など全然いだいていないことを、はっきりと申しあげたいからでございます。」(※この文章は、あらかじめ英訳を含めて完成しており、少女たちには署名のみを求める形であったと言われます。なお、彼女たちはアメリカのクエーカー教徒の助力もあり、55年に25人が渡米し、ケロイドの治療を受けています。少女たちは署名することに対して深い逡巡があったそうですが、「せめて君たちだけでも」「敵を敵といわずに」「許す心を持ってほしい」と説得され、最後にはサインしたと言われています。)
 イーザリーの運命にとっての【転機】。それは、乙女たち自身の逡巡は深かったにせよ、自分を恨んでいると信じてやまなかった彼女達から、責めることのない手紙を貰ったときだったのではないでしょうか。この時に至って、あるいは、キリストを裏切りながらもそのキリストのために命を絶ったユダの様に、「他者」に対する不信を、他者への「慕情」が上回った瞬間があったとしたなら。
 確かにイーザリーという人間は、晩年である1975年8月、「ヒロシマデー」に関する意見をヒューストンのテレビ局から求められた際、「(仮に、当時と同じ状況に現在の自分が置かれたとしても)国のため、防衛のために(任務から)逃げたりはしない」と筆記(この時点で彼は喉頭癌により肉声を失っていた)を用いて語るなど、非常に矛盾した人物であることに違いはありません。しかし、こと、一見するとこの矛盾や曖昧さに満ちたイーザリーの人生を、それでもなお見つめ、そのささやかな善意の瞬間に寄り添う眼差しが、仮にあるとしたら。その眼差しはきっと、彼が日本の少女たちに「幸あれ」と祈りを捧げた瞬間を、決して見逃さないに違いありません。言い換えれば、"神"という他者の目を通じて、他ならぬイーザリー自身が、平穏な気持ちと共に、自らを赦し得たひととき。その瞬間に至る出会いが、彼の人生に訪れたとしたら、あるいは、この「日本からの手紙」を読んだ時だったのではないでしょうか。
 ヨブにとって、絶対的な他者とは、つまり父なる神でありました。一方、イーザリーにとっての絶対的他者とは、(たとえ間接的であるにせよ)自らが傷つけてしまった広島の人々に違いありません。「原爆を落とされた者」が、「原爆を落とした者」を赦す。その象徴的瞬間に、彼は立ち会ったのです。
 ここで、宮沢賢治の小説『よだかの星』の一節を思い出します。傷心の主人公のよだかが夜空を飛んでいる時、口めがけて飛んできた一匹の甲虫を、無理矢理飲み込んでしまう場面があります。その次の瞬間、「急に胸がどきっ」として、よだかは大声を上げて泣き出します。今まで自分が顧みることのなかった他者の犠牲の上に、自分の生が成り立っていたという事実の発見。パイロットとして空を舞うイーザリーの姿が、僕の目にはどこかこのよだかと重なります。

清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

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日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


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1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。

清水正の『悪霊』論 坂下将人 連載7

清水正の著作、D文学研究会発行の著作に関する問い合わせは下記のメール shimizumasashi20@gmail.com にお送りください

     清水正ドストエフスキー「悪霊」の世界』(Д文学研究会 1990年7月 限定100部非売品)


連載6

清水正の『悪霊』論

坂下将人

清水正「『悪霊』について―神話的心理学的側面からの考察―」 (1991)

 『悪霊』を「父殺し」の文学としてだけでなく、「母殺し」の文学としても捉える清水は、本稿において「ワルワーラ」に対する考察を中心に行っている。

 ワルワーラは、ステパンとニコライの二人によって「「ウロボロス」的大地」である「スクヴォレーシニキ」から解放されなかった。しかしワルワーラは、「ダーリヤ」と「ソフィヤ・マトヴェーヴナ」によって「聖母マリア」に似た存在へと昇華し、「ナジェージダ・エゴーロヴナ・スヴェトリーツィナ」に変容し得る可能性を残している。従って、ワルワーラがニコライとステパンの二人の「息子」を死者として取り戻す方法によって受胎し、うみ出される子供は「イエス・キリスト」に他ならない。

 『悪霊』ではワルワーラは「「ウロボロス」的大地」である「スクヴォレーシニキ」という「父性の霊」によって受精した結果、「負のキリスト」である「ニコライ」をうみ出し、古代異教徒的信条を保持したままキリストの必要性を説く、「擬似的なキリスト」である「ステパン」を「息子」(「愛人」)とするに留まった。従って清水は、ワルワーラの使命は「「負のキリスト」である「ニコライ」と「ステパン」の「二人の「息子」」を「死者として取り戻し」、「ダーリヤ」と「ソフィヤ」の力を借りて、「真のキリストをうみ出す」ことにある」と述べている。

清水正『「悪霊」の謎──ドストエフスキー文学の深層』(1993年8月 鳥影社)

坂下将人(プロフィール)

日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。ドストエフスキー研究家。日大芸術学部文芸学科非常勤講師。論文・エッセイに「『悪霊』における「豆」」(「江古田文学」107号)、「ф・м・ドストエフスキー研究の泰斗」(「ドストエフスキー曼陀羅」特別号)、「清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を読む」(『ドストエフスキー曼陀羅』)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」(「藝文攷」27号)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──先行研究一」(「清水正研究」2号)その他。

清水正の『悪霊』論 坂下将人 連載6

清水正の著作、D文学研究会発行の著作に関する問い合わせは下記のメール shimizumasashi20@gmail.com にお送りください

     清水正ドストエフスキー「悪霊」の世界』(Д文学研究会 1990年7月 限定100部非売品)


連載6

清水正の『悪霊』論

坂下将人

清水正「『悪霊』の作者アントン君をめぐって」 (1990)

 清水は本稿において「『悪霊』の作者」をドストエフスキーではなく、「アントン」として捉え、「語り手」であると同時に「作中人物」でもある「アントン・ラヴレンチエヴィチ・Г」に対する考察を中心に行っている。「語り」の機能に徹する「枠外人物」であり、「扁平な人物」であるアントンは、『悪霊』において最も読者に軽視され、失念されてしまう作中人物の一人である。清水は、作品世界における「ピョートル」と「アントン」の足取りを「可視化」した結果、ピョートルが持つ「情報」が存在しなければ、『悪霊』は成立し得なかったと考察し、『悪霊』はピョートルが作成した「調査報告書」を土台にアントンが執筆した「スクヴォレーシニキにおける革命運動の顛末記」であると指摘している。従って、ピョートルが作成した「調査報告書」を活用できたアントンは、ピョートルと同じく「スパイ」であり、「政府側の人間」であると判断できる。アントンが「スパイ」である事実は、「市井のスパイ」であるリプーチンがアントンに対して述べたセリフである「思わぬライバルの出現に、心臓がひやりというわけじゃないんですか」(注8)からも明らかである。

 アントンの正体は「国家専属の秘密工作員・諜報員」である。アントンもピョートルと同じく「政府側の人間」に他ならない。従って、町の医師達の所見を添えて、ニコライの縊死を「自殺」であると断定するアントンの記述には信憑性がなく、ニコライは「政府」(国家)によって暗殺され、ニコライの縊死は「自殺」として「偽装」されたと判断すべきである。ニコライの自殺は「他殺」の様相を呈し、「ピョートル」の関与が疑われる。「ピョートル」は、「ニコライ殺害における最も有力な被疑者の一人」である。本作品の語り手であるアントンの正体を「国家専属の秘密工作員・諜報員」であると喝破し、ニコライの自殺を「他殺」として捉え、ニコライ殺害の下手人を「ピョートル」であると指摘する清水の一連の考察は、『悪霊』を解読する上で有益な示唆に富んでいる。

 本論文では『『悪霊』の謎―ドストエフスキー文学の深層―』をテキストに用いた。なお、本稿は『ドストエフスキー研究』No.10、清水「『悪霊』とその周辺」、『清水正ドストエフスキー論全集6 『悪霊』の世界』にも収められている。

8  江川卓訳『悪霊』(上) p.224。

清水正『「悪霊」の謎──ドストエフスキー文学の深層』(1993年8月 鳥影社)

坂下将人(プロフィール)

日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。ドストエフスキー研究家。日大芸術学部文芸学科非常勤講師。論文・エッセイに「『悪霊』における「豆」」(「江古田文学」107号)、「ф・м・ドストエフスキー研究の泰斗」(「ドストエフスキー曼陀羅」特別号)、「清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を読む」(『ドストエフスキー曼陀羅』)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」(「藝文攷」27号)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──先行研究一」(「清水正研究」2号)その他。