猫蔵の「生贄論」連載15(最終回)

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載15 最終回)

猫蔵

共同幻想の中で生き続ける】
 家族を持っていたイーザリーは、テレビという公的なもののインタビューに対し、愛国者であることを強調せざるを得なかったと僕は感じます。そして人知れず、心の中の乙女たちに対して痛みを感じていたのなら。
 長崎の"隠れキリシタン"たちの家には、踏み絵を踏んでしまった後に、人知れず自らを鞭打ち、懺悔するための鞭(オテンペンシャ。46本の鞭を一つに束ねたもの)が伝わっているそうです。イーザリーもまた、その鞭を振るう様に、心の中に住む少女たちに、後で心の痛みを覚えながら謝っていたのかも知れない。そして、少女たちはその度に彼を受け入れ、赦していたのだとしたら。
 芸能の原点は、正に"見世物"となることです。
 生きるために、本来なら"見せたくないもの"を人目に晒し続ける"生贄"となること。ヨブ的人間•イーザリーは、ヒロシマに捧げられた"生贄"としての生を全うすることはできませんでした。しかし、一度自らを「ユダ」にまで例えた男が、晩年「私は後悔していない」という、あの言葉を発さなければ生きていけなかった悲しみがあったと僕は感じます。確かに、イーザリーは嘘をつきました。しかし、彼が「苦悩するパイロット」という共同幻想を世論と共に作り上げたことにより、心救われた人たちもいたはずです。人間が、巨大な機構の中の一歯車に過ぎなくなりつつある時代。原爆投下に加担しながらも、それを人間的良心の地平で苦しみ得る人間がいるのだという可能性を、例えば、原爆乙女や広島の人々の心に灯火として灯しました。現に、イーザリーという人物に僕自身が関心を惹かれた様に、彼が寄り添った共同幻想は、これからも誰かの心から心へと波及し続け、生き続けるでしょう。僕はそれを、虚構だからと一概に否定したくないのです。なぜなら彼は、そのずるい打算と同時に、アメリカ人の中にも、ヒロシマの少女たちに対して痛みを共有している人間もいるのだということを知り、一時でも安らぎを得てほしいという一片の祈りもまた、確かに持っていたと感じるからです。だからこそ、偽りの自己を演じた。それは、野心溢れるもう一人の彼の目からすれば、屈辱に塗れた道化の姿に等しかったでしょう。だからこそ、彼は最期まで揺れ動いていた。そこに、目に見える形でのハッピーエンドはありません。イーザリーの人生から、僕らが学び得るものがあるとすれば。クロード・イーザリーがつき、寄り添った嘘は、人々が需要し、欲した共同幻想だったということです。彼は、他ならぬ嘘をつくことによって、誰か他者の心を癒し得た。
 その事実は、今なおイーザリーを「原爆投下に加担しながらも、良心の呵責により破滅へと至った原爆パイロット」として書くウェブ記事が散見されることが示す様に、変わってはいないのです。

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。