猫蔵の「生贄論」連載8
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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載8)
猫蔵
【ユダとイーザリー】
恩師イエスを裏切った弟子のユダが、木に首をくくって最期を遂げた姿を、ある時イーザリーは確かに、自らに重ね合わせています。1960年代当時、敬虔なクリスチャンの子として生を受けたアメリカ人が、自らを"ユダ"に例える言葉の重みはどれほどのものだったのでしょう?
僕はこう推察します。この時の彼には少なからず、三島由紀夫が『美しい星』の中で書いた価値観、つまり「この世界は、ある一人が負った"痛み"に対して、その痛みが周辺に波及し、たとえ何万分の一でも、他の誰かと共有し得る世界であれ」という認識の一端が芽生えていたと。人間は決して「孤立した存在ではない」(それは神に対しても、また他者に対しても)ということを確信したいという想い。たとえその想いが、星条旗の"英雄"になれなかったことを穴埋めする、挫折に端を発していたとしても。やがて彼は、ある種の"プレッシャー"と共に生きていくことになります。
戦争の時代。当初イーザリーは、国の"英雄"になりたかった。そして、戦争の時代に"英雄"になるということ。それはつまり、敵を始め、自らを取り巻く"他者"を踏みしだき、成り上がり、武勲を立てるということに他なりません。
しかし、武勲のために他者を踏みしだくという選択は、遠からず、他者との断絶を招くというジレンマを内包しています。それは、イーザリーの周囲の者たちが、彼を、抜け目のない軍国主義者と位置付け、敬遠し遠ざかっていくということ以上に、イーザリー自身もまた、他者を信じ、受け入れることが困難になっていくということです。戦争という長い慣習の末に、彼自身が、もはや疑う心抜きで誰かを信じることが困難になってしまったのです。
若かりし頃のイーザリーは、果たして"軍の英雄"になることで、一体何を得ようとしたのでしょうか?人々の賞賛や、男としての名誉でしょうか?僕は思うのですが、その手に入れたものは果たして、イーザリー個人で完結し、誰かと分かち合う必要のないものだったのでしょうか?
これは僕の推論ですが、少なくとも彼は、自らの手で守りぬいた平和を、究極的には他の誰かと分かち合いたかったのではないでしょうか?その誰かとは、例えば彼の妻や子供、友人、彼を慕う若い後輩たちなど。この"他者への慕情"という価値観こそが、彼の心を占めていた"軍の英雄"としての願望の、もっと底流に流れていたものだったのではないか?こう感じるのは、僕の甘ったれた感傷に過ぎないのでしょうか?
「他者」と共有し得ない勝利に、一体どれだけの価値があるのでしょう?イーザリーは岐路に立たされます。再び、彼自身が他者との繋がりを取り戻すためには、一体どうすればよいのでしょう?それはやはり、「原爆パイロット」という、彼自身の業と向き合う以外に、突破口は見つかりそうにありません。
猫蔵(プロフィール)
1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。