猫蔵の「生贄論」連載10

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載10)

猫蔵

【ヨブへの答え】
 イーザリーが自らを重ね合わせた、イスカリオテのユダという男。「ユダの自死」は、聖書最大の悲劇であり、謎であるとされます。イエスはなぜ、ユダの「裏切り」と「破滅」の運命を知りながら、彼を弟子に加えたのでしょう?全能の神の子であるイエスは、全てを知っていたはずです。
 ここで『ヨブへの答え』の中での、ユングの指摘が想起されます。神は、一見"不完全"に見える人間の中に、神が未だ獲得し得ない"聖性"を見出し、それを獲得するためには、人間として受肉することをも厭いませんでした。
 悪名高き"ユダ"という人物に課せられた、特別な使命があったと考えるのは飛躍でしょうか。イエスは、裏切り者ユダ、この不完全で罪深き男の中に、他ならぬ"聖性"を見出したのです。それはつまり、一度ドブに棄てた大切なものを再び拾い直し、ゴシゴシと磨き上げるという様な、一見愚かしくも愛おしい、人間ゆえの習性のことだったに違いありません。師を銀貨30枚でローマ兵に売り渡し、その贖いに自ら首を吊ることを選んだ人物。その姿は、メシアとしての揺るぎない"確信"に満ちたイエスには、儚くも、ある種新鮮なものとして映ったと察せられます。そして、ユダの"それ"を手に入れるために、イエスはクロード•イーザリーとして再びこの世に受肉したのだとしたら。いや、ユングの『ヨブへの答え』を踏襲するなら。イーザリーに限らず、全ての「ヨブ的」人間が、等しくイエスの生まれ変わりであり、神の"一分子"であると解釈を広げることができます。
 そしてまた、イーザリーが自らをユダに重ね合わせていたということは。その終焉において、善悪の狭間で首を括ったユダの心理に寄り添う予感を、イーザリーは少なからず抱いていたのではないでしょうか。つまり、自らが傷付けた"他者"の痛みを、その何万分の1でも共有し、引き受けることに想いを馳せ、"祈る"こと。結論から言えばその一瞬にこそ、彼の魂の平穏は訪れたのではないでしょうか。
 この世の中には、"悪人"と呼ばれる人物や、利己主義者、無神論者とされる人々がいます。そして時として、そんな彼らさえ、"祈り"を捧げずにはいられない瞬間というものが訪れます。つまり、"信仰"を持たなかった者や、無自覚だった者が、"信仰"に目覚める瞬間というものがあります。この場合の"信仰"とは、特定の既存宗教に帰属するという意味に限りません。自らの理性を超えたより大きなものに身を委ねるという、広義の意味を指します。新約聖書には「幸いなるかな 心貧しき人。天国はかれらのものである」という一節が出てきます。我らがイーザリーもまた、その意味においては、その当初は、敵を始め、自らを取り巻く"他者"の屍の上に武勲を築かんとする一軍人でした。だからこそ、ユングが指摘した通り、そのあまりにも人間臭い不完全性ゆえ、(仮に神がいたとして)その神の目からは、全知全能である自らは決して持ち得ない人間らしさをもった人物として映ったに違いありません。

清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。