猫蔵の「生贄論」連載9

 

猫蔵『日野日出志体験』2007年九月 D文学研究会

 

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■生贄論〜原罪と芸能〜 (連載9)

猫蔵

【ヨブとイーザリー】
 イーザリーが、"神の沈黙"という究極のリアリズムに直面した、「20世紀のヨブ」であるのならば。彼はその人生において、いかに生きるべきなのか?
 彼は喉頭癌により、1978年に59歳でその生涯を終えます。(通説にある様に「苦悩の末に発狂死した」というのは史実ではありません。)晩年、奇妙な犯罪と精神病医への入退院を繰り返し、やがてマスコミに主張の矛盾を暴かれた後に、世間から完全に黙殺されたその最期から、あるいは、彼の人生にとうとう"救い"は訪れなかったのだと見なす向きもあるかも知れません。しかし、どの様な結末を迎えたにせよ、彼がいかなるものに自身の救いを見い出そうと足掻いたのか、注視したく思います。
 先に見た通り、『ヨブ記』の終盤においてヨブは、姿を現した神の前にただ平伏すしかありませんでした。僕は当初この箇所から、神の威光と教会への信仰を促すキリスト教会のプロパガンダを感じ、蛇足にすら感じていたと前述しました。しかし、この結末の多義性を好意的に解釈するならば。ヨブは、不条理そのものであった神をあえて「受け入れる」ことで、自身の心の平静を取り戻したと解釈することで腑に落ちます。逆説的に言えば、怒り狂う神をヨブ自らが「赦す」「受け入れる」ことによって、彼は再生の端緒を掴みます。
 イーザリーの場合も同様です。イーザリーは、たとえそれがほんの一時であっても、「原爆パイロット」である自らを受け入れ、その先に贖罪の途を模索した瞬間があったと考えられます。たとえばそれは、イーザリーに書簡を送った哲学者アンデルスの「アイヒマンと君(イーザリー)」「この二人は、今日という時代における、二つの両極をしめす実例」であるという言葉にも象徴されています。そしてアンデルスは、「もしも君(イーザリー)という人間が存在してくれなかったら、われわれは、今日のアイヒマン的時代に生きて、絶望を感ずるより他はない」と綴ります。(※アイヒマンナチスドイツにおける、ユダヤ人移送局長官。ホロコースト実行の最高責任者とされる。アメリカを始めとする連合軍に捕縛された後、「私は巨大な機構の中の"一本の小さなネジ"に過ぎなかった」「ヒトラーへの忠誠を誠実に実行したに過ぎなかった」と、自らの"良心"にかけて証言したとされます。)
 今一度、『ヨブ記』の結末に目を凝らしましょう。
そこに描かれていたのは、唐突ではあるものの、父なる神の降臨と、ヨブの"救い"という結末でした。この結末を指し、心理学者ユング は著者『ヨブへの答え』の中で、「ヨブ"こそが、旧約聖書新約聖書とを繋ぐキーパーソンとしての役割を果たした」と述べています。
 聖書と言えば、一般的には、旧約の神は「人間を罰する神」「父性的な不条理の神」という性質が色濃く、一方、新約の神によって遣わされた神の子イエスは、「母性的」「赦す者」であると言われます。ただ、旧約聖書新約聖書を通じて、"父なる神"はあくまで同一の存在であるとされています。しかし、同一の神であるにも関わらず、なぜこの様な変容が起きたのかという根強い論争が神学の世界にはあります。
 この問いにユングは、「人間ヨブが神の善性を上回った」ことにより、「神は人間の"水準"にまで追い着くことを志向したのだ」と言います。『ヨブ記』の結末においてヨブは、自らに対して理不尽な試練を与え続ける神の暗黒面を強烈に意識します。それは、神自身ですら気付いていないものでした。そして最終的にヨブは、神を"赦す"という選択をします。いわば、不条理の神によって受難する者に過ぎなかった孤独なヨブは、神自身の孤独を発見し、赦し、受け入れるという"実践者"へと自らをシフトします。
 この無意識を意識化するという行為において、ヨブは神に対し、「神自身が欠けているものを自覚するに至らしめた」と、ユングは神を精神分析します。その結果、ヨブに追い着く必要が生じた神は、ヨブの姿を下敷きに、やがて"人の子イエス"として地上に受肉するに至ります。神に"全能"を志向する性質がある以上、この人間との不均衡に目を瞑ることは不可能でしょう。(なお、この『ヨブへの答え』を発表した当時、ユングキリスト教会から「異端である」との非難を受けたと言われています。)
 イーザリーはアンデルスとの書簡の中で、自らを裏切り者ユダに重ね合わせていることは前述しました。「僕の手に入れる金が、それ以外の目的のため(例えば、イーザリー自身が、ハリウッドスターとして脚光を浴びること)に支払われたものであるとすれば、その金は、キリストを売ったイスカリオテのユダが受け取った三〇枚の銀貨と同じ様な意味しか持たないことになるだろう」と記しています。文中の"それ"とは、「僕がすべての人に対して負っている責任にふさわしい形で利用されること」を指します。つまり、少なくともこの書簡において彼は、自らが犯してしまった罪と向き合うことを自覚している様に読めます。確かに、ナチスアイヒマンとの対照を彼に自覚させ、苦悩する良心として焚き付けた原因の一端が、文通相手の反核派哲学者アンデルスや、当時の熱狂的な世論の一部にあったのかも知れません。ただ、イーザリーの中に、自らをユダに重ね合わせる感性があったのだとしたら。彼の中に、一片の悔いがあったと言うのは不可能なことでしょうか。

日野日出志体験』の表紙・背表紙



清水正著『日野日出志を読む』の出版記念会。池袋「嵯峨」にて(2004年11月24日)
画面右より猫蔵・副島信太郎・日野日出志清水正・原孝夫

 

右より日野日出志清水正・猫蔵 (日野日出志の仕事場にて)

右より猫蔵・日野日出志・下原敏彦

日野日出志体験』を手に持つ日野日出志


猫蔵(プロフィール)

1979年我孫子市に生まれる。埼玉県大利根にて育つ。日本大学芸術学部文芸学科卒。日本大学大学院芸術学研究科博士前期課程文芸学専攻修了。見世物学会会員。日野日出志研究家。日本大学芸術学部文芸学科非常勤講師。単著に『日野日出志体験』(2007年 D文学研究会)、共著に『「ガロ」という時代』(2014年 創林社)がある。本名 栗原隆浩。