「日野日出志研究」第二号の原稿

清水正への原稿・講演依頼はqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。
ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。
ここをクリックしてください エデンの南   清水正の林芙美子『浮雲』論連載    清水正研究室  
清水正の著作   D文学研究会発行本   グッドプロフェッサー


十一日金曜日は江古田の八剣伝で「日野日出志研究」第二号の執筆者が集まって歓談した。昨日、山崎行太郎さんから原稿が送られて来たので紹介したい。




日野日出志ジャック・ラカン。ー「赤い花」は、何故、赤いのか?  
 山崎行太郎
昨日(2011,11,11)、「日本文藝史」という授業の後、僕の講義を熱心に聴いてくれる学生の一人で、映画理論を専攻している学生と、学食で二時間ぐらい話し込んだ。学生が相手とはいえ、もっぱら僕が聞き役で、僕が質問を連発するという関係である。僕が授業で取り上げた東浩紀ジャック・ラカン、そして学生が卒論で書いているという吉田喜重、その関連でゴダール蓮実重彦、さらにエヴァンゲリオン、若手批評家の宇野某、坂上某、村上某のことなど、話は多岐にわたったが、僕が、「ところで日野日出志を知ってる?」と訊くと、「知ってます、ファンですよ。」と言う。「明日までに『日野日出志論』を書かなくちゃいけないだけど……」と僕がいうと、それならというわけで、日野日出志論で盛り上がることになった。以下は、僕がその学生との対話にヒントを得て書き上げた日野日出志論である。ところで、知る人ぞ知る「日野日出志」という漫画家がいる。僕とほぼ同世代の漫画家である。昭和21年(1946)に満州チチハルに生まれ、23歳の時に描いた『蔵六の奇病』が代表作だという。しかし、僕は、つい、二、三年前まではその作品はもちろんのこと、その名前や存在すらも知らなかった。日野日出志の漫画を高く評価する日芸清水正教授によると、日野日出志の漫画は、いわゆる漫画ではなく、「実存ホラー漫画」ということになるらしい。「実存ホラー漫画」とはなんとも大げさな名称だが、要するに漫画というイメージからはかけ離れている漫画らしい。というわけで、僕も、日野日出志の漫画を読むことになった。まず、代表作だという『蔵六の奇病』を、コピーされたプリントで読む。なるほどただの漫画ではない。漫画で「実存」を描けるのかと半信半疑だったが、一読、打ちのめされた。しかし、それでもまだ、漫画による表現に、一抹の不安と疑いを持ち続けていた。所詮、漫画ではないのか、と。
 さて、日野日出志は、現在、日大芸術学部で「漫画実習」を担当し、金曜日に毎週、江古田に出講している。学生には人気があり、大教室に入りきれないぐらいらしい。僕も金曜日に日大芸術学部で教えているので、二、三年前から、授業が終わると清水正教授を中心として、日野日出志等を囲んで江古田の居酒屋で談笑することになっている。そこで、日野日出志が話したことの中で、僕が興味を魅かれた話が三つある。まず一つ目。日野日出志は、何度なく、こう語った。「漫画家になるには世界文学全集を読破しなければならない。」と。最初は、嘘だろうと、僕は思っていた。もう一つは、「三島由紀夫が神様だった」と。これも、僕は嘘だろうとしか考えられなかった。漫画家が三島由紀夫に心酔しているとは信じられなかった。しかし、あまりにも何回も聞かされたからかもしれないが、不思議なことに、その話を次第に信じるようになった。なるほど、漫画家にも世界文学全集も三島由紀夫も必要かもしれない。それなら、世界文学全集を読破し、三島由紀夫に心酔していたという漫画家・日野日出志の漫画を読んでみようではないかという気分が高まってきた。日野日出志漫画を本格的に読んでみようと思い始めた。もちろん、最初に手に取ったのは『蔵六の奇病』である。日野日出志が話したことで僕が興味を持った三番目の話は、「もう『蔵六の奇病』のような作品は二度と書けません」というものだった。僕は、『蔵六の奇病』を一読して、たちまちその言葉を了解した。『蔵六の奇病』はただの漫画ではなかった。漫画家としてデビューし二年目を迎えていたが、漫画家として行き詰まりを感じていた23歳の日野日出志が、これが駄目なら漫画家なんかやめようとい
う気合で、心機一転、一念発起して、キャバレーの呼び込みのアルバイトをしながら、何回も何回も書き直しを繰り返し、一年がかりで書き上げた作品、それが『蔵六の奇病』であった。1970年、『蔵六の奇病』は「少年画報」に発表される。はじめてのメジャー商業誌登場であった。その直後から原稿依頼が殺到することになる。「実存ホラー漫画家・日野日出志」の誕生であった。日野日出志にとって、この『蔵六の奇病』は、本格的なデビュー作品であると同時に代表作となる。「もう『蔵六の奇病』のような作品は二度と書けません」という日野日出志の言葉は単純な言葉ではない。処女作は二度と描けないと同義かそれ以上の深い意味が込められている。言い換えれば、この言葉には、芸術家(漫画家・日野日出志)の誕生の秘密(起源)と謎が隠されている。したがって、『蔵六の奇病』を、僕は、過激な「芸術家誕生」の物語として読んだ。そして短い批評文を書いたが、それは、清水教授主宰の「日野日出志研究」という雑誌に載せた。僕が、次に読んだ日野日出志漫画が『赤い花』である。この『赤い花』にも、一読、圧倒された。一言で言えば、この『赤い花』も、テーマは同じようなものである。『蔵六の奇病』が「芸術家誕生」物語だとすれば、『赤い花』は「芸術作品誕生」物語だと言える。
 『赤い花』は、花づくりに熱中し、各種のコンクールで一等になるが、決して販売にも取材に応じない偏屈な男の物語である。ところが、彼には人に言えない花づくりの秘密(起源)がある。花づくりに熱中するあまり花を買いに来る美しい女を殺害し、バラバラに切り刻んだ挙句、女の血や肉、骨を肥料にして、血もしたたるような赤い花を育てるという秘密(起源)である。しかも強調しなければならないのは、花づくりに異常に熱中するこの偏屈な男には、美しい女を殺害するだけではなく、女の血から肉、骨まで、すべた食べつくし、飲みつくした挙句、その後に排出される排泄物で、大事に花を育てるという、さらに深い秘密(起源)が……。美しい血もしたたるような真っ赤な花を育てるためには、美しい女の命と、その女のすべて、つまり血と骨と肉……そしてそれを食べつくすという行為が必要だ、とこの『赤い花』という漫画作品は語っているように見える。
 ここで、日野日出志は、「花」という芸術作品の創造の「起源」を問うている。『赤い花』は、何故、赤いのか、という問いである。つまり芸術家や芸術作品の「誕生」と「起源」が、日野日出志のテーマであるらしい。ドストエフスキーの『白痴』のなかに、病気で死に直面したイポリートという少年の手記が出てくるところがある。そこにこんな言葉があった。「ああ、あのこと、あの一つのことばかりを考えていたい。」と。日野日出志の漫画を読んていくと、日野日出志が、「たった一つのこと」に偏執的に固執していることがわかる。たった一つのこととは「起源」である。それは「人間の起源」と言ってもいいのかもしれない。人間が人間になるとはどういうことか。それが日野日出志漫画の唯一のテーマのように、僕には見える。
ここで僕は、人間が人間になることの「起源」を、精神医学の問題として追求したジャック・ラカンの「鏡像段階論」と「象徴界」論を思い出さないわけにはいかない。ジャック・ラカンは、母親の体内から生まれ出た人間という存在(赤ん坊)は、もともとは自我とも言うべき主体性を持っておらず、空虚なままであるが、6か月から18か月の間に、言葉を覚えることによって自我という主体性を獲得し確立ていくという「象徴化」論を展開した。この6か月から18か月の間に、赤ん坊が体験する心的過程が「鏡像段階」である。赤ん坊は、最初は自我(自分)について何も知らずにいるが、鏡に映った自分の像を見て行くうちに、それまでバラバラニ寸断され、統一されていなかった自我(無)が、鏡の中のアレが自分なのだという、一つの統一したもの、つまり自我(私)として意識されるようになる。つまり、人間の自我=主体性は、他者を鏡として、他者(特に父親)と出会うことによって、次第に自我=主体性に目覚めていくというわけである。この鏡像段階で、赤ん坊はソシュール的な「無意識の言語」に耳を方けるのだと言うことが出来る。ここで、人間存在は、言葉を覚えていくことで、つまりエロス的衝動を抑圧することによって、ロゴス的な秩序や道徳、掟、社会性を我が物にしていくのである。
 「フロイドに帰れ」が学問的モットーだったジャック・ラカンは、ヘーゲルの『精神現象学』的な、「自我の社会化(成熟)」という自我の成長物語としての「自我心理学」を否定する。たとえば、新フロイド派の考える「病」から「治療」「治癒」というプロセスを重視しない。むしろ、「自我の社会化」をもう一つの「病」として捉えているように見える。言い換えれば、言葉を獲得することによって「成熟」「治癒」していくわけだが、この「成熟」や「治癒」は、エロス的衝動の抑圧としての「現実喪失」というもう一つの「病」でもあるからだ。フロイドにならって、ジャック・ラカンは、ロゴス的秩序・統制の強化による成熟や治癒にいたるよりも以前のエロス的衝動が吹き荒れている時期に注目する。そこにこそ、人間存在の秘密と謎が隠されているというわけだろう。
 『赤い花』は、エロス的衝動が全開した作品である。エロス的衝動とは、ロゴス的秩序・統制、つまり言葉による「象徴化」が始まる以前の原初的衝動である。したがって、『赤い花』は「成熟」や「治癒」を拒絶した作品だということが出来る。日野日出志が、何にこだわっているからは明らかだろう。僕は、日野日出志の漫画は、人間が人間になる起源としての「鏡像段階」にこだわるジャック・ラカンに通じるものがあると考える。日野日出志の場合、漫画家としては作品数がそれほど多くないらしい。これは何を意味するか。日野日出志が、たった一つのテーマしか持たない漫画家だということだろう。僕は、『蔵六の奇病』と『赤い花』の二作しか読んでいないが、日野日出志が寡作な漫画家である理由がよくわかる。描こうと思えばいくらでも描ける技術もアイデアも体力も持っている。しかし描かない。何故か。描かない理由、あるいは描けない理由があるからだ。それは、「たった一つのこと」、つまり「アレ」しか描きたくないからだ。ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフにとって「アレ」とは、「アリョーナ殺し」(あるいは「王殺し」)であったが、日野日出志にとって「アレ」とは、言うまでもなく、人間の「起源」、芸術家の「起源」、芸術作品の「起源」である。ミシェル・フーコーの「知の考古学」を踏まえた上で、柄谷行人は、「風景が出来上がると起源は隠蔽される。」(『日本近代文学の起源』)と言っているが、この起源の忘却化、起源の隠蔽化に対して、起源の脱忘却化、起源の脱隠蔽化、換言すれば起源の暴露・露呈化・映像化の試みが、日野日出志漫画の本質的なテーマである、と僕は考える。そこで、僕は、昔、読んだ詩を思い出す。田村隆一の『千年の日と夜』という詩の一節である。

≪一篇の詩が生れるためには、
 われわれは殺さなければならない
 多くのものを殺さなければならない
 多くの愛するものを射殺し、暗殺し、毒殺するのだ
 (中略)
 一篇の詩を生むためには、
 われわれはいとしいものを殺さなければならない
 これは死者を甦らせるただひとつの道であり、
 われわれはその道を行かなければならない≫

 この言葉は、「実存ホラー漫画家・日野日出志」の言葉でもあろう。赤い花は、何故、赤いのか。美しい女の赤い血を飲み干した男が、赤い血を吐きながら描き上げた作品だからだ。あらゆる芸術作品、たとえば「赤い花」は、赤い血を流すことから始まるものなのだ。「血で書け」とニーチェも言っている。おそらく、これはメタファーではない。日野日出志の漫画を読んでいると、そんな気がしてくる。