アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る アニメ版・二十一世紀の黙示録(連載1)

アニメ『TOM THUMB』(NIKOLAY LICHTENFELD and IVAN KOSTIURIN)を観る

アニメ版・二十一世紀の黙示録

 

清水正

 

連載1

 このアニメ作品を初めて観たときの感想を書き留めておこう。わたしはドストエフスキーを半世紀以上読み続け、宮沢賢治の童話は四十歳から五十歳までの十年間毎日のように批評し続けた。つげ義春のマンガ作品に関しても何冊かの批評本を上梓している。こういった批評体験のある者がこのアニメを観た時、どのような反応を示すのか。まずドストエフスキー的な神の問題があり、宮沢賢治的な仏教の問題があり、つげ義春的な一種独特の幻想の問題がある。作者のニコライとイワンが宮沢賢治つげ義春の作品を読んでいるかについては不明だが、ドストエフスキーの作品、特に『罪と罰』は間違いなく読んでいるだろう。わたしはある場面ではドストエフスキーの『罪と罰』を、ある場面では宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』や『風の又三郎』、そしてある場面ではつげ義春の『ねじ式』などを思い浮かべながらこのアニメ作品を鑑賞することになった。要するにアニメ『TOM THUMB』はわたしの好み、嗜好に合った作品であった。

 まず思ったのは、この作品は大胆にも世界の創世と終末(そして再生)を映像化したものであるという意味で「二十一世紀の黙示録」であるということであった。主人公TOMは帽子を斜にかぶった少年で、きわめてありふれたどこにでもいる少年として登場してくるが、『罪と罰』の読者にすれば、この少年がロジオン・ロマーノヴィチ・ラスコーリニコフのイメージを賦与された存在であることはすぐに分かる。

 ロジオンは非凡人思想にかぶれた青年で、「おれにアレができるだろうか?」(Разве я способен на ето?)と考えている。ロジオンは自分が〈非凡人〉ナポレオンと同様の〈踏み越え〉(преступление)が可能な能力を備えているかどうかを試すために〈二人〉の女を殺してしまった。一人は高利貸しの老婆アリョーナでこの第一の殺人はロジオンが予め計画した〈踏み越え〉(犯罪)の中に入っていた。しかし第二の殺人はまさに作者ドストエフスキーが計画していた〈踏み越え〉で、この延長線上に〈皇帝殺し〉が含まれていた。ドストエフスキーがロジオンの最終的な〈踏み越え〉として考えていたのは〈復活〉で、これはエピローグにおいて実現することになる。

 ロジオンは分裂した意識の持ち主で、彼の内部世界には神と悪魔が共存している。『罪と罰』という作品世界の中ではロジオンは作者の協力もあって復活の曙光に輝くことができた、つまりロジオンは〈弁証法〉(диалектика)の代わりに〈命〉(жизнь)を獲得した存在になることができたが、わたしはロジオンは〈弁証法〉と〈命〉の間を永久に揺れ続けている存在ととらえている。

 さて、TOMであるが彼は設定上、ロジオンの非凡人どころか全能の創造主としての性格を賦与されている。このアニメにおいて『罪と罰』との共通性を見いだすとすれば、まず〈斧〉(топор)を指摘することができる。アニメの中で〈斧〉は、小屋の中から出てきた男(木こりの親方)が〈斧〉を肩に担いで歩き出す場面において初めて現れる。この親方の後に六人の男たちが続くが、彼らはこの時には〈斧〉を所持していない。

 〈斧〉が何か大きな力の象徴として提示されているのは、〈斧〉を背負った親方が彼に従う六人の男たちより大きく描かれていることでも分かる。 キリスト教の文脈に照らせば、六人を従えた先頭の男は〈キリスト〉的存在であり、従う男たち六人は彼の弟子逹であると同時に〈六〉という〈悪魔〉的要素も刻印されている。先頭を歩く親方を第〈七〉番目の存在とみれば、彼は〈七〉という聖性を備えた存在ということになる。このアニメにおいて動植物や事物は何らかのメタファーを隠し持っているが、文字や数字もまた象徴的意味を賦与されている。ここでは特に〈斧〉との関連で数字〈二〉(アニメでは〈2〉)に注目したい。

  ロジオンは老婆殺害の計画においてどういうわけか〈斧〉に執拗にこだわった。最初、ロジオンは女中ナターシャの料理用の〈斧〉を入手するつもりでいた。しかし、ふだんは買い物などで外出しているはずのナターシャは台所で仕事をしており、ここでロジオンは〈斧〉の入手をあきらめた。ところが中庭に出てみると、庭番小屋の中に光るものを見つける。近づいてみると庭番は留守で、光るものは薪割り用の〈斧〉であった。この時のロジオンと庭番小屋の距離が〈二歩〉、ロジオンは階段を〈二段〉ほど降りて、〈二本〉の薪の間にあった〈斧〉を盗み出す。この場面だけでも〈二〉は三回ほど出てくる。ドストエフスキーが意図的に〈二〉を使用していることは明白である。

 ギリシャ語の〈人殺し〉(ανθρωποκτονοζ)のゲマトリアは13の倍数1820となり、これを数秘術的減算すると〈二〉になる。ロジオンは屋根裏部屋から〈十三段〉の階段を降り、数字〈二〉の運命的で悪魔的な歯車に巻き込まれるようにして〈斧〉を入手し、この〈斧〉で〈二人〉の女を殺すことになる。アニメにおいて〈二〉は得体の知れない奇妙な人物のバッグから〈2〉のカードが出され、このカードは森の中の大木の幹に釘で打ちこまれたり、女たちが日常的な生活をしている場(テーブルに下)にさりげなく置かれたりしている。〈二〉は〈斧〉によって叩き切られる大木、一見安穏な平凡な家庭において鍋で煮込まれる鶏、テーブルの下を這い回る鼠の殺害など、つまり〈殺し=死〉そのものを意味している。『罪と罰』で〈斧〉は人間を殺す道具として使用されたが、アニメでは自然を象徴する大木の切断の道具に使用されるばかりでなく、近未来における小動物の〈殺し〉にも使用されることになる。殺す手段は〈斧〉に限らないが、カード〈2〉は不気味に暗示的にそれが置かれた場所での〈殺し〉を確実に指示している。


 TOMは古新聞の包みの中から様々な〈模型〉(世界を構成する諸物)をばらまく。TOMは小さな玩具のような諸物(それらは自然及び文明社会のどこにでも見られる物や生物)を〈親指〉(THUMB)でかき混ぜる。TOMはこのアニメ世界では創造主として設定されているから、彼の〈THUMB〉(親指およびペニス)は旧約聖書の〈神の息〉(дыхание жизни)と同じ力を備えている。全知全能の神の〈息〉が粘土を人間に変えたように、TOMの〈THUMB〉は人工的な玩具を生きた事物へと変えることができるのである。玩具が入っていた古新聞の印刷された〈活字〉に注意すれば、創造主TOMは言葉ではなく、人工的な模型玩具によって世界創造を果たしたことになる。

 TOMの〈THUMB〉は箱庭のような世界に玩具を配置するが、注目すべきは世界の中央に教会を据えたことである。が、このアニメにおいては教会(キリスト教の神)が絶対者として扱われていないことにも注意しなければならない。TOMの〈THUMB〉が最初に箱庭に据え置いたのは〈トナカイ〉である。この〈トナカイ〉がキリスト教的な神の範疇に収まり切らない自然の象徴であるなら、ニコライ&イワンのアニメ世界は〈神〉と〈自然〉をも包み込む独自の世界を創出しているとも言える。

 アニメ『TOM THUMB』は最初からキリスト教が移植される前のロシア的自然(豊饒な母なる大地)、原初的アニミズムの世界を全面に押し出している。ここに創出された異界の虚構空間は、それを観る者に癒しの感覚をもたらす。広大なロシア的大地を彷彿とさせる働く農婦の豊満な後ろ姿は、全人類を包み込んでくれるような大いなる母性を感じさせる。農婦は一貫して後ろ姿で描かれ、振り返ることはない。とうぜん視聴者は彼女の顔も見ることはできない。つまり、この農婦は個性を備えた一女性ではなく、豊饒な大地そのものとして現れている。


 カメラは引いて、農婦を背後に繁茂する植物と、その葉を食む芋虫や、蝸牛などの小動物を映し出す。画面に色は着いていないが、わたしの目にこれらの光景はフランスの画家アンリ・ルソーの描く植物群の〈緑〉と重なった。植物の葉も、その上を這い回る芋虫も、実に生き生きとその生命力を発揮している。キリスト教信徒の芸術家のまなざしは多くの場合、人間に向けられており、自然に生きる動植物は脇に置かれがちである。植物や動物や昆虫、ましてや微生物が人間と同等の価値を置かれて見られることはない。「創世記」には禁断の木の実や悪魔の役割を背負った蛇が登場するが、主役はあくまでも全能の神と被造物の人間である。ところがアニメ『TOM THUMB』においては、植物の葉や芋虫や蝸牛やその他の小動物もまた人間である農婦と同等の存在価値を賦与されて登場している。


 世界には人間だけが存在しているのではない。そこには芋虫が、蝸牛が、蝉が、蜘蛛が、蟷螂が、鶏が、その他無数の生物がかけがえのない一つきりの命を生きている。そしてこれら無数の動植物が織りなす自然世界では、生きるために殺す殺されるというドラマが日常的に繰り返されている。アニメでは葉の上を元気よく這い回る芋虫は羽化する可能性を拒まれて、一瞬のうちに鶏の嘴に捕らえられてしまう。補食は気の毒、残酷とかいう言葉が入り込む余地のない自然の摂理である。カメラは冷徹に自然の出来事、変更不能な自然の摂理を映し出している。そしての光景を無表情で凝視しているのが少年TOMであり、彼は創造主としての役割を背負いながらも、自らが創りあげた世界のなかで一人の登場人物を演じているのである。