「動物で読み解く『罪と罰』の深層」の第五回連載を発表。

近況報告

江古田文学」101号が刊行される。

わたしは「動物で読み解く『罪と罰』の深層」の第五回連載を発表。

前半部分を紹介しておく。全編は「江古田文学」でお読みください。

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■〈旋毛虫〉(трихина)

 〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉に感染した者は各々が誰よりも自分を正しいと思い、お互いに争いをはじめる。やがてこの〈旋毛虫〉(трихина)の威力は地上世界全般に及び、結局人類は破滅してしまう。この恐ろしい夢をロジオンは監獄の中で見る。
 〈旋毛虫〉は豚の筋肉に潜んでいて肉眼では見えない。顕微鏡が発明されて初めて人間の目にとらえられた。ドストエフスキーはこの肉眼では見えない〈旋毛虫〉に〈理性〉(ум=知能)と〈意志〉(воля=自由)を与えることで、自らの作品に取り込んだ。
 人類を凡人と非凡人の二つの範疇に分け、後者を〈良心に照らして血を流すことが許された存在〉と見なした思弁の人ロジオンはすでに十分〈旋毛虫〉に感染した青年であった。ロジオンはあたかも絶対的な善悪の基準(物差し)を持っていたかのように、アリョーナ婆さんを社会に有害な一匹の〈虱〉(вошь)と見なして〈斧〉(топор)で叩き殺すことを自らに許可した。ロジオンは自らの基準を相対化することはできなかったし、アリョーナ婆さんに対して慈悲のある想像力を発揮することもできなかった。ロジオンが望んだのは自由であり、知力であり、権力への意志であった。
 ロジオンは十九世紀ロシア中葉にペテルブルク大学の法学部へと進学したエリートであり知識人である。ロジオンの知性は論理的に不整合なもの、たとえばソーニャが信じている「なにもしてくれない」〈神〉(бог)を受け入れることはとうていできなかった。極端に言えば、ロジオンの求めたものは神を否定した自由であり、権力の意志である。自由と権力の意志に基づいて生きる最高のモデルとしてナポレオンがあった。ロジオンは非凡人の典型としてのナポレオンの生き方を認め、それを継承する〈英雄〉(иродион)として生きる途を選んだ。しかし、この選択に現実的な自己検証はいっさいされなかった。
 ロジオンは現実の世界において権力を握る〈実際的精神〉(деловитость)のかけらも身につけていなかった。ロジオンは政治や経済に関して初な素人の域を一歩も出てはいなかった。ロジオンは屋根裏部屋の空想家の延長線上において学者や評論家の途が開かれていなかったとは言えないが、実際的精神においてはピョートル・ルージンの足下にも及ばなかった。
 〈旋毛虫〉は様々な性格の持ち主に寄生してその力を存分に発揮するだろうが、真の非凡人ナポレンに感染した場合と、屋根裏部屋の空想家ロジオンに感染した場合を同一視することはできない。が、いずれにしてもロジオンが監獄で見た夢の中に出現する〈旋毛虫〉の効力に変わりはない。夢の中でこの〈旋毛虫〉はあらゆる人間に感染する力を持ったものとして登場している。
 さて、この〈旋毛虫〉は〈神〉(бог)を無条件に信じているソーニャに対してすら感染する力を持っていたのだろうか。ソーニャの淫売稼業は〈理性と意志〉(ум и воля)に基づくものではない。ソーニャが淫売稼業に堕ちなければ、アル中の父マルメラードフ、肺結核の継母カチェリーナ、そして彼女の連れ子三人が路頭に迷うほかはなかった。ソーニャが河に身投げせず、発狂すらできなかったのは、彼女が一家の暮らしを全面的に支えなければならなかったからである。おそらく、未だソーニャは淫蕩の味を覚えてはいなかっただろう。
 私見によれば、ソーニャが真に男と肉体的に結ばれたのはロジオンとの〈嵐〉(буря)の時においてである。淫売婦ソーニャは殺人者ロジオンとの最初のセックスにおいて霊肉一致のエクスタシーを得たということである。このセックスは〈理性と意志〉を超えている。まさにロジオンはソーニャとの霊肉一致のセックスによって〈理性と意志〉を賦与された〈旋毛虫〉の感染力を防いでいる。
 作者ドストエフスキーは〈旋毛虫〉によって人類が破滅したと書いたが、何人かの者は生き延びたとも書いている。その言わば選ばれた者たちは、新しい人の族と協力して血で汚された地上の世界を一新する使命を帯びていたと書かれている。選ばれたる者の中に「愛によって復活した」ソーニャとロジオン、さらに二人をシベリアにまで追っていくラズミーヒンとドゥーニャが含まれていることは容易に想像できる。
 問題は新しい人の族である。彼らは神の国に存在するものであるが、具体的にイメージすることはできない。いずれにせよ、『罪と罰』を書いたドストエフスキーのビジョンのうちに、地上世界における人類破滅後の新しい人間世界の誕生と建設があったらしいことはうかがえる。
 さて、ロジオンの夢の中では〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉はその威力を存分に発揮して全人類を破滅させたことになっているが、それから百五十年以上過ぎた今日においても人類は依然として地上世界に生存している。ただし、この生存は核兵器を手にした人類のもとでかろうじて保たれているに過ぎない。大国間において核兵器が使用されれば、間違いなく全人類は破滅の淵に追いやられることになる。〈理性と意志〉は人類を破滅に導く核兵器を製造するまでに至ったが、同時にこの〈理性と意志〉が核兵器の使用を抑制していることも事実である。人類はかろうじて〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉の働きをコントロール下に置いているが、いつ、どこでこの〈旋毛虫〉が暴発的威力を発揮するかは予断を許さない。
 人類は火を手に入れて以来、火の多大なる恩恵に授かってきたが、同時に火の破壊的な力に脅かされてきた。今、火は核兵器にまで成長し、一歩間違えれば確実に人類を滅ぼす怪物的存在となっている。核兵器廃絶が叫ばれて久しいが、その願いが国家権力の中枢部に届いているとは思えない。人類は集合的無意識の次元で、存続願望を装いながら実は決定的な破滅をこそ願っているのではなかろうか。
 すべてのドラマには初めと終わりがある。人間は幕の降りない芝居を見続けることはできない。劇場に集まった観客の誰もがドラマの終焉を願っている。人類がこの地上の世界において永遠に生存し続けることが善とは言い切れない。自然は人類を誕生させ、そして終焉をぬかりなく用意している。人類が〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉に感染するのが必然であれば、破滅もまた必然ということになる。ドストエフスキーはこの〈旋毛虫〉の感染を逃れた数人が生き延びたとしているが、この数人は果たしてどのような新世界を造り上げていくのだろうか。
ところで、〈理性と意志〉のない人間を、はたして人間と呼べるのだろうか。人間が人間として生きるとは、地上世界での喜怒哀楽を享受することであって、人間社会から悲しみ苦しみを排除してしまえば、もはやそこに人間のドラマはない。『罪と罰』に限っても、この世界にはソーニャのような信仰者が、理性と意志に支配された思弁家ロジオンが、すっかりおしまいになってしまったポルフィーリイ予審判事が、故妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を視ることのできる〈現実に奇跡を起こす人・神〉(чудотворец・провидение)スヴィドリガイロフが、愛と赦しの神を信じる酔いどれマルメラードフが、熱くも冷たくもない金勘定優先のルージンが……各々の生を生きている。良いとか悪いとかの問題ではなく、各々の人間が自分の与えられた役割を存分に発揮して生きているということである。
 人類が滅びた後、再び人類が誕生したしても、人類が人類である以上は、同じような世界を構築するに違いない。わたしは、愛によって復活したというロジオンの新生活にいかなる〈幻想〉も抱くことはできない。ロジオンもまた〈現実〉を生きるべきであって、〈幻想〉に生きるべきではない。ロジオンとソーニャの〈愛による復活〉を用意したのは〈奇跡を現実的に起こした人〉(чудотворец)スヴィドリガイロフであったことを忘れてはならない。作者ドストエフスキーはロジオンを〈現実〉から〈信仰〉(вера)という〈幻想〉(фантазия)へと飛躍させたが、この飛躍そのものが〈幻想〉に見える。
 生きるということは地道なものだし、〈理性と意志〉に基づく堅実な生き方がある。この日常的な堅実な生の現場から、〈旋毛虫〉について考えてみる必要もあろう。
〈旋毛虫〉に感染すると〈理性と意志〉が本来の力を発揮することができず、宿主を発狂状態に追い込み、その結果、宿主が自分を誰よりも正しく優れた者と思いこみ、他の者を徹底して排除する。――ロジオンが監獄で見た夢の中の〈旋毛虫〉はこういった類のものではない。
 ロジオンの〈旋毛虫〉(трихина)は飽くまでも〈理性と意志を賦与された旋毛虫〉であり〈精霊〉(дух=魔)なのである。果たしてこの〈旋毛虫〉〈精霊〉は今までどこにも存在しなかった、あるいは発見されなかったものなのであろうか。豚の筋肉の中に潜む〈生物〉(существо)としての〈旋毛虫〉は十九世紀になって発見された。その意味ではこの〈旋毛虫〉は一微生物の域の中におさまるが、〈精霊〉(дух=魔)となれば異なった意味を持つ。
 自分を唯一正しい存在と見なすのは一神教の神にほかならない。この神は異教徒の殲滅を命じる絶対者であり、自らの唯一絶対性を微塵も疑わない。その意味ではロジオンの〈旋毛虫〉は一神教の神と同じ力を宿主に促していると言えよう。異なる点は、一神教の神は異教徒に対して容赦なく殲滅を命じるが、〈旋毛虫〉の場合は自分以外のすべてのものの殲滅を促すことにある。しかし、同じ神を敬い信じるキリスト教徒とイスラム教徒の壮絶な闘いの歴史を省みれば、一神教の神と〈旋毛虫〉は限りなくその同質性を晒すことになる。
 ユダヤキリスト教界に限らず、仏教においても法華経の唯一絶対性を主張して他のあらゆる宗派の殲滅を願う日蓮宗は〈旋毛虫〉と同様の力を内在している。日蓮宗各派の自己主張は凄まじく、その闘いの様相を目の当たりにすると、ロジオンの夢の中の〈旋毛虫〉の威力を感じざるを得ない。宗教における神や教典の唯一絶対性を信じて他を排斥する者は、〈旋毛虫〉に感染した者と同様の恐るべき狂気的な行動に駆られ、全人類の壊滅を招くことになる。彼らは各自の唯一絶対性を俯瞰的に眺めて、絶対を相対化することを知らない。
 自らの唯一絶対性を相対化すれば、たちまち絶対は絶対の座から追放されることになる。一神教の信徒や日蓮宗の信徒たちが自らの唯一絶対性をどこまでも貫こうとすれば、彼らは他を殲滅するまで闘い続けなければならないことになる。論理的には最終的に勝利したただ一人が生き延びることになる。が、生き延びたただ一人が、信奉する唯一絶対性に帰依することにいったいどんな意味があるだろうか。今日の政治、宗教状況を一瞥するに〈旋毛虫〉に感染した者もまた、その威力を十全に果たしているようには思えない。
さらにロジオンの夢で注目したいのは、理性と意志を賦与された〈精霊〉(дух=魔)が〈旋毛虫〉(трихина)という〈生物〉(существо)として人間の肉体に感染するという点である。〈精霊〉という本来、〈生物〉の範疇に属さないものが〈旋毛虫〉という肉体を獲得して出現することが面白い。これは本来、姿のない〈神〉(бог)がイエスという人間の姿を装って地上世界に現出することを思わせる。
 生前のイエスの場合は、特定の能力を備えた者にしか見えないということはなかった。イエスを神のひとり子と信じる者は極めて稀であったが、彼は誰の目にも〈人間〉に見えた。
 『罪と罰』の中では、狂信者ソーニャはイエスを神の子と見ていたであろうが、作者はこの点について明確に記していない。おしなべて『罪と罰』で問題になっている神は新約のイエス・キリストであって、試み、呪い、裁き、罰する旧約の神ではない。マルメラードフが地下の居酒屋でロジオン相手に饒舌に説いた愛と赦しの神はどこから見ても〈新約の神〉イエスである。ソーニャやリザヴェータが観る〈幻=видение〉も新約の神イエスであって、厳しく試み罰する旧約の神ではない。
 子なる神イエスは父なる神を絶対的に許容する者として振る舞いながら、時にヨブ的な懐疑と不信の言葉を父なる神に発している。イエスは未だ試み裁く父なる神を完全に超克できずにいる。その意味でイエスは旧約の神の幻影を引きずらざるを得ず、未だ完全な〈新約の神〉として自立できていない。
 ドストエフスキーはイエスをこの世界に現出した完全に美しく、合理的で、理性的で、完璧な唯一の存在と認めたが(一八五四年二月のフォンヴィージナ宛の手紙参照)、これはイエスの内部に秘められた父なる神に向けての懐疑と惑い(「ゲッセマネの祈り」やマルコ福音書15章が伝える十字架上での最後の言葉「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨て給うのか」)を無視しているとしか思えない。

 ドストエフスキーは真実美しい人間の具現化を目指して『白痴』のムイシュキン公爵を創造したが、彼が理性的で男性的な美しい人間とは思えない。ムイシュキンは他者の苦しみや悲しみに敏感に反応する青年だが、他者と共に苦しみ悲しむことはできても、他者をそこから救いだすことはできない。ムイシュキンは福音書に描かれたイエスよりもはるかに無力な青年で、いかなる奇跡を起こすこともできない。ドストエフスキーはムイシュキンをあくまでもひとりの人間として描いている。
 ムイシュキンはナスターシャが胸深くに秘めた悲憤を、彼女の傲岸不遜な振る舞いによって看過することはない。ムイシュキンが他者に向けるまなざしは〈悲しみ〉や〈怒り〉を見逃すことはない。が、そのことが救いの力になるとは限らない。ムイシュキンの果てしない〈同情・憐憫〉(сострадание)は他者をさらなる悲しみと苦しみに追いやることになる。