清水正「ソーニャの部屋 ──リザヴェータを巡って──(連載7)   突然〈最後の決定〉を直感するロジオン ──〈きっかり七時〉の思いこみ──」江古田文学107号より再録

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清水正画 「ドストエフスキーの肖像」

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江古田文学』107号ドストエフスキー論特集号に掲載した論考の再録。

何回かにわたって再録します。

江古田文学』107号ドストエフスキー特集号刊行  

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ソーニャの部屋

──リザヴェータを巡って──(連載7)

突然〈最後の決定〉を直感するロジオン

──〈きっかり七時〉の思いこみ── 

清水 正

 

    とりあえず、ロジオンに隠されているのは〈リザヴェータ殺し〉である。ロジオンは家に帰る途中、センナヤで古着屋夫妻とリザヴェータの会話を耳にして、翌日の午後七時、アリョーナ婆さんが一人きりになると思い込む。その時のロジオンの思いを作者は次のように書いている。

 

彼は偶然、まったく思いがけなく知った──明日の晩きっかり七時に、老婆の唯一の同棲者たるリザヴェータが家にいない、したがって、老婆は晩の正七時には必ずひとりきり家に残るということを、思いもよらず聞きこんだのである。

 彼の下宿まではわずかに数歩をあますのみだった。彼は死刑を宣告された者のように自分の部屋へはいった。何ひとつ考えなかったし、また考えることもできなかった。ただとつぜん、自己の全存在をもって、自分にはもう理知の自由も意志もない、すべてがふいに最後の決定をみたのだ、ということを直感した。(70)

 

 リザヴェータとの偶然の遭遇によって、先の悪魔からの解放がまるで嘘のように消え去り、ロジオンはここで突然〈最後の決定〉を直感する。ほんの先刻、全身全霊で自由を享受した者が、突然〈死刑を宣告された者〉として〈理知の自由も意志もない〉者へと突き落とされる。ロジオンはこの時、先刻《神さま》に祈ったことなど思い出しもしない。ロジオンの実存を特徴付ける切迫した時性〈突然〉(вдруг)は、彼の〈過去〉を切断し、恐るべき〈未来〉を決定的に予告する。ロジオンは戦慄的な〈現在〉の激流に投げ出され、理性と意志を奪われて〈最後の決定〉を直感する。しかし、ここでロジオンが直感した〈最後の決定〉は〈アリョーナ婆さん殺し〉であり、最終的な〈あれ=復活〉ではない。ロジオンの〈運命〉を司っている神(作者)は未だその内実をだれにも明かそうとはしていない。ただ作者は未来の読者に明確に暗示してはいた。

 作者はどのようにロジオンの〈最後の決定〉を暗示しているのか。ここではその一つにだけ触れておこう。

  町人はリザヴェータに向かって大声で「明日七時にいらっしゃいよ、あの衆もやってくるから」(69)〔Приходите-тко завтра, часу в семом-с.  И те прибудут.〕(ア・51)と声をかけ、再び「七時ですぜ、明日ね」(70)〔часу в семом-с, завтра;〕(ア・51)と念を押している。そしてリザヴェータは「ええ、じや行きますわ」〔Хорошо, приду, 〕と答えている。

 まず翻訳上の問題がある。〈часу в семом-с〉を米川正夫は〈七時〉と訳しているが、この訳はロシア語原典から最初に『罪と罰』を翻訳した中村白葉(新潮社、岩波文庫)をはじめ、内田魯庵(内田老鶴圃)、小沼文彦(筑摩書房)、工藤精一郎(新潮社)、池田健太郎中央公論社)、原久一郎(集英社、縮訳)、江川卓旺文社文庫)、北垣信行(講談社)、小泉猛(集英社)も同様に訳している。

 ところで〈часу в семом-с〉は〈第七時〉つまり〈六時から七時〉までを意味している。原典通りに〈六時すぎ〉と初めて訳したのが江川卓(一九九九年十一月、岩波文庫)である【因みに江川卓旺文社文庫版『罪と罰』(一九六六年一月)では〈七時〉、学研版世界文学全集37(一九七七年九月)では〈七時近く〉〈七時ごろ〉と訳していた】。内田魯庵訳(英語からの重訳、前半までの翻訳)の明治25年(一八九二)から実に一〇七年も経過しての原典に忠実な訳である。

〈七時〉と〈六時すぎ〉ではまったく意味が異なる。なにしろ作者は古着屋の主人に二回にわたって〈六時すぎ〉と言わせているのである。読者としてはこの〈часу в семом-с〉に注意せずにはおれない。現にロジオンは〈六時すぎ〉を〈きっかり七時〉(ровнов семь часов)と思いこんでいるのであるから。

 ロジオンはすでに理性を奪われている。ふつうの感覚を保持していれば大声で発せられた〈六時すぎ〉を〈きっかり七時〉などと思うはずはないし、リザヴェータの返事「ええ、じゃ行きますわ」も決定的な意志表示とは受け取れまい。なにしろリザヴェータは姉アリョーナ婆さんに内緒ごとなどできない女だったのだし、返事した後でもまだ考え込む様子でのろのろとその場を離れている。理性で判断すれば、明日の晩七時にアリョーナ婆さんが一人きりでいる可能性はむしろ低かったはずなのである。しかし、ロジオンはもはや冷静に状況判断することはできない。ロジオンの頭に〈第七時〉の〈七〉が圧倒的に刻み込まれてしまったのである。

 そこでもう一度、ロジオンが〈七時〉を刻印された時の叙述を見てみよう。

 米川正夫は〔Он узнал, он вдруг, внезапно и совершенно неожиданно узнал,〕(ア・52)を「彼は偶然、まったく思いがけなく知った」(70)と訳した。江川卓は「彼は知ってしまったのだ。まったくだしぬけに、思いもかけない形で知ってしまったのだ」(上・133)と訳している。原典を見れば、〈突然〉を意味する言葉が〈вдруг〉〈внезапно〉と二語続いて書かれている。『罪と罰』において〈вдруг〉が頻出することはよく知られているが、この場面では特に〈突然〉が異様に強調されている。ロジオンはまったく思いがけなく、突然、リザヴェータが明日の晩〈きっかり七時〉に家にいないことを知ったということである。

〈七時〉と思い込んだロジオンの〈思い〉を作者は訂正しない。大半の読者はロジオンの思い込みを素直に認めて、そこになんの不思議も感じない。『罪と罰』の作者は、ロジオンにも読者にも肝心要なことを秘め隠したまま叙述を進めていく。よほど意識的にテキストを読み込んでいかないと、そこに仕込まれた〈秘密〉さえ発見することができない。

 作者は、明日の晩の〈きっかり七時〉に老婆は「必ずひとりきり家に残る」〔останется дома одна〕ということを強調して、わざとイタリック体にしている。作者はこのイタリック体でロジオンの思い込みだけを強調しているのではない。おそらくこの強調で、読者もまたロジオンの思い込みに同調してしまうことになる。作者は不断に読者を挑発している。

 ロジオンは「いったいあれがおれにできるのだろうか?」と考えているのであって、「いったいアリョーナ婆さんを殺すことがおれにできるのだろうか?」とは考えていないことに注意しなければならない。ロジオンはアリョーナ婆さんだけを殺したのではない。目撃者となったリザヴェータをも殺している。殺人の現場にリザヴェータを出現させたのは作者であるが、作者はそのことを主人公ロジオンには隠し通している。ロジオンは犯行前、一度たりとも〈リザヴェータ殺し〉を考えたことはない。ロジオンの思いに寄り添って『罪と罰』を読み進む読者にとっても〈リザヴェータ殺し〉は予想外のこととして受け止められる。しかし、ロジオンが〈運命の予告〉として感じ取っている、奇妙な直観のうちには〈リザヴェータ殺し〉が含まれているのである。ただ、理性を奪われたロジオンはそのことを明晰に認識することができなかっただけのことである。

 もう一度ざっと振り返っておこうではないか。ひと月半前、ロジオンは瀬踏みにアリョーナ婆さん宅を訪れた時「その時もきっとこんなふうに、日がさしこむにちがいない!」と感じている。犯行の現場を照らし出す〈夕日〉がリザヴェータを連想させる。帰り、ロジオンは偶然立ち寄った安料理屋でリザヴェータの話を耳にする。そして犯行の前日、晩方の九時にセンナヤでまたまたリザヴェータに遭遇し、〈第七時〉、〈七時〉の〈七〉の神秘的な魔力に取り憑かれることになる。

 ロジオンはあるなにものかの支配下にある。ロジオンが犯行に到るプロセスはすでに決定されている。ロジオンはそれを回避することの不可能な〈運命の予定〉〈一種の運命〉〈一種の啓示〉として感じることはあっても、自らの定められた運命を明確に知ることは許されていない。ここにオイディプスとロジオンの決定的な違いがある。オイディプスアポロンの神によって予め、呪われた自らの運命(実の父を殺し、実の母と臥所を共にするという運命)を告知されている。『罪と罰』の作者は、ロジオンに予定された運命を明示しない。作者がロジオンと読者に示しているのは〈あれ〉が〈アリョーナ婆さん殺し〉であるということぐらいである。

 もし『罪と罰』の作者が、アポロンの神託を踏襲すればロジオンの〈運命〉を明確に告知するであろう「おまえはアリョーナ婆さんばかりか、リザヴェータをも殺すことになる」と。ところが、見ての通り、ロジオンの理性と意志は〈リザヴェータ殺し〉をまったく予想していない。作者は〈リザヴェータ殺し〉をロジオンにおける不可避の〈運命〉として設定しておきながら、それを実行寸前まで隠し通すのである。

 作者にとって〈リザヴェータ殺し〉は特別の意味を持っている。作者は屋根裏部屋の思弁家ロジオンに〈リザヴェータ殺し〉の空想を抱かせることはなかった。ロジオンは社会のシラミでしかない業突く張りの高利貸し〈アリョーナ婆さん〉を殺すことは何度も空想したが、その空想の中に〈リザヴェータ殺し〉が紛れ込んでくることは一度もなかった。

 元政治犯ドストエフスキーはロジオンが過激な革命思想家として作中で振る舞うことを禁じた。ロジオンは唯一の友人ラズミーヒンはもとより、ロシア最新思想の信奉者レベジャートニコフとさえ、革命について議論することはなかった。当時の急進的な革命家たちが、社会の根源的な悪と見なしていたのは皇帝であって、市井に生きる一高利貸しの婆さんなどではない。ところが『罪と罰』の作者は、十九世紀ロシア中葉の首都ペテルブルクに生きる理知的な一人の青年の頭脳に〈皇帝殺し〉ではなく、〈アリョーナ婆さん殺し〉の空想を吹き込んだ。

 ロジオンは作者の設定に疑問を呈することはできない。ロジオンは忠実に〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉の枠組みの中で生きるほかはない。しかしロジオンの意識からはずれた〈リザヴェータ殺し〉が、不可避の〈運命〉として設定されている以上、それは何らかのかたちで告知されることになる。

 リザヴェータは大学生の噂話の中に登場し、次いでセンナヤでロジオンの眼前に登場する。ロジオンが第一の犯行を決定的な〈運命〉として感じたのは、このリザヴェータが明日の晩七時に家にいないという確証をつかんだからである。この確証はロジオンの〈思い込み〉であるが、作者はこの〈思い込み〉からロジオンを解放させることはしない。作者の物語を進める手つきは巧妙で残酷である。

 ロジオンは犯行前日の午後九時頃にリザヴェータに遭遇して、翌日の晩七時にリザヴェータが家に居ないと思い込み、今再び〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉を決定的な運命と感じ取る。しかし、『罪と罰』を読み終えている読者は、ロジオンがアリョーナ婆さん殺害後、目撃者として登場したリザヴェータをも殺していることを知っている。つまり、ロジオンは明日の晩七時に家に不在であるリザヴェータと遭遇しているのではなく、明日の晩七時過ぎに家に戻ってきて彼の振り上げた斧で殺されるリザヴェータに遭遇しているのである。しかしロジオンはリザヴェータ殺しをまったく意識することはなかったし、予感することもなかった。

 ロジオンは屋根裏部屋で、〈あれ=アリョーナ婆さん殺し〉に関して一ヶ月ものあいだ空想し続けていながら、その犯行にまつわる様々な予期せぬ出来事に関して思いをめぐらすことはなかった。ロジオンは犯行現場に目撃者が出現する場合を想定しなかった。が、このことはロジオンの想像力の貧しさのみを意味していない。作者は明確にロジオンの考えた〈あれ〉の内に〈リザヴェータ殺し〉を埋め込んでおきながら、実行者のロジオン自身にそれを打ち明けることはなかった。

 作者は見えない糸でロジオンの運命を操る黒子に徹している。ロジオンは〈リザヴェータ〉という存在が、彼にとってどういう意味を賦与されていたのかを隠されたまま、呪われた運命のプロセスを歩み続けなければならなかった。

 

 

江古田文学ドストエフスキー特集・収録論考
清水正……「ドストエフスキー特集を組むにあたって――ドストエフスキーとわたしと日大芸術学部
ソコロワ山下聖美……サンクトペテルブルク~美しく、切ない、芸術の街~
齋藤真由香……理想の人生を降りても
高橋実里……子どもとしての存在――『カラマーゾフの兄弟』と宮沢賢治
伊藤景……ドストエフスキーとマンガ――手塚治虫版「罪と罰」を中心にして――
坂下将人……『悪霊』における「豆」
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牛田あや美……ドストエフスキー文学の翻訳とメディア化

岩崎純一……ドストエフスキーニーチェ──対面なき協働者──

清水正……ソーニャの部屋ーーリザヴェータを巡ってーー

 

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https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk

六月一日から開催予定だった「清水正・批評の軌跡」展示会はコロナの影響で九月一日から9月24日までと変更となりました

 会期:2021年9月1日(水)~9月24日(金)

 会期中開館日:平日のみ。午前9時30分~午後4時30分(完全予約制)

 ※ご来場の際は事前に公式HP(https://sites.google.com/view/shimizumasashi-hihyounokiseki)にご確認ください。

九月一日から日大芸術学部芸術資料館に於いて清水正・批評の奇跡──ドストエフスキー生誕二〇〇周年記念に寄せて──』展示会が開催される。1969年から2021年まで五十余年にわたって書き継がれてきたドストエフスキー論、宮沢賢治論、舞踏論、マンガ論、映画論などの著作、掲載雑誌、紀要、Д文学通信などを展示する。著作は単著だけでも百冊を超える。完璧に近い著作目録の作業も進行中である。現在、文芸学科助手の伊藤景さんによって告知動画も発信されていますので、ぜひご覧になってください。