清水正の『悪霊』論 坂下将人 連載6

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     清水正ドストエフスキー「悪霊」の世界』(Д文学研究会 1990年7月 限定100部非売品)


連載6

清水正の『悪霊』論

坂下将人

清水正「『悪霊』の作者アントン君をめぐって」 (1990)

 清水は本稿において「『悪霊』の作者」をドストエフスキーではなく、「アントン」として捉え、「語り手」であると同時に「作中人物」でもある「アントン・ラヴレンチエヴィチ・Г」に対する考察を中心に行っている。「語り」の機能に徹する「枠外人物」であり、「扁平な人物」であるアントンは、『悪霊』において最も読者に軽視され、失念されてしまう作中人物の一人である。清水は、作品世界における「ピョートル」と「アントン」の足取りを「可視化」した結果、ピョートルが持つ「情報」が存在しなければ、『悪霊』は成立し得なかったと考察し、『悪霊』はピョートルが作成した「調査報告書」を土台にアントンが執筆した「スクヴォレーシニキにおける革命運動の顛末記」であると指摘している。従って、ピョートルが作成した「調査報告書」を活用できたアントンは、ピョートルと同じく「スパイ」であり、「政府側の人間」であると判断できる。アントンが「スパイ」である事実は、「市井のスパイ」であるリプーチンがアントンに対して述べたセリフである「思わぬライバルの出現に、心臓がひやりというわけじゃないんですか」(注8)からも明らかである。

 アントンの正体は「国家専属の秘密工作員・諜報員」である。アントンもピョートルと同じく「政府側の人間」に他ならない。従って、町の医師達の所見を添えて、ニコライの縊死を「自殺」であると断定するアントンの記述には信憑性がなく、ニコライは「政府」(国家)によって暗殺され、ニコライの縊死は「自殺」として「偽装」されたと判断すべきである。ニコライの自殺は「他殺」の様相を呈し、「ピョートル」の関与が疑われる。「ピョートル」は、「ニコライ殺害における最も有力な被疑者の一人」である。本作品の語り手であるアントンの正体を「国家専属の秘密工作員・諜報員」であると喝破し、ニコライの自殺を「他殺」として捉え、ニコライ殺害の下手人を「ピョートル」であると指摘する清水の一連の考察は、『悪霊』を解読する上で有益な示唆に富んでいる。

 本論文では『『悪霊』の謎―ドストエフスキー文学の深層―』をテキストに用いた。なお、本稿は『ドストエフスキー研究』No.10、清水「『悪霊』とその周辺」、『清水正ドストエフスキー論全集6 『悪霊』の世界』にも収められている。

8  江川卓訳『悪霊』(上) p.224。

清水正『「悪霊」の謎──ドストエフスキー文学の深層』(1993年8月 鳥影社)

坂下将人(プロフィール)

日本大学大学院芸術学研究科博士後期課程修了。ドストエフスキー研究家。日大芸術学部文芸学科非常勤講師。論文・エッセイに「『悪霊』における「豆」」(「江古田文学」107号)、「ф・м・ドストエフスキー研究の泰斗」(「ドストエフスキー曼陀羅」特別号)、「清水正著『ウラ読みドストエフスキー』を読む」(『ドストエフスキー曼陀羅』)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」(「藝文攷」27号)、「ф・м・ドストエフスキー『悪霊』──先行研究一」(「清水正研究」2号)その他。