今回、ネット版「Д文学通信」43号に掲載する坂下将人氏の論考は「藝文攷」(2022年1月)に発表された「Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」の増補改訂版である。ぜひお読みください。

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今回、ネット版「Д文学通信」43号に掲載する坂下将人氏の論考は「藝文攷」(2022年1月)に発表された「Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』──「鳩」に関する一考察」の増補改訂版である。ぜひお読みください。

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ネット版「Д文学通信」43号(通算1473号)           2022年03月24日

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「Д文学通信」   ドストエフスキー&宮沢賢 治:研究情報ミニコミ

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Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』―「鳩」に関する一考察

坂下 将人

 

 

序論

     1

 博士論文では『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」されている一連の描写を指摘する方法によって、『悪霊』の作中人物達が作品内において「鳥人」、「有翼人」として描かれ、『悪霊』の作品世界が「「鳥」の世界」(=небо)として創造されている特徴を「例証」し、ドストエフスキーが『悪霊』の原題選定時に「天」、「天国」、「空」を意味するнебо”を念頭に置き、небонебог”небесаであると解釈した結果、『悪霊』の原題に選定したбесを、「神」を意味するбогに「対置」・「対比」される「悪魔」として理解していた事実を「論証」すると同時に、卒業論文において構築した上記『悪霊』の原題選定理由に関する仮説の正当性を「立証」した。

 ドストエフスキーは、「鳥」を「「二律背反」の象徴」として理解している。従って『悪霊』の作中人物達は、「擬鳥化」された結果、作品世界において「「神」と「悪魔」の両義性を兼ね備えた存在」として描かれている。本稿では引き続き博士論文の研究主題である「鳥」に着目し、『悪霊』の作中人物達が「聖鳥」である「鳩」に「擬鳥化」されて描かれている描写に関する調査・考察を行った。なお、紙数の制約上、必要最低限の記述に留め、文学的考察は別稿に譲る[1]

 

本論

     1

 ロシア語で「鳩」に相当する語はголубьである。голубьには「鳩」の他に、「(男性に対する呼びかけとして)愛する人よ、いとしい人」、「鳩座」、「(複数形で)ハト派」、「輪舞の遊び」の意味が存在する。голубьの指小・愛称・表愛はголубокである。голубокは後述するголубчикと「同義」である。なお、голубокには「セイヨウオダマキ」の意味も存在する。

 голубьголубокを調査した結果、голубьголубокは『悪霊』において用いられていなかった。しかし、голубьголубокのかわりに、「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」、「(皮肉)(非難)この人」を意味するголубчикが用いられていた。голубчикголубьに由来する語であり、голубьの指小・愛称・表愛であるголубокと同義であるから、голубь=голубок=голубчикの等式が成立する。

 加えて、『悪霊』では「雌鳩」、「(ふつう女性に対する呼びかけとして)かわいい人、いとしい人」を意味するголубкаの愛称・表愛であるголубушкаが用いられていた。голубкаголубушкаは同義である。ともに「呼びかけ」として用いられるголубчикголубушка(голубка)は概ね「同義」であるから、голубчикを考察するにあたってголубушкаも含める必要がある。голубокголубчикголубкаголубушкаголубьに由来する。従って、作中人物達が「擬鳥化」された特徴を持つ『悪霊』において、голубчикголубушкаをあてがわれた作中人物達は「鳩」であり、「鳩」として「擬鳥化」されていると判断できる。

 голубьに由来するголубчикголубушкаは、「「鳥」の世界」として創造され、作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を持った本作品において「鳩」を表現している。本稿ではголубчикголубушкаに着目し、「鳩」(голубчикголубушка)に「擬鳥化」された作中人物達に対する考察を行う。下記図表1~下記図表4を参照されたい。

 

図1 голубчик(単数形)並びにголубчики(複数形)の格変化

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図2 『悪霊』におけるголубчик(単数形)の使用数

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図3 голубушка(単数形)並びにголубушкии(複数形)の格変化

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図4 『悪霊』におけるголубушка(単数形)の使用数

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 『悪霊』全体でголубчикは八語、голубушкаは一語用いられている。従って、『悪霊』の作中人物達が「鳩」として「擬鳥化」されている描写は『悪霊』において合計九箇所存在する。上記図表2と上記図表4から明らかなように、голубчикголубушкаは作品内において全て「単数形」かつ「主格」として用いられている。換言すれば、『悪霊』においてголубчикголубушкаの複数形は存在せず、また「主格」以外の形(格)も存在しない。

 голубчикголубушкаは本編において用いられているが、「告白」において用いられていない。従って、「告白」にはголубчикголубушкаと呼びかけられ、「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」される作中人物は存在しない。「告白」には本編で既に「鳩」(голубчик)に「擬鳥化」された「ニコライ」が登場する。しかし、「告白」においてголубчикголубушкаは用いられていないが故に、「告白」には新規に「鳩」として「擬鳥化」された作中人物は存在しない。

 

      2

 「でも、ステパン先生、」[2](Но, голубчик Степан Трофимович,)

 

 本稿では邦訳テキストに江川訳を用いている。上記引用は「ステパン」に対するリザヴェータのセリフである。原文では「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」、「(皮肉)(非難)この人」を意味するголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ステパン」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「でも、親愛なるステパン・トロフィーモヴィチ、」である[3]голубчикに対する訳出は邦訳テキストにおいて常になされているとは限らないが故に、голубчикは邦訳テキストにおいて埋没し、読者に対して可視化されてはいない。従って、原文テキストを参照しなければ、読者は『悪霊』の作中人物達がголубчикとして「鳩」に「擬鳥化」されている特徴を発見・認識できない。

 『悪霊』の作品世界が「椋鳥の巣箱」として、すなわち、「「鳥」の世界」として創造され、『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を踏まえると、голубьに由来するголубчикголубушкаは「鳩」を表現するために用いられ、作品内において「鳩」を表現しているが故に、訳者は原文に忠実にголубчикголубушкаに対する訳出を行う必要がある。

 голубьに由来し、作品内において「鳩」を表現するために用いられたголубчикголубушкаに対する訳出の省略・軽視は、『悪霊』の作品世界が「「鳥」の世界」として創造され、『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を訳者が認識できていなかった証であり、作品に対する訳者の無理解に基づく。「「鳥」の世界」として設定された作品世界、並びに作中人物達が「擬鳥化」されて描かれている特徴を持つ『悪霊』においてголубчикголубушкаは「鳩」を表現する。

 

     3

 「あら、ごめんなさい、お従姉さま、」[4](- Ах простите, голубчик, chére cousine,)

 

 上記引用は「ユリヤ」に対するリザヴェータのセリフである。上記2と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ユリヤ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「あらごめんなさい、愛する人、シンアイナルオネエサマ、」である[5]голубчикとchéreが並列された結果、ユリヤに対してリザヴェータの抱く「親愛」が「強調」されている。訳者は本作品の訳出にあたって、『悪霊』の原文テキストにおいて用いられている「フランス語」を「カタカナ」として表記する方法によって、訳出におけるロシア語とフランス語の差別化を図っている。しかし、上記引用からも明らかなように、訳者は『悪霊』の原文テキストにおいて用いられている全てのフランス語を「カタカナ」として訳出してはおらず、江川訳にはフランス語の訳出に対する「不統一性」が認められる。また訳者は、原文テキストには存在しない「読点」を訳出に反映させ、「創作」を行っている。

 

     4

 「ニコライさま、うかがいますが、」[6](- Николай Всеволодович, голубчик,)

 

 上記引用は「ニコライ」に対するレビャートキンのセリフである。上記2、3と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ニコライ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「ニコライ・フセヴォロドヴィチ、親しい人、」である[7]。訳者は上記原文テキストを「ニコライさま、うかがいますが、」[8]と訳出している。しかし、「うかがいますが」[9]に相当する語は原文テキストには存在しない。голубчикには「うかがう」の意味は存在しない。また、голубчикの品詞は「名詞」であり、голубчикに動詞の用法は存在しない。従って、上記原文テキストに対する訳者の訳出は、訳者の「創作」であるが故に、「不適切」である。

 上記引用場面においてレビャートキンはголубчикを用い、ニコライに「親近感」を抱かせ、すなわち、対人関係におけるニコライとレビャートキン自身との距離を「他人」から「家族」(「義兄弟」)へと「短縮」させ、ニコライの「良心」に訴える方法で、ニコライによってもたらされた「レビャートキン自身の身に危険が迫っている」とする情報の真偽を判断しようと試みている。

 

     5

 「おまえさんも芝居が下手くそだねえ、」[10](Нет, голубчик, плохой ты актер,)

 

 上記引用は「ニコライ」に対するマリヤ・レビャートキナのセリフである。上記2、3、4と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ニコライ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「いいえ、愛する人、あんたは未熟な役者だね、」である[11]。訳者はголубчикだけでなく、「助詞」のНетに対する訳出も行っていない。

 上記引用場面においてなされた、ニコライとマリヤ・レビャートキナとの対話には「鳥」が頻出する。ニコライは上記引用場面において、マリヤ・レビャートキナによって「鷹」[12](原文сокол)、「梟」[13](原文филином、原文сова)、「みみずく」[14](原文сыч)に見立てられ、「擬鳥化」されている。ニコライがマリヤ・レビャートキナによって「鷹」[15](原文сокол)、「梟」[16](原文филином、原文сова)、「みみずく」[17](原文сыч)に見立てられ、「擬鳥化」されている描写を踏まえれば、голубчикが「鳩」を暗示し、作品内において「鳩」を表現するために用いられており、「ニコライ」がголубчикをあてがわれる方法で、「鳩」に「擬鳥化」されていると判断できる。

 ニコライは上記引用場面において、マリヤ・レビャートキナによって「鷹」[18](原文сокол)、「梟」[19](原文филином、原文сова)、「みみずく」[20](原文сыч)、「鳩」(голубчик)に見立てられ、「擬鳥化」されている。前述したように、голубчикには「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」だけでなく、「(皮肉)(非難)この人」の意味も存在する。従って、マリヤ・レビャートキナはголубчикを用い、ニコライを「鳩」に「擬鳥化」する方法で、「公爵」(「鷹」)から「小商人」(「梟」、「みみずく」)、「僭称者」(「グリーシカ・オトレーピエフ」=「偽ドミトリー世」)へと変容したニコライを「非難」し、「皮肉」を述べている。ニコライに対してマリヤ・レビャートキナが用いた、上記原文テキストにおけるголубчикには明らかに「皮肉」・「非難」が落とし込められている。

 

     6

 「シャートゥシカに (ああ、かわいらしい、なつかしい人!)」[21](Шатушка (милый он, родимый, голубчик мой!))

 

 上記引用はマリヤ・レビャートキナがニコライに対して「シャートフ」について述べたセリフである。上記2、3、4、5と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「シャートフ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「シャートゥシカ(彼はかわいい、親愛な、私の愛する人!)」である[22]милый[23]родимый[24]голубчикが並列された結果、「シャートフ」に対してマリヤ・レビャートキナの抱く「親愛」が「強調」されている。милыйродимыйголубчикの三語には共通して「呼びかけ」の用法が存在する。訳者は原文テキストには存在しない「感嘆詞」(「感動詞」)である「ああ」[25]と「読点」を訳出に反映させ、「創作」を行っている。一方で訳者は、голубчикだけでなく、「人称代名詞」であるонと「所有代名詞」であるмойを訳出していない。

 上記5と上記引用におけるニコライに対するマリヤ・レビャートキナのセリフには「ニコライ」と「シャートフ」が登場する。「ニコライ」が「鷹」、「梟」、「みみずく」、「鳩」に「擬鳥化」されていれば、「ニコライ」と「対比」されている「シャートフ」もまた「擬鳥化」されていると考えなければならない。マリヤ・レビャートキナは「ニコライ」と「シャートフ」を「鳩」に「擬鳥化」する方法で、「類比」している。

 マリヤ・レビャートキナによって、「ニコライ」と「シャートフ」はともに「鳩」に「擬鳥化」され、かつ「鳩」として「比較」されている。マリヤ・レビャートキナは「シャートフ」に対してголубчикを「愛する人」の意味で用いている。しかし一方で、マリヤ・レビャートキナは「ニコライ」に対してголубчикを「皮肉」・「非難」の意味で用いている。マリヤ・レビャートキナによって「ニコライ」に対して用いられたголубчикには「皮肉」・「非難」の意味が落とし込められている。従って、マリヤ・レビャートキナはголубчикを通してニコライに「皮肉」・「非難」を浴びせている。

 繰り返すが、「シャートフ」と「ニコライ」はともに、マリヤ・レビャートキナによってголубчикがあてがわれている。しかし、マリヤ・レビャートキナが「シャートフ」に対して用いたголубчикの意味と「ニコライ」に対して用いたголубчикの意味は異なる。マリヤ・レビャートキナによって「シャートフ」に対して用いられたголубчикと「ニコライ」に対して用いられたголубчикは「同形」であるが、「意味」は異なる。

 マリヤ・レビャートキナにおいて、「鳩」は「ニコライ」と「シャートフ」に共通する「鳥」である。「鳩」はマリヤ・レビャートキナにとって、「「ニコライ」と「シャートフ」に共通する要素を備えた「鳥」」である。従って、「ニコライ」と「シャートフ」は「鳩」の持つ性質・特徴を備えた作中人物である。

 

     7

 「マリイ、ねえ、」[26](- Marie, голубчик,)

 

 上記引用は「マリヤ・シャートワ」に対するシャートフのセリフである。上記2、3、4、5、6と同じく、原文ではголубчикが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубчикが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「マリヤ・シャートワ」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「マリイ、愛する人、」である[27]。前述したように、голубчикには「(ふつう呼びかけとして)愛する者、親しい人(男女とも)、(男性または女性に対する呼びかけとして)愛する人」の意味が存在するため、голубчикは「男性または女性に対する呼びかけ」として用いられる。しかし、голубчикに「ねえ」[28]の意味は存在しない。作中人物達が「擬鳥化」された特徴を持つ『悪霊』において、голубчикは作中人物達を「鳩」として「擬鳥化」するために用いられている。ドストエフスキーголубчикを用いる方法で、『悪霊』の作中人物達を「鳩」として表現している。従って、作品内において作中人物達を「鳩」に「擬鳥化」し、作中人物達を「鳩」として表現するために用いられているголубчикを訳出に反映させ、『悪霊』の作中人物達が「擬鳥化」された特徴を形容するためにも、訳者はголубчикを単なる呼びかけとしてではなく、「愛する人」として訳出すべきである。

 マリヤ・シャートワはシャートフの「妻」であり、シャートフはマリヤ・シャートワの「夫」である。また、マリヤ・シャートワが出産した嬰児イワンは、「ニコライとマリヤ・シャートワの子供」である。従って、「マリヤ・シャートワ」が「擬鳥化」された結果、「シャートフ」、「ニコライ」、「嬰児イワン」が「擬鳥化」される。

 

     8

 「それからね、おまえさん、」[29](А ты, голубушка,)

 

 上記引用はワルワーラのセリフである。上記引用においてワルワーラがголубушкаと名指した人物が作品内において明確に描写されていないため、ワルワーラによってголубушкаと名指しされた人物の特定は難しい。しかし、голубушкаは「「女性」に対して用いられる呼びかけ」であるから、ワルワーラによってголубушкаと名指しされた人物は「女性」に限定される。ワルワーラを除いて、上記引用場面に登場する女性作中人物は「ソフィヤ」、「ダーリヤ」、「百姓家の主婦」である。ワルワーラはソフィヤに対して百姓家から即刻退去するように命じているため、上記ワルワーラのセリフはソフィヤに対してなされてはいない。また、ダーリヤはワルワーラに帯同し、ワルワーラとともにウスチエヴォにある大きな百姓家に駆けつけているため、上記ワルワーラのセリフはダーリヤに対してもなされていない。従って、ワルワーラによってголубушкаと名指しされている人物は、「消去法」で、「百姓家の主婦」であると考えられる。

 上記引用は「百姓家の主婦」に対するワルワーラのセリフである。「百姓家の主婦」がголубушкаとして描かれていれば、「夫」である「百姓家の主人」も「鳥」(「鳩」)として想定されていると推察できる。「百姓家の主婦」が「擬鳥化」された結果、相方である「百姓家の主人」もまた間接的に「擬鳥化」されていると考えられるが故に、百姓家の主人と百姓家の主婦は「鴛鴦夫婦」として描かれている事実が判明する。

 「ウスチエヴォにおける大きな百姓家」は、「鳥籠」、「鳥小屋」、「鳥の巣」としても想定されている。『悪霊』の作中人物達は「擬鳥化」されて描かれているが故に、『悪霊』の作品世界は「「鳥」の世界」として創造されている。従って、作品世界が「「鳥」の世界」として想定され、作中人物達が「擬鳥化」されて描かれた特徴を持つ『悪霊』において、作品内に登場する夫婦は皆、「鴛鴦夫婦」として解釈可能である。

 上記2、3、4、5、6、7と同じく、原文では「雌鳩」、「(ふつう女性に対する呼びかけとして)かわいい人、いとしい人」を意味するголубкаの愛称・表愛であるголубушкаが用いられているが、訳出に表現されておらず、голубушкаが訳出から削ぎ落とされている。前述したように、голубушкаもまたголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубушкаを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「それからあんた、かわいい人、」である[30]。邦訳テキストではголубушкаが訳出されていないが故に、上記引用における「ワルワーラ」のセリフが誰に対してなされているのかがわかりにくい。

 

 権柄ずくな彼女のきびしい声がひびき渡った。さすがの主人夫婦もふるえあがった。ステパン氏はもうとっくにスパーソフに行っていると思いこんでいたから、夫人がここに車を止めたのは、いろいろと話を聞くためだけの目的であった。彼がここにいて、病気だと聞くと、夫人は興奮の面持で家にはいった。

 「さあ、あの人はどこにいるの? ああ、おまえさんだね!」ちょうどこの瞬間、奥の間の敷居ぎわに姿を見せたソフィヤを見かけると、夫人はこう叫んだ。「その厚かましい顔つきを見ただけで、おまえさんだということがわかりましたよ。出てお行き、性悪女! たったいまからこの家の中にこの女の匂いがしても承知しないから! 追い出しておしまい、ぼやぼやしてると、いいかい、一生おまえさんを牢屋にぶちこんでやるからね。さしあたり、この女をほかの家に押しこめておきなさい。この女はもう町で一度牢屋にはいっているけど、また入れてやるのさ。それからね、ご主人、わたしがここにいる間は、だれも家に入れるんじゃないよ。わたしはスタヴローギナ将軍夫人だけど、いまからこの家を全部借りきるんだから。それからね、おまえさん、何もかもすっかりわたしに白状してしまうんだよ」[31]

 

 原文テキストにおいてголубушкаが用いられているにもかかわらず、голубушкаが邦訳テキストにおいて訳出されていないが故に、「それからね、ご主人、わたしがここにいる間は、だれも家に入れるんじゃないよ。わたしはスタヴローギナ将軍夫人だけど、いまからこの家を全部借りきるんだから。それからね、おまえさん、何もかもすっかりわたしに白状してしまうんだよ」[32]におけるワルワーラのセリフが全て百姓家の主人に対して立て続けになされているように読者は錯覚・誤解してしまう。原文テキストにおいて用いられているголубушкаが邦訳テキストにおいて訳出されていなければ、読者は上記ワルワーラのセリフにおける「おまえさん」[33]を「百姓家の主人」として誤認してしまう。

 しかし、原文テキストにおいて「「女性」に対する呼びかけ」であるголубушкаが用いられていると確認できれば、「それからね、ご主人、わたしがここにいる間は、だれも家に入れるんじゃないよ。わたしはスタヴローギナ将軍夫人だけど、いまからこの家を全部借りきるんだから」[34]が「百姓家の主人」に対してなされているセリフであり、「それからね、おまえさん、何もかもすっかりわたしに白状してしまうんだよ」[35]が「百姓家の主婦」に対してなされているセリフであるとわかる。

 голубушкаは、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」としても機能している。原文テキストにおいてголубушкаを認識した読者は、голубушкаが用いられる前のセリフが「百姓家の主人」に対してなされており、голубушкаが用いられたセリフが「百姓家の主婦」に対してなされていると理解する。従って、голубушкаが用いられる前の文章とголубушкаが用いられた文章との間には「切れ目」が存在する。

 「接続詞」のАとともに、голубушкаは「上記ワルワーラのセリフにおける「切れ目」」を表し、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」を明示するための役割をも果たしている。голубушкаが用いられているが故に、読者はголубушкаが用いられる前の文章が「百姓家の主人」に対してなされたセリフであり、голубушкаが用いられた文章が「百姓家の主婦」に対してなされたセリフであると理解できる。従ってголубушкаは、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」でもあり、「百姓家の主婦」を表現するだけでなく、「上記ワルワーラのセリフにおける「区切り」」をも表現している。

 ドストエフスキーголубушкаを用いる方法で、「百姓家の主婦」を表現している。голубушкаに着目して作品テキストを読めば、「ウスチエヴォにおける大きな百姓家」において、ワルワーラとダーリヤの目の前には「ソフィヤ」、「百姓家の主人」、「百姓家の主婦」の三人が存在し、ワルワーラは「ソフィヤ」、「百姓家の主人」、「百姓家の主婦」の順番で命令を下し、一人一人に対して采配を振っている情景が把握できる。ワルワーラはソフィヤに対して百姓家から即刻退去するように命じている。ワルワーラは百姓家の主人に対して百姓家を借り切るため、百姓家への他者の立ち入りを全面的に禁止するように命じている。ワルワーラは百姓家の主婦に対して百姓家の主婦が知っている全ての事情について遺漏なくワルワーラに報告するように命じている。

 作品内においてワルワーラは「鷹」として、百姓家の主婦は「鳩」として「擬鳥化」されている。百姓家の主婦を「鳩」(голубушка)として認識・呼称するワルワーラにとって、百姓家の主婦は「愛玩鳥」である「鳩」程度の力の持ち主にすぎず、百姓家の主婦が「取るに足らない存在」(「小鳥」)である事実が明らかになる。ワルワーラと百姓家の主婦の力関係が「擬鳥化」される手法で描かれている。ワルワーラと百姓家の主婦が「擬鳥化」された結果、百姓家の主婦に対するワルワーラの圧倒的かつ絶対的な優位性が明示されている。

 

     9

 「待ってちょうだいね、ステパン・トロフィーモヴィチ、待ってちょうだいよ、いい子だから」[36](- Подожди, Степан Трофимович, подожди, голубчик!)

 

 上記引用は「ステパン」に対するワルワーラのセリフである。原文において用いられているголубчикが訳出に表現されている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ステパン」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「待って、ステパン・トロフィーモヴィチ、待って、愛する人!」である[37]。訳者は原文テキストの文末に置かれた「感嘆符」を訳出に反映していない。上記引用直後の文章には「彼女は赤ん坊をあやすように言った」[38]と記述されているから、上記原文テキストにおけるголубчикに対する訳出は「可愛い人」、「いい子」等も適切である。命令形で用いられているПодожди(подожди)の語形から、上記引用場面においてワルワーラはステパンに対してтыで呼びかけている事実が判明する。

 

     10

 「さあ、落ちついてちょうだい、落ちつくんですよ、いい子だから、」[39](- Ну успокойся, успокойся, ну голубчик мой,)

 

 上記引用は「ステパン」に対するワルワーラのセリフである。上記9と同じく、原文において用いられているголубчикが訳出に表現されている。前述したように、голубчикголубьに由来する語であるから、上記引用より、「ステパン」が「鳩」に「擬鳥化」されている特徴が明らかになる。

 邦訳テキストに則った、голубчикを含めた上記原文テキストに対する訳出は、「さあ落ち着いて、落ち着いて、ねえ私の愛する人、」である[40]。訳者は原文テキストには存在しない「読点」を訳出に反映させ、「創作」を行っている。一方で、訳者はну[41]と「所有代名詞」であるмойに対する訳出を行っていない。上記引用は上記9を踏まえて描かれている。上記9と同様に、命令形で用いられているуспокойсяの語形から、上記引用場面においてワルワーラはステパンに対してтыで呼びかけている事実が判明する。

 

結論

     1

 голубьголубокを調査した結果、『悪霊』ではголубьголубокが用いられておらず、голубьголубокのかわりにголубчикголубушкаが用いられている事実が判明した。従ってドストエフスキーは、голубчикголубушкаを用いて、『悪霊』の作中人物達を「鳩」に「擬鳥化」している。

 『悪霊』全体でголубчикголубушкаは合計九語用いられている。以下、голубчикголубушкаを用いた人物達とголубчикголубушкаをあてがわれた人物達の両方を列挙する。

 

①「リザヴェータ」→「ステパン」

②「リザヴェータ」→「ユリヤ」

③「レビャートキン」→「ニコライ」

④「マリヤ・レビャートキナ」→「ニコライ」

⑤「マリヤ・レビャートキナ」→「シャートフ」

⑥「シャートフ」→「マリヤ・シャートワ」

⑦「ワルワーラ」→「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」(голубушка)

⑧「ワルワーラ」→「ステパン」

⑨「ワルワーラ」→「ステパン」

 

 『悪霊』において「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」されている作中人物は、「ステパン」、「ユリヤ」、「ニコライ」、「シャートフ」、「マリヤ・シャートワ」、「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」である。特に「ユリヤ」が「擬鳥化」されている描写の発見は、博士論文において指摘できていなかったため、本考察の賜物に他ならない。また、本考察によって「シャートフ」、「マリヤ・シャートワ」が「擬鳥化」されている描写も獲得できた。加えて、голубчикではなく、голубушкаになるが、本考察によって「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」が「鳩」として「擬鳥化」されている描写も発見できた。マリヤ・レビャートキナによって、「ニコライ」と「シャートフ」がともに「鳩」に「擬鳥化」された形で「比較」されていた事実も見逃せない。

 「ニコライ」は「レビャートキン兄妹」からголубчик(「鳩」)として「擬鳥化」されている。「ステパン」は「リザヴェータ」と「ワルワーラ」からголубчик(「鳩」)として「擬鳥化」されている。マリヤ・レビャートキナによって「鳩」として「擬鳥化」された「シャートフ」は、「マリヤ・シャートワ」を「鳩」として「擬鳥化」している。他者から「鳩」として「擬鳥化」されると同時に、他者を「鳩」として「擬鳥化」する作中人物は「シャートフ」だけである。

 голубушкаを含めると、голубчикを最も多用している作中人物は、「ワルワーラ」である。レビャートキンとマリヤ・レビャートキナを「レビャートキン兄妹」として「合算」すれば、「レビャートキン兄妹」もまた「ワルワーラ」と並んでголубчикを最も多用する作中人物であると判断できる。голубчикだけに限定すると、голубчикを最も多用する作中人物は「リザヴェータ」、「マリヤ・レビャートキナ」、「ワルワーラ」となる。一方、голубчик(「鳩」)として最も多く「擬鳥化」されている作中人物は「ステパン」である。ステパンは「女性作中人物達」からголубчик(「鳩」)として「擬鳥化」されている。голубчикを複数回あてがわれている作中人物は、「ステパン」と「ニコライ」だけであり、いずれも「男性」である。голубчикが複数回あてがわれた結果、「ステパン」と「ニコライ」の二人が「鳩」の性質を持ち、「鳩」として想定されている事実が「強調」されている。

 голубушка一語とголубчик八語を合算した九語のうち、二語が「男性作中人物」によって用いられており、残り七語が「女性作中人物」によって用いられている。意外ではあったが、голубчик(голубушка)を用いる作中人物は「女性」が多い事実が判明した。加えて、голубчик八語のうち、二語が「女性作中人物」にあてがわれており、残り六語が「男性作中人物」にあてがわれている。同じく意外ではあったが、голубчикがあてがわれている作中人物は「男性」が多い事実が判明した。従って、голубчикは「女性」によって用いられ、「男性」に対してあてがわれており、男性作中人物は女性作中人物よりも作品内において「鳩」として「擬鳥化」されている回数が多い。    голубчик(「鳩」)として「擬鳥化」された男性作中人物は「ステパン」、「ニコライ」、「シャートフ」の三人である。一方、голубчик(「鳩」)として「擬鳥化」された女性作中人物は「ユリヤ」、「マリヤ・シャートワ」の二人である。作品内において「鳩」として「擬鳥化」されている人数も「男性」の方が多い。

 голубчик(голубушка)を用いた人物とголубчик(голубушка)をあてがわれた人物における性別の組み合わせについては、「女性」→「男性」、「女性」→「女性」、「男性」→「男性」、「男性」→「女性」の四通り全てが確認できた。  голубчик(голубушка)は、異性関係だけでなく、「「同性関係」においても用いられる語」である事実が改めて裏付けられた。「男性」によって「鳩」(голубчик)として「擬鳥化」されている男性作中人物は「ニコライ」であり、「女性」によって「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」されている女性作中人物は「ユリヤ」(голубчик)、「ウスチエヴォにおける百姓家の主婦」(голубушка)であるから、голубчик(голубушка)は「同性」に対しても用いられている。「男性」によって「鳩」(голубчик)として「擬鳥化」されている女性作中人物は「マリヤ・シャートワ」であり、「女性」によって「鳩」(голубчикголубушка)として「擬鳥化」されている男性作中人物は「ステパン」、「ニコライ」、「シャートフ」である。

 本稿において行った、『悪霊』の作中人物達が「聖鳥」である「鳩」に「擬鳥化」されて描かれている描写に関する調査・考察は以上となる。本研究成果を踏まえ、引き続き『悪霊』における「鳥」についての考察を行う所存である。

 

参考文献

坂下将人『Ф.М.ドストエフスキー『悪霊』―「鳥」に関する一考察』 日本大学 2020。

清水正『『悪霊』論 ドストエフスキーの作品世界』 鳥影社 1990。

清水正ドストエフスキー『悪霊』の世界』 鳥影社 1990。

清水正『『悪霊』の謎―ドストエフスキー文学の深層―』 鳥影社 1993。

清水正『ウラ読みドストエフスキー』 清流出版 2006。

清水正清水正ドストエフスキー論全集6 『悪霊』の世界』 D文学研究会 2012。

東郷正延、染谷茂、磯谷孝、石山正三(編者)『研究社露和辞典』 研究社 1994。

Достоевский, Ф.М. Бесы (「オンライン版」)

http://www.magister.msk.ru/library/dostoevs/dostoevs.htm

ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) 新潮社 初版1971 改版2004。

ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) 新潮社 初版1971 改版2004。

ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) 岩波書店 1989。

ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) 岩波書店 1989。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 1』 光文社 2010。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 光文社 2011。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 光文社 2011。

ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 別巻 「スタヴローギンの告白」異稿』 光文

社 2012。

ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』

                                     中央公論社 1969。

ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』

                                     中央公論社 1969。

ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 筑摩書房

1967。

和久利誓一、飯田規和、新田実(編者)『岩波ロシア語辞典』 岩波書店 1992。

 

 

[1] 『悪霊』では「かわいがる、やさしくする、やさしくしてやる」を意味するприголубить(原文Приголубьте)が1語用いられている。приголубитьは、「可愛がる、いつくしむ、いとおしむ、愛撫する、あやす」を意味するголубитьに由来する。語形から明らかなように、голубитьにはголубьが内在するが故に、голубитьголубьを暗示する。従って、приголубитьголубьを暗示する。しかし、本稿ではприголубить(原文Приголубьте)が用いられた描写に関する考察は行わない。

[2] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) 新潮社 2004 p.201。

[3] 以下、「現代仮名遣い」並びに「新字体」で翻訳された『悪霊』の先行訳に限定し、同描写における各訳出を列挙する。『悪霊』は、池田健太郎江川卓亀山郁夫、小沼文彦、米川正夫によって「現代仮名遣い」並びに「新字体」で翻訳されている。従って、2021年の時点において、「現代仮名遣い」並びに「新字体」で翻訳された『悪霊』には池田訳、江川訳、亀山訳、小沼訳、米川訳が存在する。各先行訳に対する考察については、本稿における考察を踏まえ、読者自身で行って頂きたい。

池田訳「でも、わたくしの大切なスチェパン・トロフィーモヴィチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 中央公論社 1969 p.138)

江川訳「でも、ステパン先生、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.201)

亀山訳「でも、わたしの大好きな先生、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 1』 光文社 2010 p.254)

小沼訳「それはそうと、スチェパン・トロフィーモヴィッチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 筑摩書房 1967 p.105)

米川訳「ときにスチェパンさま、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) 岩波書店 1989 p.182)

[4] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.299。

[5] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「あっ、ごめんなさいね、従姉、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.200)

江川訳「あら、ごめんなさい、お従姉さま、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.299)

亀山訳「あら、ごめんなさい、chère cousine (ねえ、おねえさま)、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 1』 p.378)

小沼訳「あら、ご免なさい、あなた、chère cousine (大好きないとこ)。」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.153)

米川訳「あら、失礼しましたわね、あなた、chère cousine(親愛な従姉)」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.271)

[6] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516。

[7] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「ニコライ・フセーヴォロドヴィチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.342)

江川訳「ニコライさま、うかがいますが、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516)

亀山訳「スタヴローギンさま、で、どうなんです、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 光文社 2011 p.164)

小沼訳「ニコライ・フセーヴォロドヴィッチ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.262)

米川訳「ニコライさま、若旦那、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.474)

[8] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516。

[9] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.516。

[10] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.531-p.532。

[11] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「だめだよ、あんた、あんたはお芝居が下手くそだね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.353)

江川訳「おまえさんも芝居が下手くそだねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.531-p.532)

亀山訳「だめだね、おまえさん、あんたも下手な役者だよ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 p.183)

小沼訳「駄目ですよ、お前さん、お前さんは大した役者じゃないね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.269)

米川訳「だめだよ、お前さん、お前さんは芝居が下手で、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.488)

[12] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[13] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[14] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[15] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[16] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[17] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[18] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[19] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.530。

[20] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[21] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[22] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「あのシャートゥシカに (あれはいい人だよ、親身な、あたしの大好きな人なのさ)」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 15 ドストエフスキイ 悪霊Ⅰ』 p.353-p.354)

江川訳「シャートゥシカに (ああ、かわいらしい、なつかしい人!)」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532)

亀山訳「あのシャーさんに (ほんとうにかわいい人さ、優しくて、わたしゃ大好き)」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 2』 p.184)

小沼訳「あのシャートゥシカに (あの人はわたしのなつかしい、可愛い人だよ、わたしはあの人が大好きなのさ!)」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.270)

米川訳「シャートゥシカに(あの人は可愛い人だ、わたしの好きな懐かしい人だ)、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(上) p.489)

[23] милыйは「(人が)感じのよい、感じがいい、かわいい、美しい、人好きのする、魅力的な」、「(事物が)感じのよい、かわいい、楽しい、快い、うれしい」、「親切だ、親切な、よく気のつく」、「いとしい、なつかしい(しばしば親しい呼びかけとしても)、親しい、親愛な、愛する」、「(呼びかけ)あなた(親しみをこめて;しばしばмоймояを伴う)、きみ、いとしい人」、「いとしいこと(もの、場所)」「恋人、愛人、愛する人」を意味する。

[24] родимыйは「血のつながった、肉親の、生みの、親愛な、自分が生れた」、「おまえさん(親しい呼掛け)」、「(ふつう呼びかけで)お父さん、お母さん」、「(親しい人への呼びかけで)あなた、お前さん」、「両親、係累、親類」を意味する。

[25] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(上) p.532。

[26] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) 新潮社 2004 p.453。

[27] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「ねえ、マリイ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 中央公論社 1969 p.352)

江川訳「マリイ、ねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.453)

亀山訳「マリー、ねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 光文社 2011 p.294)

小沼訳「マリイ、あのねえ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.598)

米川訳「マリイ、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) 岩波書店 1989 p.481)

[28] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.453。

[29] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[30] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「おまえさんはね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 p.452)

江川訳「それからね、おまえさん、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601)

亀山訳「で、あんたはね、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 p.481)

小沼訳「だからお前さんは、いいかい、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.671)

米川訳「ところでね、お前さんは」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) p.621)

[31] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.600-p.601。

[32] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[33] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[34] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[35] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.601。

[36] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.603。

[37] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「待ってちょうだいね、スチェパン・トロフィーモヴィチ、もう少し待ってちょうだいね、いい子だから」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 p.453)

江川訳「待ってちょうだいね、ステパン・トロフィーモヴィチ、待ってちょうだいよ、いい子だから」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.603)

亀山訳「待ってちょうだい、ステパンさん、待ってね、いい子だから!」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 p.483)

小沼訳「待ってくださいね、スチェパン・トロフィーモヴィッチ、もうすこし待ってくださいね、いいですわね!」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.672)

米川訳「待ってちょうだい、スチェパン・トロフィーモヴィッチ、待ってちょうだいね、いいでしょう!」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) p.623)

[38] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.603。

[39] ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.604。

[40] 同描写における各訳出を列挙する。

池田訳「さあ、落ち着いてちょうだい、落ち着いて、ね、いい子だから!」(ドストエフスキー, Ф.М.(池田健太郎訳)『新集 世界の文学 16 ドストエフスキイ 悪霊Ⅱ』 p.454)

江川訳「さあ、落ちついてちょうだい、落ちつくんですよ、いい子だから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(江川卓訳)『悪霊』(下) p.604)

亀山訳「さあ、落ちついて、落ちついてくださいな、さあ、いい子だから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(亀山郁夫訳)『悪霊 3』 p.484)

小沼訳「さあ、落ち着いて、落ち着くんですよ。さあ、いい子ですから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(小沼文彦訳)『ドストエフスキー全集 悪霊』 第8巻 p.672)

米川訳「さあ、お落ちつきなさい、お落ちつきなさい。ね、いい子だから、」(ドストエフスキー, Ф.М.(米川正夫訳)『悪霊』(下) p.624)

なお、米川訳における「お落ちつきなさい」は、「原文の儘」、米川訳から引用している。

[41] нуには「間投詞」のнуと「助詞」のнуが存在する。上記引用の後に登場するуспоко́йтесьが原文テキストにおいてус-по-кой-тесьと「強調」された形で表記されている事実を踏まえると、上記引用におけるнуは二語とも「助詞」のнуとしても解釈・訳出できると考えられる。

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ネット版「Д文学通信」編集・発行人:清水正                             発行所:【Д文学研究会】

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清水正・批評の軌跡」展示会場にて(9月1日)伊藤景・撮影

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清水正•批評の軌跡web版 - ウラ読みドストエフスキー

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韓国語訳『ウラ読みドストエフスキー』はイーウンジュの翻訳である。イーウンジュはわたしの教え子で拙著『宮崎駿を読む』の翻訳者でもある。現在、ソウルで著作活動に励んでいる。

 

「松原寛と日藝百年」展示会の模様を動画でご案内します。

日大芸術学部芸術資料館にて開催中

2021年10月19日~11月12日まで

https://youtu.be/S2Z_fARjQUI松原寛と日藝百年」展示会場動画

https://youtu.be/k2hMvVeYGgs松原寛と日藝百年」日藝百年を物語る発行物
https://youtu.be/Eq7lKBAm-hA松原寛と日藝百年」松原寛先生之像と柳原義達について
https://youtu.be/lbyMw5b4imM松原寛と日藝百年」松原寛の遺稿ノート
https://youtu.be/m8NmsUT32bc松原寛と日藝百年」松原寛の生原稿
https://youtu.be/4VI05JELNTs松原寛と日藝百年」松原寛の著作

 

日本大学芸術学部芸術資料館での「松原寛と日藝百年」の展示会は無事に終了致しました。 

 

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