清水孝純著『「白痴」を読む』の書評

先月「図書新聞」より清水孝純著『「白痴」を読む』の書評を頼まれたので執筆した。私は『白痴』論を書いてすでに二十五、六年経つが、久しぶりに読み返した。『清水正ドストエフスキー論全集』の第七巻に収録する予定で準備をすすめている。

今回は書評を紹介しておく。
実存を賭けたドストエフスキー研究家・清水孝純


清水正


 内田魯庵が明治二十五年に『罪と罰』の前編を英訳から重訳して以来、大正、昭和、平成とドストエフスキーの作品は絶え間なく翻訳紹介され、日本の詩人、批評家、小説家に多大の影響を与えてきた。坂口安吾萩原朔太郎椎名麟三埴谷雄高など、ドストエフスキーと生涯をかけて格闘した作家を忘れることはできない。ドストエフスキーといえば未だに小林秀雄だと思っているひともいるが、わたしが評価するのは内田魯庵を筆頭に米川正夫、小沼文彦など一生をかけて愚直に翻訳に取り組んだ研究者であり、自身の実存と信仰を賭けて『ドストエフスキイ(1953・新教出版社)を書いた吉村善夫である。それに忘れてならないのは「この辞書があればドストエフスキーが原典で読める」という熱い思いで『コンサイス露和辞典』(1954・三省堂)を完成させた井桁貞敏である。
 ドストエフスキーの文学に魅了された者は生涯を賭けて闘うほかに途はない。小説家は自らの作品でそれを証明しなければならない。闘い、みごとに散ったのが『吹雪物語』を未完でおえた坂口安吾であり、文字通りドストエフスキーのカオスの大海に溺れ死んだのが萩原朔太郎である。分かったようなレトリックを駆使してもドストエフスキーの精神内界に参入することはできない。
 日本におけるドストエフスキー受容史で忘れてならないのは、辞書を作った人、翻訳した人、自らの実存を賭けてドストエフスキーと闘った人である。青春の一時期、ドストエフスキーに熱中していました、などと軽々しく口にする人は最初から関係ないと思ったほうがいい。
 文芸評論家でドストエフスキー論を書いているひとは少なからずいるが、彼らは生涯を一貫してドストエフスキーにこだわったわけではない。世の中にはどこにでも〈いいとこ取り〉をする人がいるが、研究畑でも例外ではない。誰でも知っている『罪と罰』以降の大作品はとりあげるが初期、中期の作品には目もくれない。が、清水孝純氏はそういった人たちとは一線を画する誠実で本格的な研究家である。私が最初のロシア旅行から帰って五度目の『罪と罰』論に取りかかったとき、氏の『ドストエフスキー・ノート「罪と罰」の世界』(1981・九州大学出版会)はたいへん参考になった。氏のドストエフスキー論のうちで最も刺激的だったのは初期の作品を取り上げた『道化の誕生』(1984・美神館)である。
 ドストエフスキーの初期作品を論の対象にしたものに中村健之介『ドストエフスキー・作家の誕生』(1979年・みすず書房)がある。ようやく日本でも本格的に初期の作品が本格的に論じ始められたわけだが、清水孝純氏の論はドストエフスキーの人物たちに共通する特質性を〈道化〉というキーワードで見事に剔決している。今回の『「白痴」を読む』でも、ムイシュキン公爵をはじめとしてフェルディチェンコ、イヴォルギン将軍、レーベジェフなど道化的人物たちの各々の特質性を端的に指摘しており、それがひとつの大きな読みごたえとなっている。
 本書で著者はニヒリズムを最大のテーマにしているが、この問題に関してはじっくりと腰をすえて検証しなければならない。ドストエフスキーが一生涯にわたって苦しんだ問題は神の存在であった。日本人における神とドストエフスキーが問題にした神とは一致しているのであろうか。もともと一神教的な神のそとにある者に、神喪失後のニヒリズム自体が成立しないのではないか。もし本格的にニヒリズムをとりあげるのならば、著者における信仰の問題に踏み込んでいかなければならないが、自身の信仰に関する言及はない。
 ニヒリズムと言えば『悪霊』のニコライ・スタヴローギンを誰もがとりあげるが、私は彼よりもニコライの猿を演じ尽くした二重スパイのピョートル・ヴェルホヴェーンスキーや『悪霊』の〈筆者〉(作中作者)で国家から派遣されたスパイであったアントン・ゲーの〈虚無〉に関心がある。さらに『悪霊』を熟読した林芙美子が『浮雲』で描き出した和製スタヴローギンとも言うべき富岡兼吾の〈虚無〉にこそ日本人として切実な虚無を感じている。
 『白痴』に関しては私もかつて〈死と復活〉のテーマで思いをこめて批評したことがある(『ドストエフスキー「白痴」の世界』1991・ 鳥影社)。私の考えは著者となにもかも一致するわけではないが、氏に対してはドストエフスキー研究の先達として深い尊敬の念があり、襟をただして読ませていただいた。あとがきに永遠の伴侶をなくされたことが記されていたので、私は氏の思いをふまえて読み進んだ。今、こまかいことに触れたくはない。氏は『カラマーゾフの兄弟』に関してもすでに三冊の研究書を刊行されており、そろそろ氏のドストエフスキー論の全体をきちんと見据えた上での評価をしなければならないと思っている。