ドストエフスキー曼陀羅 5号 

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。


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清水正・編著「ドストエフスキー曼陀羅」五号(2015年2月10日 日芸文芸学科「雑誌研究」編集室)が刊行されました。A五判並製221頁・非売品。講読希望者はD文学研究会メールqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp宛てにお申し込みください。

ドストエフスキー曼陀羅 5号 目次

ドストエフスキー放浪記ーー意識空間内分裂者の独白ーー/清水正……6

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(一九九一年十一月 鳥影社)について/山下聖美……47

色彩からみる『白痴』ー『白痴』に於ける〈緑〉ー/入倉直幹……50
ムイシュキン、あるいは聖なる〈物語〉/山下洪文……64
『白痴』マリイについて/小山雄也……72


はじめに、私がドストエフスキーの『白痴』をはじめて読んだのは二〇一三年九月、清水先生が担当していた「文芸批評論」の講義にて課題図書として『白痴』が出されたのがきっかけだった。その頃、私は学部生で清水先生が担当する講義を二つ受けていた。「文芸批評論」と「ロシア文芸史」である。どちらの講義もテーマとしてドストエフスキーが取り扱われており、夏期課題では『罪と罰』と『オイディプス王』についてのレポートと、『悪霊』の登場人物で特に気になったユダヤ人のリャムシンについてのレポートを書き絵あげた。有り難いことに二つのレポートは清水先生=編著の『ドストエフスキー曼荼羅四号』に掲載されている。
二〇一三年十一月十四日、私は東京両国のシアターX(カイ)にて、東京イーヴイ・レパートリーシアターによって舞台化された『白痴』を鑑賞した。小説の『白痴』を読むだけではなく、舞台版の『白痴』の世界を見ることにより、私の中で描いていた『白痴』の登場人物たちのぼんやりとしたイメージが、出演者の魅力的な演技によって固まっていった。特にムイシュキン公爵役の菅沢晃氏の演技は素晴らしかった。物語のはじまりであるロゴージンと出会う列車の場面から、事件後にムイシュキンがスイスのシュネイデル療養所へ戻って車椅子に乗せられている最後の場面まで、菅沢氏の役作りは圧巻だった。観客も心配になってしまう程にたどたどしいムイシュキンの台詞は、舞台上だけではなく観客席にも緊張感を漂わせていた。
『白痴』の中で注目すべき登場人物は、何といってもムイシュキン公爵である。スイスでてんかんの治療をしていた公爵は症状が軽快となり、四年振りに遠縁にあたる親戚に会うためにロシアへ戻って来た。ペテルブルグへ向かう列車の中で出会ったロゴージンという男から「すっかりなおったかね?」と質問をされるが、公爵はまだ完治はしていないと答えるのだった。
 ペテルブルグに到着した公爵は、遠縁にあたるエパンチン家を訪れるが、そこで偶然目にしたナスターシャ・フィリポヴナの肖像に心を惹かれてしまう。同時にエパンチン家の三女アグラーヤにも心を寄せていくのだった。私は公爵とナスターシャとアグラーヤの関係よりも気になる関係を発見した。それは『白痴』第一編(六)にて、公爵がスイスの村に居た頃に体験した恋物語について話すときに登場するひ弱そうな身体つきの娘マリイとその母親との関係である。
マリイは肺病を患いながらも毎日苦しい仕事に出かけて、さらに祖母を養ってようやく暮らしをたてていた。ある時、村を訪れたフランス人の番頭に誘惑されて連れ去られてしまう。一週間後に解放された彼女は男に捨てられて、汚れたぼろをまとい、破れた靴を履いて、乞食をしながら村に帰ってきた。村人たちは誰一人彼女に同情を寄せる者はいなかった。村人たちは彼女の不貞を罵倒し、子供たちと遂には彼女の母さえも「私の顔に泥を塗った」と罵るのだった。彼女はただ純朴で心の優しい穏やかな眼を持った女性だったが、フランス人によって汚されたことにより、村人はおろか子供たちまでも彼女を馬鹿にして石を投げたり唾を吐いたりしていた。村人に頼んで牛番の仕事をやらせて貰う代わりに残飯を貰って暮らすようになっていた。村人たちはまるで自分たちがマリイに対して慈善行為をしているかのように考えていた。病床に就いた母親を必死に介護した彼女であったが、母親は最期まで彼女を許すことなくこの世を去っていった。教会にて行われた母親の葬儀では目立たないように出席した彼女を、たくさんの野次馬たちが見守る中、牧師までもが「この女こそ、かの尊敬すべき婦人を死に至らしめた張本人であります」と卑劣きわまる言葉で彼女を説教するのだった。
マリイは村八分となり、老人、大人、女性、牧師でさえも彼女のことを煙たがる。さらに恐ろしいことに子供たちも彼女のことを追いかけまわしたり、泥を投げつけたりしてからかうのであった。公爵に出会う前、村の子供たちは大人たちの考えを疑うことなく素直に受け入れていた。大人たちが帰ってきたマリイを毛嫌って侮辱しているのを知ると、子供たちはそれに倣って悪いことだと知らずに彼女を傷付けてしまう。ドストエフスキーは子供が彼女に対して行った虐めを事細かく記している。面白がってマリイを追いかけるが彼女は肺病のため、はあはあと息を切らして立ち止ってしまう。そこに追い打ちをかけるかのように、子供たちは彼女の背後から大声で喚きだすのだった。この行為は下手をすれば彼女がショック死する可能性があり大変危険だ。子供たちは彼女が汚れた存在であることは知らず、大人たちの侮辱をただ真似てふざけているだけなのである。
マリイは村人からの仕打ちに抵抗することをしなかった。それどころか彼女自身も村人たちの考えを受け入れてしまい、自分を世界中で一番、卑しい人間だと見なしていた。村人ではなくよそ者であった公爵は彼女を憐れみ、彼女に同情した。そして、公爵は村の子供たちの心を変えさせることに取りかかるのだった。子供たちが公爵の言葉に耳を傾けるようになるまでは長い時間を要した。なぜならば、子供たちは既に大人たちの影響下によって「マリイ=侮辱して良い者」という認識を埋め込まれていたからである。子供たちの考え方を新しく上書きするためには、何度も修正を加えなくてはならない。この修正とは子供たちにマリイについて何度も聞かせることである。はじめはよそ者である公爵も子供たちから嫌われていた。マリイに接吻している場面を見られてからは、公爵も彼女と同じく石を投げつけられるようになった。その後、公爵は暇さえあれば子供たちに話し続けた。だんだんと子供たちの中から聞き耳をたてる者が現れはじめる。子供たちは長い時間をかけてマリイについて詳しく説明すれば分かってくれたのである。そして、子供たちはマリイをかわいそうに思うようになった。子供の考え方が公爵の長きに渡る地道な行動により変化したのだ。
 ある日、二人の少女が食べ物を手に入れてマリイに持って行くと、彼女は嬉し泣きに泣いた。それを見た二人は彼女のことを大好きになり、同時に公爵のことも好きになったと公爵本人に話をした。一部が変わりはじめると、そこから全体も変化していく。まもなく、村の子供たちはマリイのことが大好きになり、公爵のことも急に好きになった。その後、子供たちはマリイに優しく接したおかげで、彼女は死ぬまで幸せに暮らすことが出来た。彼女の墓はいつも子供たちが面倒を見ているので、綺麗な花が飾られていた。彼女亡き後、公爵は村の大人から迫害を受けることになり、子供たちとの接触を禁じられてしまい、監視体制の生活を強いられてしまうことになる。それでも公爵はこの迫害のおかげで、より一層子供たちと前よりもっと仲良くなったというのだった。
 なぜ、マリイは村人から酷い仕打ちを受けてもこの村から脱出しなかったのか。それは彼女の母親が足枷となっていたからである。どんなに苦しい状況下に置かれていても、病気持ちの母親を見捨てることが彼女には出来なかった。私はマリイと母親の関係にはどこか深い謎があるように思える。公爵の情報によるとマリイは村の生まれで年齢は二〇歳頃、ひ弱な身体つきで肺病を患わっている。マリイの母親はもうたいへんなおばあさん、つまり、高齢者であり病身で両足がすっかりむくんでいて歩行が困難である。父親については一切触れられておらず、二人はちっぽけなあばら家に住んでいた。家には二つの窓があり、村役場の許しを得て、一つの窓を改造してこの窓口から煙草や石鹸など小銭で買える物を売って生計を立てていた。高齢である母親と二〇歳の娘との年齢差はどのくらいあるのだろうか。私は母親の年齢を一八六〇年代当時のロシア人女性の平均寿命から見て七〇歳くらいだと想定した。よって、娘マリイと母親との年齢差は約五〇歳となる。もし五〇歳の頃に子供を産んだのであれば、母親は高齢出産となり胎児に何かしら影響が出てくるリスクがある。マリイが肺病を患った原因はここにあるのではないだろうか。ただ、彼女の父親が一体誰なのかが最後まではっきりとしない。本当にマリイは高齢の母親の娘なのか新たな疑問が浮上する。例えば、マリイは村で生まれたが両親が亡くなって孤児となってしまい、高齢の母親に拾われて娘として育てられたと考えてみてはどうだろうか。あるいは高齢の母親が元娼婦で旦那に捨てられて実の娘には自分とは同じ道を歩ませたくなかったが、フランス人に連れて行かれて汚されてしまったことに腹を立てて、死に際まで彼女を許さなかったと考えてみることもできる。この高齢の母親と二〇歳の若い娘マリイとの関係から、私は少ない情報から様々な物語を連想することが出来る。この親子に限らず、『白痴』の登場人物たちは何かしら深い謎をもっている。ドストエフスキーはマリイを登場させることにより、公爵を通して純粋な子供たちは未知のものを素直に受け入れて、それを変身させることが出来る「生きた素材」であることをエパンチン家の者たちだけではなく、読者にも説明してみせた。公爵がスイスで体験した恋物語として読むだけでは、ドストエフスキーが『白痴』を書いて本当に伝えたかったことを理解することは難しい。私は彼が伝えたかったことをまだ一パーセントすらも理解が出来ていない。理解するためにはどうしたらいいのか。とにかく長編である『白痴』を読むしか方法はない。これが正規の道であり、近道でもあるのだ。






一枚絵の可能性〜三年間の歩み〜/牛田あや美……76

小林秀雄に於けるジッドとドストエフスキー/此経啓助……85

『白痴』論ー文学の表層と深層ー/上田薫……91
清水正氏の「『悪霊』の世界」について/福井勝也……100
にがり顔のクリス丈Ⅱ(ヴァリエーションno.)/中村文昭……106
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 「D文学研究会主催・第1回清水正講演会
「『ドラえもん』から『オイディプス王』へーードストエフスキー文学と関連付けてーー」を聴いて

D文学研究会再活動を祝う/下原敏彦……134
D文学研究会第一回講演に参加して/小山雄也……137
清水ドストエフスキーの「クリテイカル・ポイント」/福井勝也……139
  ー『世界文学の中のドラえもん』についてー
清水正教授の実存、常識、公正、重層。/尾崎克之……145
緊張の瞬間/伊藤景……147
  ーーD文学研究会主催の第一回講演会においてーー
批評の残酷性と真実性と無力性/山下洪文……150
 ーー清水正の新著『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んでーー
清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んで/伊藤景……154



 「文芸入門講座」(平成26年度)課題
清水正ドストエフスキー論全集』第四巻を読んで、手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』について思うところを記しなさい。

 
 川田修平……罪と罰、天才と凡人、愛と死、神と悪魔/160
 黒澤安以里……ドストエフスキーの原作と手塚治虫の漫画版『罪と罰』について/163
 前田悠子……手塚治虫地版『罪と罰』になかったもの/166
 飯塚舞子……原作地手塚治虫版における『罪と罰』/169
 渡辺友香……手塚治虫と『罪と罰』/172
 山田優衣……『罪と罰』原作と手塚版を読んで/175
 城前佑樹……わたしたちは越境して、もう一度、戻ってこなければならない。/179


『貧しき人々』秘話 ペテルブルグ千夜一夜/下原敏彦……194
  ーーロシア人亡命家族の鞄にあった未完創作ーー 

表紙絵/赤池麗    裏表紙絵/大森美波    扉絵/金正鉉
カット/聖京子
本文絵/杉山元一 佐々木草弥 此平聖菜 金正鉉 大森美波 梶本佳雪 赤池