「ドストエフスキー曼陀羅」五号

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清水正・編著「ドストエフスキー曼陀羅」五号(2015年2月10日 日芸文芸学科「雑誌研究」編集室)が刊行されました。A五判並製221頁・非売品。講読希望者はD文学研究会メールqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp宛てにお申し込みください。

ドストエフスキー曼陀羅 5号 目次

ドストエフスキー放浪記ーー意識空間内分裂者の独白ーー/清水正……6

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(一九九一年十一月 鳥影社)について/山下聖美……47
色彩からみる『白痴』ー『白痴』に於ける〈緑〉ー/入倉直幹……50

ムイシュキン、あるいは聖なる〈物語〉/山下洪文……64

 ナスターシヤ・フィリッポヴナの亡骸を見つめるムイシュキンについて、清水正はつぎのように述べている。

  ムイシュキンは視る。見る。みる。今、ムイシュキンの眼前に存在する“世界”はただただ見詰められることだけを願っている。そこに開かれた、否、開かれつつ現象してくる“世界”は、物質(死)にまで昂められた“生命”の極を黙示しているかのようだ。(清水正「『白痴』へ向けて(*1)」)

「《見る》ことこそが、あらゆる理性的主張の最終的な正当性の源泉である」とフッサールは言った。このばあい、〈見る〉‐〈見られる〉関係は、容易に〈支配〉‐〈被支配〉の関係に置き換えられることだろう。
 ムイシュキンの空色の瞳は、このような意味を負うていない。ムイシュキンは、〈見る〉ことによって対象を支配しようとはしない。むしろ対象は〈見られる〉ことによってその本質を開示する。ムイシュキンのまなざしをとおして、対象はみずからを〈見る〉。そこで対象は、己の美質を教えられることになる。「人はムイシュキンという媒介者を通してのみ、自己の中にすぐれた部分を認める」(作田啓一「『白痴』について(*2)」)のである。
『白痴』の冒頭において、ムイシュキンは「何かものを見るときは、静かではあるけれど重重しい奇怪な表情に充たされる(*3)」と描出されている。ドストエフスキーはつづけて「ある種の人はこうした表情をひと目見ただけで、癲癇の兆候を発見するものである(*4)」と片づけてしまっているが、始まりからすでに、西洋哲学の伝統との断絶が暗示されていると考えるべきであろう。

  目がちゃんと物をいっています(*5)。

  そのとき、男はふとぼくの方へ向いたので、こちらもその顔をちらとながめ、何もかもがわかりました(*6)

 ムイシュキンの本質直観力は、あちこちで暗示されている。「この眼は、相手の存在の中核にはいる」(森有正「ドストエーフスキーにおける「善」について(*7)」)のである。
 ムイシュキンは、鏡のように人々の前に佇んでいる。人は彼の瞳のうちに、なりたかった自分、こうであらねばならなかった自分自身の〈物語〉を見出す。『白痴』の世界の人々が彼を愛するのは、そのためである。
 人々は、「自分の誇りとしている特徴――しかしそれについての誇りに十分な自信をもっていないか、あるいはそれにほとんど無自覚でさえあるような特徴――」(「『白痴』について(*8)」)をムイシュキンによって見出され、自己肯定・ひいては自己超克の契機をあたえられる。ムイシュキンは対人関係において、いわばツァラトゥストラ的役割を担っているのだ。ナスターシヤは、狂的なまでに頽廃した生活のうちに埋もれていた純粋さを感知される。彼らはいずれもムイシュキンを愛する。スイス時代、ムイシュキンを慕っていた無垢な子供たちのように。清水正の言うように、ムイシュキンは「「乳呑児をかかえた母親」として」(「ホルバインのキリスト像をめぐって(*9)」)人々に接しているのだ。母が乳で子に栄養をあたえるように、ムイシュキンは瞳で人々に〈物語〉をあたえる。
 もっとも、このありようが「ロシアのキリスト」として正しいものであるかは議論の余地があろう。作田啓一は、ムイシュキンはその受動性において、悩める者の救済者というよりむしろ同伴者であるとしつつ、つぎのように書いている。

  彼は対象の運命を変え、新しい生活への希望を、つまり信仰をいだかせる救済者ではない。同伴者は対象と一体化する受動性に終始するのに対し、救済者は対象を別の秩序へ向かわせる能動性をもつ。(「『白痴』について(*10)」)

  同情の能力の過剰が救済を困難にしているのか、それとも救済の能力の欠如が同情を拡散させているのか。私としては後者の因果関係のほうが優越しているように思える。(同(*11))

 社会的に無能(=白痴)なムイシュキンは、救済者としてもまた有能であり得ない、という見解である。ナスターシヤやラゴージンのたどった悲劇的運命を思い起こせば、首肯できる説明ではある。しかしムイシュキンの「瞳」が、西洋哲学の転倒のうえに成り立っていることを考察してきた私たちは、作田とは別の見方をしたいと思う。
 ムイシュキンに〈主体〉的能動性は欠けている。それは彼が「白痴」と呼ばれる所以でもある。だが彼は、その代償として特異な能力を付与されている。それが前述した、他者の美質を引き出す力である。その力によって、人々は内なる〈神〉に目覚める。ナスターシヤは〈汚れた妾〉であるという悲惨な〈物語〉から、〈地獄の中から出てきた清い人間〉という〈物語〉へと跳躍しようとする。ムイシュキンは、人々の胸に聖なる〈物語〉、つまりその人のあり得た可能性を呼び起こすのだ。
 ムイシュキン自身の〈主体〉はきわめて希薄だ。だが彼は人々の意識に働きかけ、その内なる美質を発掘・自覚させることによって、対象の〈主体〉を生れ変わらせる。
 信仰を支配的に強制するのではないのだ。内側から対象を変容させてしまう。「救済者」という理念を、西洋哲学の概念で把握しようとすれば、ムイシュキンは無能かもしれない。しかし、ドストエフスキーの独特な宗教観――「ドストエフスキーにとって、ロシヤのキリストは、何よりも無限な愛を伝える者である(*12)」と、ベルジェーエフは言っている――からすれば、ムイシュキンは確かに救済者なのだ。それはロシア正教の伝統からしか生れ得ない、特異な「救済者」像だったかもしれない。
 E・H・カーは、ドストエフスキーにおける「救済」の概念に「福音書にみられる原始キリスト教の伝統」(「倫理的感想――『白痴(*13)』」)の正確な反映があるとしている。すなわち、行動を律する「ヘブライ十戒」より、感情を律する「イエスの二大戒律」(「神を愛せ」「隣人を愛せ」)に重きを置く考え方である。

  かくてムイシキンの理想は行動よりも受難にあらわれる理想であって、行動よりも感情のほうを上位におく。人間と人間との道徳的、心理的な関係が一番重要となり、そこから出る行動は比較的、重視されない。(同(*14))

 原始キリスト教の名残が深いロシアという風土を考えに入れず、ムイシュキンに無能な救済者という烙印を押してしまってはなるまい。彼の能動性の欠如は、キリスト教的キリストへのひとつのアンチテーゼでさえあるかも知れないのだ。
 ムイシュキンがたんなる同伴者的存在とは言えない証左として、「対象と一体化する受動性」を実際に備えていた哲学者・アルチュセールの記録を引用しておこう。

  私は先生の筆跡を真似るようになり、先生がよく使う言い回しを借用し、先生の声やおだやかな抑揚まで真似た(略)先生はすぐに私の才能を高く評価してくれた。(『未来は長く続く(*15)』)

  私には私自身の存在が、つまり真正の存在が欠けていたし、自分を疑ったあげく自分には感性がないと思い込み、またそれが原因で誰とも感情面の関係を結ぶことができないと感じていたので、存在するためには人から愛されるしかなかった。(同(*16))

 同伴者的存在は、対象に気に入られたいがため、対象の真似をし、しだいに主体性・人間性を失ってゆく。青年時代のアルチュセールは、まさにこの罠にはまっていると言えよう。もっともその罠は、みずから嵌りこむことによって他者をおびき寄せる、巧妙な仕掛けなのだ。
 こういう人物に「同伴」された者は不幸である。たとえば、太宰治の短編『ダス・ゲマイネ』の主人公は、道化的人物にかこまれて生活するうち、みずからもまた他者の真似をせずには生きられなくなってしまう。「対象と一体化する受動性」とはかならずしも「真似」のことではあるまいが、アルチュセールの例に見られるとおり、対象に一体感・親近感を抱かせ、愛情を自分に向けさせる最良の手段は、その奥底に秘めた性質をひそかに「真似る」ことにほかならない。
 だから、同伴者的存在は必然的に頽落する。彼の〈世界〉は、依存する対象によって左右されるのだから、自己存在の上限も下限もあらかじめ決められてあるようなものだ。依存される側もまた、同伴者から得られるものといえば自己肯定感以外なにもないから、その言葉に耳を貸しているかぎり、堕落と頽廃の道をたどるよりない。
 人々の内奥に潜む聖性を揺り覚ますムイシュキンは、いかなる意味においてもたんなる「同伴者」ではあり得ない。好意を向けられたいという願望のうちには、愛されるべき〈主体〉が前提されている。その〈主体〉(近代的自我)がそもそも希薄なのだから、ムイシュキンを「同伴者」と名づけることは正当とは言えまい。この白痴の青年は、確かに「境を越えてやって来た」(清水正「ムイシュキンは境を越えてやって来た(*17)」)のだ。
 だが、にもかかわらず『白痴』という物語は残酷な結末を迎える。ルネ・ジラールは、この小説を「もっとも暗く、しかも、絶望のトーンで終わる唯一の作品」(「地下の形而上学(*18)」)と評している。
 なぜムイシュキンは、ムイシュキンを信じ、愛した人々は破滅せねばならなかったのか? これはいままで書かれたあらゆる『白痴』論の焦点というべき課題であろう。
 私たちは慎重にこの問題に分け入ってゆかねばならない。まずは冒頭に引用した、清水正の緊張感溢れる文章に、いまいちど目を通してみよう。
 ムイシュキンの前に、〈世界〉は開かれている。〈世界‐内‐存在〉は、その裸形を見つめられることを願う。ムイシュキンは、その瞳をとおして〈存在〉に新たな性質を吹き込む。いままで夢みられるだけだった可能性を開示し、聖なる〈物語〉を生きさせようとする。
 しかし、〈現実〉をあらたな次元へと引き上げようとする試みは、かならず〈現実〉の側からの抵抗にあう。ニーチェが「重力の魔」と呼んだものがそれである。〈世界〉を、そして〈世界‐内‐存在〉たる自己を変革しようとする情念の発生するところには、かならず、〈世界〉の現状を肯定し、維持しようとする力が働く。
『白痴』の世界で「重力の魔」の役割を担っているのが、ラゴージンである。創作ノートの段階においてムイシュキンと不可分だったこの悪魔的な男は、あくなき情欲と権力意志――それも歪な――の権化である。
 ナスターシヤという一人の女をめぐるムイシュキンとラゴージンの争いは、言ってみれば〈物語〉の聖性と〈現実〉の重力との戦いであった。
 闘いの結果はどうだったであろうか? ナスターシヤは死んだ。ムイシュキンはその亡骸を見つめる。しかし彼女は起き上がらない。亡骸に〈物語〉はいらないのだ。ムイシュキンの聖性は、〈死〉という厳粛な事実の前に、無化されてしまう。
「いかなる人間にもまして人間の魂への浸透力を有している」(清水孝純「負の救世主――『白痴』――(*19)」)ムイシュキンも、死者の魂を蘇らせるわけにはいかない。彼はラゴージンに「もの問いたげな目」(『白痴(*20)』)を向けるしかない。ナスターシヤの亡骸を傍らになされる二人の会話は、人を震撼させずにおかないが、それよりも私は、そこで〈言葉〉が交わされたという事実それ自体に着目したい。
 演出家の鈴木忠志は、ベケットの不条理劇『ゴドーを待ちながら』について、つぎのように述べている。

  待ってると何がやって来るかと言えば言葉がやって来る、(略)だからもし神というのがあるとすると、ベケットにとってはこの言葉との関係であるんじゃないかと考えたことがあるんです。(「シンポジウム」)

 ある意味で『白痴』の世界は、『ゴドー』以後の展開を預言的に記していたのだと思う。キリストになり得なかったムイシュキンは、ナスターシヤに復活の秘儀をほどこす代わりに、憎むべき敵であるはずのラゴージンに〈言葉〉をあたえる。一夜明けると、ムイシュキンは〈言葉〉さえ奪われた廃人となってしまう。神から言葉へ、言葉から無へ、という精神の頽落過程が、この陰惨なシーンにこめられた象徴的意味なのではないだろうか。「もうすこしも相手の見わけのつかない」(『白痴(*21)』)状態になったムイシュキンのすがたに、現代の救済者の辿るべき普遍的運命を見出したとしても、暴論ではあるまい。
 それにしても、ふたたび発狂しスイスのシュナイデル医院へと逆戻りすることになるムイシュキンは、本当には何処から来たのであろうか。ここであらためてこう問うておくことは、あながち無意味でもないと思う。「救済者」の原イメージの考究は、その救済の在り方と、悲劇的結末の意味を切開することにもなろう。
 清水正は、『罪と罰』のスヴィドリガイロフをムイシュキンの前身ではないかと指摘しているが(*22)、確かに二人はその「余りにも広い(、、)心(、)」(「新しい物語(*23)」、傍点原著)において、また「亡霊的存在」(同(*24))性において、共通項を見つけることができる。亡霊的存在とは何か。それは現世から遊離しているがゆえに、〈世界〉の裏側、〈人間〉の内面を知悉した存在のことである。

  この夜、人間本性の内面、つまり純粋な自己は変幻自在な表象に存在するのだが、それはあたり一面の暗闇である。そこでは血まみれの頭が勢いよく飛び出したかと思えば、白い幽霊のようなものが突然現れ、すぐに消える。人がこの夜を垣間見るのは、人間存在の目をのぞきこむとき――荘厳なものとなった夜をのぞきこむときである。(ヘーゲル

「世界の闇夜」と呼ばれる、この人間性の真空状態こそが、人間精神の基底をなすものであることを了解するとき、ムイシュキンらの「亡霊的」な在り方の意味がもまた、理解されるであろう。
 ムイシュキンとスヴィドリガイロフは、「人間本性の内面」に無意識のうちに訴え、その人間の知られざる内面を開示させる力をもっていた。もっとも、そうして開示される内面のトーンは、清水正の言うように、ムイシュキンにおいては「白」、スヴィドリガイロフにおいては「黒」の色合いを帯びていることだろう(*25)。
 ムイシュキンは、人間の内なる聖性をのぞきこむ瞳をもっていた。しかし彼は、その背後にひろがる「闇夜」まで見とおそうとはしなかった。人間本性の「夜明け」を見出すことに急で、その前提である「闇夜」を見つめることを怠った、というべきか。
 一方スヴィドリガイロフは、人間の内なる「闇夜」を暴きはするが、そこからさらに「夜明け」を導きだそうとはしなかった。
 もちろんこの両者は、画然と分かたれているわけでなく、互いに混融した部分があると見るべきだろう。スヴィドリガイロフに内なる〈ラスコーリニコフ〉がいたように、ムイシュキンにも内なる〈ラゴージン〉がいるのだ。

  ムイシュキンは内なる〈ロゴージン〉、内なる闇の領域への通路ともいえる不気味な「二つの目」から逃れようとすればするほど、逆に彼はそれらに呪縛され、遂には全身を呑み込まれてしまうのである。(清水正「ムイシュキンの魔(*26)」)

 こうして、夜明けと闇夜の弁証法を確立することのできなかったムイシュキンは、救済者としての存在性を否定されることになる。
ジラールが指摘するように、彼は「ロマン主義的なキリスト」(「地下の形而上学(*27)」)だった。ホルバインの絵画を見て不安を覚える場面に象徴的なように、ムイシュキンは聖性を剥ぎとられた死せるキリストの像に、耐えることができない。キリスト教における闇の部分を引き受けることができない。
 現実的には癲癇者、象徴的にはキリストだったムイシュキンは、〈闇夜〉と直面することによって、無惨に蹉跌する。
 現実と理想との距離を埋めるためには、何が必要だったのだろうか? 現実を生きる人々に、〈夜明け〉――いまだ実現されざる世界――を覗かせ、未来を暗示するだけではだめだとすれば、いったいどうすればよいのか?
『白痴』につづく長編『悪霊』において、テロリストたちが主人公として求められたのは、この問いへのひとつの答えめいたものだったのでないか、とも思われる。神を失い、言葉を失ったあと、残されるのは行動のみである。
 が、その行動もあらかじめ蹉跌を予告されている。そしてまた、〈神〉への道が暗示されることだろう。その喪失もまた、決められた必然的なコースだ。『白痴』の悲劇は繰り返される。「しんじつ美しい人間」というドストエフスキーの理想が、完全に具現化されるまでは。


   注
 *1――『ドストエフスキー 『白痴』の世界』清水正 鳥影社 一九九一年一一月三〇日 二二頁
 *2――『ドストエフスキーの世界』作田啓一 筑摩書房 一九八八年一〇月二五日 七三頁
 *3――『ドストエーフスキイ全集7』米川正夫訳 河出書房新社 一九六六年六月二〇日 六頁
 *4――同
 *5――同、三九頁
 *6――同、六七頁
 *7――『ドストエーフスキー覚書』森有正 ちくま学芸文庫 二〇一二年四月一〇日 三三八頁
 *8――『ドストエフスキーの世界』 七三頁
 *9――『ドストエフスキー 『白痴』の世界』 五八頁
 *10――『ドストエフスキーの世界』 八一頁
 *11――同、八三頁
 *12――『ドストエフスキー全集 別巻』唐木順三編 筑摩書房 一九六四年一〇月一五日 六三頁
 *13――同、三〇八頁
 *14――同
 *15――『未来は長く続く』ルイ・アルチュセール(宮林寛訳) 河出書房新社 二〇〇二年一二月二〇日 一〇七頁
 *16――同、一〇八―一〇九頁
 *17――『ドストエフスキー 『白痴』の世界』 二五頁
 *18――『ドストエフスキー』ルネ・ジラール鈴木昌訳) 法政大学出版局 一九八三年六月二五日 七三頁
 *19――『道化の風景――ドストエフスキーを読む――』清水孝純 一九九四年四月二〇日 八六頁
 *20――『ドストエーフスキイ全集8』米川正夫訳 河出書房新社 一九六六年七月二〇日 一五七頁
 *21――同、一六五頁
 *22――『ドストエフスキー 『白痴』の世界』 四三頁
 *23――同
 *24――同
 *25――同
 *26――同、一二〇頁
 *27――『ドストエフスキー』 七三頁








『白痴』マリイについて/小山雄也……72


一枚絵の可能性〜三年間の歩み〜/牛田あや美……76

小林秀雄に於けるジッドとドストエフスキー/此経啓助……85

『白痴』論ー文学の表層と深層ー/上田薫……91
清水正氏の「『悪霊』の世界」について/福井勝也……100
にがり顔のクリス丈Ⅱ(ヴァリエーションno.)/中村文昭……106
 ーー        

 「D文学研究会主催・第1回清水正講演会
「『ドラえもん』から『オイディプス王』へーードストエフスキー文学と関連付けてーー」を聴いて

D文学研究会再活動を祝う/下原敏彦……134
D文学研究会第一回講演に参加して/小山雄也……137
清水ドストエフスキーの「クリテイカル・ポイント」/福井勝也……139
  ー『世界文学の中のドラえもん』についてー
清水正教授の実存、常識、公正、重層。/尾崎克之……145
緊張の瞬間/伊藤景……147
  ーーD文学研究会主催の第一回講演会においてーー
批評の残酷性と真実性と無力性/山下洪文……150
 ーー清水正の新著『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んでーー
清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んで/伊藤景……154



 「文芸入門講座」(平成26年度)課題
清水正ドストエフスキー論全集』第四巻を読んで、手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』について思うところを記しなさい。

 
 川田修平……罪と罰、天才と凡人、愛と死、神と悪魔/160
 黒澤安以里……ドストエフスキーの原作と手塚治虫の漫画版『罪と罰』について/163
 前田悠子……手塚治虫地版『罪と罰』になかったもの/166
 飯塚舞子……原作地手塚治虫版における『罪と罰』/169
 渡辺友香……手塚治虫と『罪と罰』/172
 山田優衣……『罪と罰』原作と手塚版を読んで/175
 城前佑樹……わたしたちは越境して、もう一度、戻ってこなければならない。/179


『貧しき人々』秘話 ペテルブルグ千夜一夜/下原敏彦……194
  ーーロシア人亡命家族の鞄にあった未完創作ーー 

表紙絵/赤池麗    裏表紙絵/大森美波    扉絵/金正鉉
カット/聖京子
本文絵/杉山元一 佐々木草弥 此平聖菜 金正鉉 大森美波 梶本佳雪 赤池