ドストエフスキー曼陀羅 5号 

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清水正・編著「ドストエフスキー曼陀羅」五号(2015年2月10日 日芸文芸学科「雑誌研究」編集室)が刊行されました。A五判並製221頁・非売品。講読希望者はD文学研究会メールqqh576zd@salsa.ocn.ne.jp宛てにお申し込みください。

ドストエフスキー曼陀羅 5号 目次

ドストエフスキー放浪記ーー意識空間内分裂者の独白ーー/清水正……6

清水正著『ドストエフスキー「白痴」の世界』(一九九一年十一月 鳥影社)について/山下聖美……47

色彩からみる『白痴』ー『白痴』に於ける〈緑〉ー/入倉直幹……50


はじめに
ドストエフスキーには無駄な文章が一切ない。作品中のどの単語、エピソードにも重要な意味が隠されている」と清水正氏は言った。それは『罪と罰』のエピローグ場面で、シベリアに流されたラスコーリニコフのもとに現れたソーニャが何色のショールをかぶっていたかを学生に質問しているところで発せられた言葉である。今回、私が『白痴』を〈色彩〉から読み解こうと思ったすべての出発点はそこにある。
 清水氏の質問は私にも飛んだが、私は答えることはできなかった。そうやって指摘されるまで、正直なところショールの色など失念していたからだ。ソーニャがかぶっていたのは〈緑色〉のショールであった。そして清水氏は冒頭の言葉に続いて、「〈緑〉は神秘主義において重要な色であり、また復活を象徴する色」だと仰った。たしかに、そのように見れば「アブラハムとその牧群の時代」を見たラスコーリニコフのもとに、ふいに現れるソーニャは物理的にも象徴的にも彼の復活を見届け、共にする存在となるだろう。かぶっているショールに〈緑〉という色彩を通して意味を付与することによって、この場面の構造がより重層化している。
 キリスト教に於いて色彩は重要な役割を果たしており、聖書の中にもいたるところに色彩に関する記述がある。例えば「出エジプト記」では神は人々に、金糸、青糸、紫糸、緋糸、亜麻のより糸で、幕屋を作り、またこれと同じ色で衣服を作り、神に捧げることを命じている。ここで神が良しとした色は金、青、紫、緋(赤)、亜麻(生成りの白)であった。特に赤と白は神の御姿を表す色として用いられ、その意味で神性を持っていると言ってもいい。ドストエフスキーもシベリア流刑の間、聖書を読んでいたので、聖書に現れる色、またその色の象徴性に対しておそらく敏感であっただろう。
 したがって私はドストエフスキーを読む際、〈色彩〉について細心の注意を払いながら読み進めていくことにした。すると、この『白痴』に於いても〈色彩〉が重要な意味を帯びているのだと確信した。さらに〈緑〉が重要な意味を持った上で、作中で効果的に登場しているのではないかと思い至った。本論では、そのように〈色彩〉にスポットを当て、自分なりに分析、解釈を加えて『白痴』に迫っていくことにする。テキストは岩波文庫米川正夫訳、第四刷を使用した。

色彩語
 まずは、本論で扱う色彩語の定義について簡単にまとめておく。本論に於ける色彩語とは『白痴』の文中に登場する〈赤〉や〈まっさお〉など色に関する言葉が入ったものを抜き出し、対象とした。また「黒山」「赤裸々」、表題にもなっている「白痴」などの日本独自の熟語の中に登場する中で、色の意味を持たない色彩語は除いた。加えて「好奇の色」「冷笑の色」というように、日本語のニュアンスによって「色」が用いられているものの具体的な色彩名を持たないものも対象外とした。
 私が本論でテキストに挙げたのはあくまで翻訳されたものであるから、訳者の意思や解釈が含まれているものではあるが、その点は理解していただきたい。
 また、〈真っ赤〉や〈真っ青〉など色彩に接頭語が付いたものではあるが、ここではひとまず別の色彩としてカウントした。さらに、〈まっか〉〈まっ赤〉〈真っ赤〉、など同じ色彩に対して表記揺れが生じているものが数点見受けられるが、今回は全て別の色彩語としてカウントすることにした。

『白痴』における色彩語の特徴



  
  
 この表は『白痴』に登場する色彩語を章ごとにまとめたものである。米川正夫版の『白痴』には合計で三二〇回ほど色彩語が使用されている。第一編から第四編までの合計頁数が一一六八ページであるから、おおよそ三,六五頁に一回の頻度であることがわかる。感覚としては非常に少ない。ドストエフスキーが色彩語に頼ることが多いのは、新しいキャラクターが登場した時である。髪、目、男性ならば髭の色など、そのキャラクターの風貌を描写する際は惜しげもなく使うようである。ただ、情景を描写する際は色彩語に頼ることは少ないようだ。例を挙げてみると、第一編の六である。表にあるようにここでは色彩語が一切使われていないが、ここはムイシュキンがスイスで療養している場面で、マリイという病身の少女と会い、そして彼女の死と村から離れるまでの四年間の生活が書かれている。しかし自然に囲まれているはずのスイスの景色は実際的な色を帯びることはない。病身のマリイの顔色(これについては後述する)にさえ書き残していない。清水氏の言葉のとおり「無駄な文章を残さない」のであれば、やはり色彩語は必要な時にしか使用されないようである。
 使用頻度が高い色彩語は上から〈赤〉〈青〉〈黒〉〈白〉〈緑〉である。また表から一目見てわかるが、〈赤〉と〈青〉の登場回数は他の色彩語に比べて頭ひとつ分抜き出ている。〈赤〉に至っては類義の〈まっか〉などを含めて考えてみると実に八四回にのぼり、色彩語全体の四分の一を占めている。全編を〈赤〉で支配されている『白痴』は〈赤〉の物語だと銘打たれていてもなんらおかしくないようにさえ思える。
 では〈赤〉に対してどんなイメージが付与されているのだろうか。一口に〈赤〉と言ってもピンクに近いものから、ほとんど黄色のようなものまで多岐に渡る。ただ一般的に言えば炎や愛情、情熱といった明るく派手なイメージを抱くことが多いだろう。そもそも〈赤〉は進出色や興奮色に含まれるので、ヨーロッパでは古くから戦いの色として象徴的に取り入れられてきた。ギリシャの軍神マルスを意味する色であり、ローマ軍の兵士は赤い外套を着用した。それから〈赤〉を意味する色として軍服として用いられた。スタンダールの『赤と黒』の〈赤〉も軍人階級を象徴している。
 また〈赤〉はキリストの血の色だということも忘れてはならない。西洋ではキリストが人類のために十字過剰で流したと尊い血の色であり、キリストによる救済を意味する色として、また先述した〈赤〉の神性ともあいまって〈赤〉は畏敬されていた。今日でもキリスト教徒たちはキリストの血を象徴する葡萄酒とキリストの肉体を象徴する白パンを食する儀式を行うのだ。
 さて、ここで『白痴』に立ち返ろう。ドストエフスキーは「完全に美しい人間」を描こうと考えた。そこでモデルにしたのがドン・キホーテとキリストである。ドストエフスキーバーゼルでハンス・ホルバインの「死せるキリスト」を見た時期の創作ノートに「キリスト公爵」と残している。この「キリスト公爵」は後のムイシュキンであり、彼がキリストを下敷きにして生まれた人物であることはもはや明らかだろう。つまりキリストを模したムイシュキンは、神性と戦いを帯びた〈赤〉の物語に登場したのである。
 では〈赤〉はどのようにして『白痴』でこれほどまで使用されるにいたったのか。先述した通り、ドストエフスキーは情景に色彩語を使用する回数が非常に少ない。そもそも〈赤〉が初めて使用されたタイミングはと言うと、表にある通り第一編の一からである。その際はレーベジェフのことを赤鼻の役人と表記する際に使用している。第一編ではもう一度赤鼻と使われているだけしか〈赤〉の表記は見られない。次は第一編の五でムイシュキンがアレクセイのことを説明する時に「顔の赤い」と評する場面である。〈赤〉が多用されていった答えはここにある。そう、顔色である。
 ドストエフスキーの作品は『白痴』に限らずどれも会話文が多く、そして長い。注意しなければならないのは、ドストエフスキーはその長い会話劇の合間で、人物たちの動きを描写した上でキャラクターの顔色までもしっかり描いているという点である。キャラクターは怒ったり悲しんだり恥ずかしがるたびに顔を〈まっか〉にさせたり〈まっさお〉にさせていくのである。つまり〈赤〉と〈青〉の使用回数が多いのは情景や衣類、身体の特徴を表現することはもちろん、それ以上に顔色によるところが大きい。例えば最初に使用される色彩語は第一編の一、〈青黄いろ〉であるが、それもやはり顔色に使われている。さらに例に挙げるならば、〈青白い〉は登場回数こそ十回満たないものの、第一編から第四編まですべて使われていて、それも顔色に限定されている。ドストエフスキーがキャラクターたちの感情の変化を表現する際、動作よりも顔色に重きを置いていたことは明らかであろう。

『白痴』にみる〈緑〉
 さてドストエフスキーが表情の変化にこそ色彩語を多用するという前提がわかったところでようやく本題の〈緑〉を見ていくとしよう。『白痴』の中で〈緑〉と言えばムイシュキン第四幕一一にて死んだナスターシャが横たわったラゴージンの部屋にかけられているカーテンの色である。たった一度しか登場しないにもかかわらず、この場面で〈緑〉は際立っている。このカーテンについては後述するとして、まずは〈緑〉がどのような象徴性を持っているかを見てから、『白痴』の中で〈緑〉がどのように使用されているかを順に追っていくことにしたい。
 〈緑〉と聞くとまず私の脳裏に浮かぶのは自然そのものの色である。春に芽吹いて、夏に盛り、秋に実って、冬に枯れ、また春が来ると芽吹く。一年のサイクルで再生と死をくり返す〈緑〉のシンボルとしては、春や生、死、復活といったまるで真逆のシンボルが浮かび上がってくる。また、自然というどうしようもなく脅威的な存在に対して人間は逆らうことができないとされ、〈緑〉を運命の色として捉えることもあったようだ。
 色というのは色み、明度、彩度の三属性からなっており、明度と彩度が高くなるにつれ明るく派手になり、その逆になるにつれて暗く地味になっていく。つまり同じ〈緑〉を扱っていても、それがどのような緑なのかで「生」と「死」のふたつのパターンが存在するのだ。

・ラゴージンの襟巻
 はっきりとした〈緑〉が『白痴』に登場するのは他の使用頻度が高い色に比べて少し遅く、第一編の一五のラゴージンが身に付けている「濃い緑に赤のまじった真新しい絹の襟巻」である。この〈緑〉にはどういった解釈をなせばよいだろうか。

彼の服装は、ただ、濃い緑に赤のまじった真新しい絹の襟巻と、甲虫を形どった大きなダイヤのピンと、右手のきたない指にはめたすばらしいダイヤの指輪を除くと、何から何までけさと同じであった。(第一編、三一四頁)

 この場面はラゴージンがナスターシャの誕生日に一〇万ルーブリを持って彼女を迎えにくるところで第一編の最大の盛り上がりを見せるところである。ラゴージンはナスターシャを熱烈に愛していて、それまでにも父親から渡された大金をそっくり使って彼女にダイヤの耳飾りをプレゼントしたり、ナスターシャに一〇万ルーブリを持ってこいと言われれば、本当に期限内に用意してきたのである。ただ、ナスターシャはガブリーラと結ばれる直前であり、一〇万ルーブリを持ってきても本当に彼女と一緒になれる確証はない。彼は一〇万ルーブリをナスターシャに賭けた、と言ってもよい。賭け、という言葉と〈緑〉で連想されるのはルーレットの台である。ルーレットでチップを置く場所はそれこそ鮮やかな〈緑〉であって、『賭博者』を書いたドストエフスキーもそれを踏まえた上で、ラゴージンに〈緑〉一色の襟巻ではなく「濃い緑に赤のまじった」襟巻を身につけさせたのだろう。今朝は付けていなかった、ルーレット台の〈緑〉に〈赤〉の襟巻をわざわざまとって、そして一〇万ルーブリの大金を持参したとくれば、ラゴージンがいかにナスターシャに賭けていたかがはっきりとわかる。
 また、先述したように〈赤〉には情熱的・好戦的なイメージも付いてくる。つまり、ガブリーラにもエパンチン将軍にも、トーツキイにさえ色で宣戦布告をしていると言ってもよい。さらに、先ほどは襟巻の色をルーレットクロスの〈緑〉と解釈したが、この場面の〈緑〉が秘めているのはそれだけではなさそうだ。〈緑〉は新緑のイメージであり、新緑の頃は古代から恋愛の季節であった。そのため、中世ヨーロッパの若者たちは恋の成就に欠かすことのできないものとされていた。つまり「濃い緑に赤のまじった」襟巻は情熱的な〈赤〉と青年の若い恋の〈緑〉がどちらも取り入れられているのだ。

・コーリャの襟巻
 第一編ではこれ以上〈緑〉の出番はなく、次に現れるのは第二編である。それも〈緑〉ではなく〈グリーン〉としてである。〈グリーン〉と表記されているのは後にも先にもこの箇所だけであるが、ここではなぜわざわざ〈グリーン〉と表記したのかはひとまず考えずに、単に〈緑〉の類いとして取り上げていく。
 
コーリャもこれにはがまんができなかった。彼はわざわざこのときをねらったように、ガーニャからわけもいわずにねだって貰った、まだ真新しいグリーンの襟巻にくるまっていたのである。彼は、かんかんになって腹を立てた。(第二編三六五)

 ムイシュキンは手紙をアグラーヤに届けてもらうよう頼むためにコーリャへ送る。コーリャはやはり〈グリーン〉の襟巻をまとってエパンチン家を訪れる。この襟巻はムイシュキンからアグラーヤへの恋文(ムイシュキンは後に否定しているものの)を渡すことを任されたコーリャを、騎士に見立てたものであろう。それは手紙を受け取ったアグラーヤがドン・キホーテの中に手紙を隠すという場面からも明らかである。〈グリーン〉は先のラゴージンの襟巻でも見たように、若い恋というニュアンスを含んでいると考えれば、コーリャが恋の使者としてアグラーヤに手紙を渡したと考えるのが自然であろう。おそらくコーリャはこの手紙を受け取って、すぐにこれが恋文だと思い至ったのではないか。それ故にわざわざ「ガーニャからわけもいわずに」恋を象徴する〈グリーン〉の襟巻を「ねだって貰った」のである。

・レーベジェフ家のベンチとテーブル
 次の〈緑〉はレーベジェフの家に見ることができる。

そこにはじっさい、いたってささやかな、いたってかわいい庭があり、天気続きのおかげで、木立ちがみんな芽を出している。レーベジェフは公爵を緑色の木造ベンチにかけさした。その前には、同じ緑色のテーブルが地べたに打ち込まれていた。(第二編、三八四頁)

 当のレーベジェフはどうかというと、妻のエレーナを亡くしており娘三人と息子一人を自らで養っている。しかし、生命力に溢れた木立に囲まれた〈緑〉のベンチとテーブルを見て、そのようなマイナスの印象を抱くものはいないだろう。新緑の夏にふさわしく庭には花も咲いているため、内実はそうでなくても一見すれば明るい家、家庭だと思えるだろう。なぜなら彼女たちは陽気に笑い合っているからだ。たしかに娘のヴェーラとその次女が喪服を着ているとレーベジェフの言葉の中にも見られるが、具体的な描写はない。
 ここに見られる〈緑〉とは若さやいきいきとした生命の鼓動の象徴であり、自然そのものの色だ。注意しなければならないのは、場所は違えど〈緑〉のベンチがすでに『白痴』に登場していたということである。『白痴』の〈緑〉のベンチと言えば、ムイシュキンとアグラーヤが逢瀬を重ねるための場所であるが、この時点で既に若さや生命力に溢れた〈緑〉のベンチをムイシュキンは目にしているのだ。

・ラゴージン家の壁の色
 レーベジェフ家で〈緑〉が生命の色だと読者に一旦届けてから、次ではすぐにその逆を見せる。ラゴージン家の壁の色である。

この家はどす黒い緑色に塗られて、いっさい装飾というもののない、暗鬱な感じのする大きな三階建てであった。(第二編、三九四頁)

 ここでわざわざ「どす黒い緑色」と明言しているということは、レーベジェフ家の木立ちの中のベンチやテーブルのようないきいきとした〈緑〉ではないということに他ならない。その証拠にドストエフスキーはレーベジェフの家では情景をいくつか描写していたのに対して、ラゴージン家の庭や木々に一切触れていない。対照的に「薄暗い」や「小さな檻のような部屋」といったマイナスのイメージの言葉が並んでいる。結末の〈緑〉のカーテンはここではまだ出ることはないが、ナスターシャの棺となるラゴージンの家には既にいたるところに死の気配が漂っている。
 ここでムイシュキンとラゴージンはハンス・ホルバインの「死せるキリスト」の模写を見、それから十字架を交換する。その後でラゴージンはムイシュキンを母親に会わせる。ラゴージンの父は物語が始まった時点で亡くなっており、母は喪に服しているため〈黒〉い服を着ている。それ自体にはなんの不思議もないが、ついさっきのレーベジェフ家とはうってかわって、しっかりと服の描写がなされていることには注目しておきたい。殊更に〈黒〉が強調されていて、「どす黒い緑色」とあいまってラゴージンの家に対して死のイメージを植え付ける役を買っているのだから。ここでの〈緑〉はそれまでの生命や再生の象徴にラゴージンの家では翳りがある、と見てよいだろう。

・レーベジェフ家の別荘
 次はまたレーベジェフ家に関する描写である。ドストエフスキーはレーベジェフ家(決してレーベジェフ本人ではない)に対して執拗に〈緑〉を与えているように思える。パーヴロフスクにはエパンチン家もナスターシャの友人のダリヤの別荘もあって、ムイシュキンはレーベジェフの別荘を訪れることにしたのだった。

往来から内へ入る口の所にあるかなり広い露台には、オレンジ、レモン、ジャスミンなどが、緑いろに塗った大きな桶に植わって、配置よくならんでいたが、これが、レーベジェフの目算によると、借り手をつくるのに餌なのである。(第二編、四五七)

 ここでも〈緑いろ〉の桶に花々が植わっているのが見てとれる。生命、再生の象徴である〈緑〉が花々が咲く花壇として使われているのは実にわかりやすい。もちろん、都市の町ペテルブルクと自然が豊かなパーブロスクという違いがあれど、先のラゴージン家の悲痛な、今にも胸が押し潰されそうな「どす黒い緑」とはまるでイメージが違う。ドストエフスキーはレーベジェフとラゴージン、身内から死者が出ているふたつの家庭を〈緑〉の明度によって違いを付けているのが決定的となっただろう。

・ラゴージンのネクタイ
 さて、ここで少し順番が逆転するが、先にラゴージンのネクタイの色について触れておきたい。第三編でアグラーヤとムイシュキンが公園のオーケストラを聴きにいく場面で、ラゴージンを発見する。

彼の心に残った印象は、ただひん曲がったような嘲笑と、目と、ちらと目に映ったひとりの男の薄い緑色をした、しゃれたネクタイばかりであった。(第三編、四七)

 本文中では明言を避けているものの、「うずを巻いた暗色の毛、見覚えのある、じつによく見なれた微笑と目を持った青ざめた顔」とあるように、この人物はラゴージンで間違いあるまい。この後でナスターシャと取り巻きの連中がやってきて、それからラゴージンはナスターシャと共に去っていくが、その間もずっと〈緑〉のネクタイは彼の胸にある。これは第一編で付けていた「濃い緑に赤のまじった襟巻き」と同じで、新緑、恋に突き進むラゴージンを象徴している。激しい恋と言えば〈赤〉のイメージもあろうが、それこそドストエフスキーが〈緑〉を身に付けされた理由ではないかと私は考える。つまり、ある意味で破壊的なラゴージンのナスターシャへの愛情は、もっと若々しく、希望に満ちあふれていたものであったのではないか。

・待ち合わせのベンチ
 第三編から第四編まで〈緑〉が増えた大きな理由のひとつに、〈緑色〉のベンチの存在がある。以前レーベジェフ家でも生命力や再生を象徴する〈緑〉のベンチはあったが、パーヴロフスクではアグラーヤとムイシュキンが会うために欠かせない場所となっている。
 この〈緑色〉のベンチはこれまで見てきたラゴージンのナスターシャに対する恋心と同じ解釈で捉えてもよいだろう。新緑の季節を象徴する〈緑〉は、まさに恋するアグラーヤがムイシュキンを指定する場所にふさわしい。
 しかし、アグラーヤは素直に言葉で気持ちをムイシュキンに伝えることができない。あまつさえ、「あたしはどんなことがあったって、あなたと結婚しやしません!」(第三編、三七)とまで言ってしまうのである。ムイシュキンに至ってはアグラーヤの言葉の真意に気づくことすらなく、「ええ、ぼくはまだあなたに求婚したことはありません、アグラーヤさん」(第三編、三八)とまで言い切ってしまうのである。ただ、ここで「まだ」としているのでどうやらムイシュキンもまんざらではないようだが、しかしとにかくアグラーヤが恋文だと思っていたものは、彼にしてみればそんなニュアンスが含まれていない、とのことだった。そこでアグラーヤは古代から続く恋の色である〈緑〉のベンチを再三、逢い引きの場所に指定するのだ。言葉で素直にムイシュキンに伝えられないために、なんとか色で彼に気づいてもらおうとするアグラーヤがなんともいじらしい。

・イッポリートの夢
 次にイッポリートの告白の場面に移ろう。ここでも〈緑〉は登場する。イッポリートは肺病でもう余命幾ばくもない青年である。彼は長い間ベッドに寝ていて、その間は真向かいにあるマイエル家の赤い壁を見ていた。つまり〈赤〉はこれまでのイッポリートの精神的な支えである。しかし、ムイシュキンはパーヴロフスクに移って「暮らすのが楽だろう」と言う。そして、ムイシュキンの言としては、緑の色と清浄な空気が彼の身体に生理的転化を呼び起こしてしのぎよくなるかもしれない、と。ここでみる〈緑〉が果たして色彩のことなのか、それとも実質的な自然そのものの緑のことなのかは判別がつかない。しかし、彼がムイシュキンの説得やリザヴェータ夫人の言葉によって、少しずつ壁から自然に惹かれていったことは間違いあるまい。

それは僕の部屋よりも大きくて高く、道具も上等で、全体的に明るかった。戸だな、たんす、長いす、そして大きな広い寝室には、緑色の、綿の入った絹夜具がかかっている。

 そして具体的な〈緑〉はイッポリートの夢の中に登場する。ここでイッポリートは自分の部屋ではない場所で寝ているとあるが、それでは誰の部屋なのだろう。これはおそらくムイシュキンのところである。ムイシュキンはキリストを下敷きにして生まれた。しかし彼はキリストのように奇跡を起こしてイッポリートを死の淵から救う術を持ち合わせていない。彼ができるのは、迫ってくる〈赤〉ではなく、生命力に溢れている〈緑〉に身を委ねよと伝えるだけだ。この緑は再生や生命へのいつくしみ、もしくはムイシュキンからイッポリートへの愛そのものの象徴ではないだろうか。そしてイッポリートはマイエル家の〈赤〉の壁から〈緑〉を受け入れるのである。

・〈緑〉のカーテン
 ここまで『白痴』に登場する〈緑〉を追いかけてきたが、最後に第四編の一一に登場する〈緑〉のカーテンを見ていこう。これは全編を通して最後の〈緑〉であり、もっとも重要な意味合いを与えられていると断言していい。ラゴージンがムイシュキンを連れて、ナスターシャの死体の置かれた部屋に入る場面だ。少し長くなるが引用しておこう。

ふたりは書斎へはいった。前に公爵が訪れたときから見て、この部屋にはいくぶんの変化が生じていた。部屋ぜんたいを横切って緑色の厚手の絹のカーテンが引かれ、その両端が出入り口になっている。これがラゴージンの寝台をしつらえてある小部屋と、書斎の仕切りになっている。重々しいカーテンはすっかりおろされて、出入り口もふさがっていた。部屋の中はおそろしく暗かった。ペテルブルクの夏の『白夜』は、だんだん暗くなって来たので、これがもし満月でなかったら、カーテンをおろしたラゴージンの薄暗い部屋の中は、もののけじめもつきかねたろう。(第四編、五三七―五三八)

 ナスターシャの遺体がこの部屋に安置されていることを誰にも告げていないことから考えて、この〈緑〉のカーテンはどうやらラゴージンが用意したと考えるべきであろう。さて、以前ムイシュキンが訪れた「どす黒い緑色」の家は本当に死を象徴する家になってしまった。これまでにも〈緑〉にいくつかの解釈を加えてきたが、今回はどのように見ればよいだろうか。まず、この〈緑〉が死の象徴だと捉えるのはどうだろうか。「どす黒い緑色」は明度の低さから死を暗示しているとの結論を下したが、たしかにこの場面も同じように考えられる。この部屋に入ったばかりのムイシュキンはまだナスターシャの死を理解していない。これは〈緑〉を「死」の象徴として使用することで、ナスターシャの死体を描写する前から象徴的に理解させたというのだろうか。しかし、ドストエフスキーがこの最後にして最大のエピソードにわざわざ〈緑〉と明記したのだから、多義的な意味が含まれていると考える方が自然である。
 では果たしてどういった解釈をなせばよいのか。まず、この〈緑〉は現実的に考えてどのように視界に入ってくるのかを考えてみたい。「部屋はおそろしく暗かった」のものの、「満月」のおかげで完全な暗闇ではないようである。薄暗い中で〈緑〉は人間の視界にどのように映るかというと、普段の昼光の下よりも鮮やかに見えるのである。プルキンエ現象と呼ばれる人間の生理的な反応によって、赤や黄色の長波長域の色は認識しづらくなり、代わりに青や緑の短・中波長域の色は比較的鮮やかに見える。すなわち、夜であろうとも「満月」の光があるこの場面では明度や彩度が高いものであったと思われる。ラゴージン家の壁の色のような「どす黒い緑色」ではない。つまり、ここでの〈緑〉は「死」というマイナスのイメージだけでは決してない。
 ではここでも、襟巻のような新緑が萌えるような恋の〈緑〉だと認識すればよいのか。たしかにナスターシャは自分の精神を肯定してくれたムイシュキンに魂から惹かれていた。男性的に不能だというムイシュキンに比べて、性的な生活はラゴージンが勝っていたかもしれないが、気持ちの上で明らかに傾いている女性を性的にしか支配できなかったラゴージンがどうしようもなくなって殺すまでに至ったのだろう。しかし、彼女を殺害した後でもやはり気持ちに偽りがないとするために恋の〈緑〉を使ったのだろうか。その可能性ももちろんあるだろう。
 ここで一旦、原点に立ち返ってみたい。そもそも私が〈緑〉を意識しはじめたのは『罪と罰』でソーニャがかぶった〈緑〉のショールが「復活」を象徴していたからである。そう、この場面の〈緑〉でも同じことが言えるのではないか。ナスターシャが手に入らないと知ったラゴージンは彼女を殺害するが、やはりその後の焦燥具合を見ると、後悔しているように見られる。この〈緑〉は彼女に「復活してほしい」というラゴージンの願望なのではないだろうか。中世のヨーロッパでは産室を〈緑〉のカーテンや絨毯で飾ったとあるが、ドストエフスキーはそれすらも考えていたのではないだろうか。この白夜の満月に照らされる部屋はまさにそれにふさわしいように思える。この〈緑〉で急造された部屋は「死」と「恋」と「復活」が入り交じった象徴のポリフォニー的な空間なのである。

おわりに
 ここで最後に江川卓氏の『謎とき『白痴』』で〈緑〉はどのように解釈されているかについて少し触れておこう。

イタリア・ルネッサンス期の聖母像を見ると、そのかなりの部分が緑の衣に包まれているからである。(中略)まさしく聖母の慈愛の衣の庇護のもとに人びとが守られている図である。(六二―六三)

 なるほど、ここで〈緑〉を聖母マリアの色とすれば、レーベジェフ家で〈緑〉が多用されている理由も、ムイシュキンがイッポリートにしきりにパーヴロフスクで〈緑〉に触れた方がいいと言った理由の解釈にも奥行きができる。
 ドストエフスキーは色彩を実に巧妙に使用している。〈緑〉のひとつをとっても、いくつもの象徴がひとつの場面に重ねられており、キャラクターの心情やその背景など、様々な深みをもたらしている。ここで私が分析した解釈などほんの一握りで、本来はもっと多義的な象徴を含んでいるのかもしれない。しかし、今回色彩に注目することによって、ドストエフスキーの深淵をわずかに触れられたように思える。これからもドストエフスキーの一語一語を見落とさずにしっかりと読み込んでいきたい。

参考文献
清水正 『ドストエフスキー『白痴』の世界』(一九九一年一一月三〇日 鳥飛社)
原卓也監修『読んで旅する世界の歴史と文化 ロシア』(一九九四年二月二〇日 新潮社)
江川卓 『謎とき『白痴』』(一九九四年九月一五日 新潮選書)
城一夫『色彩文化の東と西』(色彩の歴史と文化収蔵、一九九六年十一月五日 共立女子大学共立女子短期大学公開講座


ムイシュキン、あるいは聖なる〈物語〉/山下洪文……64
『白痴』マリイについて/小山雄也……72


一枚絵の可能性〜三年間の歩み〜/牛田あや美……76

小林秀雄に於けるジッドとドストエフスキー/此経啓助……85

『白痴』論ー文学の表層と深層ー/上田薫……91
清水正氏の「『悪霊』の世界」について/福井勝也……100
にがり顔のクリス丈Ⅱ(ヴァリエーションno.)/中村文昭……106
 ーー        

 「D文学研究会主催・第1回清水正講演会
「『ドラえもん』から『オイディプス王』へーードストエフスキー文学と関連付けてーー」を聴いて

D文学研究会再活動を祝う/下原敏彦……134
D文学研究会第一回講演に参加して/小山雄也……137
清水ドストエフスキーの「クリテイカル・ポイント」/福井勝也……139
  ー『世界文学の中のドラえもん』についてー
清水正教授の実存、常識、公正、重層。/尾崎克之……145
緊張の瞬間/伊藤景……147
  ーーD文学研究会主催の第一回講演会においてーー
批評の残酷性と真実性と無力性/山下洪文……150
 ーー清水正の新著『清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んでーー
清水正ドストエフスキー論全集』第七巻を読んで/伊藤景……154



 「文芸入門講座」(平成26年度)課題
清水正ドストエフスキー論全集』第四巻を読んで、手塚治虫のマンガ版『罪と罰』と原作『罪と罰』について思うところを記しなさい。

 
 川田修平……罪と罰、天才と凡人、愛と死、神と悪魔/160
 黒澤安以里……ドストエフスキーの原作と手塚治虫の漫画版『罪と罰』について/163
 前田悠子……手塚治虫地版『罪と罰』になかったもの/166
 飯塚舞子……原作地手塚治虫版における『罪と罰』/169
 渡辺友香……手塚治虫と『罪と罰』/172
 山田優衣……『罪と罰』原作と手塚版を読んで/175
 城前佑樹……わたしたちは越境して、もう一度、戻ってこなければならない。/179


『貧しき人々』秘話 ペテルブルグ千夜一夜/下原敏彦……194
  ーーロシア人亡命家族の鞄にあった未完創作ーー 

表紙絵/赤池麗    裏表紙絵/大森美波    扉絵/金正鉉
カット/聖京子
本文絵/杉山元一 佐々木草弥 此平聖菜 金正鉉 大森美波 梶本佳雪 赤池