清水正の『浮雲』放浪記(連載164)

6清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4

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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=QWrGsU9GUwI  宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=VBM9dGFjUEE 林芙美子浮雲」とドストエフスキー「悪霊」を巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=S9IRnfeZR3U 〇(まる)型ロボット漫画の系譜―タンク・タンクロー、丸出だめ夫ドラえもんを巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=jU7_XFtK7Ew ドストエフスキー『悪霊』と林芙美子浮雲』を語る(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=xM0F93Fr6Pw シリーズ漫画を語る(1)「原作と作画(1)」【清水正チャンネル】 清水正日野日出志犬木加奈子

https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の深層(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=Xpe5P2oQC4sシリーズ漫画を語る(2)「『あしたのジョー』を巡って(1)」【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MOxjkWSqxiQ林芙美子浮雲』における死と復活――ドストエフスキー罪と罰』に関連付けて(1)【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=a67lpJ72kK8 日野日出志『蔵六の奇病』をめぐって【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=ecyFmmIKUqIシリーズ漫画を語る(3)「日野日出志『蔵六の奇病』を巡って(1)」【清水正チャンネル】

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


清水正の著作・購読希望者は日藝江古田購買部マルゼンへお問い合わせください。
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 清水正の『浮雲』放浪記(連載164)
 平成☆年5月22日


さて、『浮雲』の富岡兼吾や甲田ゆき子には唯一神へと向かう垂直軸はない。精一杯見上げても、見えるのは大空に浮かぶ雲ぐらいのもので、その浮雲はどこからともなく生まれ、そしてどこかへと消えていくはかないものである。諸行無常の鐘の音は聞こえてきても、それ以上でも以下でもない。ドストエフスキーが『罪と罰』のエピローグで書いたような〈復活の曙光〉に輝くといった感動的な〈永遠の今〉はどこにもない。あるのは〈生ぬるき人間〉たちの陰鬱な色彩で塗り込められた生ぬるい生の持続があるばかりである。
 ゆき子は富岡に対する思いは一貫しているが、この一貫性はさまざまな傷を負いながらも、決して垂直の方向へと向きを変えることはない。富岡がだめならジョオ、富岡がだめなら伊庭へと水平的に向きを変えることはあっても、その視線は唯一神へと向けられることはなかった。ゆき子は、目に見えないもの、超越的な存在に視線を注ぐことはなかった。ゆき子は男なしで生きていくことのできない女であり、しかもその男のうちの代表的な二人は妻のある男である。伊庭には子供まであるが、読者がそのことを失念しがちなのは、作者が伊庭の家庭生活にまったく触れなかったことにある。読者は、伊庭が妻や子供たちにどのように接していたのかまったく知ることができない。
 戦争中、伊庭の心にどのような変化が生じたのか。もともと彼は
銀行員であったわけだから、まさにレベジャートニコフのいう「同情などというものは学問上ですら禁じられている」というイギリスの功利主義的な経済原則に則って生きていたにちがいない。ゆき子はその功利主義的経済原則を受け入れて伊庭の肉の欲求に応えていたまでのことである。富岡との関係が破綻しかければ、何度でもゆき子は、伊庭のその功利主義に歩調を合わせるのである。読者は、この伊庭とゆき子の関係の前提をきちんと押さえておく必要がある。伊庭が宗教を金儲けの道具と考えていたように、ゆき子もまたそんな伊庭を軽蔑しつつ利用しているのである。林芙美子はこの二人の利害で結びついた関係の日常を描くことはなかったが、もしそれを描いていれば富岡との関係以上のどろどろが浮上してきただろう。利用し合っているだけの男と女の性行為というものがどのようなものなのか。それを描いてこそ、男と女の関係の深奥の闇が露呈されるはずである。
 ゆき子は伊庭を軽蔑しているが、伊庭の肉の欲求に肉で応えることができる。ゆき子は、まさか富岡を尊敬などしていないだろうが、富岡の肉の欲求をこそ激しく求めている。ゆき子が伊庭の欲求に応えているのは経済的に自立できないという事情もあるが、自らの肉の欲求を押さえきれないということもあろう。肉が絡んだ男と女の関係はきれいごとではすまない。伊庭とゆき子の関係を、作者が描いただけの場面で解釈することほど危険なことはない。二人の関係の闇を知っているのは当事者だけであり、読者はその闇を闇のままに受容することもまた必要かもしれない。
 伊庭がキリスト教や仏教各派の教義に深い知識を蓄えていれば、大日向教も一筋縄ではいかない教団ともなり得ただろう。いかなる宗教も教団として組織された時点で、組織運営の論理にからめ取られることになる。経営が破綻すれば、教団組織が壊滅するのは必至である。国家を危機に陥らせる教義を掲げた教団は、国家権力によって容赦のない弾圧を被ることになる。このことに例外はない。教団が国家をも凌ぐ権力を獲得した場合だけ、その教団は延命する。伊庭がそういった野心を抱いていた〈宗教家〉であったり、真に迷える人間の救済を考えて大日向教を始めたのであれば、ゆき子との関係もまったく違った様相を見せたであろう。
 大日向教を創始した〈宗教の伊庭杉夫〉と、ドストエフスキーを愛読する〈文学の富岡兼吾〉の間で揺れる甲田ゆき子ということになれば、まさに『浮雲』は一挙に世界文学の地平におどり出ることになっただろう。否、林芙美子は『罪と罰』や『白痴』や『悪霊』や『カラマーゾフの兄弟』を書いたドストエフスキーになる必要はない。そんなことをしても所詮、亜流にしかなれない。唯一神が支配する世界での人間の〈悪〉や〈善〉を問題にして〈裁き〉や〈赦し〉を問題にしても、日本人の生を描き出したことにはならない。林芙美子がペン一本で臨んだのは、日本人の生のすがたである。〈裁き〉や〈赦し〉もない、〈悪〉も〈善〉もない、そういった網をいっさいかけずに、人間が生きてある、あるがままの姿を描きだすことで、林芙美子は自分独自の小説世界を構築した。ロジオンの〈復活の曙光〉を小説的虚構としか見ることができないわたしは、伊庭の〈宗教〉と、富岡の〈文学〉をこそ凝視しなければならない。小説的虚構に目眩いを起こしていただけの青春時代は遠く過ぎ去った。生きてあるすがたを見なければならない。