清水正の『浮雲』放浪記(連載163)

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清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=QWrGsU9GUwI  宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=VBM9dGFjUEE 林芙美子浮雲」とドストエフスキー「悪霊」を巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=S9IRnfeZR3U 〇(まる)型ロボット漫画の系譜―タンク・タンクロー、丸出だめ夫ドラえもんを巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=jU7_XFtK7Ew ドストエフスキー『悪霊』と林芙美子浮雲』を語る(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=xM0F93Fr6Pw シリーズ漫画を語る(1)「原作と作画(1)」【清水正チャンネル】 清水正日野日出志犬木加奈子

https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の深層(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=Xpe5P2oQC4sシリーズ漫画を語る(2)「『あしたのジョー』を巡って(1)」【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MOxjkWSqxiQ林芙美子浮雲』における死と復活――ドストエフスキー罪と罰』に関連付けて(1)【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=a67lpJ72kK8 日野日出志『蔵六の奇病』をめぐって【清水正チャンネル】


清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


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 清水正の『浮雲』放浪記(連載163)
 平成☆年5月21日



ロジオンが〈革命〉か〈神〉かで惑っていることは明白である。ロジオンはポルフィーリイ予審判事の前で明確に神を信じ、ラザロの復活も文字通り信じていると口にしている。が、『罪と罰』の読者でロジオンを信仰者と見なす者はいないだろう。ロジオンは思い惑う者としてソーニャに〈ラザロの復活〉場面の朗読を要請したのである。ロジオンは明確に信仰告白をすることはできなかったが、しかし何か確固たる決意に至っていることも確かである。ソーニャが朗読を終えて、二人は五分以上の沈黙のうちにたたずんでいる。最初に口を開いたのはロジオンである。

 「ぼくは用があって、その話に来たんだ」ラスコーリニコフは眉をしかめながら、とつぜん声高にこういって立ちあがり、ソーニャのそばへ近寄った。
  こちらは無言で彼の方へ目を上げた。彼のまなざしはことに峻烈で、その中には一種の荒々しい決意が現われていた。
 「ぼくは今日は、肉親を捨ててしまった」と彼はいった。「母と妹を。ぼくはもうあれたちのところへは行かないのだ。あっちですっかり縁を切って来た」(370)

 ロジオンがソーニャの部屋を訪ねてラザロ復活の場面を読んでくれと頼んだことは、彼にとって一つの決断であったことがわかる。ロジオンは肉親を捨ててソーニャを選んだ。未だ「主よ、しかり! われなんじは世に臨るべきキリスト、神の子なりと信ず」と口にすることのできないロジオンではあるが、ソーニャに向かって「いっしょに行こうじゃないか」(370)と言うことはできる。

この言葉を素直に聞けば、ロジオンはソーニャの途、すなわち信仰の途を決断していることは確かである。にもかからず、やはりロジオンは深く思いまどっているという印象も拭いがたい。ロジオンは「ぼくらはお互いにのろわれた人間なのだ。だからいっしょに行こうじゃないか!」(371)とも言っている。〈のろわれた人間〉というセリフをどのように受け止めたらいいのだろうか。わたしがこのセリフからすぐに連想したのはアポロンの神から呪われた運命を宣告されたオイディプスである。父を殺し、母と臥所を共にするという、その呪われた運命をオイディプスに与えたのはアポロンの神である。それではロジオンに〈のろわれた人間〉としての運命を授けるのは何なのであろうか。ロジオンは後になって犯行を振り返ったときに、そこに或る神秘的でデモーニッシュな力の作用が働いていたのではないかと考える。ソポクレスの『オイディプス王』においてダイモーンは神とも悪魔とも運命とも受け止められている。ロジオンの〈踏み越え〉を唆したのもまた悪魔であり、神でもあり、そして彼の全行為が運命であったとも言える。〈のろわれた人間〉とは〈選ばれた人間〉とも言える。ダイモーンはソーニャに容赦なく試練を与え、彼女を宗教的奇人(юродивая)に仕立て上げる。ソーニャはイワン閣下に銀貨三十ルーブリと引き替えに処女を捧げる。これがソーニャの描かれざる三時間の〈踏み越え〉である。ロジオンはマルメラードフから一家の犠牲となって娼婦に身を堕としたソーニャの話を聞いた時に、自分も〈踏み越え〉た後にはソーニャと一緒の途を歩もうと決意していた。ロジオンは自らもまた〈踏み越え〉て見せなければ、ソーニャの途を一緒に歩むことはできないと思っていたのである。ロジオンの言う「ぼくらはお互いにのろわれた人間なのだ」というセリフは、要するに二人ともに〈踏み越え〉てしまったということを意味している。
 が、ここで少しばかり立ち止まる必要がある。ソーニャの〈踏み越え〉は〈踏み越え〉た時点からイエスと共にあった。しかしロジオンの〈踏み越え〉は未だ〈殺人〉の域を越えていない。ロジオンはダイモーンに〈のろわれた人間〉であり、未だ祝福されてはいない。ロジオンが最終的な〈踏み越え〉(復活)へ至るまでにはさらなる試練を経なければならない。ドストエフスキーがエピローグで描いた〈復活の曙光に輝いたロジオン〉、〈弁証の代わりに命〉が到来したというロジオンは、作者の断言にもかかわらず十全な説得力を獲得していない。わたしの目に、ロジオンは小説の出だしから思い惑っている青年であり、復活の曙光に輝いてさえ、〈命〉(жизнь)から〈弁証〉()へと再び揺り動かされいくのではないかという疑念をぬぐい去ることができない。不信と懐疑の坩堝のただ中から真の信仰はたちあがってくると考える人がいる。が、この信仰は再び三度、さらなる不信と懐疑の坩堝へと投げ返されるのだ。それが精神運動の実態ではなかろうか。真に復活の曙光に輝いたロジオンの後半生は小説の主人公の位置から追放されるだろう。復活は瞬間であり永遠であり、それは絶え間なく生成流動する現実時間とは相いれない。『罪と罰』のエピローグで復活の曙光に輝いたロジオンは、作品世界の中で完結し消失するが、現実時間のなかに身を置いた読者は彼とともに消失することはできない。読者は、現実世界の中でソーニャが朗読したイエスの言葉「われは甦りなり、命なり、われを信じるものは、死すとも生くべし。すべて生きてわれを信ずるものは、永遠に死することなし。なんじこれを信ずるや?」(368)を突きつけられることになる。ソーニャと同じく、マルタの言葉に重ねて自らの信仰を即座に表明できれば、その人はソーニャと共に生きればいい。エピローグで復活の曙光に輝いたロジオンにさえ、解消し得ぬ揺らぎを見てしまうようなわたしは、ソーニャと共に歩むことはできない。
 わたしに言わせれば、ロジオンは余りに早く復活の曙光に輝いている。なぜそんなに作者は急いでいるのか。「愛が二人を復活させたのだ」と作者は書いているが、〈愛〉は〈罪〉をも包み込む、そんな力を備えているのだろうか。ロジオンは復活の曙光に輝いてさえ、殺したアリョーナに、殺したリザヴェータに罪の意識を覚えていないのだ。ロジオンは商家の女将に銀貨二十カペイカを恵まれたが、その銀貨をネバ川に投げ捨てた。きれいごとの復活の曙光など言わばどうでもいい。ロジオンが川に飛び込んで、自らが投げ捨てた二十カペイカを捜してこなければ、〈復活の曙光〉などなにほどのものでもなかろう。アリョーナやリザヴェータの墓参りもできない犯罪者の〈復活〉など、どのように信じたらいいのだろうか。ドストエフスキーのペンを無条件に信じる、あるいは信じる振りができる読者はどうでもいい。わかったようなレトリックを駆使しても無駄である。わたしは復活したロジオンと共にわが人生を生きることはできない。ロジオンが捨ててきた肉親(母プリヘーリヤと妹ドゥーニャ)たちと共に生きることもできないが、最後の〈踏み越え〉(復活)を前にして〈復活の曙光〉に輝いたロジオンと生きることはさらに不可能である。
 わたしは「熱いか、冷たいか」を要請する絶対神のもとで書かれた小説に、根本的なところで違和を強く感じる。どんなにリアリズムに徹した小説でも、そこに途方もない虚構を感じてしまうのである。アリョーナやルージンは最初から裁かれている。彼らを援護するただ一人の人物も登場しない。いくらバフチンドストエフスキーの小説の特質性をポリフォニックと指摘しても、その多声性の中にルージンを肯定する声は含まれていないのである。彼は〈生ぬるき者〉としてあらかじめ排除される(神の口から吐き出される)運命を負った者として舞台への登場を許されているのである。