清水正の『浮雲』放浪記(連載170)

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批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=QWrGsU9GUwI  宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=VBM9dGFjUEE 林芙美子浮雲」とドストエフスキー「悪霊」を巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=S9IRnfeZR3U 〇(まる)型ロボット漫画の系譜―タンク・タンクロー、丸出だめ夫ドラえもんを巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=jU7_XFtK7Ew ドストエフスキー『悪霊』と林芙美子浮雲』を語る(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=xM0F93Fr6Pw シリーズ漫画を語る(1)「原作と作画(1)」【清水正チャンネル】 清水正日野日出志犬木加奈子

https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の深層(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=Xpe5P2oQC4sシリーズ漫画を語る(2)「『あしたのジョー』を巡って(1)」【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MOxjkWSqxiQ林芙美子浮雲』における死と復活――ドストエフスキー罪と罰』に関連付けて(1)【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=a67lpJ72kK8 日野日出志『蔵六の奇病』をめぐって【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=ecyFmmIKUqIシリーズ漫画を語る(3)「日野日出志『蔵六の奇病』を巡って(1)」【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=0JXnQm1fOyU罪と罰』の「マルメラードフの告白」を巡って(1)【清水正チャンネル】

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


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 清水正の『浮雲』放浪記(連載170)
 平成☆年5月28日


 ロジオンの最初の〈踏み越え〉(アリョーナ殺し)に関して、その行為を〈悪〉と見なすのは法律に照らしてであって、ロジオンの犯罪に関する論文の趣旨においては正当化される。社会のシラミと見なされるアリョーナはロジオンの良心に照らして血を流すことを許可された存在なのである。問題は第二の〈踏み越え〉(目撃者リザヴェータ殺し)である。ロジオンの犯罪理論においては、リザヴェータ殺しは明確に正当化されていない。ロジオンの犯罪に関する論文においては、目的が正しければどんな手段(殺人、強奪など)を使ってもかまわないといった、急進的で過激な革命理論に匹敵する思想はない。ロジオンは、センナヤ広場で偶然、古着屋の商人夫婦とリザヴェータのやりとりを聞いて、明日の晩かっきり七時にアリョーナが部屋に一人きりでいると勝手に思いこんでしまった。つまり、ロジオンはリザヴェータの不在を確信したからこそ、一度は〈踏み越え〉の誘惑から解放されていたにもかかわらず、再び〈踏み越え〉へと決断を促されたのである。アリョーナ殺しという〈踏み越え〉に、もし目撃者が現れたらどうするかといったことまで、ロジオンは考えていなかった。問題は、なぜ作者はリザヴェータを目撃者として用意したのかということである。ロジオンは第二の犯行を回避しようとはせず、明らかに犯行の隠蔽のために意志的にリザヴェータを殺している。この事実を事実として冷徹にとらえれば、ロジオンの犯罪理論の底に「目的実現のためには手段を選ばず」という革命思想と同等の考えが潜んでいたと見ることができる。つまりリザヴェータの代わりに母プリヘーリヤを、妹ドゥーニャをおいても同じであったということである。リザヴェータには躊躇しなかったロジオンが、もしプリヘーリヤやドゥーニャに躊躇したとあれば、彼を真の革命家と見ることはできない。ドストエフスキーはロジオンが過激な革命思想家でもあった可能性を表面上完璧に隠したと言っていい。ペトラシェフスキー事件に連座した廉で逮捕され、一度は死刑を宣告されたことのある政治犯ドストエフスキーは、皇帝殺しをはかるような過激な革命思想を抱いた青年を主人公として設定することははばかれた。なにしろドストエフスキーはアレクサンドル二世に嘆願してペテルブルグへの帰還を赦された元政治犯の小説家である。まずドストエフスキーは当時の優秀な検閲官の目をたぶらかさなくてはならなかった。幸いにしてロジオンの「おれにアレができるだろうか」の〈アレ〉は単に高利貸しアリョーナ殺しを意味するだけでなく、〈皇帝殺し〉をも意味すると看破した検閲官はいなかった。ドストエフスキーの巧妙きわまる隠蔽の技は当時の検閲官ばかりではなく、『罪と罰』の読者の目をもあざむきつづけてきたわけだが、もちろん〈アレ〉は〈皇帝殺し〉の次元をも越えて、最終的には〈復活〉を意味している。『罪と罰』において主人公ロジオンの〈復活〉を文字通り信じることのできる読者がはたして何人いるのだろうか。しかも作者は、殺人者ロジオンの〈復活〉ばかりを問題にしているのではない。作者は「愛が彼らを復活させたのである」(Их воскресила любовь)と書いている。〈彼ら〉とは言うまでもなくロジオンとソーニャである。一家の犠牲になって淫売稼業を強いられていたソーニャではあるが、彼女は自分の行為に罪の意識を感じていたことは明白である。つまりソーニャは「ラザロの復活」朗読の場面において、〈罪の女〉(грешница)として信仰を告白している。〈踏み越え〉(преступление)ながら、その〈踏み越え〉に〈罪〉(грех)を感じなかったロジオンと、〈罪の女〉を自覚しているソーニャを一緒にして「愛が彼らを復活させたのである」と書かれてもすぐに頷くわけにもいかないのである。



ああ、もし彼がみずから罪することができたら、どんなに幸福だったろう! そうしたら、彼は恥でも屈辱でも、いっさいのものを堪え忍んだはずである。ところが、彼は峻厳に自己をさばいてみたけれど、たけり狂った彼の良心は、だれにでもありがちの単なる失敗をのぞいては、自分の過去にかくべつ恐るべき罪を見いださなかった。(620)
О,как бы счастлив он был,если бы мог сам обвинить себя! Он бы снес тогда всё,даже стыд и позор.Но он строго судил себя,и ожесточенная совесть его не нашла никакой особенно ужасной вины в его прошедшем,кроме разве простого ■промажу,■который со всяким мог случиться.(416〜417)

  もし運命が彼に悔恨を送ったら! 心の臓を打ちくだき、眠りを奪う焼けつくような悔恨、その恐ろしい苦痛に堪えかねて、縊死や入水さえ心に描かずにはいられないような悔恨をもし運命が送ったら! おお、彼はそれをいかばかり喜んだかしれない! 苦痛と涙も、要するにやはり生活ではないか。けれど、彼は自分の犯罪を悔いなかったのである。(621)


『いったいどういうわけで彼らの目には、おれの行為がそれほど醜く思われるのだろう?』と彼はひとりごちた。『それが悪事だからというのか? しかし、悪事とは何を意味するのだろう? おれの良心は穏やかなものだ。もちろん、刑法上の犯罪は行なった。もちろん、法の条項が犯されて、血が流されたにちがいない。では、法律の条項に照らして、おれの頭をはねるがいい……それでたくさんなのだ! もちろんそうとすれば、権力を継承したのではなくて、みずからそれを掌握した多くの人類の恩恵者は、おのおのその第一歩からして、罰せられなければならなかったはずだ。しかし、それらの人々は自己の歩みを持ちこたえたがゆえに、したがって、彼らは正しいのだ。ところが、おれは持ちこたえられなかった。したがって、おれはこの第一歩をおのれに許す権利がなかったのだ』
  つまりこの一点だけに、彼は自分の犯罪を認めた。持ちこたえられないで自首したという、ただその点だけなのである。(621〜622)



 シベリアに流されたロジオンの〈弁証法〉(диалектика)はこのように展開されている。ロジオンが二人の女を殺した、その〈踏み越え〉に何らの罪意識も覚えていないことは明白である。ロジオンは自分が〈踏み越え〉に堪えられずに自首して出てしまったという、その一点に屈辱を感じている。つまり、自分が非凡人ではなかったということを自覚せざるを得なかったことに忌々しさを覚えているだけのことである。ロジオンにとって〈踏み越え〉は〈罪〉ではなく、凡人が自分を非凡人と見誤った、ひとつの恥辱的な〈過失〉でしかない。ふつうに考えれば、〈踏み越え〉に〈過失〉しか見いだせない男が、復活の曙光に輝くなどということはない。とすれば、ロジオンの復活を弁証法の次元で解き明かすことはできないということになる。作者は「弁証の代わりに命が到来した」(Вместо диалектики наступила жизнь)と書いた。わたしはロジオンは〈命〉(жизнь)が到来した後にも、再び三たび〈弁証〉への揺れ戻しがあるのだと指摘した。ロジオンのここに引用した〈弁証〉は〈命〉の到来によってさえ消滅しきることはないのである。
 〈命〉(жизнь)を獲得したロジオンが、この自らの〈弁証〉にどのような解答を与えることができるのであろうか。また復活後のロジオンはポルフィーリイ予審判事やスヴィドリガイロフやルージンといったいどのような関係を取り結ぶのであろうか。いずれにせよ、わたしにとって『罪と罰』のエピローグは、本編『罪と罰』へ向けての序章としか思えないのである。