帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載35) 清水正 

   清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
shimizumasashi20@gmail.com

  清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクで購読してください。

https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

f:id:shimizumasashi:20181228105220j:plain

清水正ドストエフスキー論全集

帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載35)

清水正 

  ソーニャは神を信じることで救われているのか。救われているとして、その救いとは何を意味するのだろうか。淫売稼業で残された義理の弟妹たちを面倒みなければならない、この状況のただ中にあって何をもってして救いというのだろうか。ソーニャの内的苦悩は計り知れない。現実的になんの解決にもならない信仰による救いを、はたして救いと言えるのだろうか。思弁的見地からは何もしてくれない神を狂おしいばかりに信じているソーニャの内面において、救いは成就されているのだとでも言うのであろうか。『罪と罰』に描かれたソーニャは、彼女自身が紛れもないキリストに見えてくる。ロジオンもそう感じたからこそ、突然ソーニャの前にひれ伏したのである。ロジオンは、すぐに起きあがって「ぼくは人類のすべての苦悩の前にひざまずいたのだ」と言う。この時の、思弁の人ロジオンの行動は〈突然〉の時性に支配されている。思弁は思弁本来の性格によって信仰そのものの領域に踏み込むことはできない。ロジオンは孤独な屋根裏部屋の思弁家であるが、時に彼の行動は思弁や自意識を越えた〈突然〉(вдруг)の時性に支配される。
 ロジオンは書斎派のアポロン的な哲学者にはなれない。ロジオンが求めているのは思弁の持続(はてしなく続くおしゃべり)ではない。が、ロジオンにおける〈突然〉は、思弁から信仰へと彼の背を押すが、すぐにまた信仰から思弁へと突き戻す作用を持っている。ここにロジオンの信仰という一義に徹しきれない悩ましい実存の本質が潜んでいる。結果としてロジオンは作者ドストエフスキーによって復活の曙光に輝いているが、この曙光が永遠に輝き続ける保証はない。

 「思弁の代わりに生活が登場したのだ」と書いた後、ドストエフスキーは次のように続けてペンを置いた。

  彼の枕の下には福音書があった。彼は無意識にそれを手にした。この本は彼女のだった。彼女がラザロの復活を彼に読んでくれたあの福音書だった。徒刑生活の最初のころ、彼女が宗教で自分を悩まし、福音書の話をはじめ、自分に本を押しつけるのではないか、と考えたことがあった。だが、まったく驚いたことに、彼女は一度もその話をしようとせず、一度として彼に福音書をすすめようとさえしなかった。病気にかかるすこし前、彼は自分から彼女に頼んだのだった。彼女は黙って聖書を持ってきた。今日まで、彼はそれを開いて見ようともしなかった。
  いまも彼は、それを開こうとはしなかった。ただ一つの考えが彼の頭をかすめた。『いまや、彼女の信念がおれの信念となっていいはずではないのか? すくなくとも彼女の感情、彼女の願望は……』
  彼女も、この日は一日興奮していて、夜になると、また病気をぶりかえしたほどだった。けれど彼女は、自分のしあわせがむしろ空怖ろしく思われるくらい、幸福感にひたっていた。七年、わずかの七年! 幸福をえた最初のころ、ときとしてふたりは、この七年間を七日のように見ることもあった。彼は、新しい生活がけっしてただで手にはいるものでなく、これからまだ高い値を払ってあがなわなければならぬものであること、その生活のために、将来、大きないさおしを支払わねばならぬことも、すっかり忘れていた……。(下・403~404)

 

  しかし、ここにはすでに新しい物語がはじまっている。それは、ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語である。それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう。しかし、いまのわれわれの物語は、これで終わった。(下・404
  Но тут уж начинается новая история,история постепененного перерождения его,постепененного перехода из одного мира в другой,знакомуства  с новою,доселе совершенно неведомою действительностью.Это молго бы составить тему нового рассказа,ーно теперешний рассказ наш окончен.(ア・422)

 文字通り読めば、ロジオンは初めて福音書を読む気になったらしい。はたしてロジオンは〈踏み越え〉(アリョーナ、リザヴェータ殺し)の前に福音書を読んだことがなかったのであろうか。子供の頃、母プリヘーリヤから読み聞かされた程度の福音書の知識しか持ち合わせがなかったのであろうか。もしそうだとすれば、ロジオンはソーニャの小部屋で初めてヨハネ福音書中の「ラザロの復活」を聞いたことになる。注意すべきは、ロジオンが自らの目で読んだのではなく、狂信者ソーニャの声を通して聞いたことである。活字を通して読むことは思弁の働きを活発にさせる。ましてや神に対する不信と懐疑のただ中にある者にとってはなおさらである。さらに注意すべきは、ロジオンは〈踏み越え〉た後に「ラザロの復活」の朗読(ソーニャの信仰告白)を聞いていることである。
 ロジオンは高利貸しアリョーナ婆さんのアパートに瀬踏みに立ち寄った後、地下の居酒屋で酔漢マルメラードフの告白を聞くことになる。ロジオンはこの告白でソーニャの存在を知った。ロジオンはこの時、踏み越えた〈後〉で、ソーニャにそのことを報告しようとする。踏み越えた後でなければ、ロジオンはソーニャと同一の次元に立つことはできない。これはロジオンが逃れることのできない運命として直覚したことで、この書かれざる直覚を共有できない読者は、ロジオンとソーニャの神秘的な合一のドラマに参入できない。
 いずれにしても、ロジオンは福音書に書かれた数多くのイエスの言行のうちから、「ラザロの復活」の場面を最初に聞いたことを忘れないようにしておこう。ロジオンはこれから七年間の獄中生活のただ中で福音書を読み続けることになる。ドストエフスキーは四年間にわたるシベリアの監獄生活においてデカブリストの妻から贈られた福音書を読んだ。この死の家で福音書を読み続けたドストエフスキーが、ロジオンにおける〈新しい物語〉ーー〈ひとりの人間が徐々に更生していく物語、彼が徐々に生まれかわり、一つの世界から他の世界へと徐々に移っていき、これまでまったく知ることのなかった新しい現実を知るようになる物語〉を約束している。

 ドストエフスキーはこの〈新しい物語〉(новая история)に揺るぎのない確信を抱いていたのだろうか。ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「それは、新しい物語のテーマとなりうるものだろう」(Это могло бы составить тему нового рассказа,)と書いた。ロジオンの〈新しい物語〉(новая история)、その「将来、大きないさおしを支払わねばならぬ」現実的な歴史は、ドストエフスキーによって〈新しい物語〉(новый рассказ)として描かれなければならない。が、ドストエフスキーはこの約束を果たさぬままに生を終えた。
 〈突然〉の時性に支配されていたロジオンの〈踏み越え〉と〈復活〉の〈物語〉(история)に立ち会ってきた読者にしてみれば、ドストエフスキーがエピローグで約束したロジオンの〈更生〉〈生まれかわり〉〈一つの世界から他の世界への移行〉が〈徐々に〉(постепенный)成し遂げられるということに妙な感じを覚える。
 ロジオンの行動は突然に支配されている。もしロジオンがこの突然の時性から解き放されていれば、彼の殺人という踏み越えも、ソーニャの前の跪拝も、ソーニャとの性的合一も、そして復活の曙光に輝く瞬間もないことになる。わたしは屋根裏部屋の思弁家にとどまり続けるロジオンにリアリティを感じ続けているので、『罪と罰』本編、及びエピローグで伝えられるロジオンの〈経歴〉(история)そのものにも作者の〈物語〉(рассказ)を強く感じる。何度でも指摘するが、わたしはおしゃべりし続けるロジオンに現実性を感じるので、二人の女を殺すロジオンにはどうしても違和感、というか虚構性(рассказ)を感じてしまうのである。わたしの『罪と罰』テキストに対する不信と懐疑は執拗で、その執拗な力をエネルギーにして批評行為を続けている。わたしが二十歳の昔から疑問に思っていたことは、ロジオンによる第二の殺人リザヴェータ殺しと、殺人の道具に使った斧であった。この謎の解明には五十年近くの年月を必要とした。
 ロジオンは最初の場面から思い惑っている一人の青年として登場していた。しかし、ロジオンのこの思い惑い自体に照明を与えた批評研究はなかった。ロジオンの惑いは高利貸しの老婆アリョーナ婆さんを本当に殺すことができるかできないか、そういった彼の非凡人思想に重ねた〈踏み越え〉の次元にとどまっていた。しかし、〈踏み越え〉の対象をアリョーナにだけ限っていたのではリザヴェータ殺しの秘密は解けない。ドストエフスキーはきわめて巧妙な書き方で当時の優秀な検閲官の眼をくらましている。ましてや発表誌「ロシア報知」の編集者はもとより、大半の読者がその作者の巧妙な手口を看破することはできなかった。
 作者ドストエフスキーがまず第一に隠したのはロジオンの内なる〈過激な革命思想〉であった。『罪と罰』の読者で、主人公のロジオンが過激な革命思想を抱いた青年と見なす者はいない。『罪と罰』の舞台は一八六五年七月である。ロジオンが大学に入学する一八六二年以前、ペテルブルグ大学の進歩的な学生たちが制度改革を求めてデモをしたりチラシを配ったりしていた多数の者たちが逮捕、監禁、追放の憂き目にあっていた時代である。その時代にあって、ロジオンが革命思想の洗礼を受けないはずはない。しかし社会の根源的な悪は皇帝による専制君主制度そのものにあり、従ってそれはどんな手段を使ってでも打倒しなければならないと認識していた、いわば正当な革命思想を抱き、革命のためには自らの命をも顧みなかった純粋な革命家は『罪と罰』の世界に一人も登場しない。過激な革命家の代わりにドストエフスキーが登場させたのは、ロシア最新思想の感染者として、思う存分に戯画化されたレベジャートニコフのみであった。 『罪と罰』表層のテキストを読む限り、主人公のロジオンも、また作者ドストエフスキーも〈革命〉思想を潜めているとは思えない。が、すでに指摘した通り、ロジオンが殺人の道具として〈斧〉にこだわったことは、彼の潜めた革命思想の発露以外のなにものでもなかった。〈斧〉で殺した相手は〈高利貸しアリョーナ〉を装った皇帝であった。革命の為には手段を選ばず、革命のために邪魔なものは容赦なく始末される。第二の殺人〈リザヴェータ殺し〉はそのことを端的に語っている。つまり、ロジオンの中に潜む革命思想とその体現の為には〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉は必須であったというわけである。
 ロジオンの深い思い惑いはつまり「革命か神か」の二者択一にあったということになる。しかし、ドストエフスキーは『罪と罰』のこの重要なテーマを隠した。政治犯として死刑執行寸前の体験とシベリア流刑の体験を持つドストエフスキーは、『罪と罰』の主人公ロジオンが実は過激な革命思想を抱いていたことが検閲官に看破されることを極力恐れていただろう。それにしてもドストエフスキーは〈皇帝殺し〉を企んでいた〈一人の青年〉を〈高利貸しアリョーナ婆さん殺し〉の次元で描ききり、百年以上にわたって読者をもだまし続けていたのだからそうとうなものである。謎を解く鍵は〈斧〉と〈リザヴェータ殺し〉にあったわけだが、おそらく『罪と罰』にはまだまだ謎が仕掛けられているに違いない。
    ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

f:id:shimizumasashi:20181228105251j:plain

 清水正の著作はアマゾンまたはヤフオクで購読してください。https://auctions.yahoo.co.jp/seller/msxyh0208

 

(人気ブログランキングに参加しています。よろしければクリックお願いします)

これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4