清水正の『浮雲』放浪記（連載166）

6清水正への原稿・講演依頼は　qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp　宛にお申込みください。ドストエフスキー・宮沢賢治・宮崎駿・今村昌平・林芙美子・つげ義春・日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4

批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談　ドストエフスキーin21世紀（全12回）。
ドストエフスキー、トルストイ、チェーホフ、宮沢賢治、暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4

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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI　ドストエフスキーの『罪と罰』
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp　『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4『罪と罰』とペテルブルク（1）

https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY 宮沢賢治「銀河鉄道の夜」の深層（１）【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=Xpe5P2oQC4sシリーズ漫画を語る（2）「『あしたのジョー』を巡って（1）」【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MOxjkWSqxiQ 林芙美子『浮雲』における死と復活――ドストエフスキー『罪と罰』に関連付けて（1）【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=a67lpJ72kK8 日野日出志『蔵六の奇病』をめぐって【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmzk ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ【清水正チャンネル】

https://www.youtube.com/watch?v=ecyFmmIKUqIシリーズ漫画を語る（3）「日野日出志『蔵六の奇病』を巡って（１）」【清水正チャンネル】

清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は　http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

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デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

「清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては［林芙美子の文学（連載170）林芙美子の『浮雲』について（168）］までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。

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『清水正・ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。

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　清水正の『浮雲』放浪記（連載166）
　平成☆年5月24日

　
伊庭の妻、描かれた限りでみれば、夫のゆき子との三年間の不倫に気づかず、大日向教の経理担当として実質的な権力を握った夫がゆき子を妾として囲っていることに気づかない、この女としての本能を喪失しまったような真佐子にとって夫杉夫がどのように見られていたのか、かなり興味がある。もし本当に夫の不倫に気づいていないとすれば、真佐子は女性としての資格を喪失している。知っていて、知らない振りをしていたのだとすれば真佐子はかなりしたたかな女であるか、それともかなり性格的に弱い、隷従型の女ということになろう。わたしは作者が伊庭と真佐子について触れなかったことは、それに触れると富岡とゆき子を中心として展開されている『浮雲』という小説の密度を薄くする危険を察していたからだと指摘した。作者が『浮雲』の主人公二人の変更を認めない限りは、他の人物たちはかぎりなく舞台の片隅に追いやられることになる。もし、舞台の片隅に追いやられた伊庭と真佐子の日常に照明を与えれば、伊庭のイメージはかなり違ったものになるのではなかろうか。少なくとも伊庭は、ゆき子との関係の当初から、妻との離婚を考えていない。伊庭にとってゆき子は、強姦の初めから、〈経済原則〉に則った駆引き取引きの対象でしかなかった。伊庭は若いゆき子の肉体を存分に味わい尽くしただろうが、だからと言って肉欲に溺れて、家庭を破滅に追いやることはなかった。伊庭は、家庭は家庭、ゆき子はゆき子と割り切って､肉の欲求に突っ走ることはなかった。伊庭の実存の基底に置かれているのは経済原則であって､損失を招くかもしれない危険の淵に自らすすんで落ちることはない。伊庭の頭には金銭の出入りが正確に記帳されていて、駆け引き・取引き自体に、ギャンブラーがえてして陥りやすい、一か八かに賭ける熱情を注ぎこむことがない。ゆき子が求めてくれば、それを拒みはしないが、自ら積極的には働きかけることもない。伊庭はゆき子に自分の度量を越えたなさけをかけることもないし、虚勢を張って自分を必要以上に大きく見せることもしない。もし、ゆき子が富岡ではなく、この伊庭に男としての魅力を感じていれば、読者は伊庭に好印象を抱いたに違いない。『罪と罰』の高利貸しアリョーナ婆さんと同じで、彼女に負のイメージしか与えなければ、ふつうの読者は彼女に敢えて肯定的な照明を与えようとはしないのである。前にも指摘したが、〈事業家〉としての伊庭は、富岡など歯牙にもかけないほど、圧倒的に成功している。にもかかわらず、ろくでなしの富岡に牽かれ、伊庭を嫌うゆき子の視点から眺められている伊庭は、読者の目にも富岡以下の俗物として脳裡に刻印されてしまうのである｡
　富岡は伊庭のようにゆき子を妾として生活費を保証する男にはなれない。富岡はダラットで関係したニウに対しても最後まで責任をとらなかった。三年間も肉の悦楽を共にしたゆき子には〈結婚〉という甘い約束をして、ひとりさっさと日本に引き揚げ､半年遅れで敦賀についたゆき子の電報は無視した｡富岡は行きあたりばったりの嘘でその場を凌ぐ弱い男で、自分が関係した誰一人の女に対しても毅然とした態度を貫くことができなかった。こんな富岡よりも、まだ伊庭のほうが増しだと思うのだが、ゆき子は富岡に対する思いをついに断ち切ることはできなかった。
　〈生ぬるき男〉二人の二者択一を詮議してもはじまらないと言われればそれまでの話である。まず伊庭に決定的に欠如しているのは、マルメラードフに見られた〈悲しみ〉〈苦しみ〉に感応する心である。伊庭はゆき子の孤独や悲しみに感応して同情を覚えることはない。伊庭はゆき子の実存の悲哀に感応するはるか手前で、彼女の顔に金銭出納表を見てしまうのである。牛肉100グラムではいくら、牛肉1000グラムでは割引していくら、というように、伊庭はゆき子を妾として囲うためには一ヶ月でいくら、一年でいくらの経費がかかるのかを即座に計算し、手当を決定する。伊庭の肉の欲求と経費の総計の釣り合いがとれ、それを相手が承諾すれば取引の契約が結ばれるというわけである。描かれた限りで見れば、伊庭とゆき子の関係はそれ以上でも以下でもない。
　男と女の関係に〈愛〉だけが関与するのであれば、それは少女漫画の域にとどまることになる。こういった純粋な〈愛〉に不可避なのは破綻である。自己破綻ないしは相互破綻によってしかこういった〈愛〉は幕をおろすことができない。伊庭とゆき子の間に〈愛〉という言葉を関与させれば､それは嘘偽りとしか言いようがない。確かに相互の肉欲の満足はあったであろうが､それは相手の全存在を所有し切ってしまいたいと思うほど激しいものではない。それは日常と化した〈取引き〉であり、日常を逸脱して破綻を引き受けるようなきわどい関係を紡ぐことにはならない｡ゆき子にとっては相手（伊庭）を必要とする自己保身（生活の保証）であり、伊庭にとっては経費をかけて肉欲の発露を〈日常的〉に可能にする関係でしかない。こういった関係を、それとは明確に自覚しないままに生ぬるき結婚生活を送っている者は多い。結婚生活に〈愛〉という手榴弾を投げ込んではいけない。それは〈愛〉を深めることではなく、結婚生活の破綻をもたらす｡結婚は〈愛〉の持続を前提とする。〈愛の持続〉は日常世界の舞台で、お互いに生ぬるき実存の役割を演じ尽くすことであり、そのことに欺瞞や嘘を発見して告発し、ことを荒立てることを極力控えなければならない｡伊庭はこのことを文字通り実践して、家庭を守り、大日向教の経理担当者としての役割を全うし、ゆき子と契約して彼女の生活を保証している。従って、ゆき子が伊庭と交わした〈契約〉を遵守する限りは、何の問題も生じようがない。ゆき子は伊庭の女として､大津しも以上に大日向教の教団において実力を発揮することも可能であったはずある。が、ゆき子は､伊庭との〈契約〉時において､すでに爆弾を抱えていた。ゆき子は富岡との関係を断ち切っていない。富岡を断ち切っていないゆき子自体が爆弾であり、伊庭との関係の地盤に埋め込まれた地雷と言ってもいい。が、伊庭は、ムイシュキン公爵におけるロゴージンのような存在ではない。富岡から伊庭へと身をまかせたゆき子を殺しかねない情熱など最初から持ち合わせてはいなかった。ゆき子もまた、ムイシャキンからロゴージンへと身をまかし､最後には殺されてしまうといった悲劇のヒロインとなることはできなかった。〈生ぬるき人間〉たちに悲劇的人物の運命をたどることは許されていない。