清水正の『浮雲』放浪記(連載158)

清水正への原稿・講演依頼は  qqh576zd@salsa.ocn.ne.jp 宛にお申込みください。ドストエフスキー宮沢賢治宮崎駿今村昌平林芙美子つげ義春日野日出志などについての講演を引き受けます。

清水正の講義・対談・鼎談・講演がユーチューブ【清水正チャンネル】https://www.youtube.com/results?search_query=%E6%B8%85%E6%B0%B4%E6%AD%A3%E3%81%A1%E3%82%83%E3%82%93%E3%81%AD%E3%82%8Bで見れます。是非ご覧ください。

https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4


批評家清水正の『ドストエフスキー論全集』完遂に向けて
清水正VS中村文昭〈ネジ式螺旋〉対談 ドストエフスキーin21世紀(全12回)。
ドストエフスキートルストイチェーホフ宮沢賢治暗黒舞踏、キリスト、母性などを巡って詩人と批評家が縦横無尽に語り尽くした世紀の対談。
https://www.youtube.com/watch?v=LnXi3pv3oh4

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https://youtu.be/KqOcdfu3ldI ドストエフスキーの『罪と罰
http://www.youtube.com/watch?v=1GaA-9vEkPg&feature=plcp 『ドラえもん』とつげ義春の『チーコ』
https://youtu.be/s1FZuQ_1-v4 畑中純の魅力
https://www.youtube.com/watch?v=GdMbou5qjf4罪と罰』とペテルブルク(1)

https://www.youtube.com/watch?v=29HLtkMxsuU 『罪と罰』とペテルブルク(2)
https://www.youtube.com/watch?v=Mp4x3yatAYQ 林芙美子の『浮雲』とドストエフスキーの『悪霊』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=Z0YrGaLIVMQ 宮沢賢治オツベルと象』を語る
https://www.youtube.com/watch?v=0yMAJnOP9Ys D文学研究会主催・第1回清水正講演会「『ドラえもん』から『オイディプス王』へードストエフスキー文学と関連付けてー」【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=iSDfadm-FtQ 清水正・此経啓助・山崎行太郎小林秀雄ドストエフスキー(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=QWrGsU9GUwI  宮沢賢治『まなづるとダァリヤ』(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=VBM9dGFjUEE 林芙美子浮雲」とドストエフスキー「悪霊」を巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=S9IRnfeZR3U 〇(まる)型ロボット漫画の系譜―タンク・タンクロー、丸出だめ夫ドラえもんを巡って(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=jU7_XFtK7Ew ドストエフスキー『悪霊』と林芙美子浮雲』を語る(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=xM0F93Fr6Pw シリーズ漫画を語る(1)「原作と作画(1)」【清水正チャンネル】 清水正日野日出志犬木加奈子

https://www.youtube.com/watch?v=-0sbsCLVUNY 宮沢賢治銀河鉄道の夜」の深層(1)【清水正チャンネル】
https://www.youtube.com/watch?v=Xpe5P2oQC4sシリーズ漫画を語る(2)「『あしたのジョー』を巡って(1)」【清水正チャンネル】
清水正『世界文学の中のドラえもん』『日野日出志を読む』清水正への原稿・講演依頼は  http://www.ebookjapan.jp/ebj/title/190266.html

ここをクリックしてください。清水正研究室http://shimi-masa.com/

デヴィ夫人のブログで取り上げられています。ぜひご覧ください。
http://ameblo.jp/dewisukarno/entry-12055568875.html

清水正研究室」のブログで林芙美子の作品批評に関しては[林芙美子の文学(連載170)林芙美子の『浮雲』について(168)]までを発表してあるが、その後に執筆したものを「清水正の『浮雲』放浪記」として本ブログで連載することにした。〈放浪記〉としたことでかなり自由に書けることがいいと思っている。



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清水正ドストエフスキー論全集』第八巻が刊行されました。


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 清水正の『浮雲』放浪記(連載158)
 平成☆年5月12日



伊庭が実質的に権力を握った大日向教の教義がどんなにインチキ臭いものであろうと、そこに救いを求める者があり、現に救われるのであれば、第三者が何も口出しすることはない。どのような宗教も教団が組織されれば、そこに組織内での複雑な人間関係が生ずるし、教義をめぐっての解釈の違いなども生じてくる。さらに組織を運営するための資金作りも要請されるし、信者が膨大な数ともなれば国家との関係も視野に入れなければならない。宗教の変遷史を概観すれば明確なように、大教団に発達するような宗教団体は国家からの弾圧を避けることはできない。大教団が国家を呑み込み、もしくは教団の下部組織に取り込むような教義を持つ場合は徹底的に弾圧の憂き目をみることになる。国家はみずからの存亡の危機と見なすものに対してはあらゆる手段をもって弾圧する。宗教が組織として延命しようとすれば、時の国家権力と何らかの折り合いをつけなければならない。その場合、当初の教義は歪められ、毒抜きされ、もはや国家にとって危険なものとはみなされない。宗教が時の国家理念と合体するほどの力を獲得した場合、その国家は強力な一義性を発揮することになる。
 伊庭の大日向教は古代からの太陽崇拝を継承し、浄土真宗的な救済を唱えてはいるが、そもそもの出発が煩悩具足に苦しむ衆生の救済よりも金儲けにあったために、そのインチキぶりが際だっている。作者は伊庭の大日向教を通して宗教のインチキ性や金儲け主義の側面に皮肉な照明を与え、同時に宗教を必要とする人間の弱さ、愚かさも浮上させている。作者は大日向教をのっけからバカにしているゆき子のまなざしを通して伊庭と信者の姿を描いているので、おそらく読者の大半は大日向教の宗教としての役割や意義を真摯に探求しようとする気持ちにはなれないであろう。しかし、大津しもは大日向教のインチキ性など百も承知の上で入団している。わたしはこの大津しもの信仰の姿に心打たれる。本当に救いを求める者は、不信と懐疑を超脱するのである。教主の成宗専造や伊庭に代わって、いずれ大津しもが大日向教の教祖につく時もあるのではないかと思うほど、彼女に信仰の揺らぎはない。
 堕胎してまで富岡兼吾との性愛に執着し続けるゆき子は、堕胎を契機に信仰へと参入した大津しもとはまったく反対の生き方を選んでいる。ゆき子は伊庭を軽蔑しながら、しかし伊庭の妾になることを拒むことはしない。読者はゆき子と共に生きているようなものだから、ゆき子の思いに自分の思いを重ねがちである。しかし、批評はゆき子に距離をとって冷徹なまなざしを向けなければならない。伊庭が卑劣で金儲け主義の堕落した男というなら、ゆき子もまた五十歩百歩、同じ森の獣ということになる。伊庭とゆき子ははじめに肉体の関係があった。作者によればそれは伊庭による一方的な強姦ということになるが、批評はそこに黙契(取り引き)を読みとる。二人の関係が三年ものあいだ伊庭の妻にばれなかったというのであれば、伊庭家におけるゆき子のしたたかな振る舞いに改めて注意を向けなければなるまい。どんな鈍感な妻でも、夫と若い下宿人の間の関係を見破れないことはない。ゆき子と伊庭の肉体関係が三年間にわたって妻にばれなかったということを〈事実〉として認めることはできない。その〈事実〉は〈虚構としての事実〉と見なしたほうが納得がいく。その〈事実〉を〈事実〉ならしめるために作者が採った方法は、作品中に伊庭と妻の関係を描かないことであった。伊庭の妻は、この小説において人形以下の存在に貶められている。彼女は夫とゆき子の関係にいっさいの口出しを封じられている。彼女に見る目はなく、聞く耳はなく、直感さえ与えられない。言わば、彼女は伊庭の妻として設定されただけの存在であって、人間としても女性としても存在していない。そのことによってゆき子は、作品の世界で、性愛的な欲望を奔放に発揮できる女性として生き続けることが可能となっている。作者はどういうわけかゆき子と伊庭の妻、ゆき子と富岡の妻邦子との修羅場を描くことはしなかった。ゆき子の負の側面(女としてのしたたかさ、打算、妻子ある男との関係)は同性の厳しい非難・糾弾に晒されることはなかった。ゆき子と関係を持った男たちは、関係を持った時点でゆき子の〈ふしだら〉を非難することができない。否、『浮雲』の世界にゆき子の性愛次元での行為を〈ふしだら〉と見なす人物は存在しない。作者は自ら創造した人物を断罪したり裁いたりすることをしない。作者は人物たちと共に生きており、高見に立った物言いをすることはない。ゆき子も富岡も伊庭も煩悩具足の日常を生きており、彼らはその煩悩から救済されたいという願いを持っていない。もし彼らにそういった救済願望があれば、この小説はある種の宗教小説に化していたかもしれない。ゆき子は煩悩熾盛の泥沼にのたうち回っているが、その泥沼からの脱出を願っているようには見えない。ゆき子が救済を願うような女性であれば、富岡や伊庭とは違ったタイプの男性に牽かれたであろう。伊庭は銀行員あがりの〈宗教家〉の域を一歩として出ようとはしない男であり、人間存在の深奥に垂直的に降下する意志も能力もない言わば凡庸な男である。
元官吏の富岡も結果として女を渡り歩くしか能のない男で、伊庭と同様、精神に垂直軸が立っていない。こういう、凡庸な男たちに執着したり打算的なつきあいしかできなかったゆき子もまた、客観的に見てなんら魅惑的な存在ではない。
 作者はゆき子と真佐子、ゆき子と邦子の修羅場を描かなかったばかりでなく、ゆき子の精神世界に関しても触れることはなかった。読者は富岡兼吾がドストエフスキーの『悪霊』の愛読者であったことを忘れてはならない。ふつうに考えれば、富岡が『悪霊』についてゆき子になにも語らなかったということはあり得ない。それとも、ゆき子と富岡はダラットでの三年間、ただただ肉体の関係だけで結びついていたとでも言うのだろうか。こういった見方はあまりにも貧相で、面白味に欠ける。富岡は『悪霊』のニコライ・スタヴローギンに関心を抱いており、彼と自分の〈卑劣〉を重ね合わせてもいるのだから、そのことをゆき子に話していても別に奇妙なことではない。男は自分が最も関心のあることを、深い関係を持った女にすべて話すとは限らないし、むしろ深い関係を持っているがゆえに、敢えて秘密にしておくこともあろう。しかし、富岡がニコライ・スタヴローギンのことを、酒を飲みながら話題にしても、何ら不都合なことはない。