「畑中純の世界」展を観て(連載2)

畑中純の世界」展を観て

恐怖と慈愛の異才の人
入倉 直幹(文芸学専攻二年)


     


 正直なところ、畑中純という漫画家、版画家のことをしっかりと知ったのは、縁あって「畑中純の世界」展のポスターを作成することになってからであった。もともと清水教授が『まんだら屋の良太』論を書いている段で畑中純という名前と、そしていかにカオスな世界がその漫画の中に詰まっているのかは耳にしてはいたものの、実際に作品は目にしていなかった。
 そこで先述の「畑中純の世界」展が日芸の芸術資料館で開催されることとなり、ポスター作成するはこびになってから、はじめて畑中純氏の作品・漫画に触れた。ポスターのデザインイメージや構想を固めるために、あくまでほんのすこし目を通しただけで、決して、しっかりと読み込んだわけではなかったが、この展示にもあるように作品の端々から「エロスとカオスとファンタジー」がむんむんと立ち上ってくるようだった。私が参考のために読んだのは『まんだら屋の良太』の文庫版であるが、これが原画なら、もっとすごいことになる、と確信していた。
 原画というのは実におそろしく、妖しい魅力をもっているものである。以前、同じ芸術資料館で開催された「日野日出志」展でその感覚はいやというほど思い知らされたからだ。印刷されて大量に出回っているものとは、それこそ月並みだが、迫力が違う。言いすぎかもしれないが、額縁に入っている絵を見ているうちに、絵の向こうへ吸い込まれそうになったことは私の中ではまだ記憶に新しい。原画の素晴らしいところは、筆がどのように通ったかまでがしっかりと見てとれるし、漫画家がどのように精魂を込めて、生命を削って描出させたかがまざまざと宿っている点にあろう。情報量が印刷物に比べて、ずっと多い。原画は、あるいは、闘いの記録とも呼べるかもしれない。ひとりの人間が真っ白な紙に真っ向から勝負をしかけた闘いの痕跡だ。
 また畑中純氏は漫画家として『まんだら屋の良太』を描き残した以外にも、版画家として宮沢賢治の作品にもたずさわっているということも、恥ずかしながら今回はじめて知ったことだった。私の母は職業柄か生来の性格なのかは知らないけれど、今でもたまに絵本を買ってくることがあって、たしかに畑中純氏の宮沢賢治は私の家にあったはずだった。そこで、『セロ弾きのゴーシュ』の表紙をポスターの一案として使用した。ポスターのもう一案を作成する際に、畑中純氏の仕事場の風景を撮影した写真を使用したのだが、その雰囲気がとても優しそうで、氏の人柄を出すためには温もりのある版画の作品も必要だと思ったからである。そして、版画も漫画の原画と同じく、浮き上がってくるような強烈な迫力もさることながら、もっと包み込むような慈愛に満ちた作品なのではないかと思いながら、ポスターを作成するに至った。
 しかし、正直なことを言ってしまうと、私の中では版画よりも原画の方がはるかに期待値が高かった。資料として読んだ『まんだら屋の良太』のごちゃまぜの感情にあてられたというか、やはり「エロスとカオスとファンタジー」を体現しているのは原画を於いて他にないと思っていたからだ。

 さて、展示である。
 やはりというか、当然というか、私の確信は間違っていなかった。そして、ある意味では間違っていたのだった。
 観覧者は私以外にはいなかったので、フロアにはまるで静けさが澱のように溜まっているようだった。壁に行儀よくかけられた作品たちはぼんやりと灯りに照らされて、闘いの記録が並べられているとは思えないくらいに落ち着いた、むしろ穏やかな雰囲気だと言ってもよかった。しかしながら、額縁の前まで歩を進めると、静けさどころか、もっとさまざまな感覚が荒波のように渦巻いていたのだった。
 しかし、それ以上に驚き、胸に突き刺さったのは、展示の最初に現れた畑中純氏の版画であった。誤解を恐れずに言えば、最初はきっと『まんだら屋の良太』の原画だと思って、ある意味で油断していたのだ。しかし、実際にやってきたのは宮沢賢治の版画群であった。そこで、私は脳細胞がしびれるくらい強烈で鮮烈な刺激で、それを目にした途端、比喩表現ではなく、しばらく額縁に釘付けになっていた。
 『雨ニモ負ケズ』である。
 白と黒の二色刷りで、濃淡すらないはずなのに、画面には奥行きと、そして同時に混沌と幻想に満ちている。木のような睫毛がくっ付いた目、幻灯機、コンパス、果実、さくらんぼ、チェロ、山と太陽、屋敷……。描かれているものは宮沢賢治を象徴とする、実に牧歌的なものばかりだが、どこか様子がおかしい。私の胸に去来してきたのは、日野日出志氏の原画とはすこしばかり質の違う、おそろしさだ。
 私は、たしかに、恐怖を感じたのだった。
 清水教授は『まんだら屋の良太』を「日本という土地の、暑くも寒くもない、ぬるい温泉という場所で、東洋も西洋もすべて内包している」と評したが、この宮沢賢治はまるで真逆である。西洋の暑いか寒いかの二極、つまりは白と黒しかなく、そこに中庸や中間と言ったものは存在しない。陰は灰色ではなく真っ黒になるしかなく、太陽が当たっているところは真っ白になるしかない。画面に立ち止まったのは、混沌や幻想の他に、ある意味で恐怖に近い感覚にしびれてしまったからなのだと思う。
 この『雨ニモ負ケズ』に広がる白と黒しかない世界が版画の特徴であるならば、いびつな線描も特徴であろう。版画は木やら銅板に「彫って」いくので、定規などで線を均一にすることができない。もちろん技術があれば可能かもしれないが、その太さが途中で変わる線こそが版画の真骨頂であろう。そしてそのいびつさ、整っていないことこそが、おそろしさとして表出しているのではないだろうか。
 ひとつ例を挙げるならば、左上に描かれた目である。黒目は白いいびつな円がいくつもあって、どことなく禍々しさを本能的に覚える。サイケデリックと呼んでも差し支えないかもしれない。上だけについたうねうねとした睫毛も、まるで風にそよいでいるように木のように思えて、文字に起こすと穏やかに思えるけれど、実際はもっと不吉な何かが漏れだしてきているように感じる。そもそも「見られている」というのはおそろしいと私は思っていて、それは日本人的な恥の文化とはすこし違う。私の感覚では「見られている」イコール「なにかされるかもしれない」という(もしかしたらねじ曲がっているかもしれないけれど)思いというか根源的で取り除くことのできない恐怖がひたひたと私に付いてまわるのだった。
雨ニモ負ケズ』の目は、それが如実に出ているからきっと私は不安に思うのだ。画面全体を見渡し、かつこちらさえも覗きこんでいるような目は、きっと絵や漫画という表現媒体ではここまで神経質に思うこともなかったのだろう。それは版画という表現媒体がもつ白と黒、そしていびつな曲線がなせる技だと思うし、なにより、宮沢賢治が持っている幻想的に見せつつ本来はおそろしいもの、ということを畑中純氏が体現した形にさえ思えてくる。
 またこの異様な雰囲気には、カタカナと版画の相性が抜群に思える。この『雨ニモ負ケズ』では一文字一文字、別々に彫っているようだから、どれも不均一になっている。先述したように、整っていないということが幻想的(私で言えば恐怖)に拍車をかけているのであって、畑中純氏が版画で宮沢賢治を表現するということに成功したと思う理由なのだった。
 そうやって畑中純氏が手がけた版画の恐怖に打ち震えながら、しかし進むたびにぐんぐんと惹かれながら進んでいくと、また氏の版画のイメージをぐっと変えるような作品が展示されている。
 『銀河鉄道の夜』だ。
 四枚続きになっているこの作品には『雨ニモ負ケズ』にあったようなサイケデリックな趣向は見られない。脳内で構築されたであろうSL機関車とそれが走っている銀河が、ただ真摯に映し出されているだけである。左上に向かって小さくなっていく汽車の先頭が描かれた一枚目からはじまり、カメラ(視点)はどんどん汽車の胴体に近くなり、三枚目では窓際に座っているジョバンニとカムパネルラの顔さえ映っている。そして四枚目になると汽車の胴体と車輪が映るばかりである。四枚に渡って描かれていても、汽車の終わりはどこにもない。
 『雨ニモ負ケズ』よりもむしろ黒の割合が多いにも関わらず、舞台が銀河、すなわち宇宙だと事前に知っている安心感からか、この四枚から不穏な空気は漂ってこないように思える。流れる星々や黒煙を上げる汽車、そして土星の輪を重ねたような南十字星からは幻想は感じるが恐怖はない。『雨ニモ負ケズ』よりも『銀河鉄道の夜』の方がたしかに幻想的な雰囲気はまとっているものの、宗教だとか生と死だとか、もっとカオスに満ちていていいはずなのに、これは秩序だっている。美しいという次元で、敢えて留まっているかのようだった。むしろ、私がポスターに使用した『セロ弾きのゴーシュ』から見られた温もりを持ち合わせてさえいた。版画は漫画より作者が残した筆跡(彫り跡)がしっかりと刻まれる分、慈愛とその真逆の恐怖のどちらもが表現できる、あるいはそのどちらかに取られてしまう表現方法なのではないかと思う。
 正直、やられた、と思った。
 漫画の原画ばかりに気を取られてしまっていたから、こんなに版画に心を奪われるとは思っていなかったのだ。漫画で「エロスとカオスとファンタジー」に惹き込まれていたのに、いつの間にか慈愛と恐怖が満ち満ちた版画に心を奪われている。異才の漫画家というキャッチコピーは、実に正しい。