「畑中純の世界」展を観て(連載17)

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
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畑中純の世界」展を見て
浜野伶保






 畑中純の作品は、作者は分からなかったが、前から知っていたと思う。宮沢賢治の本の表紙や挿絵、「ピース」の表紙、そして図書館に飾られていた「ガロ」の表紙だ。独特でどこか懐かしさを覚える絵と大胆な線が引かれた版画は、初めて見たものも、そうでないものも、温かさとおおらかさが感じられた。
 彼の描く宮沢賢治の版画は荒々しい彫り方に見えるが、初見でグッと惹きつけるような魅力がある。細かいところにまで気を張っているが切迫した雰囲気を感じず、見ている我々は懐かしいな、と頬が緩む。猫は大きな目が可愛らしいし、人の顔が簡略化していて朗らかだ。ただし例外もある。宮沢賢治とその妹トシの肖像画だ。「あめゆじゅとてちてけんじゃ」は「永訣の朝」でトシが言った言葉である。その丁寧に彫り込まれた肖像画を見て、ああ、この人は本当に宮沢賢治が好きなのだなぁとしんみりと思った。
 最も気に入ったのは、「猫の事務所」だ。背景が細やかの書き込まれた事務所で猫が真面目そうな顔で机に向かっている。おしゃれな椅子に座って、羽ペンで何か書いている。いっちょまえに制服を着て、眼鏡までかけている。そのむっとした表情に愛嬌を感じる。確か、「猫の事務所」は事務所内の陰湿ないじめに、突然現れた獅子が「こんな事務所なくなってしまえ」と喝を入れるような話だった。ずいぶん昔に読んだものなのであいまいなので、また読んでみようと思う。「ツェねずみ」「オツベルと象」など懐かしい作品がたくさんあって、中学生以来ちゃんと読んでいなかった宮沢賢治の作品をもう一度読みたくなった。何故今まで宮沢賢治と距離を置いていたかと言えば、単に彼の共感覚についていけなかったからである。彼の「不思議なものが当たり前に起きている世界」に抵抗感があったのだ。中学生当時は、そのおかしな世界に(意味が分からないながらも)ついてこられるほど多感な時期だったように思える。畑中純の版画はそんな宮沢賢治ワールドを的確に表しているように思える。彼自身に共感覚がなかったとしても、賢治の感覚をうまく受け止めることができているのは確かだ。やはり畑中純は芸術家である。そう思った。
 宮沢賢治の版画の奥には畑中純の絵が飾られている。畑中純の絵はまさにサブタイトル通りの「エロスとカオスとファンタジー曼陀羅宇宙」そのものだ。男子の考えた健全な下品さがいっぱいに散りばめられている。女性がお尻や乳を平然と出し、男性がそれに照れたり、おさわりをしようとしたりしている。しかし、畑中純の描く裸には露骨な性を感じない。本来は描いたらいけない部分まで見えそうなくらい大胆に足を広げた女性も子供が偶然見てしまった男女の性交も、笑い飛ばせそうな豪快さを感じられるのだ。
展覧会で絵を眺めていると、ある一枚が目に留まった。「まんだら屋の良太」の一枚絵だろうか。大きな温泉で、大勢の素っ裸の男女が面白おかしく絡んでいるのだ。このようなコミカルでエロチックな図はどこか既視感があった。何だったのかと思い出すとボスの描いた「快楽の園」だ。大きな一枚のキャンバスに裸の人々が異形の怪物と共にカオスな状態となっている。ある者は逆立ちでスケキヨよろしく下半身だけをさらけ出し、またある者は尻に枝や筆を突っ込んでいる。尻から鳥が羽ばたいている者もいる。「快楽の園」のどこか笑ってしまうようなエロスを畑中純の絵にも感じるのだ。しかし畑中純の絵はボスとは違う良い点がある。それは「お茶目さとおおらかさ」だ。あれだけ大勢の人々を描いていながら、一人一人の表情がまったく違う。そして皆が楽しそうなのだ。本来ならばセクハラだと騒がれそうなことをしている輩もいながら、それを「やだもう!」と咎めつつも許してしまうおおらかさと、女性自身も笑って裸をさらけ出せるお茶目さである。そのような絵が展覧会にはいくつかあった。これらは畑中純の良太的な豪快さがにじみ出ていると思う。確かに品のいいものではない。しかしどこか懐かしさを感じる。古き良き童貞の桃源郷のようで、私は好きだ。
 そして畑中純の描く綺麗な女性も好きだ。白目の多いツンとしたつり目に細い眉、そして小さな口。涼やかな雰囲気の中にどこかお茶目さを感じて、とても好きな顔なのだ。特に招き猫姿で良太とツーショットでいる月子さんのちょっと困った顔が愛らしい。私のお気に入りの作品の一つだ。
 畑中純の作品は、確かに抵抗がある人にはまったく受け入れられないと思う。性に関してはあっけらかんとしているし、下品なギャグも多々見られる。ちゃんと読み込まないと、彼の作品の深い考えは分からないのだが、だめな人はそこまで読み込む気力も湧かないのだから仕方ない。ただ、そういう人達はもったいないなあと思う。彼の絵からはエロスとカオスとファンタジーの他に、作者自身のエネルギーも伝わってくる。一線一線、全力で描いてきたことが分かる。小難しいことは捨てて、元気になれるような、エネルギーあふれる作品達であった。