「畑中純の世界」展を観て(連載18)

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
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畑中純の世界」展を見て
 上遠野環





わたしが畑中純さんの絵を見てまず思ったのは、まさにこれぞ漫画家の絵だな、ということでした。画家ではなく、漫画家。漫画家の絵というのはそこに個性とも言える、その人ならではのデフォルメがあるものですが、最近の漫画家は似通った絵ばかりだと感じていました。しかし、畑中純さんの絵はそうではありませんでした。
版画も、水彩画も、チープな言葉ですが、素晴らしい感性だなと思ってしまいました。彼にしかできないであろう独特のデフォルメに満ち溢れていて、それが見る者の目を強く惹きつけます。そして、漫画家の絵はこうでなくちゃ!とも思いました。わたしがとくに好きだったのは「どんぐりと山猫」の絵でした。個の意思をもって生き生きと呼吸するどんぐりたちと、彼らの裁判に振り回されて苛立つ山猫。見つめあったり殴り合ったりしているわけではないのに、彼らはひとつの場で、同じ空気を吸いながら同居していました。
銀河鉄道の夜」も好きです。最初フと見たとき、なぜひとつの絵にせずにみっつに分かれているのだろうと思いました。しかし近づいてよく見てみれば、なるほど納得でした。あの絵は一枚目、二枚目と進むごとに、シーンも進んでいるのです。鉄道のながい車体を利用して、それをあえてバラバラにすることで場面転換をつくる。(もしかしたら、描くのにぴったりの紙がなかったりしたのかもしれませんが)しかしこれは素晴らしいセンスだと思いました。
わたしはここまで文字にしてみて、彼の絵がなぜ漫画家的に素晴らしいのかわかりました。彼の絵にはドラマが、「演劇的要素」があるのです。絵の中のキャラクターたちは皆そこで呼吸をして、関わり合っている。生き生きと関係性をもっている。そしてわたしたちはそれを第三者として見つめる。これはまさに「演劇」です。たとえば、うしろの方で出てきた風呂屋の大きな絵。老若男女ごちゃまぜに、人の手ぬぐいを引っ張ってみたり、話し掛けたりして関わり合っている。これはまさにコロス劇だと言えます。
コロス劇とはギリシャ悲劇に端を発する演劇の表現方法で、「コロス」という群衆に語られる演劇であり、彼らコロスたちは時に名もなき登場人物であったり、時に観客であったり、時にひとつの語り部であったりします。コロス劇の脚本を読んでいると、彼らは無個性なただの群衆、端役のように見えてしまいますが、実はそうではありません。彼らはのっぺらぼうなモブキャラではなく、「確かにそこに存在するひとりひとり」なのです。全員で同じ台詞を言っても、群衆としての出番であっても、彼らは個性を持ち、それぞれの考えを持ち、ひとりの人間、ひとりのキャラクターとして他のキャラクターと出会わなければなりません。その出会いのなかで、ドラマが生まれるのです。
あの風呂屋の絵にはそれがありました。目立った主役がいるわけではない、しかしみんながそれぞれ生きてお互いに出会っている。そんなところに強く惹かれました。
「オッペルの象」は違う意味で演劇的でした。オレンジ色の版画。真ん中に描かれた象が、ちいさな涙を流している。遠目に見たとき、わたしはまさか象が泣いているなんて思いませんでした。温かいオレンジ色を見て、わたしはてっきり象は笑っているのかと思いました。近づいてみて、はじめて象の涙に気づいて、泣いていたのか、と驚きました。わたしは「驚く」というのはいちばん劇的な感動だと考えています。意外だ、びっくりする、というのは心にとって大きな事件です。通常、それは演劇や、物語といった言葉のストーリーの中にあるものだと考えていました。絵でびっくりすることがあるなんて、思いもよらなかったのです。なんてドラマチックな絵なんだろう、と思いました。
台詞のない一枚絵であっても、ストーリーや呼吸が描かれた絵はとてもドラマチックで、飽きることなくずっと見ていられます。そして、そんな絵はずっと記憶に残ります。生きたドラマというのは、画風や何を描くかよりも大切なものでしょう。そして難しいことでしょう。絵は動きませんし、奥行きもない。音もなければ、場合によっては色がないこともあります。それでも畑中純さんの絵にドラマがあるのは、彼の絵がうまいからに他ならないでしょう。
絵の上手い下手というのは、線の描き方や色遣い、パースのとり方ももちろん大切ですが、それだけではありません。細かな表情、心理による身体性の再現率、それらをより活かすための手法や構図のチョイス。そういった技術やセンスがものを言います(絵に限らず、演劇でもほぼ同じことが言えますが)。畑中純さんの描くキャラクターは、少女漫画のように可愛らしいわけでもなく、ドラえもんやアトムのように子供ウケするものでもないでしょう。しかしとてもあたたかく人の目を惹き、印象深く頭のなかに残ります。人間くささとドラマのある一枚。そんな絵を描く畑中純さんは、彼自身がそんな人だったのかなあと思いました。わたしもそんな人に近づきたいです。