「畑中純の世界」展を観て(連載19)

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
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畑中純の世界」展を見て
 中嶋悠理






 漫画家としての畑中純のイメージが強かっただけに、木版画が展示されていたことにまず驚いた。宮沢賢治作品をモチーフにしたものや、小説の表紙など、以前からそれと知らずに見知っていたものまで並べられていたため、なおさらである。
 初めてじっくりと観賞した木版画の印象は強烈だった。絵の中に占める黒の割合が多く、それが宮沢賢治の童話世界に漂う影を表現しているようで面白い。そこに描かれた漫画的なキャラクターも、童話が持つ表向きの子供向けな側面をよく表現している。童話の光と闇の二面性を、畑中は意図的に描いたのだろうか。強く興味を惹かれた。
 「まんだら屋の良太」以外の畑中漫画を見ることも初めてだ。展示されていた中で真っ先に気に入ったのは、大きな木に足場やはしごがかけられていて、そこに男の子と女の子が腰かけてこちらを見下ろしている絵だ。ツリーハウスというものだろうか、童心をくすぐられた。中央の小さな子供たちと比べて、木の大きさがいかにも頼もしく、子供を見守る親のような存在のようにも思える。
 版画と漫画を組み合わせた作品は、畑中純の集大成となっているように思う。絵の下には『オバケ十五話 「明暗」』とあった。この絵の出展なのか、それともタイトルと呼んでも良いものだろうか。確認はとれなかった。ペンと墨汁によって書かれたものらしい。影を版画で、それ以外を漫画で描き、ふたつの異なる技法によって一枚の絵の中に光と影を対比させている。こうした異種格闘技戦のような組み合わせは、小説にも転用できるのではないか。見習うべきところは多そうだ。また、それとは別に吹き出しの中の「黒く塗れ」という短い言葉が、おそらくはその短さゆえに印象深かった。どういった場面で使われたものなのか、不思議に心を惹かれる。
 絵とは呼び難いかもしれないが、宮沢賢治童話の文章を、一文字一文字版画で刷ったものがあった。どうやら童話の挿絵部分を版画で描くのみならず、文字にまで同じ方法を用いて、全体に一様の雰囲気を与えたものらしい。素晴らしい発想だと思った。黒が目立つ版画自体が童話に合っているように感じたことはすでに述べたが、それを文字にまで徹底したことは、思いつきそうでなかなか思いつかない発想だと思う。絵と文章として、ふたつ別々の扱いでわけ隔てられていたものに橋渡しをしている。複数の学科を擁する日芸という環境にあって、こうした発想に至らない自分の未熟が恥ずかしい。
 正直なところ、畑中純のように堂々赤裸々に性を描いている作品は、鑑賞するにあたってあまり得意ではないのだが、それでもなお強く惹かれた一作があった。タイトルは不詳だが、草むらで性行為をしている男女のもとに、蝶を追う少年が飛び込んでくるというものだ。網は二匹の蝶をとらえ、ついでに女の頭まで捕まえている。少年の驚いた顔と、そちらを見る網の中の女の顔と、一心不乱に女に抱きついている男の後ろ姿とが、焼きついたように印象に残った。対比の構造というとなんだか陳腐なようだが、子供が思いがけず大人の世界に迷い込んでしまうある種ショッキングな場面が、私に妙な同情に似た気持ちを起こさせた。原因はたぶん、私自身が性に苦手意識を覚えていることと同じところにあるように思う。絵の中の男女がこの次にどのような反応をするのかは分からないが、絵を鑑賞した私は少年に対して申し訳のないような思いがした。いまだ二十歳そこそことはいえ、歳をとり一応の大人になったことを後ろめたく思っていたのかもしれない。
 同じような場面の絵がもう一枚あった。こちらも少年が迷い込むというシチュエーションで、場所は学校かどこかの、健康診断の類と思われる検査の最中だ。女子生徒が尻を突きだし、白衣の女性が棒状のものを突き刺している。こうも似たような作品が続くからには、畑中にとってもこうした状況に思うところがあるのかもしれない。実は作者自身が似たような体験をしていて、一種のトラウマのように記憶に焼きついていたから、状況を少し変えて複数の作品として分割して表現されたのではないかと、そんなことも考えた。それほど衝撃的で、なんとなく悲劇的なようにさえ感じたからだ。思いがけぬものを見つけて、少年は逆に喜ぶかもしれない。そういうことも含めて、ただなんとなく私は悲しくなる。
 畑中が描く温泉が特別な意味を持つことは講義で知ったが、展示の中には鉱山を描いたものも多かった。男性労働者が多いであろう鉱山が、温泉と同じカオスとエロスの意味合いで描かれているとは思えない。こちらにもまた、何か別の解釈があるのだろう。宮沢賢治の童話を題材にした木版画からはじまり、畑中の世界は実に幅広い。目を覚ましている間中漫画を描いていたという創作への姿勢まで含めて、しっかりと学ばなければいけないと思った。