「畑中純の世界」展を観て(連載20)

清水正が薦める動画「ドストエフスキー罪と罰』における死と復活のドラマ」
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畑中純の世界」展を見て
濱島優子



雑誌研究の授業で、初めて畑中純さんという漫画家を知りました。私はもともと漫画をあまり読みません。漫画で表現される世界は、現実的であり、人間ドラマに深く共感するところもあれば、多種の擬音語、擬声語に、あり得ない人の動きを表現出来たりと、とても不思議な世界だと思います。畑中さんの展示で見られる絵は、どの絵を見ても、力強いタッチで体や顔の輪郭が描かれていて、けれどその中に描かれる、瞳や口はとても繊細なように感じられ、一つ一つが生きている絵のように感じました。中でも女性の絵は、見ていて考えさせられることが多くありました。はだけた着物に下駄を履き、ボサボサの髪の毛にタバコをくわえて歩く女性。タヌキに扮した良太の上に乗っかり耳をつねってこちらを見つめる女性。私が印象的だと感じた女性です。女性の性格、生活、考えていること、声、それらがパッと伝わってくるように感じる絵だったのです。女性の絵はどれも魅力的でした。つり目で猫目な女性が多く、ミステリアスな印象を与えます。畑中さんの女像とは、そのような女性なのでしょうか。そして裸になることをごく自然なことと捉えている。

代表作『まんだら屋の良太』でも描かれている公衆浴場では、男も女も裸体が描かれています。展示でも様々な絵に裸体が描かれていて、思ったことがありました。作者が描いているこの、目の前にいる女性は、
どんな気持ちで裸体をさらしているのだろう?また、どんな気持ちの女性を作者は描きたいのだろう。そんな気持ちで鑑賞していました。授業でも裸体を描くということは、と話がありましたが、とても深いテーマだと思います。そして一言では言い表せなくて、難しいテーマだと思いま
す。海外では、ヌードの女性の油絵などはよく見かけます。万人の人が美として認定しているかのような風習がある中で、日本で裸体の女性を描くとなると、どうしてもいやらしいと感じる人がいます。美しいからこそ、見せてはいけない。という感覚でしょうか。芸術の観点や芸術として受け入れ方は、国によって異なるのだなと思いました。解放すること、全てを描くこと、違った一面を見せること、それは芸術として必要なことであり、求められることであるように思います。だとすれば畑中さんは日本では数少ない”真の芸術家“ということになります。

授業でお話ししてくださった畑中さんの長男さんの話は印象的でした。「本屋に並んでいても、これは買わない」。父と息子。と考えると少し寂しくも感じましたが、親子だからこそ、きっと妥協しません。普通に考えたら、そして子供としての気持ちを考えると、そうだなと、私も思いました。ですが、次女さん、三女さんは全く違った感覚を持っていらっしゃって、面白いなと思いました。「優しい父だった」口を揃えてそう言うお二人を見て、そして展示で見た畑中さんの猫を抱いたお写真
を見たとき、その言葉と人柄が見事に一致しました。ずっと家で創作活動を続けられ、人間のすべてを漫画で表現し続けた畑中さんを、“一人の父親“に感じた瞬間でした。これはおそらく、私自身、父親が仕事人間であり、大の猫好きだから、という理由も大いにあります。わたしだから、あの写真を見たとき、そう感じたのかもしれません。展示を見ているうちに思いました。人間という生き物を表現するために、どこまでを描くのか。それは漫画家として、芸術家として、考え抜いて描かなければいけない、中核となる部分なのだと。そして畑中さんは、人間のすべてを
描く、ということを選ばれた。『まんだら屋の良太』でも、性描写も第一話から遠慮せずに描いています。初めは私も驚いて抵抗もありました。けれど、考えれば考えるほど、表現するということはどういうことなのか、という問いばかり出てきました。単にいやらしいものとして描くのではなく、人間の本質を描くとどうなるのか。畑中さんは芸術家としての素朴な疑問から描き始めたのかもしれません。そう思うと、芸術として成立している作品、決していやらしいのもには見えませんでした。人間とは、こういう生き物だと、漫画を通して、表現する。人を喜ばせたり笑わせる事も、漫画家として必要なことがもしれませんが、漫画家であると同時に芸術家として、表現者として、やるべきことがある。

そして最終的に、これが清水先生が私たちに伝えたいことなのかと感じ
ました。様々な文学を扱い、愛について語り合う授業を行ってこられましたが、愛と人間を表現するのが、芸術家。だから愛とは何か、人間とは何か、深く深く考えるきっかけを与え、行き着く答えをもとに、生きていくこと。これが私たちに必要な
ことなのかなと、ふと思いました。
これは漫画だけでなく、すべての芸術に共通すると思います。表現者として、芸術家として。大学で学ぶだけでなく、何を考えて見つけたか。それが一番重要な点なのかと思います。