猫蔵(日野日出志研究家・見世物研究家)による生贄論(連載1)

 

 

猫蔵『日野日出志体験』


 

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猫蔵(日野日出志研究家・見世物研究家)による生贄論を連載します。

 

■生贄論
〜原罪と芸能〜 (連載1)


猫蔵


 人に何かを「伝える」ということほど、楽しいことはないと感じます(それは、食欲や性欲を満たすこと以上に)。そして、相手がそれをしっかりと「受け止めて」くれた時ほど、嬉しいものはありません。だから、「文章を書くこと」は、突き詰めれば僕にとってコミュニケーションのひとつの形であり、同時に最高の楽しみでもあります。
ではなぜ、「伝えること」に喜びを感じるのか?それは裏を返せば、根底に「伝わらない」ということへの絶望感があるからだと言えます。僕の文学上のテーマは、他ならぬ「他者との断絶」です。この場合の"他者"とは、場合によっては、片思いの異性であったり、僕自身は無宗教な人間ですが、キリスト教に纏わる文学を読み解く際は、"神"というものを当て嵌めて捉えられるものです。神とは、人間にとって絶対的な"他者"に他なりません。
 ロシアの文豪ドストエフスキーがその創作の着想を得、また一説には「人類史上における文学作品の最高傑作」と評される『ヨブ記』(旧約聖書に収録)もまた、その主題は「神の沈黙」でした。つまり、「他者との断絶」。父なる神に対し、主人公のヨブがどれ程の信仰を注ぎ、どれ程の供物を捧げたとしても。神は文字通り「沈黙」を貫き、彼の祈りに耳を傾けてはくれません。それでもなお、主人公ヨブは、祈り続けるにしろ、抗うにしろ、あるいは無視するにしろ、神(=他者)と向き合い続けなければなりません。この圧倒的な不均衡。
 これは、大昔に書かれた、どこか遠い外国の物語などではありません。あくまで『ヨブ記』に描かれた「神への信仰」というモチーフは、一題材です。『ヨブ記』が描き出した問いの本質は、今なお朽ちることなく、僕たちに問われ続けています。言うなれば、『ヨブ記』の主人公は、全ての"貴方"なのです。
ここで敢えて"愛"というバタ臭い言葉を用いるのであれば。果たして僕らは、「沈黙し続ける他者」を、変わらず愛し続けることは可能なのでしょうか?"愛"の見返りは期待できなかったとしても、です。
 結論から言えば、僕はそれは可能だと思うのです。これは、ただの理想などではありません。例えるなら、日本刀が刀鍛冶によって叩かれ鍛えられる様に、「他者との断絶」という悲劇を経験したゆえに掴み得る、枯れることのない"強さ"があるはずです。それに目を凝らし、他者不信の灰の中から不死鳥のごとく復活したヨブの、秘密にこそ迫るべきなのです。
 この命題を自覚して以来、『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』を始めとするドストエフスキーの小説や、カトリック作家である遠藤周作の小説『沈黙』、スゥエーデンの映画監督ベルイマンの同名映画『沈黙』など、それまでは孤立した点に過ぎなかった作品群が、一本の線として繋がった体感を得ました。ですから、他者に何かを「伝える」ということに対する僕の焦がれるような慕情は、単なる一個人の偏狭な嗜好のみならず、あるいは、あまねく人類普遍に共有し得るのかもしれないと信じ、筆を進めます。