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有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空 (清水空雲)
モーパッサン『ベラミ』を読む(連載41)
──『罪と罰』と関連づけながら──
清水 正
老詩人ノルベール・ド・ヴァレヌの死生観と無神論は作者モーパッサンのそれを反映しているようにも思える。人間は死ぬ存在であるからこそ、永遠の命を保証するキリストの言葉に従う者もあるし、死そのものを凝視しそれを不可避の事実として受け入れる者もある。ドストエフスキーの人神論者たちは、神そのものを承認しないというのではなく、イヴァン・カラマーゾフに見られたように、不条理に満ちた地上世界を創造した神に異議申し立てをしているのである。イヴァンは罪のない無辜な子供たちが虐待虐殺された数多くの例を取り上げて、このような犠牲なしには永久調和が成立しないというのであれば、自分は断固としてこの世界への入場を拒否すると宣言する。このイヴァンの神に対する宣戦布告は見習い修道僧のアリョーシャに向けてものであったが、アリョーシャはイヴァンを納得させる言葉を持っていない。
そもそもイヴァンの〈わが魂の震え〉より発せられた神に対する抗議に関して、神そのものは姿を現すこともなければ応答の言葉を発することもない。イヴァンがどんなに悩ましい反撃の狼煙をあげても、神は完璧に沈黙を守っている。『ヨブ記』において遂に言葉を発する神は、いかにも後から都合よく付加された神に思える。わたしは未だヨブの抗議に対して納得のいく答えを耳にしたことはない。『ヨブ記』に深い影響を受けたドストエフスキーの文学においても、ヨブの抗議は抗議のままにとどまっている。イヴァンの抗議も時代と民族を超えて依然として明確な答えを獲得してはいない。わずか八歳ばかりの召使いの子供を、猟犬を放って食い殺させた将軍に対して、神を信じると言っていたアリョーシャが「死刑にすべきです!」と断言している。未だ見習い修道僧であるアリョーシャのことだから、厳しく弾劾することは控えよう。問題は、神の子であるキリストだったらどういう言葉を発したのかということである。
「汝の敵を愛せ」と言うキリストは、アリョーシャの「死刑にすべきです」という断言をどう受け止めるのか。イヴァンはアリョーシャの内部に悪魔の子供を発見してブラボーと叫ぶが、まさかキリストの内部にも悪魔の子供が宿っていたとは言えないだろう。もしいるとすればキリスト教の教義は根底から揺さぶられることになろう。わたしは一人の人間として、イヴァンのアリョーシャに向けられた神への抗議は真摯に受け止め検証しなければならないと考えている。日本人でドストエフスキーの読者であり、同時にキリスト教信者ある者たちは、いったいイヴァンの抗議にどのような解答を自らに与えたのだろうか。
イヴァンは内なる悪魔の顕現に立ち合い、狂気へと突入してしまう。イヴァンはイヴァン自身の神に対する不信と懐疑を解決することなく発狂し、アリョーシャは自らの内なる〈悪魔の卵〉を抱え込んだまま、未完の小説の中に閉じこめられたままである。アリョーシャは作者によって〈未熟な博愛家〉と言われていた。アリョーシャが真のキリスト者として成熟するのか、それとも革命家として成熟するのか、作者は肝心要の問題に厚い蓋をしたままアリョーシャを囲んだ少年たちに「カラマーゾフ万歳!」と叫ばせて小説の幕を下ろし、満五十九歳の生涯を閉じてしまった。イヴァンの提起した根源的な懐疑を素通りして〈キリスト者〉を名乗ることの欺瞞を看過することはできない。
わたしは老詩人ノルベール・ド・ヴァレヌの死生観を読んで、彼の前にイヴァン・カラマーゾフが現れて、徹底して死と神に関して尽きせぬ議論を展開してもらいたいと思った。相手がジョルジュ・デュロワではどうしようもないのである。モーパッサンがドストエフスキーの作品を読んだのか、読んだとすればどのように読んだのか興味があるが、今のところドストエフスキーとモーパッサンを比較検証した論文をわたしは知らない。
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人間のあるべき姿を検証する。人道主義(ヒューマニズム)と宗教の問題。対話によって世界平和の実現とその維持は可能なのか。人道主義と一神教的絶対主義は握手することが可能なのか。三回に分けて発信していますがぜひ最後までご覧ください。
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「清水正研究」No.1が坂下ゼミから刊行されましたので紹介します。
令和三年度「文芸研究Ⅱ」坂下将人ゼミ
発行日 2021年12月3日
発行人 坂下将人 編集人 田嶋俊慶
発行所 日本大学芸術学部文芸学科 〒176-8525 東京都練馬区旭丘2-42-1
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