戦争と宗教の恐ろしさ

随想 空即空

戦争と宗教の恐ろしさ

 

 相も変わらず地球上での争いは絶えない。成るようにしかならない現実を生きて、一義的絶対の希望の言葉を発することはできない。旧約・新約聖書コーランから記憶に刻まれている言葉を引用する。

 

 主はヨシュアに言われた。「恐れてはならない。おののいてはならない。戦士全員を率い、アイへ攻め上りなさい。見ていなさい。私はアイの王とその民、町と土地をあなたの手に渡す。あなたは、エリコとその王にしたように、アイとその王にしなさい。ただし、戦利品と家畜はあなたがたのものとしてよい。町の裏手に伏兵を置きなさい。」
 ヨシュアは戦士全員を率い、直ちにアイへ攻め上った。(「ヨシュア記」8章1~3)
 イスラエルは、生き残った者も落ち延びた者も一人もいなくなるまで敵を打ち倒したが、アイの王は生け捕りにされ、ヨシュアのもとに連れて来られた。
  こうして、イスラエルは追って来たアイの住民をことごとく野原や荒れ野で殺し、一人残らず剣にかけて倒した。その後、イスラエルの全軍はアイに引き返し、その町を剣をもって打った。その日、倒れた者は、男女合わせて一万二千人。すべてアイの人々であった。ヨシュアは、アイの住民を滅ぼし尽くすまで、投げ槍を差し伸べた手を元に戻さなかった。ただし、主がヨシュアに命じた言葉どおり、イスラエルはこの町の家畜と戦利品を自分たちのために奪い取った。ヨシュアはこうしてアイを焼き払い、とこしえに荒れ果てた廃墟の丘にした。(「ヨシュア記」8章21~28)

  さて、お前たち(回教徒)、信仰なき者どもといざ合戦という時は、彼らの首を切り落とせ。そして向うを散々殺したら、(生き残った者を捕虜として)枷かたく縛りつけよ。それから後は、情をかけて放してやるなり、身代金を取るなりして、戦いがその荷物をすっかり下ろしてしまう(完全に終る)のを待つがよい。まずこれが(戦いの道というもの)。勿論アッラーの御心次第では、(こんな面倒な道を踏まずとも)一度に彼ら(異教徒)を打って仇を討つこともおできになろう。だが、お前たち(人間)を互いに(ぶつからせて)それを試みとなそうとのおはからい。アッラーの道に(聖戦において)斃れた者の働きは決して無になさりはせぬ。(井筒俊彦訳「コーラン岩波文庫より)
  これ、汝ら、信徒の者、ユダヤ人やキリスト教徒を仲間にするでないぞ。彼らはお互い同士だけが親しい仲間。汝らの中で彼らと仲よくするものがあれば、その者もやはり彼らの一味。悪いことばかりしているあの徒をアッラーが導いたりし給うものか。(井筒俊彦訳「コーラン岩波文庫より)

  平和を造る人々は幸いである
  その人たちは神の子と呼ばれる。(「マタイによる福音書」より)
  「あなたがたも聞いているとおり、『目には目を、歯には歯を』と言われている。しかし、私は言っておく。悪人に手向かってはならない。誰かがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。(「マタイによる福音書」より)
  「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と言われている。しかし、私は言っておく。敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。天におられるあなたがたの父の子となるためである。(「マタイによる福音書」より)
  
  空の空、一切は空である。(旧約聖書「コヘレトの言葉」より)

  有即無 無即有 有無即空 空即空 空空空 正空(清水空雲)