随想 空即空(連載98)内村鑑三の不敬事件を巡って#ドストエフスキー&清水正ブログ#

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随想 空即空(連載98)内村鑑三の不敬事件を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 鑑三は『余は如何にして基督信徒となりし乎』(鈴木俊郎訳 岩波文庫)で次のように書いている。

 

   基督教は、それを受けることを求められなかったうちは、余には楽しいものであった。その音楽、その物語、曹洞宗の信者たちが示してくれる深切は、余をかぎりなく喜ばせた。しかし五年の後、守るべき厳格な律法と払うべき多大の犠牲とともに、それを受けるよう正式にそれが余に提出されたとき、余の全性は余自身をそのような途に従わせることに反抗した。七日の中の一日は特に宗教のために除外し、その日には他のすべての勉学と娯楽を慎まなければならないということは、余にはほとんど不可能と思われる犠牲であった。そして新しい信仰を受けることに反抗したのはひとり肉のみではなかった。余は早くから我が国を万国以上にあがむべきこと、我が国の神を拝して他のいかなる神をも拝しないことをおそわった。余は我が国の神よりほかのいかなる神にも忠誠を誓うことは死そのものをもってしても強いられることはできないと考えた。その起源が異国のものである信仰を信じて余は祖国に対して反逆者となり、祖国の信仰からの背教者とならなければならない。余の以前の義務と愛国心の概念の上に立てられてきたすべての高貴な志は、かような提議によって破壊せられることになったのであった。余は当時は新しい官立カレッヂの一新入生であったが、そこでは一ニュー・イングランド基督信徒科学者の努力によって、その上級生(当時全校に二級しかなかった)の全部は、すでに基督教に回心していたのであった。『赤ん坊新入生』に対する二年生の居丈け高な態度は世界じゅう同じである。そしてそれに新しい宗教的熱情と伝導の精神とが加わったとき、彼らが憐れな『新入生』に与えた印象は容易に想像されうる。彼らは襲撃によって新入生を回心させようと試みた、しかし新入生のなかに一人、自分は『二年生の突貫』(この場合は宗教の突貫であって、棍棒の突貫ではなかったが)の一斉攻撃に抵抗しうるのみならず、彼らをその旧来の宗教に再改宗せしめうるとすら考えていたものがあった。しかし、ああ! 余の周囲の諸豪はぞくぞくとたおれて敵に降伏しつつあった。余はひとり依然として『異教徒』、はなはだ憎むべき偶像崇拝者、度しがたい木石礼拝者であった。余は当時余が追いつめられた窮境と孤独とをよく覚えている。ある午後、余はその地方の守護神たるべく政府に認可されたという附近の一異境神殿におもむいた。神霊の見えない存在を表わす聖なる鏡からいくらか離れて、余は枯れた雑草のうえにひれふし、そしていきなり祈り出した、そのとき以来かつて余が基督教の神に捧げたいかなる祈りにも劣らない真剣で純粋な祈りであった。余はその守護神に、すみやかに我がカレッヂ内の新宗教熱を鎮静せしめ、異なる神を否むことを頑強に拒むようなものどもを罰し、余がいま支持している愛国の大義のためわずかな努力をしている余を助けたまわんことを祈願した。祈りをおえて余は寄宿舎に帰った、またも新しい信仰を受けよといういちばんありがたくない説得をもって責められた。(21~22)

 

  ここには鑑三がキリスト教に入信するまでの反抗、苦悩が生々しく語られている。しかしわたしはここに記された文章になにか腑に落ちない大袈裟さを感じる。はっきり言えば嘘くさいのである。鑑三のその時々の感情の激しさそのものがきわめて危うく、こういった感情の率直な吐露そのものが、不可避の裏切りを潜在化させているように感じさせるのである。

 わたしは実に何十年かぶりに『余は如何にして基督信徒となりし乎』を読み返したが、最初に抱いた感想を覆すにはいたらなかった。鑑三は本のタイトルを『余は如何にして基督信徒となりし乎』としたが、ここに書かれた彼自身の言葉をもってすれば『余は如何にして反逆者となりし乎』あるいは『余は如何にして背教者となりし乎』でも一向におかしくない。鑑三が異国のキリスト教を受け入れたことはすなわち祖国に対する反逆であり背教だからである。しかしいずれにしても説得力がない。

 鑑三は「余は我が国の神よりほかのいかなる神にも忠誠を誓うことは死そのものをもってしても強いられることはできないと考えた」と書いているが、このある意味、毅然たる覚悟から生じた言葉が空々しく響いてくるのは、彼が祖国の神を信じきれなかったことによる。もし鑑三が異国のキリスト教を断固として拒み続け、祖国の神に殉じたのであれば、この言葉は輝きを失うことはなく、微塵の空々しさをも感じさせることはなかっただろう。

 タケに烈しい愛を感じ〈天使〉と見なしていた鑑三が結婚して半年も経たないうちに彼女を〈羊の皮をかぶった狼〉と見なしたように、鑑三の言葉が烈しければ烈しいほど当てにならないのである。鑑三に限らず激情家には不動の一点にとどまらず、相反する両極を振り子のように行き来する傾向がある。彼らは自分自身の感情が〈あっち〉と〈こっち〉へ揺れ動きながら、そのことを冷静に客観的、俯瞰的に捉える視点に立つことができず、〈こっち〉にある時は〈こっち〉、〈あっち〉にある時は〈あっち〉にある者として確信ありげに自らの主張を臆面もなく披露してはばからないのである。彼らは〈あっち〉に行ったり〈こっち〉へ戻ってきたりする癒しがたい精神の分裂を冷静に把捉できないから、そういった曖昧な、中途半端な自分の立場を凝視することがないのである。

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