随想 空即空(連載91)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー&清水正ブログ#

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随想 空即空(連載91)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

    鑑三は同じく父宜之宛の手紙(第68信 明治一八年四月十八日)で次のようにも書いている。

 

 顧ミレバ児十一歳ノ時ヨリ貧家ノ中ニ特別ノ教育ヲ受ケ、漸ク業ヲ卒ヘ、将サニ国家ニ事ヲナサントスルニ当リ、トンデモナキ失策〔離婚問題〕ヲ出カシ、信者ドコロカ悪魔ノ行ヲナセシ事ヲ思ヘバ、度々気力落テ、再ビ立ツ能ハザルノ場合ニ立至レリ。然レドモ其失策ノ源因ヲ考フレバ、全ク悪意より出デシニハ無之、イササカ国ノ為ニ他人の為ニ為サント欲シ、種々苦慮スル所ヨリ終ニ之ニ落入リシ事ニシテ、元トハト云ヘバ聖書ノ意味ノ取リチガヒヨリ生ゼシ事ナラント存候。聖書ニ云フ所ノ人ソノ父母ヲ捨テテ其妻ニスガレト云フ言ノ如キ、ソノ儘ニ取ルトキハ人情ヲソコナヒ、世界ヲ害スル甚ダ大ナリ。(134)

 

 ここではまず「聖書ニ云フ所ノ人ソノ父母ヲ捨テテ其妻ニスガレト云フ言ノ如キ、ソノ儘ニ取ルトキハ人情ヲソコナヒ、世界ヲ害スル甚ダ大ナリ」を取り上げよう。鑑三は「創世記」2章24節から引いているわけだが、例によって具体性に欠けるので、厳密にみれば何を言っているのか曖昧である。まず〈父母〉だが、「創世記」の文脈に照らし合わせれば創造主〈神〉ということになる。が、ことは単純ではない。ふつう旧約の神は〈父なる神〉であり、それは唯一絶対の全能の神と理解されている。が、聖書では〈神〉は〈われわれ〉というように複数形でも記されている。唯一絶対の神が一人称複数形で記されていることから、神は〈父なる神〉、〈神の子〉(イエス・キリスト)、そして〈聖霊〉の三位一体としても理解されるようになった。つまり「創世記」の神は唯一絶対の神の貌と、内に〈神の子〉〈聖霊〉をも含む相対的な神の貌とを併せ持つことになる。ところで〈父母〉であるが、鑑三の引用の仕方からすると、それは人間における〈両親〉、鑑三に照らせば〈父宜之〉と〈母ヤソ〉を意味することになる。鑑三に言わせれば、彼が「創世記」に書かれた言葉をそのまま理解したこと、すなわち両親の反対を押し切ってタケと結婚したことを意味する。さて、「創世記」に戻れば、〈父母〉は人間の両親を意味するのではなく創造主〈神〉を意味している。ここで素朴な疑問を提示しておこう。「ソノ父母ヲ捨テテ其妻ニスガレ」という神の言葉は一筋縄ではいかない。ふつうに読めば、この時、神は自分が造った最初の人アダムに向かって言葉を発していたことになる。従って〈妻〉とはアダムの肋骨から造られたエバということになる。このエバは神の命令に背いて蛇(悪魔)の誘惑にかかった女である。すると神の言葉をそのまま素直に受け止めれば、アダムは〈父母〉(神)の命令に背いて〈悪魔〉の誘惑にかかったエバに縋れということになる。まさにアダムは〈父母〉(神)を離れて妻エバに縋ってしまったのである。さて、鑑三は自ら引用した「創世記」の言葉をどのように理解し解釈したのか。鑑三は具体的にテキストに分け入っていかないので肝心なことは不明のままである。

 「創世記」を読んでわたしはいろいろと疑問を持ったが、鑑三の手紙に「創世記」に関する本質的な疑問は何一つ提示されていない。「創世記」の神は自ら創造した人間に命令したり、試みたり、裁いたり、罰したりするが、こういった点に関して鑑三はなんの疑問も抱かなかったのであろうか。鑑三がキリスト教の神を信じるようになったのは札幌農学校時代であるが、わたしはこの鑑三の信仰に関してはいろいろと検証しなければならないと思っている。今ここでは「創世記」にのみ限定するが、鑑三は〈父母〉に関して素朴に自分の両親に当てはめているようだ。〈父母〉が神を意味していることに対しては何の言及もしていない。神は自らの姿に似せて人を造ったことになっているが、この人はふつう男性として受け止められているから、神は父なる神と言われる。つまり「創世記」の神は男性の姿としてイメージされる。しかしここで〈父母〉と記されているからには、神の姿は男性でもあり女性でもあるということになる。はたして男でもあり女でもある姿を具体的にイメージすることが可能であろうか。成人した男と女の肉体的貌は明らかに異なっている。ある時は女、ある時は男というのであれば分かるが、男と女という異なった肉体を備えた者の同一化した姿をイメージすることはできない。わたしはこういったことに対してもいろいろと疑問を持つのだが、鑑三はこんなことにはいっさい頓着しない。ついでに疑問をあげておけば、アダムとエバは神の言葉によれば、園の中央に生えている木の実を食べると死ぬことになっていたがどうして彼らは死ななかったのであろう。神はこの実を食べると神と同じように善と悪とを知ることになると言っている。

 ドストエフスキーは『悪霊』のニコライ・スタヴローギンにおいて、知性と理性の極限において善悪観念が摩滅することを描いている。これは「創世記」の神の言葉に明らかに背いている。またわたしの知性と理性は、エバを唆した蛇が姿を変えた神そのものに見えたりする。この蛇は神の秘密に通じている。つまり禁断の木の実を食べると、被造物である人が〈神のような存在〉になることを知っていたのである。ということは、エバとアダムは蛇の言葉を受け入れたという事、すなわち単なる被造物から神になりたかったということである。ドストエフスキーがニコライ・スタヴローギンの造形を通して試みたことは、「創世記」の神の言葉そのものの否定だったということである。鑑三はドストエフスキーの作品を何一つ読んでおらず、聖書に対してもその根本の教義に肉薄することも、具体的な事例をあげて不信と懐疑を表明することもなかった。ここに引用した鑑三の手紙による限り、彼の「創世記」における〈父母〉の解釈はきわめて現世的次元にとどまっており、彼の結婚・離婚の正当化のために使われている観を免れない。

 

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