随想 空即空(連載95)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー&清水正ブログ#

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随想 空即空(連載95)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 さらにもう一通、太田(新渡戸)稻造宛の手紙(第64信 一八八五年三月一日)を引用しておこう。

 

 今日は非常に淋しく、涙のうちに「過去と将来」の思いにふけっている。恐ろしい過去――失敗と過失だらけの一連の空白! 希望にみちた将来――ただキリストにあって! この八年間僕がたどった暗い道のま中にあって、時にも境遇にもさびることのない愛情あふれる幾人のハートを想うことは、何たる楽しい思い出であろう。過つことが人の常ならば、僕は極端にそうだ。ああ! あの狂気じみた頃よ! あの時僕は、自分からわが「姉さん」と呼んだ一人の姉妹を見出して、彼女を自分の両親以上に愛したのだった! おお! サタンの謀略のうちにあったあの恐ろしい頃よ! あの時僕は、自分の情熱的な愛の奴隷であったのだ! しかもそれを神のみ心と勘ちがえしていたのだ!

  《年ヲ経テ浮世ノ橋ヲ顧見レバ

    如何ニアヤウク渡リツルカナ》

  あの危機から救って下さった神に感謝しまつる。神が僕のために一人の友を、僕が彼に対してしばしば無情で、冷淡であったにもかかわらず、確保しておいて下さったことに感謝する。

  日本からは特に面白いしらせは何もない。ホィットニー博士はたびたび手紙をくれる。家からは何の便りもない。「彼女」〔タケ〕がなぜ二度も手紙をよこしたのか、その理由がわからない。しかし僕はその手紙を二通とも火中にしてしまった。(122)

 

 この手紙の内容は先に引用した第61信と基本的には同じことを記している。鑑三の心にタケとの事は一種のトラウマとなっており、同じことを繰り返し書かざるを得なかったのであろう。タケとの結婚とその破綻は失敗と過失だらけの〈恐ろしい過去〉であり、〈狂気じみた頃〉であり、〈サタンの謀略〉として把捉される。キリスト者でない者にとってはずいぶんと大げさな表現に見えるが、当の鑑三は大真面目である。

 鑑三は〈サタンの謀略〉という言葉を使っているが、はたして彼はこの時、〈サタン〉をエデンの園に潜み隠れていた蛇(悪魔)と明確に認識していただろうか。鑑三の手紙の文脈で見ると、〈サタン〉は蛇(悪魔)と言うよりは、蛇の誘惑に乗って神を裏切ったエバ(タケ)のように思える。アダムは直接的に悪魔の誘惑に乗っていないが、ひとたび誘惑に乗ったエバの言葉に従って禁断の木の実を口にしているのだから、要するに同罪である。しかし鑑三の文章は、義である彼が〈タケ=悪魔〉の謀略にかかった犠牲者のようにも受け取れるのである。換言すれば、鑑三には自分とタケが同罪であるという意識が希薄なのである。もし鑑三に同罪意識があれば、タケを〈羊の皮をかぶった狼〉などと書いて一方的に責めることはなかったであろう。

 鑑三はタケとの恋愛・結婚を〈自分の情熱的な愛の奴隷〉状態として捉え、その人生上の危機を救ってくれた神に感謝している。鑑三は〈サタンの謀略〉にかかった自分の罪を悔いて、神に感謝しているが、タケに関してなんら同情を寄せていない。タケからの手紙二通を火中に投じたと平然と記している。これは鑑三がタケを自分を誘惑した〈サタン〉と見なしていた一つの証となっていよう。

 「創世記」の神は自分の命令に背いたアダムとエバの二人を同罪としてエデンの園から追放した。神は最初に悪魔の誘惑に乗ったエバだけを厳しく裁き罰したのではない。「創世記」に罪を悔いたアダムが救われたというような記述はない。鑑三の「創世記」の読み方はかなり一方的に思える

が、彼自身は大真面目に不条理の神を救いの神と見なしている。鑑三には悪魔と結託して自ら創造したアダムとエバを試みる神を邪悪と見る観点はない。鑑三は自らをヨブに重ねることはできるが、悪魔の唆しに乗って義人を試みる神に疑惑の眼差しを向けることはない。

 内村家を出て行くタケを何度も追いかけ引き留める鑑三の苦悩であれば共感できるが、子供を身ごもり出産したタケの復縁の願いを頑なに拒む鑑三には共感することはできない。タケからの手紙を下水に捨てたり、火中に投げ捨てるその行為には残酷を感じる。何度でも言うが、鑑三は自分だけ悪魔の謀略から救われて神に感謝しているが、〈不義の女〉を赦し愛したキリストの言葉に言及することはなかった。

 タケ自身の書いた日記や手紙、鑑三宛の友人たちの手紙が何一つ残されていないことはまことに残念である。これでは資料の次元で鑑三とタケの結婚と離婚を公平に論じることはとうてい不可能である。〈事実〉に迫るためには小説的想像力を発揮するほかはないが、内村鑑三研究に従事した者たちの多くは節度を越えずに無難な見解にとどまっている。研究者が研究者として限りなく公平客観的な立場を保持しようとすれば、鑑三とタケの離婚問題の深奥に踏み込んでいくことはできない。さらに研究者がキリスト教の信仰者である場合、神そのものに対する懐疑と不信はほとんど吐露されることがなく、鑑三の〈信仰〉の矛盾や欺瞞を暴いたりすることもない。鑑三は宮部金吾宛の手紙(一八八五年1月七日)で「今、生理学を学んでいる。僕はシドニー・スミスと共に、「木や草の研究よりは男や女の研究の方を好む。」」と書いているが、彼が本気で男と女の研究に突き進めば、小説を無視することはできなかったに違いない。わたしの目には当時の鑑三はワルコフスキー公爵の辛辣な皮肉に弄ばれるイワンの姿が浮かぶ。ロマン主義的熱情に駆られてシラー的真善美の世界に生きるイワンは、やがてその破綻を経験しなければならないが、鑑三はドストエフスキー文学に登場するイロニスト、無神論者の誰にも対面することなく、自らの〈秘中の秘〉を守り続けたと言える。北村透谷、志賀直哉といった鑑三に関わった小説家はドストエフスキーの文学に彼らなりの闘いを挑んでのたうち回ったが、鑑三はドストエフスキーの深遠な川に近づくこともしなかった。鑑三の信仰はドストエフスキーディオニュソス的不信と懐疑の洗礼を受けずに、表層的には確固たる信仰を保持したと言えようか。

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