随想 空即空(連載92)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー&清水正ブログ#

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随想 空即空(連載92)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

  

 鑑三は手紙で両親に対し深い感謝の意を表明している。父宜之は鑑三に家督を譲って隠居していたが、鑑三に可能な限りの教育を授けている。宜之は教育の重要さを的確に認識し、それを惜しみなく実践した。藩廃置県後、録を失った宜之は、新しい時代に適応し、国家が要請する青年の理想像を息子鑑三に託した。宜之は儒教の影響を深く受けた武士であったが、古い封建制度に固着しているような男ではなかった。宜之が鑑三の信じるキリスト教に帰依するようになったのは、単に信仰上の問題に限定されないだろう。没落した内村家の再興は家督を継いだ鑑三にかかっている。鑑三が札幌農学校キリスト教の洗礼を受けたことを純粋に信仰上の問題としてとらえるのではなく、まさにクラーク博士の「Boys, be ambitious.」(少年よ、大志を抱け)の ambitiousは〈野望〉〈野心〉をも意味している。鑑三はキリスト教信仰を基底に据えて自分及び内村家の〈野望〉を実現すべく戦い抜いた男であったことを決して忘れてはならないだろう。ambitiousを素朴に純粋に受け止めることは危険である。鑑三の「イエスを信ずる者の契約」の署名、及び受洗決意の内には無意識のうちにも宜之に代表される内村家の再興願望が潜んでいる。その意味で鑑三は神よりもはるかに父親宜之の願望に従っている。タケは鑑三の野心を充足させるために、内村家に嫁ぐことを許された存在であって、この野心に背く者は内村家より排除されるのである。おそらく、こういった点に関する認識を鑑三は明確に持ってはいなかっただろうが、タケとの離婚そのものがこのことを明確に証している。

 宮部金吾宛の手紙も見ておこう。

 

第60信(英文 封書)

 宮部金吾あて 一八八五年(明治一八年)一月七日。ペンシルベニヤ州エルウィン、ケルリン博士方にて。

 

  この国、その科学と哲学と宗教とはお互の喜びと慰めだったこの国から、この手紙を書くことをうれしく思う。怖ろしかった一八八四年は過ぎ去って、新しい年が、はるかにまさる前途の希望と共にやってきた。家を去って一万マイル、僕は今、故国におればすっかり取りかこまれているだろうと思われる怖ろしい光景に対して、つんぼになり、めくらになっている。(112)

    この人生の試練は薄い外皮に過ぎず、神の摂理はいいたるところにそれを破る。一八八四年の最後の日の夜、僕はただ一人自分の室で、自分の将来を想い、自分の過去をふり返った。去年は実に生涯中の一番きびしい年だった。大あらしに吹き飛ばされてこの地にきたり、失敗と失望にみちみちた「古き年をば鐘もて」送ったのである。第一に、自分はなんたるもろい人間なのだろう! 最善をささげて神に仕うべきだのに、なんたる大きな誤りに陥ってしまったことか! 何たる悲惨、何たる悲哀ぞ! 神よ、われをさぐりしらべたまえ。わが心は、かつて、「象牙のベッド」、あるいは「肥えたる牛」、あるいは「胡弓のひびき」にひかれしことありや。僕がこうつぶやいていた時、天来の風が心にふれて、はっきりした声が聞こえた。

   律法の要求をみたし得るものは

   なんじの手のはたらきにあらず

 と。「つぶやくを止めよ、わが魂よ」、と僕は叫んだ。「なんじは、ルーテルのごとく、なんじのわざをもってなんじ自身を義とせんと試みつつありしなり」。「信仰による義人は生きる」。「十字架上のイエスを仰ぎ見よ、彼に頼れ、彼によってなんじ自身を潔めよ、しかり、ただ彼によって」。僕は涙にむせんだ。自分の最善を試み、かつ正しい意図をもってしたのだから、自分は間違っていない、と一人で考えていた。ノー。僕は何から何まで不義だったのである。キリスト・イエスにある神の御恵みのゆえに、神に感謝しまつる。(112~113)

 

 鑑三の結婚はわずか七ヶ月で破綻した。これを鑑三は〈怖ろしかった一八八四年〉〈生涯中の一番きびしい年〉と括っている。当初タケに抱いていた肯定的なイメージはもろくも崩れ去った。〈失敗と失望〉〈大きな誤り〉〈何たる悲惨、何たる悲哀ぞ!〉これらの言葉が当時の鑑三の苦悶を端的に語っている。しかしこの苦悶の内にはタケに寄り添う気持ちはない。再三指摘しているように、鑑三はタケとの離縁の原因に自分の責任を感じることはない。どんなに自己を省みても、彼は自分の内に罪を見いだすことはできないのである。「自分の最善を試み、かつ正しい意図をもってしたのだから、自分は間違っていない」これが鑑三の素直な気持ちである。続けて彼は「僕は何から何まで不義だったのである」と記しているが、この言葉に説得力はない。鑑三は〈不義〉はタケにあり、彼自身は〈義〉を全うしたと思っているのである。鑑三は「キリスト・イエスにある神の御恵みのゆえに、神に感謝しまつる」とまで記しているが、彼はヨハネ福音書の〈不義の女〉に関していっさい触れていない。キリスト・イエスが不義の女を赦しているのに、鑑三はタケを最後の最後まで赦すことはなかった。この大矛盾、キリストの言葉と行為に背いていながら、平気で「神に感謝しまつる」などと書いて、無自覚の内に自分を〈義〉の側に寄り添わせている。この傾向は鑑三の一生につきまとっていたと見ることができる。鑑三がタケを〈不義の女〉と見なすのであれば、その〈罪の現場〉を具体的に示さなければいけない。鑑三の記述は肝心要のところを曖昧にしているので、彼の猜疑や不信、そして信仰もまた読者に体感的に伝わってこないのである。こういった記述は鑑三の苦悶煩悶の内的世界を露わにしても、それ以上に根深い欺瞞を抱え込むことになる。

 

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