随想 空即空(連載88)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー&清水正ブログ#

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随想 空即空(連載88)内村鑑三の最初の結婚と破局を巡って#ドストエフスキー清水正ブログ#

清水正

 鑑三とタケの結婚式に関しては宮部金吾と藤田九三郎宛の手紙から一八八四年(明治一七年)三月二十八日(金曜日)午後七時、池之端《長蛇亭》に於いて挙行されたことが分かる。しかし鑑三はその結婚式がキリスト教による式であったことは確かだとしても、司式者、媒酌人、参列者、式次第、など具体的な事に関しては記していない。それを知る唯一の資料は娘ノブの談話でしかなかった。鈴木俊郎は『内村鑑三伝 米国留学まで』でそれらすべてを検証し、さらに結婚式に参加していたアメリカ婦人クララ・ホイットニイの日記などに基づいて彼なりの見解を示している。媒酌人はノブの言う〈小崎弘道夫妻〉ではなく〈尾崎逸足・仲子夫妻〉、司式は札幌で鑑三に洗礼を授けた〈メソジスト・エピスコバル教会の宣教師M・C・ハリス〉でメソジスト・監督派の式を日本語でおこなったこと、〈式場の模様、参会者の顔触れ、式の進行、新郎新婦の態度、お祝いの挨拶をする客人たちの仕方など〉を明確にしている。

 わたしが問題にしたいのは、鑑三とタケがキリスト教式の結婚において、神の前で二人の愛を誓ったことである。司式者ハリスがどのような日本語で新郎新婦に誓いの言葉を発したのかは分からないが、いずれにしても鑑三とタケが神の前に永遠の愛を誓ったことに間違いはない。豊かな時も貧しい時も、健やかな時も病める時も、お互いを信頼し協力しあって、いかなる困難も乗り越えて二人の愛を全うするという思いを鑑三とタケは神に誓ったのである。タケの〈うそ〉や〈不義〉をも含めて、それは二人が乗り越えなければならなかった困難ではなかったのか。そうでなければ、神の前の〈誓い〉にいったいどういう意味があるのだろうか。破局を受け入れることは神に対する冒涜であり、だからこそ大いなる〈うそ〉ということになるのではないか。わたしはキリスト教信徒ではないが、神の前で〈誓う〉ことの恐ろしさをわたしなりに感じている。神の前で永遠の愛を誓うことの恐ろしさを鑑三もタケも本当には分かっていなかったと言わざるを得ない。

〈不義〉に関しては、イエスの言葉を想起する。ヨハネ福音書第8章に姦淫の場を押さえられた女の話が出てくる。姦淫は死罪に値する。現場を押さえた者たちは女を石打ちの刑にしようとする。たまたまその現場に居合わせたイエスは「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(8章7節)と言葉を発する。イエスの言葉を聞いた者たちは誰一人として女に石を投げることはできず、その場から立ち去っていった。イエスは姦淫の罪を犯した女を裁かずに赦している。イエスの大いなる愛と赦しの精神を端的に物語る場面である。律法に基づいて女を厳しく裁き罰しようとする者たちに対して、イエスの言葉は律法そのものを覆す力を持っていた。福音書においてイエスの発する言葉は絶対であり、相対化することは許されていない。律法の側に立つ者たちのうち誰一人としてイエスの言葉に疑義を差し挟む者はいない。彼らはイエスの言葉を従順に受け入れ、自らもまた〈罪人〉であることを認めている。しかも単に認めただけではない。彼らはこの時、律法主義から離れイエスの教えに従っている。つまり、福音書には明確に書かれていないが、彼らが姦淫の女に石を投げるのを止めたその時に〈回心〉が行われたということである。

    おそらくこの場面には途方もない大胆な省略が施されている。描かれた限りでみれば、イエスの言葉に激しく抵抗する者は一人もいなかったが、現実においてはそのようなことはあり得ない。〈ラザロの復活〉の場面を想起すればいい。前後未曾有の一大奇跡と言われる、死んで四日も経ったラザロが復活蘇生して来るその場面に立ち会った者のすべてが、イエスが神の独り子であること、イエスがこの世界に来たるべき救世主キリストであると認めたわけではない。中にはイエスを悪魔と見なすものがあり、きわめて危険な人物としてパリサイ派へと訴え出る者がある。イエスの絶対性は、〈ラザロの復活〉の場面においては容赦なく相対化の波を浴びている。姦淫の女が赦される場面の一義性には、現実から離れた虚構が支配的であり、そのまま認めることには慎重でなければならない。が、ここでは立ち入った議論はせずに、イエスの発した言葉にのみ注目したいと思う。

 姦淫の罪は、現実的な肉体関係ばかりではなく心に思っただけでも適用されるというのであれば、この罪から逃れられる者はいないだろう。だからわたしのような者は、キリスト教の言う〈姦淫の罪〉をそのまま受け入れることはできない。この罪は現実を生きる人間に対して厳しすぎるし、この罪に対し厳罰を処していたら人類は滅びてしまうに違いない。イエスは姦淫の女を赦しているが、彼の言葉は同時にこの罪を犯していない者は一人もいないということを指摘している。が、イエスは姦淫の罪自体を認めてはいない。イエスは石打ちを免れた女に二度と姦淫の罪を犯さないように忠告している。つまりイエスは姦淫が〈罪〉であることを認めた上で赦しているということになる。

    わたしは福音書で描かれたイエスを聖化することなく、一人の人間として見るから、イエスも人間である以上は〈姦淫の罪〉を犯したことがあると思っている。キリスト教の教義はイエスを父なる神がこの地上世界に派遣した独り子としているが、にも拘わらずあらゆる罪を免れた存在としている。人間は原罪を背負っているが、人間として派遣されたイエスはその原罪を免れているという、この矛盾をキリスト教徒たちはどのように説明するのだろうか。福音書を読んでわたしがイエスに胡散臭さを覚えるのは、彼が人間でありながら人間を超脱して聖化されている場面においてである。その意味でドストエフスキーの『罪と罰』は人間・イエスを考える上できわめて重要な作品である。ここでは詳しく語らないが、ロジオンとソーニャは二人ともに〈罪人〉として設定されている。ロジオンは殺人者であり、ソーニャは淫売婦である。ドストエフスキーは殺人の罪と姦淫の罪を負ったこの二人に〈キリスト〉のイメージを賦与していた。つまり、ドストエフスキーの描き出す〈キリスト〉は間違いなく罪を犯さざるを得ない人間をモデルとしている。ソーニャは〈キリスト〉を幻視することのできる〈狂信者〉(юродивая)として設定されているが、『罪と罰』の作中にキリストが誰にでも分かるような姿で登場することはなかった。ドストエフスキーの〈キリスト〉は、まずは何をおいても人間であり、人間としての喜怒哀楽を日々生きている存在として設定されており、その領域を超えることはなかった。

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