帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載34) 清水正

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帯状疱疹後神経痛と共に読むドストエフスキー(連載34)

清水正 

   ドストエフスキーは『罪と罰』のエピローグで「愛が彼らを復活させた」(Их воскресила любовь,)「思弁が命に取って代わった」(Вместо диалектики наступила жизнь,)と書いた。ここで言われている〈愛〉、〈復活〉、〈命〉をどのように理解すればいいのだろうか。まず、〈彼ら〉(Их)をソーニャとロジオンと見なした上で考えてみよう。ソーニャは淫売婦であるから〈姦淫〉の罪を負っている。が、ソーニャは罪人であると同時に狂信的な信仰者であった。この信仰者ソーニャにおける〈復活〉とはどういうことを意味するのか。またロジオンは二人の女を斧で叩き殺しておきながら遂に〈罪〉(грех)の意識に襲われることがなかった。罪意識のない犯罪者の〈復活〉とはいったいどういうことなのであろう。ロジオンは犯行後、一回でも良心の疼きに襲われたことがあっただろうか。
 確かにソーニャが言ったように、ロジオンは苦しんでいる。そのことを否定することはしまい。しかしその〈苦しみ〉は二人の女を殺したことに対する良心の呵責によるものではない。ロジオンは犯行後、自分が非凡人の範疇に属する人間ではないことを思い知った。つまりロジオンは、自分が殺した高利貸しアリョーナ婆さんよりも卑小なシラミでしかないことを認めざるを得なかった、そのことに苦しんだのである。罪の意識に襲われないままに復活の曙光に輝いてしまったロジオンは、はたしてイエスの言葉「私は復活であり、命である。私を信じる者は、たとい死すとも生き返る。また、生きて、私を信じる者は、永遠に死ぬことがない。あなたはこれを信じるか」に対して、「主よ、そのとおりです。あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」と言えたのであろうか。わたしは、ソーニャが貧しい菱形の小部屋で朗読(告白)したあの〈ラザロの復活〉の場面をもう一度、ロジオンに照明を与えて再現してもらいたいとさえ思う。ソーニャの狂信的な〈信仰〉に対するロジオンの妥協を許さぬ〈思弁〉があってこその『罪と罰』の醍醐味である。
 ドストエフスキーはソーニャの〈信仰〉の結果を余りにも都合よく描き出してはいないだろうか。ロジオンはソーニャの信じる神様はなにもしてくれないではないかと言う。これはひとりロジオンの思いではない。一家の犠牲になって淫売稼業に身を落としたソーニャに、神はいったいどのような救いの手を差し伸べたというのか。マルメラードフとカチェリーナの死後、ソーニャは残された三人の子供たちの面倒もみなければならない。やっと十歳になったポーレンカの運命も決まったようなものである。現実的な眼差しを注げば、ソーニャと三人の子供たちの運命は悲惨の一語につきる。ソーニャは神様はなんでもしてくださる、ポーレンカに自分のようなことをさせるわけはないと言う。が、『罪と罰』の世界に、ソーニャの言うなんでもしてくださる神様はついに登場しない。その意味で『罪と罰』は宗教的なファンタジー小説の部類に属することはない。『罪と罰』はあくまでもリアリズムの手法に則っており、ソーニャには視えるイエス・キリストを誰にでも認知できる存在として作品世界に登場させるようなことはしなかった。が、ドストエフスキーはロジオンの〈何もしてくれない神様〉とソーニャの〈何でもしてくださる神様〉の問題を、〈思弁〉と〈信仰〉の次元からずらして、別の方向へと舵を取ってしまった。
 ドストエフスキーは〈何でもしてくださる神様〉を作中に登場させる代わりに、〈ラザロの復活〉の朗読場面を隣室で立ち聞きしていたスヴィドリガイロフ(Свидригайлов)にその役目を背負わせている。〈ラザロの復活〉という前後未曾有の一大〈奇蹟〉(чудо)の〈立会人〉(свидетель)であった得体の知れない〈怪物〉(чудо)に〈現実的に奇蹟を起こす人〉(чудотворец)の役割を演じさせた。スヴィドリガイロフはソーニャを淫売稼業の泥沼から救いだし、カチェリーナの連れ子三人を養護施設に預けた。とりあえずめでたし、めでたしである。が、このスヴィドリガイロフの善行で「何でもしてくださる神様」の存在を認めることができるのだろうか。『罪と罰』の中で、スヴィドリガイロフのこの善行をめぐってソーニャとロジオンが表だって口にすることはない。
 スヴィドリガイロフは死んだ妻マルファの〈幽霊〉(привидение)を視ることができる。この〈привидение〉を〈провидение〉と書き換えると〈神〉となる。マルファ(Марфа)は、ラザロの復活の場面でイエスに面と向かって「あなたがこの世にきたるべきキリスト、神の子であると信じております」と応えたマルタを意味する。スヴィドリガイロフがソーニャたちに施した金はもともとマルファのものである。すると、マルファがスヴィドリガイロフの手を通して何でもしてくださる〈神様〉(провидение)の役を演じたと言えないこともない。が、いずれにしても、こういった設定はリアリズムの圏外に属する。ドストエフスキーが『罪と罰』で描いたスヴィドリガイロフのソーニャに対する善行(奇蹟)は余りにもファンタジー過ぎる。このファンタジーを信じることはソーニャの狂信を信じることと同様に困難を極める。
 わたしは改めてソーニャにおける〈救い〉を問題にしたいと思う。

 

   ドストエフスキー文学に関心のあるひとはぜひご覧ください。

清水正先生大勤労感謝祭」の記念講演会の録画です。

https://www.youtube.com/watch?v=_a6TPEBWvmw&t=1s

 

www.youtube.com

 

 「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

 

 https://www.youtube.com/watch?v=KuHtXhOqA5g&t=901s

https://www.youtube.com/watch?v=b7TWOEW1yV4