清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載9

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載9

 

 

 最後に〈めす馬殺し〉の場面で連想されるのは、十字架上で六時間の苦痛の末に息絶えたイエスである。ピラトに鞭打たれ、ユダヤ人に引き渡されたイエスは唾をかけられ、嘲られ、十字架を背負ってゴルゴタの丘をのぼり、処刑された。イエスは三日後に復活したと伝えられているが、ドストエフスキーが『白痴』の中で描いた十字架から下ろされたキリストは復活をまったく感じさせない恐るべき死体でしかなかった。

 ハンス・ホルバインが描いた「死せるキリスト」は、生前死者(ラザロ)をも蘇らせたイエスのその前後未曾有の一大奇蹟をすら嘲笑うかのように死の勝利を揺るぎなく宣言している。自然は〈神の子〉イエスをすら微塵の容赦もなく死の淵へと突き落とし平然としている。

 『白痴』のイッポリートも作者ドストエフスキーも人間の死に直面して戦慄しているのではない。彼らはあくまでも十字架から下ろされたイエス・キリストのその死体、復活などとうてい信じられないその無惨な死体に慄いている。なぜなら彼らはイエスを〈神の子〉、父なる神から地上の世界へと人間の姿を借りて降臨した存在であるというキリスト教の教義を受け入れていたからである。彼らにとってイエスは単なる慈悲深い人の子にとどまっていてはならなかった。イエスは人間なら誰しも受け入れなければならない〈死すべき存在〉としての運命を甘受するだけでなく、死をも超えた永遠の命を約束する存在でなければならなかったのである。しかし、理性と知性を身につけた近代人にイエスの〈神の子〉を純朴に信じることほど困難なことはない。自然は人間に限らずあらゆる生物の誕生と死をいっさいの感情抜きで司っている。〈神の子〉も〈父なる神〉も人間の願望、欲望を反映しているが、自然は人間を特別視することはない。イワン・カラマーゾフは神に地上世界における公平・真理・正義の体現を要求し、そのことがかなわずに神に抗議して発狂する。が、イワンが神に求めた〈公平・真理・正義〉は人間の次元を一歩も超えていない。自然は人間を含めたあらゆる現象界においてそれらを永遠の沈黙のままに体現している。ドストエフスキーが創造した信仰者と人神論者に共通しているのは、この自然とのすべき融合がなかったことである。イッポリートはあらゆるものを情け容赦もなく呑み込んでしまう冷酷な巨大な機械の如きものとして自然をイメージしている。が、それは自然の一側面を誇張しているに過ぎない。自然はあらゆるものを呑み込むが、同時にあらゆるものを生み出している。自然は個別的な〈死〉を突出させない。自然は人を〈単なる人〉や〈神の子〉などと区別しない、否、人に限らずあらゆる生物、物質に対して常に公平である。

 『罪と罰』において神と自然がことさら問題になっているわけではない。ロジオンは神と人間(特に非凡人)のことに関しては頭を悩ましたが、結果として彼は〈理性と力の意志〉をもって生きる非凡人を返上しソーニャの信仰に与することになった。作者はエピローグにおいて〈思弁〉(диалектика)の代わりに〈命〉(жизнь)が到来したと書いて、ロジオンが復活の曙光に輝いたことを保証する。が、わたしのような読者は、作者の言葉にそのまま同意することはできない。夢の中で〈めす馬殺し〉に誰よりも悲憤を感じた七歳のロジオンが、十六年後、舞台をリャザン県ザライスクの片田舎から首都ペテルブルクに変えて、今度は現実の加害者となる。ロジオンが斧で殺した〈めす馬〉はアリョーナ婆さんとリザヴェータの二人だが、シンボリックな次元では先に示したようにロジオン自身も、ソーニャも、カチェリーナも、プリヘーリヤも、皇帝も、神も、殺しの対象となる。作者は「本当にわたしはアレができるのだろうか?」と書いて〈アレ〉の多義的な意味を意図的に曖昧にすることで編集者や検閲官の目をたぶらかすことに成功した。が今や〈アレ〉を〈アリョーナ婆さん殺し〉に限定したり、多義的な意味を曖昧に処理することは許されない。ロジオンが振り上げた斧はまず最初に自分自身の額を、次いでアリョーナ婆さん、次いでリザヴェータ……そして最後には神の額を叩き割ることになっていた。『罪と罰』の中でロジオンが明確に意識化できたのは〈アレ=アリョーナ婆さん殺し〉まてであったが、作者ドストエフスキーの内ではもちろん〈神殺し〉まで視野に入っていたと見ることができる。

 そこで改めて『罪と罰』における〈神〉とはなんであったのかということが問題になる。繰り返しを恐れず簡単にまとめておこう。まずソーニャの信じる〈神〉(бог)がある。この〈神〉はソーニャの傍らに顕れるが話しかけたりソーニャ以外の人間に見えることはない。次に〈ラザロの復活〉朗読場面で〈立会人〉(свидетель)となっていたスヴィドリガイロフである。彼は単なる〈奇蹟〉(чудо)の立会人にとどまることなく、〈現実に奇蹟を起こす人〉(чудотворец)としての〈神〉(провидение)でもあった。ソーニャは現実に奇蹟を起こす神スヴィドリガイロフによって淫売稼業の泥沼から救い出され、ロジオンをシベリアにまで追っていくことができた。しかし、ロジオンは狂信者ソーニャの信じる〈神〉に最終的に帰依したが、その途上で奇蹟を起こしたスヴィドリガイロフに思いをいたすことはなかった。「ヨハネ福音書」の中のイエスは死んで四日もたったラザロを復活させたが、『罪と罰』の中の〈神〉はその姿を万人の前にさらすこともなければ、神の子であることを証明するための奇蹟を何一つ行うことはなかった。ソーニャの信じる〈神〉(бог)は現実の世界で奇蹟を起こした〈神=スヴィドリガイロフ〉(привидение)ではなかった。ロジオンはスヴィドリガイロフの奇蹟によってソーニャと共に愛によって復活することができたが、чудотворец、привидениеとしてのスヴィドリガイロフを真っ正面に見据えることはなかった。