清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載10

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。

動物で読み解く『罪と罰』の深層

 

清水正

■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載10

 

 

 作者はエピローグにおいて「彼が自分の犯罪を認めたのは、それにもちこたえることができず、自首して出たその一点においてであった」(下・391)〔Вот в чем одном признавал он свое преступление: только в том, что не вынес его и сделал явку с повинною.〕(ア・417)と書いている。ここで〈犯罪〉と訳された〈преступление〉は〈過ち〉ぐらいの意味で受け止めた方がわかりやすい。ロジオンはアリョーナ婆さんとリザヴェータの二人を殺害しており、この行為が〈犯罪〉(преступление)であることはロジオンが認めようが認めまいが事実として変更しようがない。作者はロジオンにおける〈過ち〉は〈自首して出たその一点〉としているが、わたしに言わせればそれは〈自首〉ではなく、〈殺人を犯してしまったその一点〉にある。

 ラズミーヒンの証言によれば、大学在籍中のロジオンは貧しい肺病の学友を半年にわたって金銭的にも援助し、その学友が死んだ後は、彼の年老いて衰弱した父親を病院に入院させ、彼が死ぬと葬式まで出したやっている。また下宿の女将プラスコーヴィヤによれば、ある夜、火災が起こった時にロジオンは我が身の危険をもかえりみず、火事場に飛び込んでふたりの幼い子供を助け出している。エピローグにおいて語られた自己犠牲的な行為を惜しまない大学生ロジオンは、夢の中で〈めす馬殺し〉に悲憤を感じて激しく非難と抗議の声をあげる七歳のロジオンとみごとに重なる。ロジオンは貧困、病気、虐待に苦しむ者に深い憐憫の情をもって寄り添うことのできる、マルメラードフの言葉で言えば〈ものに感じる心〉をもった教養のある青年なのである。だからわたしたちは何度でも同じ疑問の前に佇むほかはない。なぜロジオンのような心優しい青年が二人の女の頭上に斧を振り下ろすことができたのか、なぜロジオンはこの殺人行為に〈罪〉(грех)を感じることができなかったのか、と。

 まずロジオンの学友とその父親に対する援助について考えてみよう。ロジオンは年金百二十ルーブリで生活していかなければならない母親プリヘーリヤの仕送りを当てにしなければ、学費も下宿代も支払いが困難な状況下にあった。家庭教師の賃金などではとうていペテルブルクでの学生生活をまかないきることはできない。ロジオンは下宿の娘ナタリアと婚約し、女将から百十五ルーブリもの金を借りている。ロジオンの金銭感覚は苦学生としてのバランス感覚から大いにはずれている。上京してすぐにドイツ製の山高帽子などかぶってネフスキー通りを貴族青年気取りで散策しているようなロジオンは、自分が置かれている現実を的確に把握しているようには思えない。ふつうの想像力を持っていれば、母親に法外な金の送金を求めたり、婚約者の母親に借金を申し込むことの非常識なまねはしなかっただろう。病身の学友とその父親に対する援助は、それがいくら献身的な善行とは言え、自分の分をわきまえぬ者の軽率な行為とも言えるのである。ドイツ製丸型帽子から婚約、借金、学友への援助まで、ロジオンの行動は分をわきまえぬ行為であり、彼のこの性向が〈アレ〉(アリョーナ婆さん殺し)へと向かわせた最大の要因とも言える。もしロジオンが貧しい屋根裏部屋の空想家、将来の有望な小説家や学者を夢見て努力する苦学生であったならば、〈アレ〉は〈幻想〉

(фантазия)、〈玩具〉(игрушка)の域を逸脱することはなかっただろう。ロジオンは一人の〈凡人〉として、地道な苦学生として生きる途からはずれてしまった。それはロジオンが自分を〈非凡人〉と見なしたいという、分をわきまえぬ思いにとらわれた結果であり、その思いを増長させていたのが教育ママのプリヘーリヤである。プリヘーリヤもまた自分の分をわきまえずに、息子のロジオンに過剰な期待を寄せてしまった。二百年の歴史を刻むラスコーリニコフ家を再建し、ラスコーリニコフ家の杖となり柱となるという、プリヘーリヤが息子に与えた使命は、ロジオンが引き受けるには余りにも大きすぎる〈荷馬車〉だったのである。この文脈からすれば、ロジオンは殺された〈めす馬〉であり、プリヘーリヤは殺したミコールカとなる。

 もう一度、〈めす馬殺し〉の夢の場面を振り返ってみよう。

 

 酒場の入口の階段のわきには荷馬車が一台、それも奇妙な荷馬車がとまっていた。それは、大きな運送馬を何頭もつけて、商品や酒樽を運ぶのに使う大型の荷馬車だった。少年は、たてがみの長い、足の太い、たくましい運送馬が、せかず焦らず規則正しい足どりで、山のように積みあげた荷を引いていくのを見るのが大好きだった。馬たちの様子には少しもへこたれたところなどなく、荷がないよりは、荷のあるほうが楽だといわんばかりである。(上・118~119)

 

 プリヘーリヤもロジオンも共に望んだのは〈大型の荷馬車〉を「せかず焦らず規則正しい足どりで」楽々と引いていく〈たてがみの長い、足の太い、たくましい運送馬〉であった。が、現実は見てのとおり、ロジオンもプリヘーリヤも老いさらばえた〈めす馬〉の運命を生きなければならなかった。ロジオンは〈たくましい運送馬〉、〈良心に照らして血を流すことが許された非凡人〉にはなれなかった。ところで、自分の分をわきまえずに殺人を犯してしまったロジオンの〈信仰〉を、本当に分をわきまえたものと見ることができるのだろうか。『罪と罰』の〈殺人〉から〈復活〉に至る物語は、分をわきまえた者から見れば、一編の真夏の夜の夢でしかないのである。