清水正 動物で読み解く『罪と罰』の深層■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь) 連載7
「池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」
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https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc
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清水正への講演依頼、清水正の著作の購読申込、課題レポートなどは下記のメールにご連絡ください。
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これを観ると清水正のドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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「江古田文学」100号(2019-3-31)に掲載した「動物で読み解く『罪と罰』の深層」(連載4回)を数回にわたって紹介する。
動物で読み解く『罪と罰』の深層
■〈めす馬〉(кляча.кобыла.саврас.лошадь)
連載7
ロジオンの第二の犯行、目撃者として現れたリザヴェータ殺しを見てみよう。
部屋のまんなかに、大きな包みを手にかかえたリザヴェータがつっ立ち、茫然自失したように殺された姉を見つめていた。顔は布きれのように青ざめ、悲鳴をあげる力もないらしかった。走りでてきた彼を見ると、彼女は木の葉のように小刻みに震えはじめ、顔じゅうに痙攣が走った。片手をもちあげ、口を開きかけたが、やはり叫ぶことはしなかった。そして、そのまま彼の顔を穴のあくほど見つめながら、部屋の隅のほうへのろのろと後じさって行った。悲鳴をあげようにも空気が足りないといったふうで、あいかわらず声ひとつ立てなかった。彼は斧をかざして彼女にとびかかって行った。彼女の唇は、ちょうどごく幼い子が何かにおびえ、その恐ろしいものをじっと見つめながら、いまにも泣きだしそうになるときのように、いかにも哀れっぽくゆがんだ。そのうえ、この哀れなリザヴェータは、斧を頭上にふりあげられているというのに、手をあげて自分の顔をかばうという、このさい、ごく自然に必要な身振りさえしようとしなかった。それほどに単純で、いじめつけられ、おどしつけられていたのだ。彼女は、空いているほうの左手をほんのわずかもちあげたが顔まではとてもとどかなかった。そして、彼を押しのけようとでもするつもりか、その手をのろのろと前に差しのべた。斧の刃はまともに頭蓋骨にあたり、一撃で額の上部をこめかみのあたりまでぶち割った。彼女ははげしくその場に倒れた。ラスコーリニコフはすっかり度を失い、彼女の包みをひったくったかと思うと、またそれを投げすて、玄関の間に走りこんだ。(上・165~166)
ロジオンはこの第二の殺人、リザヴェータ殺しを〈まったく予期しなかった殺人〉〔совсем неожиданного убийства〕と思っている。ロジオンが予定していたのはアリョーナ婆さん殺しのみであって、リザヴェータの出現はまったく予想外であったというわけである。この〈第二の殺人〉を予期しなかったのはロジオンで、もちろん作者はこの殺人を自覚的に描いている。ドストエフスキーの小説家としてのしたたかさは、『オイディプス王』を書いたソフォクレスに匹敵する。誰一人解けなかったスフィクスの謎を解いた英知の人オイディプスは父親殺しと母親との契りに関しては驚くべき愚鈍ぶりを発揮している。つまりソフォクレスがそのように描き分けているということである。犯罪に関する論文を投稿して採用されるほどの英知の人ロジオンが、ことリザヴェータ殺しに関してはまったく想像力も直観も働かない愚者を演じさせられているということである。
ロジオンは偶然センナヤ広場でリザヴェータと古着屋の女房との会話を耳にする。女房は明日の〈第七時〉(六時から七時)にアリョーナ婆さんには内緒で出かけてくるように言う。この〈第七時〉を午後七時と思いこんだロジオンはまさに〈悪魔〉(черт)のかどわかしに乗ってしまったと言えるが、その〈悪魔〉を派遣したのが作者ドストエフスキーに他ならない。ロジオンの〈踏み越え〉(преступление)は〈アリョーナ婆さん殺し〉にとどまってはならなかったからこそ、作者はロジオンの〈踏み越え〉を〈アリョーナ婆さん殺し〉とは書かずに〈アレ〉と書き、〈第七時〉を〈七時〉と思い込ませるのである。リザヴェータ殺しの現場を直視すれば分かるように、ロジオンは〈まったく予期しなかった第二の殺人〉において微塵の躊躇も見せていない。ロジオンは自分の確固たる意志でリザヴェータの額を叩き割っている。これは見ようによっては、「良心に照らして血を流すことが許されている」などという理論を超えて、ロジオンは実に恐ろしいことをしでかしてしまったということである。ロジオンはリザヴェータ殺しに関して何ら理論的な正当化をしていないし、そもそもリザヴェータのことをまともに思い出しもしない。しかし、理不尽な〈めす馬殺し〉に捨て身で抗議をしたロジオンが、よりによって哀れなリザヴェータを躊躇なく叩き殺してしまったのだ。ロジオンは〈めす馬殺し〉のミコールカよりもはるかに残酷で理不尽な殺しの張本人となったのだ。いっさいの弁明をしないロジオンの罪は深いが、作者は最後まで無罪意識のままのロジオンを復活へと導いていく。いったいどういうことだ。作者にはすべてが許されているのか。
世界の不条理、悲しみや苦しみに誰よりも敏感に反応し、抗議と悲憤の叫び声をあげるロジオンが、二人の女の頭を斧で叩き割ってしまう。この二人の女の殺害現場を夢の中に登場した七歳のロジオンが目撃していたとすれば、どのような叫び声を発しただろうか。二十三歳のロジオンは七歳のロジオンの叫び声にどのように答えるのか。七歳のロジオンは〈めす馬殺し〉のミコールカを赦すことはできなかっただろう。はたして七歳のロジオンは二人の女を殺したロジオンとどのような折り合いをつけるのか。 商家の女将からの恵みの二十カペイカ銀貨を放り捨て、アリョーナ婆さんが身につけていた二つの十字架を彼女の胸に投げ捨てた殺人者ロジオンが、ネワ川の底に沈んだ二十カペイカ銀貨を探し出すこともなく、アリョーナ婆さんの血にまみれた十字架を浄めることもなく、どうして復活の曙光に輝くことができるのか。無罪意識のままの殺人者ロジオンとスヴィドリガイロフの善行によってシベリアにまでロジオンを追ってこられたソーニャを復活の曙光に輝かせた《愛》(любовь)とは……。