文学の交差点(連載3)ドストエフスキー文学の形而下学 『罪と罰』――描かれざる性愛場面

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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文学の交差点(連載3)

清水正

ドストエフスキー文学の形而下学

罪と罰』――描かれざる性愛場面

 

   わたしはここ十年ほど『罪と罰』にこだわり続けている。五大作品のうち、わたしが批評していて最も飽きがこないのが『罪と罰』なのである。近頃、わたしの批評の眼差しは作品に描かれていない場面に注がれている。その多くの場面は性的場面である。十九世紀ロシアの検閲は露骨な性的描写を禁じていたため、ドストエフスキーの作品に性的場面が直に描かれることはなかった。マルメラードフと後妻のカチェリーナ、ロジオンの下宿の女将プラスコーヴィヤと情夫チェバーロフ、同じくプラスコーヴィヤとラズミーヒン、ドゥーニャとスヴィドリガイロフ、ソーニャとイワン・アファナーシィエヴィチ閣下、ロジオンの母親プリヘーリヤとアファナーシイ・イワーノヴィチ・ワフルーシン、ロジオンとソーニャ‥‥など人物間の性的関係の場面は暗示的に描かれるか、巧妙に隠されている。特にソーニャとイワン閣下、ソーニャとロジオン、プリヘーリヤとアファナーシイとの関係などは未だに多くの読者に隠されたままである。これらの指摘を初めて眼にする者は衝撃を受けるか、納得せずに反発すら覚えるかもしれない。]

 

『貧しき人々』の形而下学

 ドストエフスキー文学の特質性を二つあげろと言われれば〈сострадание〉(同情・憐憫・共苦共感)と〈разврат、сладострастие〉(淫蕩・情欲)ということになる。ドストエフスキー文学において希代の淫蕩漢と言えば『カラマーゾフの兄弟』のフョードル・カラマーゾフということになるが、それ以前にも『悪霊』のニコライ・スタヴローギン、『白痴』のロゴージン、『罪と罰』のスヴィドリガイロフなどをあげることができる。しかしここにあげた人物に限らず、処女作『貧しき人々』のマカール・ジェーヴシキンからして淫蕩漢だっと言える。人間が人間である限り〈肉欲〉から解放されることはない。初老の万年九等官マカールが二十歳ばかりのうら若き乙女ワルワーラにどのような肉欲を感じていたのか。マカール自身はもとより、作者ドストエフスキーもまたそういった点に関しては詳らかにしてはいない。

 小説はその行間を読むことに醍醐味がある。ドストエフスキー文学の場合など、行間をのぞき込むとそこにいくつもの描かれざる物語が見えてくる。『貧しき人々』における描かれざるワルワーラとブイコフに照明を当てれば、そこに衝撃的な〈事実〉が隠されていたことに気づかざるを得ない。従来この処女作はずいぶんと初な読み方がされていた。ヒロインのワルワーラは貧しく薄幸な〈処女〉と見なされていた。どうしてこんな初な読み方がまかり通っていたのか不思議だが、要するに評論家や翻訳家が初であったのだろう。  『貧しき人々』を読み込めばワルワーラが〈処女〉であったはずはない。ワルワーラはすでに何回か淫蕩な地主貴族ブイコフと肉体関係を持っていたと見るほうがしぜんである。なぜ海千山千の淫蕩漢ブイコフがよりによってワルワーラに執着したのか。単純に考えれば、ワルワーラのナニがブイコフを虜にしたということである。ワルワーラ自身は「わたしが受けた侮辱を贖うためにはブイコフ氏と結婚するしかない」と書いている。ロシアの文芸評論家エルミーロフはワルワーラとブイコフの結婚は、ワルワーラにとって人生の墓場を意味すると書いたが、これなどは公式的な見解で、要するに人間というものが分かっていない。ワルワーラという女のしたたかさや、今のところまったく顕在化していないとも言える野心など、エルミーロフには分かっていない。ドストエフスキーが二十三、四歳ぐらいで執筆した『貧しき人々』に描き出された〈人間〉を、発表当時の批評家ベリンスキーはもとより、大半の読者が見逃したと言ってもいいだろう。

 ドストエフスキーの青春期の恋愛体験については具体的になにも分かっていない。が、彼の描いたワルワーラという女性が、初な男性のロマンチシズムなど瞬く間に乗り越えていくリアリストであったことに間違いはない。現実のドストエフスキーが生身の女にどのような苦汁を呑まされたのか、興味は尽きないが、彼の青春期の恋愛は依然として闇に包まれたままである。

 わたしたちが知ることのできるドストエフスキーの〈恋愛〉は、彼が『貧しき人々』で成功して、ペテルブルク文壇に登場してからである。まず彼はパナーエフ夫人にのぼせ上がって、その熱烈な思いを兄ミハイルに書き送っている。そこには病的と思えるほど自己中心的な感情の爆発が見える。パナーエワが人妻であることなど微塵も考慮しない。自分の才能に酔った異様にプライドの高い神経質な青年ドストエフスキーは文壇サロンに集まった上品な文学者の嘲笑愚弄の的になってしまうが、彼らだけを責めるわけにはいかないだろう。

 ドストエフスキーは良くも悪くも周囲の者たちと協調関係を取り結ぶことができない。ドストエフスキーの才能をいち早く認めて、彼を文壇サロンの一員として迎え入れたベリンスキーですら、彼と決別するのに何年もかからなかった。『貧しき人々』を誰よりも高く評価したベリンスキーであったが、第二作『分身』に関しては評価に迷いが生じている。そして第四作『おかみさん』にいたってはきっぱりと評価の旗をおろしてしまった。当時若くして大批評家と称されたベリンスキーですらドストエフスキーの大天才を理解し許容することはできなかった。ドストエフスキーの文学はベリンスキーの批評美学の範疇に収まることはできなかっったのである。第三作目の『プロハルチン氏』は別として、『分身』や『おかみさん』の狂気を理解するためには、大げさではなく百年以上の歳月を必要としたのである。