文学の交差点(連載4) 『好色一代男』をめぐる雑談

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
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文学の交差点(連載4)

清水正

好色一代男』をめぐる雑談

    八巻五十四話からなる長編『好色一代男』(天和二年・一六八二)は、小説家西鶴の処女作であるとともに、好色本のルーツでもある。内容は主人公・世之介の一代記で、とりわけ巻五以降の後半は、親の遺産二万五千貫目(約五百億円)を相続して大大大大尽になった世之介の遊郭ルポとして楽しめる。三十四歳の世之介は、その金力と体力にものいわせて高名な遊女を残らず自分のものにしようとする。その結果、三都を中心とした諸国遊郭の名妓列伝が展開するのである。(浅沼博『西鶴という俳人』52)

 

 暉峻康隆は世之介が父親から相続した二万五千貫目を二百五十億円と換算している。これは暉峻康隆が訳編『好色一代男』を出版した時と浅沼璞が『西鶴という俳人』を出版した時が違うためである。三百年前の貨幣価値を現代に正確に換算することはもともと無理なことであるが、無理を承知で換算すればこのようになる。暉峻と浅沼の換算額は倍の開きがあるが、金額が想像を絶する大金なので二百五十億という差額もさして気にならない。
 大学の授業で二十歳前後の受講生に「世之介が相続した金は、今の金額にしてどのくらいか」と聞くと「十万円」という冗談かと思うほどの低額から、「百万円」「三千万円」「一億円」「十億」、さらに「一兆円」というファンタジックな高額の答えが返ってくる。要するに学生たちは世之介の遺産相続金を具体的に想像することができない。否、これは学生に限ったことでもないだろう。スナック、キャバクラ、クラブ、フウゾクに通っている遊び人ですら的確に言い当てることはできないだろう。西鶴の愛読者ですら、特別な関心を持っていなければ読み過ごしてしまうかもしれない。
 いずれにしても、西鶴時代の貨幣を現代に換算することで世之介の女遊びは生々しい具体性を獲得する。世之介が二万五千貫目の遺産を継いだのは三十四歳の時である。


    西鶴の生涯は不明な点が多く、確かなことは分かっていない。妻があり子供があったことは知られているがその具体は知られていない。年譜によれば、西鶴が三十四歳の時に妻が二十五歳で亡くなっている。子供が三人いたとなっている。が、妻がどういう名前か分からず、西鶴と幼なじみと言われているが、どこでどのように知り合ったのか分からない。
 三人の子供のうち二人は男の子供、一人は女の子で盲目であった。息子二人は養子に出され、娘は西鶴と生活を共にする。なぜ息子二人を養子に出したのか。西鶴と盲目の娘がどのような生活を送ったのか。子供たちの名前すら分からないし、養子先も不明、ましてや養子に出された息子たちがどのような思いを抱いていたのかまったく分からない。
 西鶴は五十二歳で死んでいるが、その前年に娘が死んでいる。西鶴は妻が死んだ後、再婚せず、十八年後娘が死ぬと一年もたたずに死ぬ。不明な点が多い西鶴の生涯であるが、わたしの胸に伝わってくるのは、妻を亡くした悲しみ、娘を亡くした悲しみである。深い悲しみを内に抱え込んだ男の、いわば〈感情の爆発〉(ロシア語でнадрыв、この感情がドストエフスキーの主要人物たちに賦与されている)が異常なほどの量の俳句をはきだしと思われる。
 また『好色一代男』に始まる浮世草紙(小説)に描かれた人物たちに注がれたまなざしには運命を率直に受け入れる諦念がある。この諦念には三人の子供と夫西鶴を残して死んでいった妻の無念もこもっている。西鶴の人間に向けられたまなざしには、ドストエフスキーの人神論者に見られる絶対者に対する反抗反逆はない。あるがままの人間、生きるようにしかいきられない人間の諸相をあるがままに認めるそれである。


   十何年か前から江古田の中華料理店「同心房」を主な舞台として金曜会を主宰している。メンバーは日芸で教鞭をとる文芸批評家、マンガ家の講師たちや学生で、アルコールが入った分だけ教室では聞くことのできないオモシロイ話が飛び交うことになる。先日の金曜会は常連の講師三人とわたしの、男だけの席であったので、遠慮のないシモネタ文学論を展開することになった。ちなみに三人の先生方は現在七十歳である。三人ともに今まで西鶴を読んだことはないということであった。
「『好色一代男』の主人公世之介は七歳頃から女遊びをはじめ、親からは勘当されていたが、三十四歳の時に父親が死に財産を受け継ぐことになった。さて世之介は今の金にしていくらぐらいの遺産金をもらうことになったか」学生に聞いたことと同じ質問をする。「三億」「十億」「三十億」人生七十年を積み上げてきた先生方の考えに考えた末の答えである。「正解、五百億」この答えで一人は深く溜息をもらし、一人はいつもと同じく感情を表に出さず、一人は体をのけぞらせて「ええっ!」と低く叫声を発する。
 これでつかみはオッケー。「ところで世之介、七歳から六十歳まで何人の女と契りを結んだか」三人ともに七十年の人生を振り返り、様々な思いと計算をもとに「十人」「五人」「一万五千人」。期待を持ったリアリズム、リアリズムそのもの、そしてファンタジーの答え。いつの世でも男の思いは同じ。
 さて、使いきれないほどの遺産金を手に入れた世之助の生き方に微塵のブレもない。ここに世之介の世之介たる所以があり三百年の時空に耐えうる魅力がある。世之介の好色人生が突きつけてくるのは意外に切実である。人間から好色の要素を抜き去ったらもはや人間とは言えない。これは千年前の光源氏から百五十年前のドストエフスキー文学に登場する人物まで例外はない。
 さて、使いきれない大大大金を手に入れた時に、はたしてどのような生き方を選ぶかである。世之介の郭通いに説得力があるのは、彼が金の保証がないときも、有り余る保証ができたときにも、そこになんら心の変化がなかったことにあろう。動揺しない生き方、一途な生き方にはどこか善悪の判断を越えた説得力がある。世之介にしかわからない女の魅力があり、かけがえのなさがある。
 思わぬ大大大金を得て、政治的野望を遂げようとする者があり、金に関係なく自らの使命を全うしようと思う者がある。ドストエフスキーは人間の神秘を解きあかすべく生涯を通して小説を書き続けた。『未成年』の主人公アルカージイ・ドルゴルーキイは世界一の金持ちロスチャイルドになることを望んだ。その願望の究極は「平穏な力の意識」を獲得する事にあった。ということは別にアルカージイはロスチャイルドになる必要はない。山寺に籠もって禅修行に励んでもいいし、武道をきわめて平静な力の意志の境地に達することもできる。