文学の交差点(連載5) 『源氏物語』が面白い ドストエフスキーと言えば『罪と罰』

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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https://youtu.be/RXJl-fpeoUQ

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。
https://www.youtube.com/watch?v=MlzGm9Ikmz

文学の交差点(連載5)

清水正

源氏物語』が面白い
     金曜会の常連メンバー三人は七十歳(平成29年2月現在)、わたしは彼らより二つ年下である。いずれにしても人生のなんたるかをそれなりに知り尽くした爺さんたちには違いない。酒を飲みながらたわいもない戯れ言を交わしていても、世之介死後十年を生きてきた謂わば人生の強者たちである。世の無情もはかなさも存分に体感している。
 わたしはドストエフスキーを五十年読み続けてきて、今『源氏物語』がかくべつに面白い。いったい『源氏物語』のどこに惹かれるのか。書き続けることで徐々に判明していくにちがいないが、今言えることは『源氏物語』にドストエフスキーと並ぶ、あるいはそれ以上に人間が描かれているということである。


 ドストエフスキーは十七歳の時に兄ミハイル宛の手紙で「人間は謎である。その謎を解くために生涯を費やしても、時を空費したとは言えません」と書いた。そしてドストエフスキーは『貧しき人々』から最晩年の『カラマーゾフの兄弟』に至るまで、小説を書くことで人間の謎に挑戦し続けた。
 ドストエフスキーの描く人物たちは〈淫蕩なる人々〉である。この淫蕩な人間たちに宿る同情、残酷、狂気、信仰、不信などが極端な形をとって描かれる。


ドストエフスキーと言えば『罪と罰
 『罪と罰』と言えばラスコーリニコフでありソーニャである。ところが何十年にもわたって『罪と罰』を読み続けてくると、注目する人物も異なってくる。ラスコーリニコフよりもはるかにスヴィドリガイロフやポルフィーリイ予審判事の方が興味深いし、惹かれる女性人物もソーニャからドゥーニャへ、さらに下宿の女中兼料理人のナスターシャへと移っていく。
 作者はソーニャやドゥーニャに対しては多くのページをさいて描いている。家族関係や年齢はもちろんのこと、彼女たちの内面に関しても多くの情報を読者に与えている。が、女中ナスターシャに関しては、屋根裏部屋でのラスコーリニコフとの対話を通してのみ彼女の性格を想像するしかない。ナスターシャの家族、年齢、給金、その他彼女の日常生活のほとんどすべてが報告されていない。にも関わらず、描かれた限りで見てもナスターシャという女性は、わたしにとっては魅力的である。
 わたしが初めて『罪と罰』を読んだときは二十歳前で、まるで自分がラスコーリニコフであるかのような気分であった。当然最も惹かれた人物はソーニャで、彼女が信じる神の問題は重要であった。ところが齢を重ねるにつれ、ソーニャという狂信者は徐々にリアリティを失い、それに代わってラスコーリニコフの美しい妹ドゥーニャが魅力的に思えてきた。が、このプライドの高い美女が俗物のルージンと婚約したり、スヴィドリガイロフではなくラズミーヒンを選んだりしたことが余りにも愚かしく思えてきた。狂信者ソーニャと誇り高き美女ドゥーニャに代わって台頭してきたのが女中ナスターシャであった。
 この一見平凡などこにでもいるような女のどこに魅力を感じたのか。それはラスコーリニコフが、考えていることが仕事だと口にしたとき、いきなりナスターシャがからだ中をふるわせて笑いだしたことにある。日本の詩人や評論家、研究家はラスコーリニコフの〈考えていること=仕事〉に注目する余り、ナスターシャの健全な反応を見逃してしまった。
 ラスコーリニコフは自分の〈考え〉に従って二人の女の頭に斧を振り下ろした。が、この冷酷な殺人者は最後の最後まで自分の〈犯罪行為〉(преступление)に〈罪〉(грех)の意識を持つことはなかった。驚くべきことに、作者はこの無罪意識に苦しむ殺人者を元淫売婦ソーニャと共に〈愛〉(любовь)によって復活させている。『罪と罰』の世界では淫売婦と殺人者が復活の曙光に輝き、淫売稼業の現場と殺人の現場は忘却の彼方へと押しやられてしまう。
罪と罰』の読者のいったい何人が、殺された老婆アリョーナとリザヴェータを思い起こし哀悼の意を示すだろうか。淫売婦ソーニャの罪の現場は完璧に封印され、その狂信的な信仰によって聖化される。ラスコーリニコフもまた犯した殺人よりも、殺人による〈苦悩・受難〉(страдание)によって聖化される。