文学の交差点(連載23)■『源氏物語』における描かれざる重要場面  ――光源氏における〈アレ〉とロジオンの〈アレ〉――

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載23)

清水正

■『源氏物語』における描かれざる重要場面

――光源氏における〈アレ〉とロジオンの〈アレ〉――

 ロジオン・ラスコーリニコフは「わたしに本当にアレができるだろうか」と考えていた。〈アレ〉は表層的次元では〈高利貸しアリョーナ殺し〉であるが、その背後に〈皇帝殺し〉が潜んでいた。光源氏にロジオンと同様の思弁を与えれば、彼もまたロジオンのように危険な自己問答を繰り返したに違いない。光源氏の〈アレ〉とは〈藤壷〉との〈契り〉であり、それは同時に父桐壷帝に対する明白な〈裏切り〉である。まさに瀬戸内寂聴描くところの王命婦が口にした人の道、仏の教えに叛いた〈極悪道〉そのものである。

罪と罰』の読者は主人公ロジオンの悩ましい内心の動きにぴったりと付き添いながら読み進んで行く。当初、一人称小説の体裁で構想されていた『罪と罰』は、作中で示された主人公を意味する〈彼〉や〈ラスコーリニコフ〉をすべて〈私〉に置き換えて読むことができる。カメラが主人公の両眼に張り付いていて、このカメラは主人公がとらえる外的世界のみならず主人公の内的世界をも明確にとらえる。読者はあたかも主人公ロジオンに化身したかのようにして作品世界に参入し、ロジオンと共に世界を体験するのである。

 さて『源氏物語』の場合はどうだろうか。光源氏と藤壷の最初の〈契り〉の場面、その人として絶対に犯してはならない〈不義密通〉の場面、作品全体の流れから見て最も重要な場面が、なんと『源氏物語』の中で描かれていないのである。すでに見た通り、この描かれざる光源氏と藤壷の最初の〈契り〉は「若紫」で暗示的に触れられているだけなのである。

罪と罰』ではロジオンの〈アレ〉(最初の踏み越え=高利貸しアリョーナ殺し、と彼女の腹違いの妹リザヴェータ殺し)は具体的にリアルに描かれている。ドストエフスキーは〈アレ〉(殺し)の現場を客観的に描くと同時に、ロジオンの内部世界にも照明を当てている。従って『罪と罰』の読者は誰でも〈アレ〉の生々しい現場に立ち会うことが出来、この小説における〈アレ〉の重要性を見逃すことはない。読者はロジオンが〈アレ〉に至るまでの煩悶、葛藤、迷いを彼とともに体験し、ロジオンと共に二人の女の頭上に斧を振り下ろし、そして〈アレ〉以降のロジオンの内的闘争と苦悩をもまた彼と共に体験することになる。『罪と罰』を読むとは一種の体験、否、実存的な体験そのものなのである。