文学の交差点(連載30)○ソーニャの描かれざる〈踏み越え〉

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載30)

清水正

 ○ソーニャの描かれざる〈踏み越え〉

 罪と罰』でロジオンの〈踏み越え〉は現在進行形のかたちで描かれているのに、ヒロインであるソーニャの〈踏み越え〉は完璧に描かれていない。読者はロジオンの〈踏み越え〉は具象的な映像を観るようにみることができる。が、ソーニャの〈踏み越え〉に関しては〈踏み越え〉自体を失念してしまいがちである。ふつう読者は描かれている場面でその内容を把握するしかない。従って大半の読者はソーニャの〈踏み越え〉に特別な思いを寄せることもしない。しかし何十年にもわたって『罪と罰』を読み続け、テキストに向けて様々な疑問をぶつけていると、思いもかけないところに〈謎〉が仕掛けられていることに気づいたりする。ソーニャの〈踏み越え〉は実はマルメラードフの告白の中に潜んでいた。

 ソーニャの〈踏み越え〉に関しては今まで何度も言及しているので、ここでは簡単に復習しておく。ソーニャは午後五時過ぎにアパートを出て三時間後の八時過ぎに戻ってくると、黙ってテーブルの上に銀貨三十ルーブリの金を置く。ソーニャは処女を捧げる代償として銀貨三十ルーブリを得てきた。このことはマルメラードフの告白を読めば誰にでも分かる〈事実〉である。

 問題は、ソーニャの相手は誰であったのかということである。この問題に関しては小沼文彦、江川卓と三人でドストエフスキーをめぐって鼎談した時にも話題にのぼった。時は一九八六年十一月十四日、場所は江古田の居酒屋「和田屋」の二階の一室であった。この鼎談は「江古田文学」12号(一九八七年五月 江古田文学会)に掲載、後に『鼎談ドストエフスキー』(「ドストエフスキー曼荼羅」別冊 二〇〇八年一月 日本大学芸術学部文芸学科「雑誌研究」編集室)に採録した。この鼎談時、ソーニャの処女を奪った相手に関して三人ともに明確な説得力のある説を口にすることはできなかった。ソーニャの相手を特定したのは拙著『宮沢賢治ドストエフスキー』(一九八九年五月 創樹社)所収の「思いこみとソーニャの踏み越え」が最初である。

 ソーニャの最初の相手に関して、わたしは担当する講座「文芸批評論」の受講生やゼミ学生と何年にもわたって飽かずに議論してきた。ソーニャに密かに思いを寄せていたレベジャートニコフ、海千山千の淫蕩家スヴィドリガイロフなどの名前があがったが、結局、マルメラードフの告白の中では〈生神様〉(божий человек)と呼ばれていたイワン閣下ということになった。これは実に重要な発見で、ソーニャの相手がイワン閣下と特定できたことで、それまで見えなかったソーニャの〈踏み越え〉の場面が生々しく浮上してくることになった。 『罪と罰』が「ロシア報知」一月、二月、四月、六月、七月、八月、十一月、十二月の八回に渡っ連載されたのは一八六六年である。ソーニャの最初の男が〈発見〉されたのが一九八八年であるから、実に百二十二年の歳月を必要としたことになる。つまりイワン閣下は〈発見〉されるまでマルメラードフの言う〈生神様〉を演じ続けてきたことになる。ドストエフスキーのような天才級の作家の場合、テキストに仕掛けた謎自体を発見するのに一世紀以上の歳月を必要とするのである。宮沢賢治の場合もそうだが、彼らの作品は驚きあきれるほど表層的な次元で読まれてきた。

 本人以外でソーニャの最初の相手を知っていたのは実父マルメラードフ、継母カチェリーナ、家主アマリヤ、それに作中では名前でしか登場しなかった女衒のダーリヤ・フランツォヴナである。イワン閣下はペテルブルク中で知らない者がいないほどの淫蕩漢で、女衒のダーリヤはイワン閣下のような淫蕩な高位高官たちのリストを持っており、彼ら顧客たちの欲望をかなえられる娘を不断に探していたのである。

 貧しい家の若くて美しい処女ソーニャの値段が〈銀貨三十ルーブリ〉であった。そらくこの値段はダーリヤ、アマリヤの口からマルメラードフ、カチェリーナに予め伝えられていた可能性が高い。カチェリーナは最初のうちはアマリヤからの身売りの話を拒絶していた。が、三回目、ついにカチェリーナはこの〈取引き〉に応じてしまった。運命に従順なおとなしい女ソーニャは、黙ってアパートを出てイワン閣下との〈取引き・商売〉に応じ、以後、黄色い監察を受けて淫売稼業を続けなければならなかった。

 ソーニャとイワン閣下の性的場面はいっさい描かれていない。大半の読者はソーニャの〈踏み越え〉のことなどに特別の関心を抱かずに『罪と罰』を読み終えてしまう。主人公ロジオンの〈踏み越え〉があまりにも鮮烈な印象を与えるし、叙述の大半はロジオンの内面を通して描かれているのでソーニャの〈踏み越え〉自体を失念してしまうのである。

源氏物語』に関しては後で改めて詳細に検討したいと思っているが、紫式部はなぜ藤壷と光源氏の最初の〈契り〉の場面を描かなかったのか。この問題と『罪と罰』における描かれざるソーニャの最初の〈踏み越え〉を重ねて考えてみたい。『罪と罰』における〈踏み越え〉(престпление)を充全に検証するためにはロジオンの場合だけではなく、彼に大きな影響を与えたソーニャの〈踏み越え〉についてもきちんと見ておかなければならない。しかし、ドストエフスキーはロジオンの〈踏み越え〉のみを現在進行形で描き、ソーニャの〈踏み越え〉に関しては直接的な描写はしなかった。

 ソーニャの描かれざる〈踏み越え〉を具象的に浮上させるためには、ソーニャが身売りした相手を特定しなければならないが、先述したようにイワン閣下と特定するまでに百二十二年の途方もない歳月を必要とした。つまり『罪と罰』はソーニャの〈踏み越え〉に無関心のまま百年の長きにわたって読まれてきたということである。『罪と罰』の大半の読者はロジオンの〈踏み越え〉を中心に読みすすめ、ソーニャの〈踏み越え〉に関してはあまり注意を払ってこなかった。わたしは『罪と罰』に限らず、作品の描かれざる場面に多大の関心を寄せる読者であるが、このような読者は稀である。