文学の交差点(連載38)○ロジオンの性愛

 

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載38)

清水正

○ロジオンの性愛

 ここでロジオンの性愛について考えてみよう。ロジオンが故郷ザライスク時代に恋愛経験があったのかどうか。ふつうに考えれば、二十歳になるまでに好きになった女性の二人や三人あってもおかしくはないが、作者はいっさい触れない。美少年ロジオンに恋心を抱いていた娘がいてもなんら不思議はないのだが、作者は『罪と罰』においてロジオンの〈恋愛〉に特別の照明を当てる気持ちはなかったのだろう。

 ロジオンの女関係が作中で初めて触れられるのは、下宿の娘ナターリヤとの婚約に関してである。ナターリヤは不具者(ウロート=урод)として設定されているが、ロシアにおいて〈урод〉は単なる不具者、片輪者、醜女ではなく内に聖性を賦与された者として受け止められていた。ソーニャも痩せて蒼白い華奢な少女であり、ロジオンはこういったウロート的な女性に惹かれる傾向を持っていた。

 さて、ロジオンとナターリヤにおける性愛の実態はどうであったのだろうか。二人は〈婚約〉していたのであるから、性愛的関係があったと見てもよいが、作者はここでもいっさい触れない。ナターリヤは物語が始まる一年前に当時流行していた腸チフスにかかって死んでしまう。婚約者ナターリヤを失った後、ロジオンは自らの性欲をどのように処理していたのだろうか。『罪と罰』にはドゥクリーダといった酒場の女が登場するが、ロジオンはこういった女たちや娼婦との関係はまったくなかったのだろうか。ロジオンがペテルブルクに単身上京してきてから首都での生活も三年になる。それでなくても誘惑の多い都会で、婚約者を失った若者が一年ものあいだ潔癖な生活を送っていけたのだろうか。

罪と罰』を形而下的次元にカメラを据えて改めて読み直して見れば、主人公ロジオンに限ってみても分からないことばかりである。ロジオンが女性相手に性欲を処理していなかったとすれば、とうぜん彼は自慰行為をしていたことになる。屋根裏部屋の空想家は崇高な思想にのみ頭を使っていたのではなく、女性に対するはげしい妄想にも駆られていたであろう。

    読者は『罪と罰』の描かれざる性愛場面に想像力を働かせることで、人物を観念と肉体を備えた総合的な人間としてとらえることができるようになる。 今までのドストエフスキーの読者は、人物たちを余りにも観念的、宗教的な次元でのみとらえようとしてきたのではなかろうか。屋根裏部屋のソファーで自慰行為にふけっているロジオンが、同時に「本当に、おれにアレができるのだろうか?」と考えているのだ。わたしは今回性愛文学の古典とも言える『源氏物語』を絡めることで、ドストエフスキー文学の主要人物の観念と肉体、その両方を視野に入れて徹底的に読み直そうと思っている。