文学の交差点(連載22)■〈不義密通〉を手引きした王命婦の弱さ、したたかさ

「文学の交差点」と題して、井原西鶴ドストエフスキー紫式部の作品を縦横無尽に語り続けようと思っている。

最初、「源氏物語で読むドストエフスキー」または「ドストエフスキー文学の形而下学」と名付けようと思ったが、とりあえず「文学の交差点」で行く。

池田大作の『人間革命』を語る──ドストエフスキー文学との関連において──」

動画「清水正チャンネル」で観ることができます。

https://www.youtube.com/watch?v=bKlpsJTBPhc

 

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これを観ると清水正ドストエフスキー論の神髄の一端がうかがえます。日芸文芸学科の専門科目「文芸批評論」の平成二十七年度の授業より録画したものです。是非ごらんください。

ドストエフスキー『罪と罰』における死と復活のドラマ(2015/11/17)【清水正チャンネル】 - YouTube

文学の交差点(連載22)

清水正

■〈不義密通〉を手引きした王命婦の弱さ、したたかさ

 瀬戸内寂聴光源氏によって無理矢理関係を結ばれてしまった王命婦の、女としての、女房としての、人間としての悩み、葛藤を端的に表現している。王命婦は藤壷に仕える誠実な一女房としての役割を大きく逸脱する。そのきっかけを作ったのは光源氏その人である。光源氏の罪は途方もなく深い。が、はたして光源氏はその罪の深さを本当に自覚していたのだろうか。光源氏というこの選ばれし男は、罪の河を軽々と渡ってしまうようなところがある。ロジオン・ラスコーリニコフが二人の女を殺しながら遂に〈罪〉(грех)の意識に襲われなかったように、光源氏もまた罪の意識からあらかじめ解放されているようなところが感じられる。

  王命婦は藤壷に仕える女房である。この女房にどのような男遍歴があったのか。紫式部はいっさい触れず、瀬戸内寂聴もまたそこまで踏み込んではいない。『源氏物語』で描かれている王命婦は藤壷に光源氏を手引きしたというその事実だけが簡潔に報告されているだけである。帝の后藤壷と帝の息子光源氏の〈不義密通〉という余りにも恐るべきタブー侵犯に王命婦は手を貸してしまった。なぜこのような恐るべきことを成し得たのか。はたして王命婦光源氏の性的魅力に屈しただけなのであろうか。

 瀬戸内寂聴描く王命婦は一人の女として光源氏の性的魅力の虜になりながらも、〈手引き〉に関してはなお決断しきれないでいる。光源氏との性的関係を通して王命婦は確かに女としての反応を示している。藤壷に深い思いを寄せる光源氏に王命婦は女としての執着を感じ始めている。が、女の喜びを誰よりも感じさせてくれた光源氏の願いをむげに拒み続けることもできない。ここに女としての王命婦の新たな葛藤も生じる。光源氏を藤壷に手引きするというタブーを敢えて犯すことで、光源氏とさらに強く結びつこうとする心理も働く。光源氏の願いを拒めば、光源氏は愛想を尽かして彼女から去っていくかもしれない。理性と分別にとどまって冷静な判断をくだせば、光源氏が藤壷との逢瀬を諦めて去ってくれるのが最も好都合である。が、王命婦光源氏の願いを断固として拒み続ける意志を保持することができなかった。

 王命婦光源氏から嫌われること、愛想を尽かされることを恐れてしまった。だからこそ、王命婦光源氏の藤壷に対する変わらぬ思いを確認し、〈手引き〉はあくまでも光源氏の意志によって遂行したのだという弁明を予め得ようとする。ここに王命婦の狡さがありしたたかさもあるが、同時に光源氏に惚れてしまった女の弱さも露呈している。女一人の判断で大それた〈不義密通〉の手引きなど出来うるはずもない。王命婦光源氏の言質をとることで、まずは光源氏と〈不義密通〉の共犯者となったのである。 紫式部は〈不義密通〉を手引きした王命婦の内面に深く参入することはなかったが、瀬戸内寂聴は「藤壷」で小説家としての想像力を駆使して王命婦の内心に迫っている。王命婦は五回も光源氏と契りを交わしながら、なお光源氏の要請に応えようとはしていない。光源氏が五回も王命婦と契りを交わしたということの意味を王命婦はきちんと受け止めている。王命婦光源氏の〈妻〉となったも同然なのである。だからこそ王命婦は改めて光源氏の気持ちを確認せずにはおれない。 「ようございますか。この企ては、人倫の道にも仏の道にも叛いた極悪道でございます。生きて露見すれば只事ではおさまりますまい。万に一つもあの世まで秘密が保たれたなら、無間地獄へ投げこまれましょう。今ならまだ思い返すことが出来ます。いかがなさいますか」この言葉は限りなく重い。王命婦光源氏を藤壷に手引きすることが人倫と仏の道に叛いた〈極悪道〉であることを十分に自覚している。ここで瀬戸内寂聴は〈背いた〉ではなく〈叛いた〉と書くことで、〈極悪道〉を犯す者、すなわち光源氏の〈意志〉を強調している。

 王命婦にしてみれば、光源氏と〈妻〉のような関係になることは許容できても、〈手引き〉という〈極悪道〉に一歩を踏み出すことには依然として強い抵抗があった。出来れば〈手引き〉は回避したい、これが王命婦の正直な思いであったろう。が、ついにこのような言葉を発せざるを得なかったのは、光源氏が執拗に〈手引き〉を請い続けたからである。

 光源氏は応える「くどい。これほど恋いこがれたあのお方と想いを遂げられないこの世こそ、地獄でなくて何であろう。邪恋の炎に包まれているこの現世こそ焦熱地獄の責め苦でなくて何であろう。思い直したりするものか」。このセリフを王命婦と少なくとも五回は契りを結んだ男が発しているのである。余りにも残酷で無神経なセリフとも受け取れるが、光源氏とはそもそもそういう男であったのだと見ることもできる。

 わたしなどは『虐げられた人々』のアリョーシャ・ワルコフスキーを連想する。婚約者ナターシャの前で、貴族令嬢カーチャへの恋情を正直に無邪気に語る、軽佻浮薄で無垢な若者アリョーシャは自分の正直な嘘偽りのない告白によって眼前の婚約者がどれほどの悲しみに襲われるかを配慮できない。ドストエフスキーはこのアリョーシャ・ワルコフスキーの造形によって純粋無垢の残酷さを徹底的に描ききった。この人物は、ドストエフスキーが真実美しい人間の創造を目指したという『白痴』のムイシュキン公爵の前身的存在であり、光源氏という人物に照明を与える上で参考になる。  はたして光源氏は王命婦の言う〈極悪道〉を彼女と同様に自覚していたでのであろうか。『源氏物語』に描かれた光源氏の言動を全般的に見ると、彼は罪意識を予め免除された特別な人間のように感じられる。この点に関してはこれから様々な角度から照明を当てていきたいと思っている。